碇シンジの暴走による被害報告。

 死者三名。
 重傷者十二名。
 軽傷者十六名。

 これら、人的被害及び通路・施設の破損に関する被害については今回碇シンジに振り込まれる報奨金の中から差し引くものとする。
 総額八億三七四六万五二○○円。
 なお、碇シンジは投獄。一切の面会は禁止。現在はおとなしくしているが、再び暴走する可能性は極めて大。












第弐拾弐話



謎、明かされる時












 さすがの天才少女も目が覚めてからその話を聞いた時には、あまりのことに目を伏せ、唇をかみ締めていた。
 あの場で冷静だったのは自分ひとりだった。だから、自分が少年を止めなければならなかった。それなのに、少年は逆に自分の意識を奪い、たった一人で暴走してしまった。
 自分のミスだ。
 少年の性格からして、あんなことがあったらどれだけ彼が怒るかは目に見えていたのだ。
 自分は、あまりにも過信しすぎていた。
 少年を。
 少年が、何でも知っているということを。
 だが、彼もあくまで人間の範疇だったのだ。少年は何も知らなかった。ずっとあのエントリープラグの中に入っているのは鈴原トウジだと信じきっていた。つゆほども疑っていなかった。
 あの黒いプラグスーツを着た少女の顔を見たときの少年の顔。
 時が止まったかのようだった。
 目の前の事象を理解することができていなかった。
 そう。彼は、自分の知っている未来と、違う現実を目の当たりにしたのだ。

(その犯人は、碇総司令か)

 自分の父親が犯人なのだ。少年が怒りをおさえきれるはずがない。
 暴走して当然なのだ。
 だからといって。
 だからといって、思うままに行動することはない。
 いくらでもやり方はあったのだ。
 それなのに。
 それなのに、彼は自分の感情を抑えることができなかった。
 それだけ、彼は心から怒りに満ちていたのだ。

(結局、シンジを止めたのは加持さんか)

 いよいよ発令所が近くなってくると、銃弾の数も飛躍的に増す。
 もはや黒服たちも威嚇と言っている場合ではなくなっていた。本気で少年を撃ち殺さなければ、逆に自分たちの総司令が殺されるということに気づいたのだ。
 最後の扉を守っていた七人の黒服のうち、三人が逆に少年の銃によって殺された。残りの四人も重傷を負った。
 少年も、できるだけ助けようとしたのだろうが、急所を外しきれなかったのだろう。それでも七対一なのだ。彼が無傷で発令所までたどりついたのは奇跡に等しい。
 だが、最後の扉の向こうで待っていたのは、最強の傭兵だった。
 加持、リョウジ。
 少年も躊躇せず発砲しようとしたが、逆に加持はガンマンもかくやというほどの早業で少年の拳銃を弾き飛ばしたのだ。
 肉弾戦になれば、少年に勝ち目はない。
 それでも加持を倒そうと突進したが、逆に押さえ込まれ、黒服たちによって手錠をかけられることとなった。
 最後まで、少年は父親を睨んでいた。
 だが、何も言わなかった。
 おそらく何か口にしようとすれば、罵倒か呪詛しか出なかっただろう。
 どちらも捕われた身にしてみると負け犬の遠吠えだ。
 何も言わず、少年は連行された。
 そこまでの状況が、アスカに知らされたのだ。

「それで、アイツはいったいどうしてるのよ」

 それをアスカに知らせたのは、当然上司のミサトだ。

「シンジくんは牢に入れられて、一切の面会を禁止されているわ。また総司令を殺しに行かれたら困るもの」

「もとはといえば! ネルフが! 転校生をパイロットにしたことが問題じゃないの! シンジは何も悪くないわ!」

「人を殺しているのよ。それに、私たちが本人の意思と無関係に霧島さんをパイロットにしたとでも思っているの? 本人の希望を確認した上でのことよ」

「だったらどうしてシンジにそのことを隠したのよ!」

 ミサトも詰まる。それは自分に権限がなかったからだが、そんなものは言い訳にしかならない。
 すべては総司令とリツコの二人によって進められた。
 ミサトにしても今回の件には不満があったのだ。

