チルドレンたちが朝から出発していく。
 おそらく、これだけ早い時間に呼ばれたのは、それを見送ったマナにだけは理由が分かっていた。
 きっと、参号機の件なのだ。
 少年が参号機の件で思い悩んでいるのは分かっていた。自分には教えてくれなくても、これだけ傍にいるのだから伝わらないはずがない。
 だが。

「私は、守られてばかりなのかな」

 少年を守りたい。
 あの病室で、嫌だ、と叫んだ彼の声は脳裏に残っている。
 何度も倒れ、傷つき、それでも彼は前進する。
 少しでも彼に力を貸してあげることができるのなら、自分は悪魔に魂を売ってもかまわない。

「シンジくん」

 彼女は、胸の前で右手を強く握った。












第弐拾壱話



冬遠からじ












 朝から呼び出された三人であったが、その理由というのはこれから二日間の本部待機という内容であった。アスカが理由を尋ねたが、それは松代で行われる参号機の実験のためだという。
 誰も驚かなかった。少年が驚かないのは当然として、どうやら松代の件は少年から二人の少女にも伝わっているということがその様子からリツコにも伝わった。

「なんで起動実験のために本部で待機なわけ? 関連が全然ないじゃない」

「簡単に言うと、起動実験が失敗に終わる可能性があるからよ。もし参号機が暴走した場合は、全力でこれを殲滅しなさい。いいわね?」

「暴走、ですか」

 少年が尋ね返す。もともとそれは少年から受け取った知識だ。
 参号機に使徒が潜んでいる、というのは。

「今のところはそうとしか言えないわ。文句があるなら、シンジくんから二人に説明してあげるのね。もっとも、知らないのはアスカ一人のようだけど」

「なんですって」

 アスカはレイを見つめる。その表情には何も変化はない。

「どういうこと、シンジ」

「そうだね。早めに知っておいた方がいいか。説明するよ、アスカ。今回はちょっとばかり、厄介なことになりそうだし」

 少年は肩をすくめた。そして、場所を変えよう、と提案する。

「それじゃ、私とミサトは松代へ向かうわ。起動実験は明日。実験の成功まで三人は待機。いいわね?」

「了解。赤木博士」

 少年は最後に一言付け加えた。

「ご無事で。博士がいないと、ここの組織は動きませんから」

「素直な言葉と受け止めておくわ。ありがとう、シンジくん」

「いえ」

 少年たちが出ていくのを見送り、リツコはため息をついた。

「でも、全てが分かったらあなたは私を憎むでしょうね。私一人の命で応えられるならいいのだけれど」

 さすがにこの時ばかりは、今回の件を命令した総司令を恨まざるをえなかった。






「どういうことよ」

 チルドレン控室。三人が誰にも邪魔されずに話し合える場所といえばここしかない。
 常に盗聴のおそれがあるネルフ本部であるが、ここにだけはマイクもカメラも設置されてはいない。それは当然だ。ここは単なる着替え室にすぎないのだから。

