「よ、リッちゃん」
無精髭の男は気楽な様子で彼女の部屋に顔を出していた。
ダミープラグ起動時の検証、第十四使徒戦での被害に関する復興策、やることはさまざまあった。事実、使徒戦後、彼女はこの三日間一睡もしていない。
そろそろ一段落といったところで現れたのがこの男だった。おそらく彼も、自分が一段落するころだと見計らってきたのだろう。
部下たちに指示は出してある。疲れた頭でいくら検証したところで得られるものは少ない。ならば、ひとまずはぐっすりと休みたい。
だが、その前にこの男の意見だけは聞いておきたかった。
「何の用かしら、加持くん」
「なに、ちょっと陣中見舞いにね」
「シンジくんのことを知りたくて来たんでしょう?」
「いや、ある程度もう予測はついているさ。確証がほしくてね」
そう、と答えたリツコは近くにおいてあった緑色のファイルを机の上に投げて渡す。
それを手に取り、加持は中から二枚の紙を取り出した。
碇ユイの、生前のカルテだ。
「やはり、シンジくんの体内に、二人分の意識があるということかな」
「ええ。二重人格や『批判する自分』の存在とは違って、彼の体の中に、はじめから二人が存在していたのよ」
ミッシング・ツイン──消えた双子。
もともと一卵性双生児だったものが、ふたたび一つに戻る現象を示す。
何故そのようなことが起こるのかは定かではないが、生命力の弱い命は、生命力の強い命にそのエネルギーを吸い取られるとも言う。
だが当然のことながら、そうして消えたもう一人の子供に意識などあるはずがない。
「問題は時期的なものよ」
「時期?」
「ええ。ミッシング・ツインが起こるのは本当に妊娠初期、まだ妊娠したことに気づかない段階での話よ。それこそ一週間か二週間か、それくらいの時期。でも、このカルテからいくと三週間目まではまだミッシングは生き残っている」
「ああ。しかし、三週間で妊娠の兆候なんていうものは出るものなのか?」
「おそらくユイさんがこまめに検査をしていたんでしょうね。妊娠一週目のものも二週目のものもあるわよ。ただ、はっきり比較させるためにその二枚を持ってきただけ」
「双子は四週目で消えた、か」
「そう。そして、残った『シンジくん』の体に取り込まれた。おそらく、不完全な形で意識が既に出来上がっていたんでしょうね。その意識は消えず、シンジくんの脳に潜み、自分の意識を形成した」
「人間の脳は百%は使われていないっていう話だったな」
「ええ。そのごく一部に潜んだ『ミッシング』はシンジくんの本体を通して自らも知覚するようになった。思い通りにならない、別の人間が自分の手足を操っているかのように『彼』には感じられたんでしょうね」
「それが『今』のシンジくんか」
「そう。だから、この第三新東京市に来る以前のシンジくんは本来の彼そのものなのよ。何とも頼りない少年だけれどね。そして、その頼りない少年を見て反発を覚えながら成長してきたのが第三新東京市に来てからのシンジくんというわけ」
だからたくましいのだ。だから生きることに執着するのだ。
今まで意識だけはあっても、自分で生きることができなかったから。
「なるほどな。だが、分からない点が一つ、いや、二つある」
「ええ。それはまだ分かっていないわ。つまり、加持くんの疑問はこうでしょう?」
リツコは笑って尋ねた。
「一つは、どうしてシンジくんが『今』になって入れ替わったのか。そしてもう一つは『今』のシンジくんが何故未来を知っているのか。その二点ね。でも、残念ながらそれに関しては全く何も分からないわ」
「OK。それじゃ、俺も少し働くとするかな」
加持は一枚の紙切れを逆にリツコの机に置く。
「何?」
「シンジくんが俺に託した、今後の使徒スケジュールだ」
第弐拾参話
消えた子供
もちろん、そんなことを子供たちに教えてくれるというわけではない。アスカとレイはいつになっても『目覚めない』少年の病室にこもりきりとなった。
あの第十四使徒戦以後、全く少年は目を覚ますことはない。ずっとただ眠り続けている。意識が戻りかけることすらない。
いったいどうして、こんなことになってしまったのか。
最後に少年が錯乱したときのことを考えると、二人とも寒気すら覚える。