「欺瞞よ! 反吐が出るわ!」

「じゃあ、シンジくんがやったことは正しいことなの? 確かに総司令は間違ったことをしたのかもしれない。だからといってシンジくんが保安部の人たちを殺していい理由にはならないわよ」

「いい加減にしなさいよ、ミサト。先に射殺の許可を出したのはあんたたちでしょ!」

 それもミサトにしてみれば不満であった。だが、組織の人間である以上、その不満を表に出すわけにはいかない。

「そうしなければシンジくんを止めることができないと総司令が判断されたからよ」

「それで発令所まで乗り込まれてるんなら同じじゃない。結局ネルフの保安部なんて、シンジ一人にやられる程度の力しかないんでしょ。だったら戦わせるだけ無駄よ! あんたたちは一体何様のつもりよ! アタシたちはあんたたちの操り人形でも手駒でもない! 人間よ! どうして人間として扱ってくれないのよ!」

「そんなことはないわ」

「あるわよ! 転校生が苦しんでいるのも知らずにシンジがエントリープラグを引き抜くのを、ずっと総司令は見ていたんでしょっ! シンジのことを少しでも思ってくれてるなら、事前に教えるのが筋ってもんでしょうがっ!」

 ミサトは頭を垂れ、アスカから視線を逸らした。
 はあ、はあ、と病室にアスカの呼吸の音だけが響く。
 ミサトはぽつりと「ごめんなさい」と答えた。

「あなたの言うとおりよ、アスカ。私たちはあなたたちに隠れて霧島さんをパイロットにした。ごめんなさい。謝って許される問題じゃないのは分かっているけど」

 その言葉を聞いて、ようやくアスカも冷静さを取り戻す。
 だいたい、どうして自分がこんなにも熱くならなければならないのか。シンジがどうなろうと自分には関係のないことではないか。

「ミサト。あんた、随分と不器用だったのね」

「どういう意味よ」

「悪いと思ったら謝る。そんなこともできないから、シンジにもアタシにも嫌われるのよ」

 ミサトは何ともいえない困った表情を見せた。それを見たアスカは「もういいわ」と答える。

「今日はもう帰る」

「帰るって、今日は一日入院──」

「お願いだからミサト、これ以上アタシを怒らせないで。こんなところに一分一秒でも今はいたくないのよ」

 さすがにそこまで言われると、ミサトとしても答えようがない。その状況に追い込んだのは、彼女たち自身なのだから。

「ファースト、先に帰ったんでしょ」

「ええ。アスカが入院する予定だったから、一人で帰ったわ」

「まったく、あのバカも少しは周りを見なさいよね」

 アスカは立ち上がり、きちんとたたまれていた制服に着替える。
 そして何も口にせず、鞄を持って入り口に立つ。
 扉が開いたところで、口を開いた。

「あ、それから一つ忘れてた。早いとこシンジに会っておいた方がいいわよ。次の使徒、もうすぐ来るみたいだから」

「え」

 だが、ミサトが聞き返そうとした時、既にアスカは病室の外だった。
 追いかけて尋ねてもよかったが、そんなことをしたらアスカの逆鱗に触れるだろう。今のは、彼女の精一杯の譲歩、ミサトの謝罪に対する返事、強く言い過ぎたことに対する彼女なりの謝罪なのだ。
 もうすぐ、次の使徒が来る。
 その事実は、彼女を頼りない姉の顔から、引き締まった作戦部長の顔に戻していた。






 アスカは家に戻ってくると、部屋の中が真っ暗なことに気づく。
 レイはとっくに帰ってきているはずなのに、どうしてこんなにも人の気配がしないのだろう。
 リビングに行くが、誰もいない。
 彼女は電気をつけぬまま、少年の部屋へ向かった。
 扉を開ける。
 ベッドの上に、枕を抱いて眠っている制服少女の姿があった。