「参号機は暴走なんかしない」

 まず結論から少年は述べた。

「参号機は、使徒に寄生されるんだ」

「アンタ──」

 ぐい、とアスカは少年の胸倉を掴み上げる。

「アンタ、この間は次の使徒は問題ないって言ったばかりでしょ!?」

「ああ、問題はないよ。寄生されたところで倒せない相手じゃないんだ。パワーゲームになれば勝利は疑いない。僕も言ったはずだ。次の使徒は強くない、戦えば勝てるって」

「でも寄生ってことは」

「そう。パイロットが人質に取られる」

「あのジャージが?」

「ということなんだろうね。悪いけどアスカ、後で委員長に電話して、鈴原が出席しているかどうか確認してほしい」

 はあ、とアスカはため息をついた。

「アンタの秘密主義にも呆れたもんね」

「寄生するという手段は分かっていたんだけどね。正直、この間の時点ではまだ参号機が日本に来るかどうかの確証がなかったから」

「この事態を予想はしていたんでしょ? ファーストが知っているくらいだもの」

「まあね。相談にはのってもらったよ。結論も出てる」

 少年は面白くなさそうに言う。

「どういうことよ」

「使徒は倒さなきゃいけないってことだよ。倒す方法だって、そう多いわけじゃない。コアを潰せばそれですむ。参号機のコアを潰せば勝ちだよ」

「でも、コアが破壊された中にいるパイロットは死ぬわよ」

「うん。だからコアを破壊する前にエントリープラグを強制的に抜き出す。発令所からの強制射出がきかなくなるから、エヴァの手で取り出すしかない」

「うわ、痛そう」

 痛いどころの騒ぎではない。体中の神経をめちゃめちゃにするようなものだ。精神が弱ければ激痛でショック死する。

「気絶してくれてればいいんだけどね。少なくともその方が痛みは感じない」

「やれやれ。シンジがあのジャージを気に入ってなかったのは、そういう裏事情があったせいか」

 それでようやく納得したと頷く。

「あいつは嫌いだ」

 だが、少年は相変わらずその姿勢を変えようとしない。

「そんなこととは関係があるわけじゃない。ただ嫌いなんだ。僕の傍にいてほしくない。これは本気だよ」

「でも見捨てることはできないんでしょ?」

「アスカなら嫌いな人間だからといって見捨てたりするの? それは傲慢だ」

「そうね、アンタの言う通りよ。でも、アンタがそこまで嫌う理由が分からないと、他人は勝手に解釈するんじゃないの? アンタがジャージをかばってる、って」

「誤解だね。そりゃ、助けられる命ならたとえ嫌いな相手だって助けるよ。はっきり言っておくけれど、アスカ」

 気迫のこもった瞳で少年が言う。

「な、何よ」

「僕がこの世界で一番嫌いなのは、鈴原トウジと碇シンジ。この二人だけだ。僕はこの二人を絶対に許すつもりはない」

「碇シンジって……」

 そう。
 少年は、自分を嫌いだ、とそう言うのだ。

「いずれにしても、参号機とは多分戦うことになる。一応赤木博士には使徒にのっとられている可能性があることは伝えているけど、多分起動するまで見つけることはできない。だから、きっと明日は戦いになる。覚悟しておいて。──ごめん、ちょっと頭に血が上ったから、冷やしてくる」

 そう言って少年は控え室から出ていこうとする。だが、アスカがその腕を取って少年の退室を許さなかった。

「一つだけ言っておくわ」

「何」

「アンタが自分のことをどう思おうと、ファーストや転校生はアンタのことを好きなのよ。そうやって自分を蔑むのはやめなさい」

 少年はじっとアスカの目を見る。

「アスカも?」

「アタシは……っ!」

 一瞬、答に詰まる。
 少し前なら、そんなことはない、と突っぱねることもできたはずだ。
 だが、今はもう、自分の中で認めてしまっている部分がある。
 自分は、この少年を気に入ってしまっているのだ、と。

「アタシは──?」

 何とか答えようとしたとき、彼女の体は少年の体の中に収まっていた。

「ありがとう。アスカの気持ちは伝わったよ。確かに自分を蔑むのはよくない。反省するよ」

「シンジ」

「だから、アスカももっと自分を好きになってあげて。僕がみんなに好かれているように、僕は綾波やマナ、それにアスカのことが好きなんだから」

「──いつまで抱きついてんのよ、このバカシンジ!」

 どん、と両手で胸を押して、呼吸を整える。

「まったく、スケベ根性丸出しなんだから!」

 少年は肩をすくめたが、その時。

「……碇くん」

 絶対零度もかくやというほどの冷気が、彼を襲った。

「え、え〜と?」

 その冷気の根源を見ると、そこには目を怪しく光らせているクールビューティ。
 彼女はつかつかと歩み寄ってくると、自分のものだと言わんばかりに強く少年を抱きしめてきた。