全てに絶望した少年の凍りついたような笑顔。あれはもう、正気を保っていたとはいえない。
碇ゲンドウに、何を言われたのか。
日増しに募る少年への想いと、司令官への、ネルフそのものへの不満。
二人はもう、心の支えなしには生きることすらできなかったのかもしれない。
「ちょっちいい?」
そんな折、病室に入ってきたのは彼女たちの上司にあたる葛城ミサトだった。
ミサトもMAGIの診断により少年の正体は分かっている。ただ、性格の変化そのものは分かったとはいえ、いまだに彼自身はブラックボックスに包まれている。
「何の用?」
「ん、まあ、少しはいい話かな。霧島さん、目を覚ましたわよ」
二人の腰が浮く。そして素早く視線をかわす。
このまま少年を放置したくはない。
だが、彼女もまた大切な同居人だ。
「会える?」
「ええ。彼女もみんなに会いたがっていた。でも、まだシンジくんのことは伝えてないわ」
「いいわ。私が伝える。もう命の危険はないのね?」
「ええ、大丈夫よ。でもあまり負担はかけないでね」
アスカが頷き、レイは何も返答せず、そして二人はマナの病室へと向かった。
集中治療室でずっと安静にしていた少女もこうして目を覚ました。
彼女たちは、これが少年を呼び覚ますことにつながるような、そんな希望にすがっていた。
「転校生」
「あ、アスカさん、レイさん」
案外に、マナは元気そうだった。もっとも、ベッドに横たわった姿で、体に何本ものチューブが差し込まれているが。
もともと外傷があったわけではない。ダミープラグを引き抜いた時に脳と神経の回路が一時的につながらなかっただけだ。まだ動くのには不自由するだろうが、慣らしていけば直によくなるとリツコも言っていた。
「ごめんなさい、ご迷惑をおかけしました」
「本当よ。まったく、あんたがしゃしゃりでてこなけりゃ、アタシたちももっと楽だったのに」
「本当にごめんなさい。でも」
「デモもストもない!」
ベッドに倒れている病人にアスカはびしっと指さす。
「アンタたちを守るのがアタシたちの役目!」
びくっ、とマナが反応する。
「……そして、アタシたちを支えてくれるのが、アンタの役目よ」
「アスカ、さん」
マナが徐々に目元を潤ませる。
「すみません、本当に、すみませんでした」
「いいのよ。これに懲りたらもう二度とエヴァには乗らないことね。シンジなんて、すっごい怒ってたんだから」
そう、彼は怒っていた。ネルフに。そして彼女自身に。
どうしてこんなことをしたのかと。
その結果が、今の有様なのだ。
「シンジくんは、どうしたんですか」
「別の使徒が出てきて、ちょっと倒れて動けないのよ」
アスカは全く嘘を言っていない。
別の使徒が出てきたのも事実なら、倒れて動けないのも事実だ。問題はその二つの間に何の関連性もないことを説明しておらず、ついでに言うなら意識も戻っていなければどういう症状なのかも判明していないという、ある意味状況が最悪なことも省いているだけだ。
ミサトに言われた通り、可能な限り負担は少なくしている。そして彼女が納得のいく理由で説明している。あとは彼女が動けるようになったら真実を話せばいい。
「そうですか。重いんですか?」
「アンタほどじゃないわ。まだしばらく動けないんでしょ?」
「はい。体がしびれてるみたいで、全く動いてくれません。なんとか顔の周りだけは大丈夫みたいなんですけど」
「ま、ゆっくり直すことね。アタシたちもしばらくここにいるつもりだから」
「はい」
「ほら、レイもせっかく来たんだから、何か言ってあげなさい」
どん、と前に出されたレイは相変わらず無表情のままだった。
「……こういうとき、どういう顔をしていいのか分からないの」
がくっ、と肩を落とすアスカ。そしてその様子を見たマナがくすっと笑った。
「そんなもん、笑って『よかったね』って言ってやりゃいいのよ。一週間ぶりに意識が戻ったんだもの、めでたいに決まってるんだから」
「そう。これは嬉しいという気持ちなのね。よかったわね」
そして、極上の笑みをレイからいただいたマナは、思わず顔を赤く染めてしまっていた。
さて。
