再び目を覚ました少年を、レイは力の限り抱きしめた。
 アスカからは頭を殴られ、マナは泣きながら笑顔を浮かべていた。
 だが、いつまでも回復したことを喜んでいる暇はない。
 赤木リツコは既に少年のことは後回しになっていた。もちろん話したいことは山ほどある。だが、今は次の準備が必要だ。そう、

(第十五使徒。衛星軌道上に現れ、精神攻撃をしてくるもの)

 少年が託してくれた使徒の打開策を現実のものとすることが次の優先任務だった。
 実際、作業には手間がかかった。各国に打診し、全ての態勢はほぼ整っている。
 これが一息ついたら少年とじっくりと話したい。





 それより先に、一人で病室にいた少年を訪れた人物がいた。
 その人物を待っていたのか、少年は笑顔で出迎える。

「待ってましたよ、加持さん」

 無精髭の男は手を顎にあてながら不敵に笑った。












第弐拾肆話



たった一つの願い












「まずは回復おめでとう、と言っておいた方がいいのかな。そして『君』が戻ってきてくれて嬉しいよ『シンジ君』」

「ええ。俺は──もう本性を隠す必要はないですね。『シンジ』の中に眠るもう一人の『人間』です。名前なんてもちろんありません。でも、よくそこまでたどりつきましたね」

 丁寧な言葉を使ってはいるものの、態度は不敵で尊大だ。加持を前にして全く怯まない。前に力で叩きのめされた相手でも少年は自分の方が優位であるかのように笑う。

「カルテをリッちゃんから見せてもらった。ミッシング・ツインが起こった時期があまりに遅い。何かあるとしたらそれしかない」

「そういうことです。俺はあの日──『シンジ』に『喰われた』日から、ずっとシンジの頭の片隅に存在していた。でも、意識しかないかわりにこの体のことはよく分かるようになりましたよ。特に記憶の仕方というのがよく分かる。一度聞いたことは忘れずにすむから便利です」

「うらやましいな。俺にもその能力をわけてほしい」

「自分の存在が消されても、ですか?」

 加持は肩をすくめる。もちろんそんなのは真っ平ごめんだ。

「俺はね、加持さん。もう二度とこの体を『シンジ』に渡すつもりはないんですよ。永久にこの体は俺のものだ。生きるためならどこまでも執着するつもりです」

「生きるってのは戦うってことだ。君が戦うべき相手はいくらでもいる。本物のシンジくんもその一人だったというだけのことだろう」

 もちろん加持は『本物』より『偽者』の方が大歓迎だ。この少年の謎は確かに一部が解けたものの、まだ多くの謎が残っている。

「聞いていいかな」

「ここは盗聴されてますよ」

「今さら気にすることでもないだろう。君が未来を知っているのは、じゃあどうしてなんだ」

「そのうち分かりますよ。生きていれば」

 少年は教えるつもりがないらしい。というより、やはりモニタされている病室ではまずいと判断しているのだろう。

「全てはある人物が企てたことです。俺はこの体を完全に使いこなすためにも、その男に会わなければならない」

「ある人物?」

「ええ。第三新東京市に入る直前、あのリニアの中で俺に接触してきた男です」

 第三使徒襲来の日。
 だが、あのリニアには運転手と彼以外、誰も乗っていなかったはず。

「あのリニアで、俺はこの体を手に入れた。だが完全じゃない。何度かこの体を逆に奪われそうになったことすらある。今まではそれを力でねじふせてきましたけど、シンジが本気を出せば勝率は半々、いや俺の方が分が悪いかもしれない。俺には味方がいるかわりに敵もいますから」

「敵?」

「ええ。レイやアスカ、マナたちは絶対に俺の味方でしょう。『シンジ』の味方になるはずがない。アスカから見れば『シンジ』は軽蔑の対象にすらなりうる。だが、その中で唯一『シンジ』の味方になる奴がいる」