「泣くほど辛いんじゃない」

 アスカはこの優等生が、きちんと自分の感情を持っているということをようやく認識した。
 そしてそのベッドに腰掛けて、優等生のサラサラの髪を優しくなでる。

「いかりくん……」

 彼女の寝言が耳に聞こえた。

「ばーか。アンタの想い人は、今頃牢の中よ」

 何を皮肉したのか、自分でも分からない。
 ただ、この世界の中でどうしてこんなにも寂しいのか、今までどうして寂しくなかったのか、そんなことをふと思っていた。






 翌日。
 ミサトの報告を受けたリツコが総司令の許可を得て少年が収容されている牢の前に立った。
 鉄格子の向こうで、三重の手錠をかけられている少年が簡易ベッドに横たわっている。一応毛布も被っているようだった。

「ご機嫌はいかが、シンジくん」

 尋ねると、そんな声も聞きたくないというように少年は反対の方を向く。

「霧島マナの病状が知りたくないの」

 その言葉にはさすがに反応した。ゆっくりと身を起こし、ずっと下を向いていたが、やがてぎろりとリツコを睨む。

「よくもその口で、そんなことが言えるものですね」

 リツコは顔と腕に怪我をしていた。松代の爆発に巻き込まれたのだろう。
 少年は、自業自得だ、とでも思っているだろうか。
 彼女は一つため息をついた。

「いろいろと聞きたいことがあるんじゃないかと思って来たのだけれど、お邪魔だったかしら」

「邪魔です。目障りですよ。そんなことも分からないんですか。さっさと状況だけ話してその耳障りな声を僕に聞かせないようにしてください」

「随分と嫌われたわね。まず最初に言っておくけど、霧島マナがパイロットになったのは本人の希望よ。私も元戦自の彼女をパイロットにするなんてことは全く考えていなかった。発案はあの娘自身なのよ」

「それが何の言い訳になるというんですか? 彼女は僕が引き取ったんです。僕が取引して彼女を手に入れたんです。僕の許可なく勝手にパイロットに認定なんかしてほしくないですね」

「シンジくんは随分と誤解しているみたいだけれど、シンジくんに秘密にしておいてほしいと頼んできたのも霧島マナ、あの子自身なのよ」

「だから、それが何の言い訳になるというんですか? あなたがたが僕に黙ってやっていたのなら彼女の意思なんて関係ない。僕に連絡をよこすべきだったんです。少なくとも、あなたがたが僕の協力を得たいと思うのなら確実にそうするべきだった」

「あの子の意思を無視した方がよかったというの?」

「そうです。マナは僕のものです。彼女が何を願おうと、彼女は戦いに参加させない、それが僕の考えです。もともとマナは射殺されるか戦時に戻されて懲罰を受ける身だった。それを僕が助けたんです。もちろんマナにやりたいことがあるのなら、いくらでもやればいい。僕は止めたりはしません。でも、この戦いに参加するのは駄目です。それは絶対に認めません。その意味でマナに自由なんかないんです。彼女は僕が身柄を預かったんですから」

「その理由が分からないわね。彼女の意思を尊重しないというの?」

「そうです。僕はそのために総司令と取引したんですから」

 リツコは息をつく。嫌われたのは分かっていたが、ここまで意固地ではどうすることもできない。

「霧島さんは持ち直したわ」

「そうですか」

「三日もすれば意識は戻るそうよ」

「三日もすればサードインパクトが起こって誰もいなくなりますよ。かわいそうなマナ」

 リツコはその言葉に敏感に反応した。

「ミサトから聞いたわ。近いうちに使徒が来る、と」

「葛城さんにですか? 僕は彼女に何も言った記憶はないですけど」

「ミサトはアスカから聞いたそうよ。それ以上のことは聞いてないみたいだけど」

「ふうん。アスカなりの譲歩、ってことかな。随分とアスカも成長したんだな」

 その事実だけで、少年はミサトとアスカの間に何があったのか、ほぼ正確に把握したようだった。どこまでもこの少年は非凡だ。普段の知識量に隠れてしまっているが、彼の一番の武器は何事も見透かす洞察力、それにつきる。