物事はいい方向にばかり進むわけではない。相変わらず多忙な技術部長は相変わらず多忙に働いている。
加持とのやり取りの後、睡眠薬まで使って強引に六時間の睡眠をとった後の彼女は、再び三日間の徹夜勝負に取り組んでいた。
眠りについた少年を取り戻すのは彼女の役目だ。
そして、何をしなければいけないのかは彼女が一番よく分かっている。
(シンジくんの体内には二人の彼がいる。だとしたら、私たちが呼び戻すのは)
病室での一件は何度もビデオを見て確認している。
『僕はもう、僕じゃないんだ』
あの絶望した顔。そして、言葉の意味。
あれは、この第三新東京市に来てから封じ込められていた『本物』の少年の声だ。
あの病室で『本物』は息を吹き返し『偽者』は闇の中に消えた。
何が起こったのか。
おそらくは、ゲンドウとのやり取りがそのきっかけだったのだろうが、それは全くモニタされていないので誰も知ることはない。
(けど、今の時期『本物』に蘇られては困るのよ)
そう。
頼りない少年では、残り三体の使徒は倒せないかもしれない。
そして、最後に待ち構えているゼーレとの戦いに生き残ることは難しい。
こちらにはもう、何も切り札は残されていないのだ。
S2機関も、ダミープラグも、何もかもが存在しない。
頼れるのは全てを知る『ミッシング』だけだ。
「次の使徒撃退の準備は進めておくわ、シンジくん。だから早く起きてきなさい」
プリンタから印刷されてくる用紙の束。百枚以上の大作だ。
それが、少年『碇シンジ』のサルベージ計画書であった。
だが、リツコの知らないところで、まだ大きな動きがあった。
『鈴』は音もなく動く。
彼の胸ポケットには一枚の紙切れとメダル。
数少ない、少年からもらったものだ。
(しかし、そんなことをすれば俺はいったいどういう処分を受けるのかな)
少年は加持に『二枚』の紙を託した。
一枚は今後の使徒スケジュール。いつ、どのようにして現れ、どのような特徴を持ち、どのような攻撃をしてくるのか。そしてその撃退方法は。
それは全てリツコに託してきた。
だが、もう一枚の紙切れは自分の手元に留め置いた。
それは、今後の『加持』の未来が記録されたものだった。
(まさか俺がもうすぐ死ぬとはな。さすがに今ひとつ信じられないが)
だが、いつ殺されてもいいようなことをしているのは確かだ。今まではネルフとゼーレに表面上は保護させていたが、どちらかが自分を切り捨てる日が来たということだ。
彼が殺される理由は、ゼーレに捕らえられた冬月副司令を救出したため。
そして、その冬月副司令をこのネルフ本部から誘拐するのは、加持本人だった。
もはや冬月を助けることに加持には何のメリットもない。だから切り捨ててもかまわない、と少年は手紙にはっきりと書いていた。
だが、そうなれば今度はネルフに殺されることになる。ゼーレとネルフが対立した場合、真っ先に危険になるのは両方の組織に足をつけている人間、つまり加持なのだ。
少年はきっと、選べと言っているのだ。ゼーレか、ネルフか。
いや、それより。
(ま、最初から決まっていたことだがな)
自分が選ぶのは『少年』だ。もちろん、平凡な中学生の『シンジ』ではない。未来を知り、運命を切り開くリーダーとしての『少年』だ。
リツコの言い分では自分の知っている少年こそが偽者で、かりそめだという。だが、その偽者こそが自分の運命を託すに相応しい。
この世界で平穏な生活と幸福を望む本物のシンジには申し訳ないとも思う。
だが、この世界に必要とされているのは間違いなく偽者の少年なのだ。
(もしネルフと敵対するならお願いします、か。全く、君らしいといえばらしいのかな)
今、彼はターミナルドグマにいる。
この最下層には謎の白い巨人と槍が存在する。
あの生物は何者か。
そして、いったいゲンドウは何をしようとしているのか。
(だが、目的地はそこじゃない)
加持は最奥への道から逸れて、別の方向へ進む。
そこはかつて、人工進化研究所と呼ばれたスペースだった。
(これが、ダミープラグの正体か)
加持は水槽の中で泳ぐ幾体もの『レイ』を見つめて言葉をなくす。
あらかじめ少年から聞かされていたとはいえ、ここまで不気味なものを見させられると、さすがに何も言うことができない。