「綾波」

 そして、じろり、とアスカを視線で牽制する。渡さない、と言わんばかりに。

「あのねえ、ファースト。言っておくけど、アタシはこんなヤツに興味はないからね。誤解しないでよ」

「碇くんは私のもの」

「だぁかぁらっ! それをアタシに言っても仕方ないでしょって言ってるのよっ! まったく」

 はあ、とアスカはため息をつく。そして、ふと思いついたように彼女の頭にひらめくものがあった。

「そういやシンジ。戦いは明日なのよね」

「そうだけど」

「それじゃ、今日は待機しているだけで暇なわけだ」

「そうなるね」

 少年はアスカが何を言いたいのか分からないように受け答えている。

「だったら、せっかくだし有意義に時間を使わない?」

 少年とレイは疑問符を顔に浮かべる。

「チルドレンの待機所にプールがあるでしょ? あそこで遊ぼうって言ってるのよ」

「ああ、そういえばそんなものもあったね」

「どうせ戦いは力任せにやるんだから、いまさら作戦も何もないんでしょ? だったらリラックスして臨んだ方がいいに決まってるじゃない。今から戦いに備えてたら疲れるだけだし。ファーストもそれでいいわね?」

「碇くんが行くなら」

「はいはい。それじゃシンジ、いいでしょ」

「僕はかまわないけど、泳ぐのは勘弁してほしいな」

「どうして」

「だって、プールとか川とか海とか、行ったことがないから」

 にやり、とアスカは意地の悪い笑みを浮かべた。

「なあにシンジ、もしかしてカナヅチ?」

「そういうこと。っていうか、やったことがないんだよ、子供の頃から一度も」

「ふ〜ん、もしかして沖縄のとき別に行きたそうでもなかったのは、それが理由?」

「確かに行きたいと思ってたわけじゃないけど、それは別にどうでもいいことだよ。泳がなければいいだけのことだし」

「じゃ、アタシがみっちり泳ぎ方を教えてやるわよ。そうと決まれば、二人とも行くわよっ!」

 元気良くアスカが先頭を歩いていく。レイはきょとんとしており、少年はただ苦笑するばかりだった。






「これが参号機……でっか」

 鈴原トウジはその黒い機体を見て呆然と呟く。

「そうよ。あなたの担当する機体になるわ」

「こんなでっかいの、大丈夫やろか」

 はあ〜、とため息をついて彼は不安を口にする。

「ま、やることは全部こっちでやるから、トウジくんは今回ほとんど勉強という感じね。しっかりとレクチャー受けておいて」

「分かりました」

「明日は正午から実験開始よ」

「はい」

 トウジが出ていくのを確認してリツコは作業に戻る。と、こちらを睨んでくるミサトの視線を受けた。

「どうしたの?」

「どうしたもこうしたもないわ。今回のパイロットの件、シンジくん、知ってるの?」

「さあ」

 リツコは適当にはぐらかす。

「リツコ!」

「どちらにしても決定よ。私たちにはパイロットを選ぶ権利なんてないんだから。委員会が決めてきたことに従う以外ないでしょう?」

「偶然というにはできすぎじゃないの?」

「そうかもしれないわね」

 リツコは関心なさげに作業に戻る。
 その様子を見たミサトは、もう一度だけ尋ねた。

「シンジくんは、知ってるの?」

「さあ」

 だが、あくまでリツコはそれをはぐらかせた。






「そう、うん、やっぱりあのジャージは来てないのか」

 少年が着替えてプールサイドまで来ると、一足先に着替えが終わったアスカが休み時間中のヒカリと連絡を取っていた。

「うん、ま、大丈夫だとは思うけどね。ヒカリのためにも危険なことにはならないよう気をつけるから。うん、それじゃ──」

 通話終了ボタンを押したアスカはやってきた少年に目を向ける。

「やっぱりジャージ、今日は休みだって」

「そう。ま、仕方のないことだけどね。それよりさ、アスカ」

「なに?」

「似合ってるよ、それ」

 ビキニタイプで、赤と白のストライプ模様の水着。彼女は嬉しそうに笑うと「あったりまえじゃない!」と全力で答える。

「ところで綾波は?」

「もう先に泳いでるわよ」

 アスカがプールの方を示すと、綾波はプールで背泳ぎ──いや、ただ仰向けにプールに浮かび、足だけ動かしてゆっくり前進(?)していた。

「あれ、泳いでるっていうの?」

「本人が楽しいと思ってるならそれでいいんじゃない?」