「鈴原トウジはどうしたんですか」

「怪我で入院中よ。別に彼は松代の爆発被害に巻き込まれたから」

「ネルフが雇ったのは、エンジニアとして?」

「そういうこと。人手が足りなかったから」

「マッド、あまり嘘をつかないでくださいね。単に僕を騙すためだけに彼を雇ったんでしょう」

「ええ。あなたのお父さんの命令でね」

「そんなに碇ゲンドウが好きなんですか」

 言葉に詰まる。
 そんなことを。
 そんなことをこの少年に言われる筋合いはない。

「あなたには関係のないことよ」

「そうですか? 碇ゲンドウと再婚するとすれば、あなたは事実上僕の母親だ。あなたは僕に『お母さん』と呼ばれたいんですか?」

「……あの人はそんなことを望んでいないわ。あの人の心の中にいるのは、今でもユイさんだけですもの」

「それを母子揃って寝取ろうとしたわけですか」

 この少年は。
 どこまでも、人の一番触れられたくないことを平気で踏みにじる。

「……今回の件に対する復讐のつもり?」

「これで復讐? 笑わせないでください。あなたのことなんて僕は眼中にないんですよ。僕が殺したいのは碇ゲンドウただ一人だ」

「そういうことを言っていると、永久にここから出られないわよ」

「かまいませんよ。碇ゲンドウは近いうちに必ず僕を呼び出すか、そうでなければ自分からここへ来る。どうやら碇ゲンドウには僕の秘密が分かったみたいですしね」

 碇シンジの秘密。
 何故未来を知っているのか。
 いったい何者なのか。
 それが、父親であるゲンドウには分かった、と。

「どうしてそんなことが分かるの」

「彼が錯乱していない限り、息子である碇シンジを殺そうとはしないからですよ。つまり、彼の中で僕が碇シンジではないという確たるものが見つかったんでしょう」

「あなたはシンジくんではないというの」

「ある意味ではシンジそのものですよ。何しろこの体だ。それに、碇ゲンドウはまだ勘違いをしている僕は碇シンジはないが、碇シンジでもある」

「碇シンジではないが、碇シンジでもある……?」

 少年が何を言おうとしているのか、彼女にはまったく分からなかった。

「謎かけはこれくらいにしておきましょうか。それより、聞きたいのは使徒のことでしょう? いいですよ、僕がここにいても次の使徒を倒す方法が一つだけあります。それを教えますよ。もっとも、碇ゲンドウにはその方法がもう見えているでしょうけどね」

 リツコは話に引き込まれる。
 この少年が話す言葉を一言たりとも聞き逃さない、そうした姿勢が見られた。

「ダミープラグを使う。これしかありません」

「ダミープラグを? でも、シンジくんはダミープラグを敬遠していたのではないの?」

「時と場合によります。前回のバルディエル戦のように、人命救助をしなければならないときに手足が動かないのではどうしようもない。ですが、今回は純粋なパワーゲームになります。それなら僕が全力を出すのも、ダミープラグが全力を出すのも同じだ。それに、ダミープラグは一度限りです。コアの母さんが二度目を許しません。つまり、碇ゲンドウには切り札の一つがなくなることになる。それを承知の上で使うんですね」

「あなたのお父さんが、レイとアスカ、それにマナさんの命を盾にあなたに乗れと言ってきたらどうするつもり?」

「もちろん乗りますよ。でも、その場合は重々覚悟してくださいね。僕はこの身が自由になり次第、碇ゲンドウを殺しに行くんですから。ああ、それから一つ、赤木博士にお願いがあるんですけど」