その温度を上げるだけで、全ての『レイ』は破壊されるという。
ここにあるのはただの器。人間としての心を持たない器。人工的に作られた器。
だから、壊してほしい。
それが少年の願いだった。
(やれやれ。それもこれも、すべてはレイちゃんのためか。かえすがえすも女泣かせだな)
加持は水温を高く調節する。徐々に水槽の中の色が濁り、そして全ての綾波レイは死に絶えた。
(綾波レイはこうして生まれた、か。だが、これでめでたく彼女の秘密は闇に葬られたというわけだ。あとは司令やリッちゃんだが、尋ねられたとしても口を割るようなことはしないからな)
その時だった。
「ここで何をしているのかね」
加持の体が跳ね上がり手が懐へ──
「妙な動きはしないでくれ。老人は臆病でね。君がタバコを吸おうとしていたのにも関わらず撃ってしまうかもしれない」
加持は諦めて手を上げながら振り向く。
そこにいたのはピストルをかまえた冬月副司令であった。
「副司令でしたか」
「ふむ、ダミーを破壊したのか」
冬月は何の感慨もなく、その濁った水槽を見つめる。
「やれやれ。これで碇が何というか。さて、君の弁を聞こうか」
「ゼーレのスパイだっていうのは副司令もご存知でしょう?」
「ああ。だが、ゼーレがこれを破壊しろと命令してくることはないことも知っている。何しろゼーレのご老人たちはこの水槽の中身がいたくお気に入りだったからな」
「ダミープラグが?」
「おそらくゼーレも開発しているだろう。新型エヴァにS2機関とダミープラグを搭載、それが伍号機から拾参号機まで。さて、ネルフがゼーレに勝つためにはどうすればいいと思うかね?」
「……そのためのダミープラグですか」
自分が咎められていると感じた加持は思いついたままを答える。
「いや、ダミーなど保険にすぎんよ。我々はゼーレそのものを破壊しなければならないのだ」
まさか。
どれだけ調べても調べ切れなかったゼーレの本部を、副司令は知っている?
「ゼーレの本拠地をご存知なのですか」
「知っている。そして、我々には手の打ちようがないこともな」
「どういう──」
「何。ゼーレの老人たちはしたたかだということだよ。危険を避けるために危険な場所を選ぶ。あの感覚は理解できんね」
その言葉がヒントであることは加持にも分かった。
だが思い描いた場所が正しいかどうかは分からない。
「副司令は私に何をお望みですか」
加持から切り出す。どうもこの老人はもったいをつける癖があるのがよくない。
「私の願いも一つだ。ユイ君に会う。年甲斐もなく、あの神秘的な女性にはあこがれすら抱いているのだよ。だから碇に協力している」
「そのために私を泳がせるつもりだと?」
「いや、結局碇のやり方だとユイ君を復活させることはできないだろう。だが、最後の瞬間に一目会える。それだけを楽しみに今は生きている。自分でも破滅的だと思うがね」
「副司令」
「君に願うことは一つだ。君の『本当の雇い主』に協力したまえ。おそらく全てを良い方向に導いてくれるのはあの少年だけだろう」
「見逃してくださるというのですか?」
「この機械はよく故障していたので、今まで何回もこのようなことは起こりかけていたのだよ。今回はとうとう間に合わなかったというだけのことだ」
この老人の考えが読めなかった。
自分と少年との関係を確認し、その上で今まで通りに動いてかまわないという。
「副司令の狙いは何ですか」
「私か? そうだな」
少しだけ冬月は笑った。
「シンジ君が補完計画を行い、ユイ君を地上に再び戻してくれることだ。私はもう碇よりシンジ君を選んでいるのだよ。随分前にね」
──同士、だったのか。
加持は苦笑した。
「了解しました。その旨、シンジくんに伝えてもよろしいでしょうか」
「かまわんよ。それに、今まで影から誰かが協力していたということは彼も分かっているだろう」
「影から協力?」
「なに、碇の気づかぬところで事態が発生しても奴に気づかれないようにするのは私の仕事だということだ。君がここに来たこととかも、まずは私に連絡が来る。それを碇に報告しなければ、君のことは碇には気づかれない」
「なるほど。そうした情報管理をなさっているということですね」