「君を消して『シンジくん』を望む人物?」

「碇ゲンドウ。あの男ですよ」

 すらっと出てきた名前だが、決して意外ではなかった。確かにゲンドウは『偽者』が復活するのを好んでいなかった。

「あの地下室で何を話していたんだ?」

「ゲンドウとですか? 残念ですがそれはノーコメントで。でも、別にゲンドウが俺に何かしたってわけじゃないですよ。多分ゲンドウのことですから、何も言わずに黙っているんでしょう。あの場面では加害者はゲンドウじゃありません。むしろ俺です。ヒントはそれくらいで」

 ますます訳が分からない。少年が何を言いたいのかが見えない。

「さて」

『本題に入りましょう。加持さん』

 そうして、ゆっくりと少年の口が動いた。ここから先は聞かれてはいけない内容だということだ。

『いいだろう。何だ?』

『結局、どちらを選ばれるんですか。ゼーレですか、ネルフですか』

 その話か、と加持は苦笑する。既にもう決めていることだった。今さら何をはばかることもない。

『俺が選ぶのはシンジくんだよ』

『俺?』

『ああ。ゼーレでもネルフでもない。君についていけば未来が見えるような気がする。だから君についていくよ。それから、レイちゃんのダミーは全て破壊した』

 少年は目を丸くする。一度首を捻って答えた。

『よく無事でいられますね』

『意外な人物がバックについてくれてね。助かったよ』

『意外な?』

『冬月副司令さ』

 少年は一度顔を大きくしかめたが、やがて、なるほど、と一人納得した。

『冬月さんが俺を影から協力してくれてたんですね』

『ああ、副司令もシンジくんに協力したいと言っていたよ。碇司令のやり方ではユイさんに会えないと言っていたよ』

 それを聞いてまた少年は苦笑する。

『どうして都合よく事が運ぶのかと思ったことがあったけど、なるほど、冬月さんか』

 どうやら少年は背後で冬月がバックアップしていたことは気づいていなかったらしい。もちろん、冬月が協力していたことについて、多少なりとも不思議に思ったことはあるようだったが。

『というわけで、俺も冬月副司令もシンジくんの味方だ。遠慮なく指示してくれ』

『今は別にやることなんてないですよ。ただ、俺が目覚めたからには、きっと加持さんには別の任務がゼーレから課されるでしょう』

『別の?』

『ええ。以前にもお話したとおりです。冬月さんの誘拐。そろそろ連絡が入るころですよ』

『そうか。うまくやりすごさなければならないな』

『うまくできるんですか?』

『さあな。そればかりは何とも言えないが。ああ、そうだ。ゼーレといえば、一つ耳寄り情報だ』

 少年の眉間にしわが寄る。

『ゼーレの本拠地の場所が分かった』

 まばたきが二度。そして一つ頷いた。

『よく分かりましたね』

『やはり冬月副司令のヒントさ。危険を避けるために、危険の中に身を置く。この言葉で君には分かるのかな』

『危険──ああ、なるほど。それは手の出しようがない』

 少年は頭をかく。

『俺の知っている限りなら、確か総数は三千弱くらいだったと思いますが』

『よく知っているな』

『いろいろと勉強してますから。やはり、軍事方面ですか』

『おそらくはな。だとすればアメリカかロシアの線が大きい』

『やれやれ。どうやって倒せばいいのやら。だいたい、その一つを見つけるのがどれだけ大変か、加持さんなら分かりますよね』

『その線から敵を洗ってみるよ。時間をかければ多分見つかるんだろうが、問題はその時間がもらえるかどうかだな』

『ええ。加持さんがゼーレを裏切るというのなら、きっとゼーレは加持さんを許さないでしょう。何しろゼーレに一番近い人物ですから』

 そこで二人の唇が止まる。
 しばらく、加持は少年を見つめていた。

『シンジ君に頼みがある』

『なんなりと』

『俺が死んだら、俺のスイカ畑の世話を頼みたい』

『分かりました。場所は葛城さんに伝えておきますよ』

 そう言い返されて、加持は苦笑する。

『本当に君は、何でも分かっているんだな』





 その後で、白衣の科学者が少年を訪れていた。
 既に少年は退院の準備に入っていて、今日にも家に帰るつもりであった。
 だが、退院する前にじっくりと話しておきたいことが色々とあった。
 赤木リツコ。
 彼女もまた、既に碇シンジという少年に魅入られていた。