 傍目にも別に楽しそうには見えない。アスカもそれが分かっていて答える。

「それにしても遅かったわね。何かしてたの?」

「うん。ちょっとマナに連絡取ってた。休み時間だろうと思ったからさ。今日は帰れないって言ったら、わかった、って」

「理由とか聞かれなかったの?」

「うん。まあネルフが忙しいところだっていうのはマナも分かってるだろうし」

「といいながら私たちはここで遊んでるだけだけれどね」

「明日には戦いになるよ」

 少年の言葉に影がかかる。

「赤木博士にはきっと見つけられない。既に使徒に寄生されているのは分かっているのに、その正体が見えないんだ。だから、事故は起こる。松代は崩壊する。参号機はのっとられる。僕は、参号機を倒さなければならない」

「シンジ」

「全く、あの馬鹿のせいで苦労するよ」

 少年が毒づくと、アスカは軽く握りこぶしを作って少年の頭を弱くたたく。

「なに?」

「何でもないわよ。もうやることは決まってるんだから、それまではリラックスするんでしょ? 明日までは何も考えないで、アンタもハメを外しなさい」

 少年はじっとアスカを見つめた。

「な、何よ」

「いや、アスカは優しいなと思って」

「な、ど、どういう意味よっ!」

「言葉通りの意味だよ。ありがとうアスカ、少し楽になった」

 少年の綺麗な顔が本気モードで感謝している。さすがのアスカもそう直球で勝負されると弱い。

「ふん! そんなことより、さっさと泳ぐわよ! ほら!」

「って、ちょっと待ってよ、だから泳げないって──」

 そうやって、アスカは強引に少年をプールへと引きずり込む。
 チルドレンたちに、半日限りの休息がこうして与えられることとなった。






 そして、翌日の正午を迎える。

「松代からの連絡、途絶えました!」

「松代でパターン青、確認!」

 予想された事態だ。チルドレンには全く動揺の様子はなかった。
 作戦部長のいないネルフは碇ゲンドウが直接指揮を取ることとなった。だがもちろん、少年には作戦拒否権がある。もしもゲンドウの提示する作戦が少年にとって気に入らないものだとすれば、少年は間違いなく総司令の顔を潰してくるだろう。

「迎え撃つ。エヴァンゲリオンは所定の位置で待機」

 了解、と答えたのはレイとアスカ。
 だが、少年は一切答えない。

「どうした、サードチルドレン。出撃しろ」

「一つだけ確認するよ、父さん。初号機には今、ダミープラグは入っているの?」

「何故そんなことを聞く」

「答えてよ。戦いの中で主導権をとられるのはご免だ。これは契約事項に関わると思ってくれていい。もしも僕から戦いを取り上げるっていうんなら、戦闘中にダミープラグに切り替えるっていうのなら、僕は出撃しない」

「その心配はない。お前が計画に協力する以上、ダミープラグの必要などない」

「必要性の云々じゃない。誤魔化さないで。初号機にダミープラグは搭載されている、Yes? or,No?」

 ゲンドウはしばらく逡巡したが、やがて答えた。

「ダミープラグの起動システムをリセットしろ」

「え?」

 マヤが慌てて尋ねる。

「リセットしろ」

「は、はい。リセットします」

 急いでマヤがプログラムを打ち込んでいく。

「これでいいのか」

「うん。ありがとう父さん。使徒は必ず倒してくるから安心して」

「ああ」

 そうして少年は駆け出していく。レイとアスカもそれに続いた。

「ねえ、シンジ」

 少年と横並びになってアスカが尋ねる。

「ダミープラグって何なの」

「僕らがいなくてもエヴァを起動させることができるエントリープラグのことだよ。僕らの思考がベースになっているらしいんだけど、詳しくはよく分からない。ただ、あれを起動させたらエヴァを制御できなくなるっていうことは分かる」

「制御できない?」

「そう。ダミープラグをコアが拒絶するんだ。だから暴走する」

 暴走。あのレリエル戦の時のように。

「それはまずいわね」

「激しくまずいよ。だからダミープラグはリセットしてもらった。前から提案はしてたんだけど、ようやく父さんも僕のことを少しは信用してくれたみたいだね」

 そしてちらりとレイを見る。
 その視線に気づいたレイは、ぷい、と顔を背ける。
 レイは分かっている。あのダミープラグに使われているモノが何かということは。
 心のない自分の分身。