「うむ。彼ほどの聡い子であればもう、自分を援護してくれている存在があることに気づいているだろう。まあ、改めて確認することは問題があるわけではない。君の好きにしたまえ」
「ありがとうございます」
「うむ。シンジ君によろしくな」
冬月が立ち去ると、ふう、と加持は息を吐く。
とにかく今はこの場を立ち去ることに決めた。何はともあれ、自分の身の安全を確保すること。それが最優先だ。
無論、ダミーが壊れたことはすぐにゲンドウに伝わった。冬月から『故障』によりダミープラグが全壊したと伝えられたのだ。
ゲンドウは一瞬顔をしかめたが、すぐに何でもないというような様子に戻る。
その心でいったい何を考えているのか、冬月には知るべくもない。
(ユイ君。君が求めた男が何を考えているのか、私にも教えてもらいたいものだな)
結局、どこまでいっても碇ゲンドウという男と相容れることはない。それは最初の出会いの時から分かっていたことだった。
そのゲンドウの下に、赤木リツコ博士が現れたのはすぐ後のことだった。
「総司令。これをご覧ください」
リツコが提出した百枚以上に渡る用紙は『碇シンジ』サルベージ計画のものであった。
無論、既にゲンドウが『碇シンジは二人いる』という事実を知っているはず。それを前提にリツコは計画書を立てた。
ゲンドウが心の中で何を考えているにせよ、今の自分たちに必要なのは『偽者』の少年なのだ。
「サルベージを行うというのかね。だが、あれは一度失敗しているのではないかね」
「母が行ったものはエヴァからのサルベージ計画です。それに比べれば今回、被験者の体は五体満足です。単に精神をこの世界に取り戻すだけですから、それほど大変な作業になるわけではありません」
「却下する」
だが、総司令碇ゲンドウは最初の一ページを見た直後にそれを投げ出した。その態度に、さすがに何日も寝ずに仕事をしてきたリツコの顔が歪む。
「理由をお聞かせ願えますか」
「それは『シンジ』ではない。必要なのは『偽者』ではない。『本物』の方だ」
「そうでしょうか。これから残り三体の使徒を残し、実戦の経験がない『本物』を使って勝ち目があるとお考えですか」
「そのためのエヴァだ」
「万全を期すべきです。『偽者』以上にエヴァを操ることができる者はおりません。それに、もう初号機はダミープラグを受け付けません。これでいったい、どうやって使徒と戦うおつもりですか」
「弐号機と零号機がある」
「不十分です。それは今までの戦闘からも明らかなはずです」
さすがにそこまで言い切るのはアスカとレイが可哀相な気もしたが、しかし現実は現実である。シンクロ率から実戦成果まで、群を抜いているのは『偽者』のシンジだったのだ。
「碇。今ここで『本物』が戻ってきたのなら、老人たちを欺くことはできんぞ」
冬月が助け舟を出す。
ゲンドウはしばらくそのまま黙り込んでいたが、やがて背もたれに体を投げ出した。
「好きにするがいい」
自棄になったかな、と冬月は思った。案外分かりやすい男なのかもしれない。
霧島マナが少年の病室を訪れたのは、目が覚めてから二週間してからだった。
さすがに自分に会いに来ない少年が気になったのか、一人になった隙を見計らって、看護師から少年の状況を全て聞きだし、回復の見込みがないということを確認していた。
歩行訓練は既に始まっていたがまだ満足に歩けるわけではない。それでも今は自分の体のことなどかまっていられなかった。
少年に会いたい。
その意思が、ふらつく彼女を少年の病室まで向かわせていた。
だが。
さすがに少年の病室に簡単に入ることはできなかった。そこで待っていた番人は葛城ミサトであった。
「霧島さん。駄目じゃないの、こんなところまで来たら」
連れ戻される。そう覚悟したが、彼女は毅然と言い返した。
「大丈夫です。それより、シンジくんに会わせてください」
「駄目よ。あなたの──」
「私の体なんてどうでもいいんです!」
その剣幕にさしものミサトも言葉を続けられなかった。彼女の気迫が伝わってきた。
だが、今にも倒れそうな彼女に無理をさせるわけにもいかない。
何とかして病室に帰さなければならない。