「お帰りなさい、シンジくん」

「ええ。面倒をかけましたね、博士」

 以前よりも態度が偉そうになった、と思う。こういうところは父親譲りということだろうか。

「体の調子は?」

「悪くないですよ。一ヶ月以上寝ていたはずなのに、それほど筋肉が衰えているということもありません。どういう技を使ったんですか」

「定期的に電気信号を与えて退化を防いだだけよ。せっかくあれだけ特訓してたのに、全部なくなるのは嫌でしょう?」

「どうだってかまいませんよ。俺が生き残ることができれば」

 生きることが最優先。
 少年の言葉は常に、ここで生きることを望んでいたということをリツコは思い出した。
 だが。
 そんな少年に、一つの残酷な事実を伝えなければいけなかった。

「シンジくん。一つ、あなたに伝えなければいけないことがあるの」

「体のことならもう知っています。博士が何も言わなくても、自分の体のことはだいたい自分で分かっています。前に倒れた時に気づいていました」

「そう、じゃあ、詳しく話しても問題ないわね」

 どうやって話せばいいのか全く分からなかったが、相手が分かっているのなら話は早い。少し気を楽にして事実を語った。

「このままいけば、あなたは五十歳になる前に死ぬわ」

 その事実をつきつけても、少年の表情は変わらなかった。いや、少ししてから苦笑した。

「それだけ生きられれば充分ですよ。この体を明け渡すよりはずっといい」

「理由を聞かないの?」

「だいたい分かります。老化、といっていいのかな。人より細胞分裂の回数が多いとか、細胞の減少数が多いとか、そういうところでしょう?」

「生物学にも詳しいのね。だいたいその通りよ。少し詳しく説明した方がいいかしら?」

 細胞の中には遺伝子=DNAと呼ばれる部分があるが、DNAの中心部に遺伝情報が書き込まれているのに対し、その両端は『テロメア』と呼ばれる部分で、細胞分裂をするたびに少しずつ切り取られていく部分である。
 このテロメア部分が切り取られていけば当然、徐々に遺伝情報に近づいていく。ある程度まで切り取られると、人間の遺伝情報を切り取られないようにするため、細胞は自然に分裂を止めるようになる。その回数がヒトであればどの臓器でもだいたい五十回といったところだ。
 もちろん分裂をしない脳細胞のような細胞もあれば、無限に分裂する生殖細胞などもある。
 問題は、この普通の細胞に存在するテロメアの切り取られ方が少年は尋常ではなく早いのだ。

「俺は他人より老化が早いってことか」

「そう。細胞分裂のスピードが倍以上に早いわ。おそらく、あなたの中に二人の人格が存在することが原因。成長も老化も、全てが二倍に早いのよ。だからあなたは他人と同じ訓練をするだけで二倍の成果を得ることができる」

「便利な能力ですね。早死にするっていうオプションがなければ」

「あなたはどうして、そのことに気づいたの?」

 尋ねると少年は笑った。

「割と最初から」

「最初?」

「正確に気づいたのはこの間倒れた時ですけど、俺がこの体を動かすことができるようになってから成長が早まったのは分かっていました」

「分かっていた、って」

「俺はずっと『シンジ』の中にいました。俺はこの体の中にある全ての細胞の動きを感じることができます。脳細胞の使い方も。一度覚えたことをどうすれば忘れないか、どうすれば筋肉を鍛えることができるか、全部分かっています」

 さすがに、その言葉の意味が分からないリツコではない。正直に驚いた。
 ならば、この少年は自分の体がどのような構造になっているのか、全て理解し、把握しているということなのだ。

「この間倒れた時、自分の体の中をじっくりと観察しましたけど、成長期として説明するには明らかに異常でした。貧血で倒れたのは細胞分裂のためのエネルギーが足りなくなったせいでしょう」

