(ま、多分シンジくんはそこまで考えていたわけではないんだろうな)

 加持リョウジはスイカ畑にいた。
 準備は整った。ゼーレの本拠地も全てが分かった。
 だが、問題はそれを少年の元まで伝えに行けるかどうかだ。

(なんとか、ここまで逃げてくることはできたが)

 腹部からの出血の量を考えると、まだ助かる見込みはある。
 だが、ゼーレの手練れが詰めてくるのならば、時間の問題だろう。
 加持は携帯を取り出すと、登録番号の一番をコールした。

 留守録に切り替わった後で、彼は告げた。

「葛城か。俺だ。この電話を聞く頃は、もう君に多大な迷惑をかけた後だと思う」












第弐拾伍話



あなたのために












 このところすっかり忘れられた感のある葛城ミサト作戦部長だが、別に彼女に全く仕事がなかったわけではない。
 海外で用兵や戦術を学んだ彼女にとって、ここ最近の戦闘ははなはだ不本意ではあるが、一応は彼女の手柄だった。必要と推定される軍事衛星を割り出し、それを各国に折衝して使用の許可を求める。その意味で第十五使徒戦でとどめを差したのはまさに彼女の力によるものだった。
 その彼女が任務と平行して行っていた作業。
 それは、加持から託された資料の解析であった。

(それにしても、あいつはいつこんなの作ってんだか)

 加持が考えていることをまとめたデータフォルダ、それが託されたものの正体だ。しかも一度解凍パスを入れたのちは、どういう仕組みになっているのか分からないが、データが随時更新されていく。つまり、リアルタイムで加持と情報を共有(一方的にだが)を行っているようなものだ。
 このデータはインターネットなどにつなぐ必要は全くなく、おそらくは無線などで随時更新を確認できる代物になっている。
 とはいえ、自分から情報を流出させるわけにはいかない。このデータを見るとき、ミサトは常に携帯用のノートPCを立ち上げて見るようにしていた。
 ここにきて、ついに加持からの情報に【セカンドインパクト】に関するものが追加された。面白いことに、彼にとってはもはやそんなことは瑣末事にすぎないらしい。彼の興味はただ一つ、碇シンジという少年にのみ向けられていた。
 それはミサトも大きく異なるわけではないが、やはり長年追い続けてきた陰謀の正体を見せられた時には愕然とした。自分の上司が犯罪の片棒を担いでいたようなものだ。ネルフという組織そのものに欺瞞を抱いてもやむをえないことだ。
 だが、それらを全てふまえた上で加持は言う。

 ──ゼーレの人類補完計画を阻止せよ。

 直接は書かれていない。だが、文章の端々にそれがうかがえる。
 人類補完計画の正体は、今の人間の形を崩すことに等しい。確かに全ての生命が争いもなく、平和に永遠に生きられるのはいいことなのかもしれない。だが、加持はそのような未来は御免だという。

(私も同じよ)

 そんな未来は認めない。そして、その未来に真っ向から立ち向かっているのが碇シンジという少年だというのだ。
 先の少年の正体、すなわちミッシング・ツインであることをふまえて、加持が過去のことを再検証したデータがフォルダの中に新たに登録されていた。

『最初のうち、俺はシンジ君が未来から逆行してきたのだと思った。タイムトラベル、それが最も納得のいく説明に思えたからだ。だが、シンジ君の言動を注意深く観察すると、逆行がありえないということが判明した。何故なら、シンジ君の語る未来には、体験したものならば必ず分かっていなければならない、【あるもの】が抜けているからだ』

 そう、それはミサトも気になったことがあった。
 もし完全な未来を体験していたのならば、もっと正確な情報が彼の頭の中にはあるはずなのだ。

 例えば──日付。

『彼の知る未来には日付が存在していない。もし、彼が一度未来を体験していたのならば、ある程度日付は頭の中に残っているはずだ。それが正確か不正確かはともかく、未来に起こりうる出来事について、彼は正確な時間を知らない。時期はあいまいで、出来事だけが正確だ』

 ミサトにも思い当たる節はある。たとえばアスカの来日がいつになるのかとか、リツコに後から聞いた話だがネルフ内部で工事があるのはいつかとか、とにかく日程を尋ねてくることは多かったように思う。
 それは彼自身が正確な日程を知らず、ただ出来事の羅列だけを知っているからだとすれば辻褄があう。もし未来を体験してから戻ってきたのならば、正確な日程は分からずとも、もう少し特定したものの言い方ができるだろうし、あえて尋ねることもなかっただろう。おそらく、少年は日程を尋ねながら自分のスケジュールを調整していたのだ。