「言ってごらんなさい」

 少年は少し間を置いてから答えた。

「紙とペンがほしいんです」

 その突然の言葉に、リツコは顔をしかめる以外に何もできなかった。






 翌日、目が覚めたレイの隣には、この神聖な自分と少年のベッドに乱入者がいることを悟った。
 ただちに排除するべきだろうと考えたが、とりあえずはこの場から去ってくれればそれでいい。
 とはいえ、寝ている相手をどうやって起こせばいいものか分からない。
 それならば自分で運ぼうかと彼女の体の下に腕を回したが、残念ながら彼女の力では持ち上げることはできない。
 どうすればいいだろうか、と考えていると、腕の中の弐号機パイロットが目を覚ました。

「あのねえ、優等生。アタシはそのケはないんだけれど」

 ぱちぱち、と目を瞬かせるレイ。何を言われたのか意味が分からなかったらしい。

「ま、いいわ。悪かったわね、アンタとシンジの愛の巣に入り込んで」

 レイの顔は表情こそ変わらなかったものの、その様子から不機嫌であるということはアスカにも分かった。

「それで、アンタはどうするわけ?」

「どうする?」

「決まってるじゃない。シンジがこうなってもまだネルフのために働くのかってことよ」

 レイはまた瞬きを繰り返す。どうやらそんなことは考えてもいなかったという様子だ。

「まったく、人形はこれだから困るわ。自分で考えるなんていうことができないもの」

「私は人形じゃない」

「あのねえ、この状況でそんなことを言っても説得力ってもんがないのよ。アンタが人形じゃないっていうなら、人形じゃない証拠を見せてもらおうじゃないの!」

 アスカは怒っていた。
 誰よりもこの綾波レイという少女に対して怒りを覚えていたのだ。
 彼女は少年のことを好きだったはずだ。それなのに、どうしてそれを訴えようとしないのか。自分の力で取り戻そうとしないのか。
 だから人形なのだ。
 与えられた状況に抵抗することができないのだ。

「私は人形じゃない」

「じゃ、証明しに行くわよ」

 レイは今度は首をかしげた。

「簡単なことよ。シンジに会いに行くわよ。アンタだって会いたいんでしょ。アタシもあいつにはたっぷりと言いたいことがあるんだからね」

 レイの瞳に、少しずつ色が戻ってくる。
 そして彼女は、しっかりと頷いた。

「ふん、少しは人間らしい表情になったじゃない」

 その顔を見たアスカは、満足そうに笑った。






「しかし、私なんかが付き添いでかまわないんですか」

 少女たちが到着するより早く、少年の牢に近づいていた二人の男がいた。
 一人は加持リョウジ。言葉から分かるように、付き添いを命じられた方である。
 そしてもう一人は。

「問題ない」

 碇ゲンドウ。ネルフ総司令。
 この親子が実に直接対面するというのである。

(どうして俺なんかが呼ばれるのかね)

 どうにも、この親子は何を考えているのかが読みづらい。
 牢の前に立ったゲンドウは、加持に告げた。

「十分で出てくる。出てこなければ君が呼びにきたまえ」

 そう言い残して、ゲンドウは牢の中に消えた。

(やれやれ。肝心のところはお預けか)

 せめて牢の中にさえ入れるのなら、少年の牢の前と言わずとも話を聞くことは不可能ではない。
 だが、牢は防音扉でできているため、絶対に中の声が聞こえることはない。
 それこそ、大声で叫ばない限りは。
 碇ゲンドウが完全にこの会話の内容を秘密にしたいのであれば、おそらくMAGIをこの後検索したとしても記録は残っていないだろう。
 そこまでして何の秘密を守りたいというのか。

(近いな。すべての謎が明かされるのは)

 加持はタバコに火をつけた。
 紫煙をくゆらせながら、これまでのことを思い返す。
 少年、碇シンジの言動。そこに、何か特別なものはなかっただろうか。
 携帯灰皿に短くなったタバコを押し付ける。
 ちょうど、ゲンドウが入ってから、五分が過ぎた。