「きちんと自分のことが分かっているって言いたいのね」

 少年は首をかしげた。そして苦笑する。

「死にたくはない。でも、この体を明け渡すよりはずっとマシです」

「そんなにあなたは『シンジくん』が嫌い?」

「世界で一番憎い。俺の邪魔をするというのなら、どんなことをしても『シンジ』を消す」

 なるほど、と頷いてリツコは少しだけ安心した。
 どのような理由であろうと、未来に対して絶望していない、希望を持っているというのは、悪い方向にははたらかない。ならば、今はこのままでいいのだろう。
 もうすぐ使徒戦も終わる。彼の体のことはそれから考えても決して遅くはないのだ。

「じゃあ本題に入るわね。あなたの求めていた次の使徒の攻撃準備、整ってるわよ」

 少年は顔を輝かせた。

「もちろん、囮は初号機にしているんでしょうね」

「総司令を説得するのが大変だったけれど、強引に押し通したわ」

「よくあの父親が許可しましたね。大切な大切な初号機を生贄にするのを許可するとは、到底信じられません」

 第十五使徒、アラエル。
 衛星軌道上に現れ、超長距離から精神派による攻撃を行う使徒。
 もっとも倒すのが苦しい難敵だ。何しろ距離が距離だ。どのようなエネルギー攻撃も届かない。届いてもA.T.フィールドで弾かれてしまう。

「凍結していたものは全部解除してもらったわ」

「随分と苦労しましたね、それは」

「あなたの望み通りにね。それにしても危険なことをするわね。もし加持くんにあの手紙が渡らなかったらどうするつもりだったの?」

「考えるまでもありません。ゲンドウがアレを手にして無視しておくことなどできないでしょう。何しろ使徒を倒すための貴重な手がかりですから」

 なるほど、とリツコは頷く。
 だとすれば少年は別に加持あてに手紙を書かなくてもよかったということか。

「回りくどい方法を使ったのは何故?」

「できればゲンドウには知られたくなかったということ。それで充分でしょう」

 言葉の裏に、何か別の意図が隠れているような気がしたが、どうやらそれは答えてもらえないことらしい。
 その追及は早々に諦めると、最後の質問を行うことにした。

「最後に、シンジくん」

「はい」

「一つだけ教えてほしいことがあるのよ。あの地下室で、あなたは一体何をしたの?」

 その質問を聞いた少年はかすかに顔をほころばせた。

「気になりますか」

「もちろんよ」

「それは、碇ゲンドウよりも俺の方が気になっている、ととらえていいんですか」

 リツコは言葉に詰まる。少年が何を言いたいのか、瞬時にして悟ったのだ。

「あなたは」

「別に何もしてはいませんよ。ただ、あの牢屋から出る最善の方法を取っただけです。それじゃ、俺はそろそろ退院させてもらいます」

 起き上がった少年はこの一ヶ月の間、眠っているだけだったにも関わらずまた成長しているようだった。随分と背が伸びている。確かに成長期というだけでは説明がつかない。

「鉄分とカルシウムはしっかり取ること。錠剤を出しておきますから、きちんと摂取しなさい」

「変な薬を入れるのはやめてくださいね」

「どういう意味?」

「赤木博士なら何をするか分からないっていう意味ですよ。それじゃあ」

 そうして、少年は病室を出ていった。
 それから、リツコはポケットからタバコを取り出して一本吸い始める。
 ふう、と煙を吐き出してから苦笑した。

「本当、何でもお見通しね」





 少年は、帰ってくるなり抱きしめて離さないレイをなだめるのに必死だった。
 もちろんそれを見ていたアスカとマナは不機嫌そうだったし、少年としてもいつまでも離してもらえないのは辛いところがある。

「少し、みんなで話がしたいんだ」

 少年からそういう提案を受けて、ようやく全員が一息ついたのは夕食を取った後のことだった。
 気づけばすっかり料理当番となっていたのはマナで、少年も今日は退院直後ということでゆっくり休ませてもらっていた。
 暖かい茶を飲みながら、少年はテーブル上の一点をじっと見つめていた。