「碇くん」

 だから彼女は顔をそむけたままでも、勇気を出して声をかけた。

「なに?」

「ありがとう」

「どういたしまして」

 彼もそれが分かっていたのか、優しく微笑んで答えた。






 何時に事故が起きるか分からないとはいえ、朝早くから起動実験などするはずもないだろうと考えていた少年は、その対応策について朝のうちにアスカとレイに話していた。
 寄生する第十三使徒バルディエルは、参号機を俊敏に乗り回すことになる。ノーアクションで飛び上がり、襲い掛かってくる。だが、相手の攻撃をしっかりと回避すれば怖くはない。飛び道具がない分、しっかりと相手を見て戦えばダメージを受けることはない。
 問題になるのは、接触した時に使徒が侵食してくることだ。だから相手とは可能な限り離れて戦った方がいいのは間違いない。
 とはいえ、いつまでも離れていてはパイロットを助けることはできない。これについては先日から話していた通り、少年=初号機が担当となって間合いを詰め、強引にエントリープラグを引き抜く。その上でコアを破壊する。これしかない。
 そのエントリープラグの引き抜きでパイロットがショック死しないかどうかが問題だが、おそらく大丈夫だろうと少年は言った。その理由はシンクロ率が低いことが原因である。シンクロ率百%だとしたらおそらく耐え切れずに死ぬだろうが、二、三十パーセント程度のシンクロ率で死ぬようなダメージにはならないだろう。
 とはいえ、痛いことには変わりないのだが。
 ということで、アスカとレイは後方支援、少年が前衛を担当するという形がはっきりと見えるようになった最初の戦いが始まった。

「来たわね」

 アスカがその漆黒のエヴァを視界に入れたところで言う。

『作戦通り、綾波とアスカは決して参号機の間合いに入らないところから援護射撃して。それから、僕にあてないでね』

「そんなミスするわけないでしょ。アンタはアンタのするべきことをやりなさい」

『頼むよ』

 初号機が駆け出す。参号機が飛び上がり、初号機に襲い掛かる──が、それより早く零号機と弐号機による射撃が参号機を空中で捕らえた。参号機はダメージを受けるとともに初号機に襲い掛かる勢いをなくす。

『この馬鹿がっ!』

 少年の口から罵声が飛ぶ。そして降下してくる参号機の顔面を殴りつけた。
 とにかくエントリープラグは背面首筋にあるのだ。参号機を大地に這わせ、強引に引き抜くしか方法はない。

『できるだけ痛くしないようにしてやる。だから、じっとしてろ』

 そして初号機が動き出す──その時だった。

「初号機、シンクロ率低下!」

 発令所で、マヤの声が響いた。

「何事だ」

「分かりません。ただ、急激に下がっています。七十……六十……五十……初号機、シンクロ率四一.三%で安定!」

 冬月の質問にマヤが明確に答える。

「四十パーセントだと? いったい何が起きているというんだ」

「……」

 冬月の動揺した声にも総司令ゲンドウは表情一つ変えない。ただ手を組んで真剣な表情でスクリーンを見つめる。

「初号機の音声は」

「駄目です、つながっていません。こちらの声は届いているようですが、向こうからの音声はこちらまでは」

「やれやれ。どうする、碇」

「かまわん。現状維持」

 一言、ゲンドウは答えた。

「あっ、またシンクロ率が上昇しはじめました! 九六.三%!……また下がっています、三八.九%!」

 理由は分からないが、少年はシンクロ率を高めたり低めたりしている。それがいったい何をしようとしているのかはさっぱり分からないが。
 だが、現状として戦いは続いている。シンクロ率が低くなった時は明らかに初号機の動きは鈍くなり、逆にシンクロ率が回復した時は参号機を圧倒している。その後もしばらくその繰り返しが続いた。

「なるほど、そういうことか」

 ゲンドウが呟く。

「どうした」

 だが、冬月の質問にゲンドウは答えない。ただ黙って戦況を見つめるだけだ。

「ちょっとシンジ! 大丈夫なの!?」

 後方支援に徹していたアスカからもその様子がおかしいことが分かり、少年の機体に向けて声が飛ぶ。だが、初号機は音声の発信をストップしているのか、返事がかえってこない。