「うああああああああああああああああああああああああっ!」

 突如、牢の中から起こった叫び声。これは少年のものだ。
 ただごとではない、と加持はすぐに扉を開けて中へ飛び込む。
 少年の牢までは、ほぼ百メートル。
 その距離が、とてつもなく長く感じた。

「ああああああああああああっ! うあっ! あがっあああああああああっ!」

 その牢の前で、ゲンドウが顔をしかめて中を見ている。
 ゲンドウは何もしていない。
 ただ、中で少年が頭を抱えてその場にうずくまって奇声を発していた。
 何が起こったのか。
 状況が見えない加持にはどうすればいいのかが分からない。
 だが、さらに状況は悪化した。

「があああああああああああっ!」

 少年が思い切り頭を振り上げ、そして地面に頭を打ち付けたのだ。
 さすがにそれを見た加持は錠を開き、少年を取り押さえる。
 その瞬間。

『加持さんへ』

 近くに、紙片が落ちているのが見えた。
 碇ゲンドウに見られるわけにはいかない。ちょうど影になるように少年を押し倒し、素早く紙片を拾う。
 そして片手で少年の頭を押さえつけ、もう片方の手で携帯電話を手にする。

「俺だ。すぐに牢へ来てくれ。医者もだ。鎮静剤を持ってくるように」

 その瞬間、少年が舌を噛み切ろうとしたので、加持は慌てて自分の手をかませる。
 歯が肉に食い込み、激痛がはしる。せめて腕をかませておけばよかった、と後悔した。

「シンジくん、俺だ。分かるか」

 うううううう、といううなり声と彼の歯による痛みだけが返事だった。
 常軌を逸している。少なくとも冷静な彼の取る行動ではない。
 いったい、何をゲンドウから告げられたのか。
 牢があいていないのであれば、ゲンドウから何かの言葉が発せられたはず。それが少年を狂わせている。
 ちょうどその時、牢の中に医者たちが入り込んできた医者は素早く注射器に鎮静剤をこめると、少年の腕に打つ。
 すぐに少年は力が抜けて、意識をなくした。

「司令。一度、病院へ移してかまいませんか」

「好きにしろ」

「感謝します」

 加持はすぐに指示を出して少年を運ばせる。

(いったい、何があったっていうんだ?)

 碇ゲンドウはその一部始終を確認した後に、ゆっくりと牢を出ていった。






 そうした一連の事件が終わったあとに少女たちは到着した。
 もちろん、シンジが錯乱したという情報はすぐに少女たちの耳に入る。二人はすぐに面会したいと申し出た。意識がないからと最初は反対されたが、二人の少女があまりにも強くまくしたてるので、半ば無理矢理面会を勝ち取った。
 二人は病室に入る。そこは、ただ機械音だけがする白い無機的な部屋であった。

「碇くん」

 その白い部屋よりも少年の顔は白く変色していた。
 状況を聞いたとはいえ、又聞きの又聞きくらいだ。いったい何があったのかなどということは分からない。
 当事者に聞くのが本来ならば一番いい。だが、碇ゲンドウは百パーセント口を開かないだろう。
 だとしたら、その二人に一番近いところにいた人物に聞くのがいい。
 二人が病室でずっと付き添っていると、やがてその当事者に近い人物が登場した。

「加持さん」

 立ち上がったアスカに、無精髭の男は「よっ」と声をかける。

「加持さん、シンジは──」

「ああ、大丈夫。一度錯乱はしたけど、鎮静剤を打ったからな。薬の量からして、そろそろ目覚める頃かと思って来てみたわけさ」

 とはいえ、加持にしても目覚めた少年が安全であるという保証はできない。
 過去の例からいけば、少年はたとえ錯乱してもすぐに持ちなおった。あのレリエル戦がそうだ。
 だが、それ以前にも兆候はあった。それは少年が錯乱するとかではない。例えばあの霧島マナという少女が来た直後くらいにも、一度少年は意識を失っている。貧血、という判断をリツコはしていたが、単なる貧血というのもおかしな話だ。何しろ、その直前までは普通に会話をしていた、というのだから。
 少年自身に何かがある。もちろん何もないはずがないのだが、その正体は、そろそろ暴かれる時が来たのではないだろうか。