『そこから考えると、シンジ君が未来を知っているということは一つの可能性に結びつく。それは、この一連の使徒戦が人為的に行われているもので、その内容をシンジ君自身が何らかの理由で知ってしまったためだ』

 確かに、その考えが一番納得できる。ただ、それにしてはあまりによく物事が見えすぎているのではないだろうか。彼は偶発的なものすら予感して指示を出している。
 たとえば浅間山での使徒。少年は予めリツコに『プログナイフの固定箇所の強化』を依頼している。結論としてプログナイフを失うことはなかったが、その可能性は充分にあったということではないか。

『未来の知識がどの程度あるのかは分からないが、その知識を与えた者には心当たりがある』

 ミサトの顔色が変わる。そして、次の行へ目が移った。

『ゼーレだ。おそらく、それしか考えられない。シンジ君は意識的にか無意識にかは分からないが、ゼーレの人類補完計画を知っていた、おそらくはそこで今後発生する使徒のタイムスケジュールを同時に知ったのだと思う』

 ゼーレ。人類補完計画を企てるネルフの上位組織。以前のデータからネルフも『委員会』も全てはゼーレの下部組織にすぎなかったということが分かっている。
 人類が一つになるという夢のような話。だが、その先に待つのは個人が思考することのない単なる全体化。
 少年はそれを知ったために、止めようとしているのか。

『俺が調べた限りではゼーレとシンジ君との間に接点はなかった。それにシンジ君も言っていた。相手はリニアの中で接触してきた、と。だとしたらそれはもう俺の手の届く範囲じゃない。だが、いずれにしても誰かがシンジ君に情報を提供した。それが全てだ』

 誰が、という問題は残る。だが加持はそれをゼーレだと決めている。
 ならば、自分もそれに従おう。それがもっとも間違いのないことだと思えるから。

『それから、シンジ君だが、ミッシングツインのことを知る前までは、彼がいったい何をしようとしているのかが見えなかったが、ここにきてようやく彼の全ての目的が見えた。いや、今までは気づこうとしなかっただけかな』

 少年の目的。
 それは甘美な誘惑だった。確かに、それは今もっとも知りたい情報。

『それは──』

 読み進めようとしたところで、緊急警報がなった。
 第十六使徒。
 これも加持がここに残した通りだ。決して使徒がいつ出るのかは特定できない。ただ『この時期だ』ということしか。
 ミサトはノートPCをたたむと、ディスクだけを制服のポケットにしまい、発令所へと向かった。
 頭の中で、加持の言葉を思い返しながら。

『──生き延びること、だ』





 第十六使徒、アルミサエル。
 この使徒の最大の問題点は、コアの位置が不明だということだ。いや、コアがあるのかどうかすら分からない。
 ラミエルやアラエルのように、今までにもコアの位置が不明な使徒はいた。だが、高いエネルギーで貫いてしまえばそれは問題にならない。
 だが、アルミサエルは弱点であるコアが完全に不明だ。これでは戦法の立てようもない。
 しかも少年の情報によれば、使徒と接触してA.T.フィールドを中和しようとすれば、それだけで敵から逆にエヴァをのっとられる、寄生されてしまう。
 こんな相手を前に、まっとうな戦法の思いつくはずもない。
 だが、それを少年ならば可能にする。それが未来を知る少年に課せられた使命なのだ。

「準備はできていますか、赤木博士」

 プラグスーツに着替えた少年が尋ねる。既にアスカ、レイもそろっており、いつものごとくマナも発令所に詰めてきている。

「ええ。問題となるのは使徒の寄生行動だけ。それなら戦法は単純。遠距離から決して近づかないこと」

「はい。ですが、それだけではうまくいきません。使徒は速いですから。俺がポイントまで呼び込みます。罠を仕掛けますから、後は博士にお任せします」

「シンジ」

 アスカが尋ねてくる。

「大丈夫なんでしょうね」

「最悪の場合は初号機がのっとられるだけだよ。それなら問題はないんだ」

「のっとられたら終わりじゃない!」

「そうすれば敵を取り込んで自爆するだけだよ。それは大した問題じゃないし、そんなヘマはしないから大丈夫」

 そう。少年は大丈夫なことなら大丈夫とはっきり言う。まずいときは少年は隠しておくびにも出さない。それが徹底しているのだ。
 だが、今回の作戦は事前にきちんと説明がされている。作戦が明らかならば追及することは何もない。その通りに進行するだけだ。

「いよいよだな」

 少年は目を細めた。

「ええ、そうね」

 アスカも答える。それは使徒戦に対する心構えが言わせた台詞だと少女は理解した。
 だが、それは大きな誤解だということは誰も気づかない。
 そう。この次が最後の使徒だということを、まだ誰も知らない。