「そういえば──」

 マヤがふと思い出す。
 一度、こういうことがあった。戦闘中、理由もなくシンクロ率が下がったことが。
 あのときは、確か第四使徒戦。

「碇くん!」

 だが、マヤが考えている間もなく、参号機が初号機へと攻撃をしかける。シンクロ率の低い時を狙って、参号機は初号機に組み付き、侵食を始めた。

「いかん」

「シンジ!」

 冬月とアスカが声を上げる。だが、直後にシンクロ率が急上昇した。

「初号機、シンクロ率九七%で安定!」

『うおおおおおおおおおおっ!』

 そして音声が回復する。初号機は参号機の腕を逆にねじり上げると、力任せにその腕をねじ切る。

『ごめん』

 ぽつり、と初号機の中で呟く声。
 そして、少年は参号機の背後について、そのまま押し倒した。

『今、助ける』

 首筋にからみついている粘着質をはぎとり、参号機の中からエントリープラグを力任せに引き抜く。
 そして、人質のいなくなった参号機の心臓めがけてプログナイフを突き刺した。

『オ・ルヴォワール』

 参号機を空高く放り投げる。
 そして、十字の光が空に輝いた。






 初号機は全力でケイジまで引き返してきた。
 その手に、参号機のエントリープラグを持って。
 丁寧にエントリープラグを降ろし、少年は自ら初号機を降りてそのプラグへと駆け寄る。

「早く手当てを! 手遅れにならないうちに!」

 救護班が急いでハッチを開ける。その時間すらもどかしいという感じで少年が顔を歪めながらその様子を見つめる。

「シンジ、お疲れ様」

 ぽん、とその肩が叩かれる。

「アスカ」

「アンタはよくやったわ。多分、ジャージなら大丈夫よ。必要最小限のダメージで切り抜けたんですもの」

「うん。そうだといいんだけど」

 やがてレイもやってきて、三人でそのハッチから引きずり出されてくるパイロットを見つめた。
 その救護班から声が出る。

「パイロットの生存確認!」

 ほっ、と三人が胸をなでおろす。

「ですが、非常に危険です! 緊急手術の準備を!」

 だが、すぐに顔が険しくなる。やはり、今回のダメージが本人に与えた影響は計り知れないということだった。
 黒いプラグスーツを着たパイロットが、ようやくその顔を見せた。

「……え……?」

 少年は目を疑った。
 そこにいたのは。

 鈴原トウジではない。

「どうして」

 アスカとレイもどういうことだという様子でその顔を見つめた。

「どうしてだよ」

 少年は滅多に見せない動揺を見せて、ゆっくりと近づいていく。
 そして『彼女』の顔に触れた。






「マナ」






 彼女の白い顔は一層白く、その表情は激痛と戦った後だということが分かるように、険しく固まっていた。
 何故、彼女が参号機に乗っていたのか。
 参号機パイロットは、鈴原トウジではなかったのか。