「おまたせ」

 マナが少年の前の椅子に座る。さすがに少年の緊張した様子が伝わったのか、レイはともかく、アスカまでが何も言わずに少年の言葉を待っていた。

「何から話せばいいのかな。一応確認しておきたいんだけど、もう俺のことは聞いてるのかな」

 俺、という一人称を初めて聞いた三人の少女たちは一様に首を振った。

「そうか。じゃあ、そこから話さないといけないかな。俺は今、ある男と戦っている最中なんだ」

 話が飛躍しすぎて、三人は突然ついていけなくなる。

「俺はそいつと戦っていたんだが、このままだとたとえ勝っても犠牲が大きい。だから、三人にも俺に協力してほしいんだ」

「はっきりと言いなさいよ。回りくどいわよ」

 アスカの言葉に少年が頷く。

「今まで、みんなと一緒に暮らしてきた俺は、碇シンジじゃない」

「シンジくんじゃ、ない……?」

 三人は言っている意味が理解できなかった。それは当然といえば当然だろう。

「俺の中には二つの人格がある。この第三新東京市に来る前の碇シンジのものと、そして今の俺だ。俺は碇シンジのフリをして、ずっとみんなと一緒にいた。この第三新東京市に来た日から」

「どういうことよ」

「言葉の通りだよ。みんなと一緒に過ごしてきた俺は、あくまでも碇シンジ──本体とは違う全くの別人だっていうこと。みんなが碇シンジ本人に会ったのは多分二回、綾波を突き飛ばした時と、アスカに『いつものアンタらしくない』って言われた時。それだけだよ。あの時は俺じゃなくて碇シンジがこの世界に現れていた。『アンタらしくない』っていうのは当たり前だったんだよ。何しろ、俺じゃない別人だったんだから」

 つまり、少年の言葉をそのまま理解するならば。

「二重人格、ってこと?」

「とは少し違う。碇シンジっていうベースとなる人間がいて、俺はそこに寄生してる意識体、っていうところかな。人間として生まれてくるはずだったのに、それがうまくいかなくて、意識だけがこの体の一部にすみついて寄生した存在。言ってしまえば、俺は人間なんかじゃない」

 だが、そんなことを突然言われても、三人は理解することからして難解だった。

「詳細は省くけど、この第三新東京市に来る前にちょっとした事件があって、そこで俺はこの体の支配権を手に入れた。ときどき奪い返されたりもするけど、何とかここまで俺は自分の意識を保つことができた。俺はこのまま、この体のままで生きたいと思っている。たとえ、本物の碇シンジを消すことになったとしてもだ」

 本物の碇シンジ。
 そう。その言葉でようやく三人にも少年が何を言いたいのかが分かった。
 これは、目の前にいる男と、そして本物の碇シンジとが、一つの体をかけて戦う生存競争なのだ。

「俺としては、三人に協力というか、俺を手助けしてほしいと思っている。もちろん、寄生している俺が、人間でもない俺が、そんなことを言う資格がないことはよく分かっている。だが、俺は、生きたい。この自分の思い通りに動く体を手放したくない。何を失ったとしても、この体だけは誰にも譲れない!」

 初めて、と言っていいのか。
 戦いの時を除けばいつも冷静沈着なこの少年が、珍しく自分のことで声を荒げていた。
 それだけ、彼が本気だということだ。
 生きたい。
 生きのびたい。
 その意思が、三人に切実に伝わる。

「それで、アンタはアタシたちにどうしてほしいわけ?」

 だから、動揺を隠すようにしてアスカは尋ねた。
 決してこの少年のことで自分は動揺したりしない。そういう決死の覚悟があった。
 もっとも、それすらこの少年は見透かしているのかもしれないが。

「俺はこの世界で、綾波やアスカ、マナたちと幸せに暮らしたいと思っている。でも、俺みたいに人間とはいえないような奴が一緒にいるのが目障りならそう言ってほしい」

「アンタ、バカ?」

 アスカが決め台詞で対応した。

「それはひどい言われようなんだけど」

「やっとアンタを攻略するキーワードが見つかったわ。やられっぱなしじゃ悔しいもの。ずっと探してたのよ」

「攻略?」

「そうよ。アンタはアタシに言ったわよね。アタシがいらない子なんかじゃないって。アタシがほしかったのはその言葉。『いらない子』だったっていう過去を打ち消してほしかった。でも、アンタは違うわ」