薬を使った方がいいだろうか。
ミサトは判断して医者を呼ぼうとした。
だが。
「入れてあげなさい」
助け舟はその医者から出た。
「リツコ。でも」
「医者としての判断よ。このままシンジくんに会えないままだと、この子にストレスがかかりつづけて、結局回復が遅れるわ」
「でも、今のシンジくんは」
「寝ているだけよ。別に命の危険があるわけじゃないわ。いいわよ、霧島さん、入りなさい」
「ありがとうございます」
礼をしようとしてふらつく。だが、リツコがそれをしっかりと抱えた。
「けど、無理はほどほどにね」
「はい。すみません」
認められたマナは笑顔でその病室に入っていく。
白い病室は広く、ベッドが一つだけぽつんと置いてあった。
少年の体に差し込まれている管は一本だけで、それも単なる栄養剤ということであった。つまり、彼がこういう状況に陥った理由が判明していないというのだ。
そう。傍目には全くどこにも異常は見られない。ただ、目を覚まさないだけなのだ。
「シンジくん」
彼女の目に涙があふれる。
でも、生きている。
自分も、彼も、こうして生きて、まためぐり会えた。
「シンジくん」
彼女は少年の端整な寝顔をじっと見つめる。
そしてそっとその唇に自分のを落とした。
「帰ってきて」
何度も、何度もついばむようにその唇に触れた。
(一番かわいそうなのは誰なのかしらね)
その様子をモニタから見ていたリツコはため息をついた。
そうやって彼女が愛情を捧げている相手は『本物』の碇シンジではない。今までこの第三新東京市にしかいなかった『偽者』の碇シンジだ。
自分の手足を手に入れた『偽者』はきっと満足だっただろう。
そしていい方向へと変わっていくレイも、アスカも、マナも、決してかわいそうなんかではない。
一番かわいそうなのは。
(闇に葬られようとしている『本物』のシンジくんね)
そして自分はその事実を知りながら、サルベージを始めようとしている。
時間はまだしばらくかかるだろう。だが、意識を定着させ、再び『偽者』を蘇らせるにはどれだけ慎重に行っても足りないくらいだ。
幸い、第十四使徒から第十五使徒までは少なくとも一ヶ月以上のインターバルがあるという。あと二週間の間に少年を蘇らせることができれば何も問題はない。
それに平行して第十五、十六使徒を倒すための武器開発も行わなければいけないのだ。はっきりいって、身がもたない。
もたない、が。
(あなたが帰ってくるのなら、それでもかまわないわ)
未来を知る少年。その姿に、リツコもまた魅了されていたのだ。
第十四使徒出現後、三十一日目。
サルベージは手術室で静かに始まる。手術室に入るのは三人の医者と、リツコ、それにマヤの五人。
ミサトや加持、そしてアスカ、レイ、マナたちは別室のモニタールームに入ってその様子をじっとただ見つめる。
手術といっても、切開するというわけではない。プラグを少年の体中につけ、髪の毛よりも細い針を頭部に差し込んでいく。
そこからきわめて微量の電磁パルスを流しつつ、情報を与えていく。特に第三新東京市に来てからのことを重点的にだ。
記録されている少年の言動、それに同居人たちの言葉、彼にとってもっとも大切なものを彼の脳に直接刺激として与えていく。
そして脳内に存在する二つの意識のうち『偽者』の意識を定着させて『本物』を消しさる。
人間の脳は二〇一四年の現代においてもまだ未知の領域だ。そこに負荷をかけるのだから、いったいどのような影響が生じるかということは分からない。
だからMAGIに何度もシミュレートさせ、万全の態勢をもってこれに臨んだ。
リツコには自信があった。
何がというわけではない。だが、準備はすべて万端整えたのだ。それに、碇ユイのときのような失敗をするはずがない。何故なら、彼の体はここにあり、最悪の場合でも死ぬことはないからだ。
パルスを流し始めて一時間が経過した。
まだ少年の脳に反応はない。
充分に情報は流している。この状況は予測できていた。
「モニタールーム、聞こえる?」
リツコはマイクに向かって声をかける。
「すぐに霧島さんをここに連れてきて」
モニタールームにいたメンバーの顔が一斉にマナに集中する。
「私、ですか」