「加持さん。いったい、何があったの」

「俺にも分からんよ。牢で突然シンジ君の叫び声が上がった。それを総司令は黙って見ていた。シンジ君は自分で舌を噛み切ろうとしたから、慌てて俺の手を噛ませたよ」

 よく見ると確かに加持は左手に包帯を巻いていた。よほど強く噛まれたのだろう。

「綺麗な女の人に噛まれるんだったら文句はないんだがなあ」

「加持さん、ヤラシイ!」

 アスカが怒り、加持がニヤリと笑う。会話についていけないレイはきょとんとするばかりだ。

「でも、総司令との間にどんな話をしたのかは加持さんも分からないんだ。シンジが錯乱したのって、総司令が何か言ったからなんでしょ?」

「そう考えるのが普通だな」

 もちろん加持もそう考えている。だが、当たり前のことを当たり前だと判断するのは危険だ。今回はそれ以外に何か問題がありそうな気がする。

「碇くん」

 綾波が椅子から立ち上がって彼に近づく。
 ゆっくりと、少年が、目を開いた。

「……やだ

 ぽつりと、少年の口から小さく言葉がこぼれた。

「もういやだ。どうして、どうして今さら、こんな……」

 少年の目からはただ涙が零れていた。
 その顔を覗き込む顔が三つ。

「碇くん」
「シンジ!」
「シンジ君、大丈夫か」

 いずれも心配そうな顔。
 だが。

「いやだっ!」

 ばさっ、とタオルケットを跳ね上げ、三人が躊躇している間に少年は壁際に逃げる。
 だが、もちろんどこへ逃げる場所もない。少年はただ袋の鼠になっただけだ。

「どうしたのよ、シンジ!」

「嫌だ! 僕に近づくな! 僕は、僕はこんなこと望んでなんかないっ!」

 その瞬間、加持は少年の変化を確認しようと集中を凝らした。
 以前にもあった、少年の錯乱。
 きっとここに、少年の秘密がある。

「どうしてこんなことしたんだよっ! 何とか言えよっ!」

 誰に向かって叫んでいるのかも分からない。そして、少年はすぐ後ろの壁に自分の頭を打ち付ける。

「碇くん!」

 その少年に組み付いたのはレイであった。

「やめろ! 離せ! 触るな! 綾波なんか、僕のこと何も知らないくせに!」

「碇くんが話してくれなければ、何も知らないのは当然だわ」

「知った顔で言うなよ! どうせ綾波なんて僕のことなんか少しも想ってくれてないくせに!」

「アンタ──」

 レイを押しのけて、アスカが少年の肩を掴んで強く握った。

「何するんだよアスカ! 離せよ!」

「アンタ、何様のつもりよ。だいたいにして、いつものアンタらしくないわよ。何から逃げてるのか知らないけど、とっとといつものアンタに戻りなさい!」

 その、瞬間。
 少年の顔が、凍りついた。

「そうか」

 そして、少年は、泣いた。

「そうなんだ」

 泣きながら、笑った。

「僕はもう、僕じゃないんだ」

 絶望した表情。
 そして、

「さよなら」

 ふっ、と少年の意識が切れる。
 そして、その場に倒れた。

「シンジ君」

 加持が近づき、脈と瞳孔を確認する。問題はない。

「加持さん」

「大丈夫だ。命に別状はないよ」

 少年の体を抱き上げ、そしてベッドに降ろす。
 だが。

(……今度は、長引くかもしれないな)