 何故。
 どうして。

 運ばれていくマナを呆然と見送り、やがて少年は正気に返る。
 その顔は。

「碇くん」

 怒りで、何者をも寄せ付けようとはしていなかった。

「父さん。聞こえてる?」

 震える声で、その場で尋ねる。

『ああ』

 抑揚のない声がスピーカーから流れた。

「どうしてマナをパイロットにしたの?」

『コアが見つかったからだ。貴様もコアには何が使われているのか、知っているだろう』

 ゲンドウの声がただ無残に響く。

「誰を」

『コアは別に近親者である理由はない。友人、幼馴染、その人物を保護してくれる人物であれば血のつながりは必要ない』

「誰をコアに使った」

『以前、このネルフで保護した少年だ』

 ムサシ・リー。

「戦自に帰したんじゃなかったのかっ!」

『彼が拒否した。しかもネルフから逃亡を図ろうとして、射殺された。不運な事故だ』

「貴様の言葉が信用できるか! マナをパイロットにしたことを俺に隠していただろうがっ!」

『それが貴様に何の関係がある』

「……!」

 少年は。
 ゆっくりと歩き出した。
 全身に、殺気をみなぎらせて。

「シンジ」

 だが、その前にアスカが立ちはだかる。

「どこに行くつもりよ」

「どいてろ。邪魔だ」

「シンジ……」

 普段の穏やかな様子と全く異なる少年の様子に、彼女は一瞬怯む。

「馬鹿なことを考えているんだったら、やめなさい」

「どいていろ。聞こえなかったか」

「力ずくでもアンタを押さえるわよ」

「無駄だ」

「無駄かどうか──?」

 少年が俊敏に動く。彼女の首筋に手刀を一つ。それで、彼女の意識が途切れた。
 その様子を画面で見ていたゲンドウは命令を下した。

「サードチルドレンを取り押さえろ。殺してもかまわん」

 発令所の動きが固まる。

「おい、碇」

 唯一平然としていたのは冬月であった。

「お前の息子だろう」

 だがゲンドウは答えない。冬月の意見は完全に無視しているようだった。

「復唱はどうした」

「で、ですが、司令」

 マヤが何とか抵抗しようと声を絞り出す。

「取り押さえろ。殺してもかまわん」

 そればかりは。
 そればかりは、ネルフの一員であったとしても、聞ける命令ではなかった。

「伊吹二尉。復唱せよ」

「……」

 今まで。
 ずっと、自分たちのために戦ってくれていた少年を、自分たちの手で殺す。
 自分たちは少年に感謝こそすれ、決して少年を苦しめてはいけないはずだった。
 それを破ったのは、こちら側だというのに。

「これが最後だ。復唱しろ」

「……分かりました」

 体の中から、完全に何もかもがなくなったような気がする。
 もう、何も考えられない。
 彼女はただ、機械となった。
 心を持たない機械となった。
 機械なら、悩まなくてもいい。
 ただ、言われたことを行うだけ。
 自分の意思は、どこにもない。

『総員。サードチルドレンを取り押さえてください。生死は問いません』






「生死は問わず、か」

 少年の口から言葉が漏れる。だが、その命令は今まで自分を取り押さえにかかってきた黒服たちをも一瞬怯ませる効果を持っていた。
 黒服たちは、チルドレンの保護が目的であった。どんなことがあろうとチルドレンを危害から守るのが彼らの役割だ。
 それなのに、そのチルドレンの死すら認めうる命令に、彼らの存在意義が揺らいだのだ。
 だが、それが少年に反撃の機会を与えた。怯んだ黒服三人を、一瞬で気絶させていく。そして少年は相手の腰から素早く拳銃を奪う。
 射撃訓練は受けている。安全装置を解除し、いつでも戦闘可能な状況になる。
 直後、彼の近くを弾丸が通り抜けた。
 今のは威嚇だろう。もちろん少年はそのような威嚇には屈しない。
 蛇行しながら廊下を駆け抜け、黒服たちを次々と打ちのめしていく。
 その先に、少年も見知っている顔があった。

「よう」

 それはいつも訓練場で彼を鍛えていた人物であった。

「あなたも僕を止めるんですか」

「そりゃま、仕事だからな」

「殺してでも?」

「その許可は出ている。あまりそうしたくはないから、降参してくれるとありがたい」

 少年は笑う。もちろん、そんな意思はどこにもない。
 黒服は、躊躇せずに引き金を引いた。
 だが、少年は打つ前に動いていた。照準を絞らせずに接近する。
 接近戦の方が相手を捕らえるのにはいいかもしれない。黒服はそう思った。
 それは大きな勘違いだと知ったのは、一秒も経たないうちであった。

 銃声が鳴った。

 少年の手におさめられていた拳銃から放たれた弾丸は、黒服の腹部を貫通していた。

「シン……ジ……」

 まさか、と黒服はその場に膝を着く。
 少年は無表情にその傍を追い抜いていく。

「急所は外しました。早く手当てを受けてください」

 去り際に少年はそう呟いた。
 ふん、と黒服は笑う。

「もう、俺じゃ止められないくらいに成長したか。自分の弟子が自分を上回る瞬間か。あまり経験したくはなかったな……」






弐拾弐

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