アスカとレイは明らかに不満そうな表情であった。だが、マナは毅然として「分かりました」と答えると手術室に向かう。
何をするのかは分からない。だが、この状況にあって自分を呼び出すことに意味がないはずがない。
少年のためなら何でもできる。
彼を助けるのは誰でもない。
自分だ。
エヴァに乗ることができないのなら、自分は少年を蘇らせることで助けるのだ。
「早かったわね」
無菌室で全身消毒したマナは真剣な表情で頷く。
「別にたいしたことじゃないのよ。ただ、あなたが一番適任だと思っただけ」
「何をすればいいんですか」
「手を握ってあげて」
は? と呆気に取られた表情を見せる。
「シンジくんに充分な情報は与えてある。あとは、肉体的な接触があれば彼も目覚めやすいのよ」
「手を握れば、いいんですか」
「ええ。大事な作業よ。優しく、そっとね」
「はい」
マナは息を呑むと、ベッドに横たわる少年の傍に用意された椅子に腰掛ける。
そして、その左手をそっと両手で包んだ。
「シンジくん」
その手を自分の頬にあてる。
「帰ってきて。私たちのところへ」
瞬間──脳派に変化が見られた。
もちろん悪い意味ではない。マナの行動に明らかに反応したのだ。
「続けて」
言われるまでもなく、いや、マナには既にリツコの言葉は聞こえていない。
ただ、少年の鼓動にあわせ、ゆっくりと呼吸を繰り返している。
優しく、ただ彼のためだけに彼女はいた。
直後、けたたましくアラームが鳴る。
「意識が混線しているわね。霧島さん、もっと強く呼びかけて」
リツコは冷静だった。これも予想された事態だ。マナもそれを信じて、さらに強く呼びかける。
「帰ってきて」
強く念じた。
「帰ってきて──シンジくん」
その波形に、リツコは二人の意識を感じた気がした。
求められている少年と、その存在すら認識されていない少年。
『僕はもう、僕じゃないんだ』
ふと記録で聞いた『本物』の少年の声が頭の中に蘇った。
「先輩!」
意識が固定化されていく。
二つの波形のうち一方は弱まり、もう片方が安定に向かう。
──成功だ。
「ん……」
彼の口から、声がもれる。
そして、ゆっくりと目を覚ました。
「シンジく──」
「ストップ。あなた、この子を少しの間でいいから」
リツコは医者の一人に命令し、マナを遠ざけさせた。
一つここで何よりも先に確認しなければいけないことがあるからだ。
「シンジくん──聞こえる?」
彼の眼球が自分を見て、ゆっくりと口を開いた。
「──経過は良好、赤木博士」
その口調で、リツコはほっと一息ついた。
「良かった。あなたに会いたかったのよ。戻ってきてくれてありがとう『偽者』さん」
少年は頬をかすかに上げた。
「どうやら『俺』の正体に気づいたようで」
「それがあなたの本性ね。良かったわ、ここで『本物』に戻ってこられたら私たちはどうしようもなかった」
「ところで、この体中のプラグと針はいつになったら抜いてくれるんだ?」
「痛みはないでしょう?」
「だったらお前が頭に針を刺してみろ」
リツコは苦笑した。全く彼の言う通りだ。
「すぐよ。その前に確認しておきたかっただけだから。もう少し寝ていてもらえるかしら。すぐにあなたの愛しい女の子たちにも会わせてあげるから。いいわよ」
リツコは振り返って少女を見つめる。そして医者の手から離れた少女が駆け寄った。
「シンジくん!」
「マナ、か」
「ごめんなさい、シンジくん、私、私──」
「お前が無事なら、もういい」
少年の指がぴくりと動く。麻酔がきいているはずだから動くはずがない。それでも動いたのは少年の意思の強さだろうか。
彼女はさっと手を取るとまた頬にあてる。
「ただいま。随分心配をかけた」
「おかえりなさい、シンジくん。レイさんもアスカさんも、みんな帰ってくるの、待ってたんだから」
「二人とも、随分怒ってるだろうな。けど、悪い。話はゆっくり、目が覚めてから……」
そして再び、少年は眠りについた。
だが、今度は必ず目が覚めると分かっている。
誰もが、その事実に安堵していた。
弐拾肆
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