 少年が何に絶望したのかは分からない。
 だが、少年はこの世界を拒絶した。
 おそらく、戻ってくるのは困難だろう。

「碇くん」

 そして、震える体でレイが近づく。
 その手を取って、自分の頬にあてた。

「……たとえ、碇くんが私のことを嫌いだとしても、私は碇くんのことが好き」

 その呟きは、彼に届いただろうか。
 いや。

(……俺にも読めてきたな。シンジ君の正体が)

 正しく『彼』に伝わるかどうかは、難しいところだろう。






 スーパーコンピュータ、MAGIはようやくその演算を終えた。
 今回の病室での一件、それに──碇ユイのカルテ。
 この二つで、MAGIは百%の回答を出した。
 だがそれは、現代の医学上、考えられないことではあった。

(でも、MAGIの回答なら間違いないんでしょうね、母さん)

 MAGIはリツコの母、赤木ナオコの人格が移植されている。そしてナオコとユイは一緒に働く仲間だった。よく知っている者同士だ。
 MAGIが反応したのは、碇ユイのカルテ、本人ですらまだ気づかない妊娠三週目時点でのものと、四週目時点でのものだった。

(『それ』の存在はよくあることよ。もしかしたら私だってあったのかもしれない。でも『それ』が──その影響が未だに残っていることなんてあるものなのかしら)

 碇シンジであって、碇シンジではない。まさに彼の言うとおりだ。

「リツコ?」

 作戦部長が頭を抱えてやってくる。

「あら、ここに来るなんて珍しいわね」

「まあね。さすがにさっきの件は私もくたびれたわ。コーヒーもらうわよ」

 勝手にコーヒーを入れるのはいつものことだ。別に止めたりはしない。

「ったく、あんなに豹変するとは思わなかったわね。まるで二重人格者みたい」

「統合失調症、っていうのよ。正式にはね」

「ふえ?」

「でも残念ながらシンジくんは多重人格者ではないわ。MAGIのデータが出たのよ」

「マジ?」

 鋭く視線をリツコに向ける。

「ええ、見る?」

「いいの?」

「別に隠すようなことじゃないもの」

 ミサトは少し迷ってから、そのプリントを取って眺めた。
 読み進めていくうちに、徐々にその顔が険しくなる。

「……そんなこと、ありうるものなの?」

「私も目を疑ったけど、でもこれしか考えられないわね。それにこの確率は百%。MAGIの試算でね」

「間違いない、ってことか」

 ミサトは右手の親指の爪を噛んだ。
 昔、よく彼女がやっていた癖。最近はあまり見なくなっていたのだが。

「それより──もう、明日よ」

「ええ。最強の使徒でしょ。ダミープラグの用意は?」

「できてるわ。いつでも初号機はいけるわよ」

「んじゃ、さくっとやっちゃいますか」

 三十路と三十路手前コンビは視線をからめるとくすっと笑った。






 ゼルエル。
 第十四使徒。そして最強の使徒。
 この倒し方は、少年ですら手を焼いていた。
 だが。
 その決着は、あっけなくついた。
 二十二枚の装甲を破った下に配置されたエヴァンゲリオン初号機。
 搭載されたダミープラグが起動した時、初号機は暴走状態となる。
 A.T.フィールドを浸食し、コアを守る装甲版を引き剥がし、二枚の折りたたみ式の腕による攻撃もものともせず、あっという間にそのコアを破壊した。

「これが、ダミープラグの力」

 目の前で何もできずにその光景を見つめているアスカにとっては屈辱以外の何物でもない。
 どれだけ自分が訓練を積んでも、そのダミープラグには遠く及ばない。
 圧倒的な破壊力と攻撃力。
 これでは、自分の存在などなくてもかまわないではないか。

(違う)

 アスカは首を振る。

(アイツは、アタシを必要だといった。決してこんなモノに頼ったりしなかった)

 おおおおおおおお、と初号機が雄たけびを上げた。

(だから、アタシは絶対ダミープラグを認めない)

 勝利の雄たけびが止むまで、時間は長く続いた。






弐拾参

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