 少年が首をかしげた。その少年にとどめの言葉を指す。

「アンタは『ここにいてもいい』のよ。あらゆる命に生きることを許されないものなんてないんだから」

 少年が目を丸くする。
 そして、じっとアスカを見つめた。
 レイがその様子をじっと見つめ、マナは二人をかわるがわる見比べる。
 やがて、少年は立ち上がった。
 そして、アスカの席の前に立つ。

「な、なによ」

 少年は、おもむろに椅子に座ったアスカを抱きしめていた。

「ちょっ、コラッ! バカシンジ! はな──」

 離せ、と叫ぼうとした声が止まった。
 少年が、泣いているのが分かったから。
 誰にも弱さを見せたことのない少年が、自分の胸で泣いている。
 そう思った瞬間、彼女の心に母親のような優しさが生まれた。
 そっと、我が子をいとおしむように包み、その手で彼の頭をなでる。

「今までずっと一人で、大変だったわね。でも、これからはアタシたちが一緒なんだから、好きなだけ頼りなさい」

 少年が求めていたものは、許し。
 この世界に存在することの、許し。
 彼の全てを受け止めてくれる、存在。

 マナにそれを求めることはできなかった。何故なら、彼女は少年が最優先で保護すべき対象だからだ。
 レイにそれを求めることはできなかった。何故なら、彼女とは同じ人間ではないものとして傷を舐めあうだけになるからだ。

 彼を許すのは、アスカ以外にはいなかったのだ。

 そして。

(まずいなあ……)

 その彼を優しく撫でながら、アスカは思っていた。

(こんなに魅力的だと、好きになるじゃない)

 とっくの前からそうじゃないか、と心の中で自分を咎める声は、この際無視した。





 少年は一段落つくと、一目散に洗面所へと向かった。顔を洗い、服を着替えてから三人の前に戻ってきた。

「取り乱してすまない」

 さっきのことがまるでなかったかのように、いつもの少年だった。

「それからアスカ」

「なによ」

「ありがとう」

 そうしてにっこりと笑う少年に、アスカは赤面してしまう。

「いいわよ。アタシだって助けてもらってるんだから持ち合ってるでしょ」

「持ちつ持たれつ。アスカはたまに日本語間違うね」

「うっさいわね! 慣れてないんだからしょうがないでしょ!?」

 すっかり少年のペースに戻ってしまい、アスカはそっぽを向く。

「碇くん」

 そうして、ようやく彼女にも発言する機会が与えられた。

「私に絆をくれたのは、碇くん」

「ああ」

「他の誰でもない。あなただから」

「ああ。ありがとう、綾波」

 少年は隣に座っているレイをぎゅっと抱きしめる。そのままレイが心地よさに寝入りそうになるところをマナが後ろから牽制した。

「私も。シンジくんは私を助けてくれた。私は他の誰のものでもない、シンジくんのものだから」

「過激な発言だね、マナ。でもありがとう」

 少年は本当に嬉しそうに答えるが、レイもマナも、先ほどのアスカほどのインパクトを少年に与えたわけではなかった。
 少年が前後不覚に陥って誰かにすがりつくなど、きっとこの先一生見ることはないだろう。
 それだけのことを、アスカだけができたのだ。
 マナは正直、勝てないな、と思った。
 レイはそれでも、自分は少年の傍にいると思った。
 だが、当の本人はどうだったのだろうか。

「三人の気持ちはありがたく受け取るよ。じゃあ、もう一つだけ聞くけど」

 少年が言うと三人は気をひきしめる。

「俺が『碇シンジ』を殺すことに、賛成してくれるかい?」

 ──そう、結論はそうなる。
 このまま少年がこの体で生きていくということは『碇シンジ』という本来の人格は永久に封印されるということなのだ。
 それは容易に賛成できるようなことではない。だが、選べというのなら答はおのずと決まっている。

「もう一人のシンジって、ファーストを突き飛ばして泣き言いった奴でしょ? あんな奴いらないわよ」

 平然と答えたのはアスカだ。さすがにその言い様はどうかと、少年は苦笑する。

「そう。突き飛ばされたのね、私」

「忘れてるんじゃないわよ。その後抱きしめてもらったからって」

「あれは碇くんじゃなかった」

 そしてレイはにこりと笑う。その事実が彼女にとって最優先されたのだろう。

「私はシンジくんがそのつもりなら、私も覚悟を決めます」

 もともと自衛隊の一員として働いていた彼女だ。人の生死ということについてはシビアだ。

「ありがとう。とはいえ、問題はどうやって『あいつ』を消すかなんだけど、まだ決まってないんだよね。なにしろ方法がないし」

「じゃあ、また『あいつ』が出てくる可能性もあるってこと?」

「どっちが勝つかは五分、いや」

 少年は顔をしかめた。

「俺の方が、多分、分が悪い」

 三人は驚いて少年を見る。だが、少年は決して謙遜などをしている様子ではなかった。

「あいつは強い。俺なんかより、ずっと。だが、負けられない。俺が生き残るためには」

 三人とも、彼の手が強く握りしめられていたことに気がついていた。

「ま、アタシはアンタが負けるとは思ってないわ」

 自信満々でアスカが言った。

「だって、アタシたちが応援してんのよ? アタシたち三人とも袖にしていなくなるなんて、絶対に許さないからね」

 アスカの言葉に、レイもマナも大きく頷く。少年はその光景に思わず苦笑する。

「あ、それからもう一つ。ちょっと大事なことなんだけど」

 アスカが気がついたかのように言う。

「シンジって名前は、もう一人の奴のことよね。じゃ、アンタは何て呼べばいいの?」

 そう言われて、また少年は苦笑した。

「いや、シンジのままでいいよ。俺が偽者だって、どうせ戸籍上は碇シンジでいなきゃいけないわけだし」

「でも、面倒よね。シンジが二人いるっていうんじゃ」

「だったら、本物さんに名前をつけてあげればいいじゃないんですか」

 マナの言葉に、少年は必死に笑いをこらえる。

「立場が逆転したね。こうなるとあいつも可哀相というかなんというか」

「ま、転校生の言う通りね。アンタがシンジ、それじゃあ『別の』ってのを英語にして『アナザー』とかって呼ぶ?」

「問題ないわ」

「私も問題ありません」

 どうやら、満場一致で『本物』には『アナザー』と呼ぶことで決まったらしい。

「少しだけ、同情するなあ」

 少年は苦笑しながら言った。





 数日後。
 衛星軌道上に現れた第十五使徒が現れた時、既にネルフの迎撃準備は万端整っていた。
 宇宙にいる敵を倒すことは地上からでは事実上不可能。
 だからこそ、この敵は事前の準備が必要だった。

 軍事衛星凍結の解除。

 もちろん、A.T.フィールドがある限り、通常兵器による攻撃は通用しない。
 だから、敵にA.T.フィールドを展開させないままに、軍事衛星から攻撃をして使徒のコアを破壊する。
 もちろん軍事衛星はこの使徒戦が終わった時に再凍結する。

『エヴァンゲリオン初号機、起動』

 そして、エヴァは囮。
 A.T.フィールドを張らせないための、生贄だ。

「使徒の精神攻撃、来ます!」

 その戦いに、少年は志願した。
 必ず初号機で、という条件をつけていた。
 零号機、弐号機では勝率〇%、とMAGIと全く同じ回答をしていた。
 ならば、初号機の勝率は。

 MAGI──解答不能。

『ウああああアあああああアああああアああああああああああアああっ!』

 少年の叫びが、発令所に届く。

「シンジ!」

『だ、まれ……!』

 その、初号機からの声。

『俺は……お前には……負け、ないっ……!』

「シンジ! 聞こえる!? シンジ!!」

 マイクに向かって、アスカは叫んだ。
 彼に届くように。
 力の限り。

「アンタが好き! だから、アナザーに負けないで!!!」

 それが届いたのかどうか。
 だが、乱れていたシンクロ率、ハーモニクスはその瞬間、ぴたりと安定した。

 直後。

『オ・ルヴォワール』

 初号機から落ち着いた彼の声と共に、軍事衛星からの集中砲火が、使徒のコアを貫いていた。






弐拾伍

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