 エヴァ三体がフォーメーションを組む。先頭に初号機、そして零号機と弐号機がバックアップにつく。
 A.T.フィールドを遠方から中和しようとするも、使徒のA.T.フィールドは強力で揺らぎもしない。
 光の環が解かれ、その先がゆっくりと初号機を目指して進んできた。
 すぐに速度が切り替わる。ローから、ハイトップへと。一直線に初号機目指して貫こうとする光の鞭は、初号機のA.T.フィールドによって防がれた。
 だが、そのA.T.フィールドに亀裂が走る。あまりの勢いに、少年の力では耐えられなくなっているのだ。
 遠距離から零号機と弐号機が銃を発射するも、A.T.フィールドで覆われた使徒には通用しない。
 ならば接近戦を、と考えたが少年が「やめろっ!」と鋭く先に制する。アスカやレイが考えていることは全部お見通しだった。

「でもシンジ、アタシたちじゃ」

『とにかく銃で牽制だけしていればいい! うかつに近寄るな! 俺はお前らを失いたくない!』

 その言葉が、アスカのプライドに触る。
 守られている。そんな屈辱。
 自分は守られてばかりじゃない。
 戦える。
 自分は惣流・アスカ・ラングレー。
 誰よりも強く、誰よりも輝いていなければならない。
 ──それなのに。

(守ってもらっていることが嬉しいと感じる自分がいる)

 何よりも悔しいのは、そのこと。
 守られていることではなく。
 守られていることに満足する自分が。

 何より、腹立たしい。

「うあああああああああああああああああっ!」

『アスカッ!』

 弐号機が最速で使徒に迫る。
 だが、使徒はその弐号機の動きを上回る速度で弐号機の左足に接触。そこから浸食を開始した。

「いやああああああああああああああっ!」

『くっ!』

 少年の呻きが聞こえる。零号機もバックアップに銃を乱射するが、みるみるうちに使徒は弐号機に入り込んでいく。

『やむをえないかっ!』

 初号機は左腕を伸ばした。
 右手にはプログナイフ。
 その体制のまま、使徒を呼び込む。

「ハーモニクス上昇! シンクロ率、二百%!」

 マヤの声がやけにクリアに響く。
 これほど、少年はシンクロ率を自在に操れるというのか。
 リツコが目を爛々とさせてなおも冷静な少年の顔を見つめる。
 その顔には少しの曇りもない。
 そして使徒が動く。弐号機を解放し、初号機の左手に浸食を開始する。

「シンジッ!」

 アタシのせいだ。
 アタシのせいで、シンジが──。

『A.T.フィールド、反転、固定』

 少年の声が届く。
 まだ少年は冷静だ。
 その少年の顔には、汗一つ、不安一つない。
 その冷静な顔のまま。
 右手のプログナイフを振り下ろした──自らの左腕に。

『ぐっ』

 呻きは一瞬。
 一瞬で、初号機の左腕が大地に落ちた。
 同時に。

「シンジ!」

『大丈夫。吐き気がするだけだ』

 多少怒り気味な声。当たり前だ。自分のミスで少年が左腕を失ったのだ。

 ──そう、LCLの海の中に、少年の左腕が漂っていた。大量の血液と共に。第七使徒の時と同じ、過剰なシンクロ率が、エヴァのダメージをそのまま少年に投影させているのだ。

「生命維持を最優先にして!」

『そんなものは後でいい』

 少年はリツコの指示を全く聞かず、なおも表情を変えないままに落ちた初号機の左腕に近づく。
 左腕の先から飛び出ている、逃げ場を失った使徒がじたばたと暴れている。

『いいザマだ。A.T.フィールドで完全に固定した。もう逃げられないし、テメエの体にアキレス腱をつけてやったぜ。もうお前は無敵じゃない』

 そう。攻略できるポイントさえあれば、使徒は無敵ではない。コアか、それとも自爆させるか、いずれかの方法を使えば使徒は攻略できる。

『オ・ルヴォワール』

 再度、プログナイフを初号機の左腕に突き刺す。
 それによって、エネルギーが暴走した使徒はそのまま爆発した。





 液体であるLCLの中にいれば失血は止まらない。ただちにLCLの緊急排水がなされ、エヴァ零号機の手によってエントリープラグだけが本部へと運ばれた。
 エントリープラグ内には血溜まりができていた。零号機は最速でケイジまで戻ってきたものの、一分もあれば死にいたる失血量になるだろう。
 ただちに増血剤が投与されると同時に、左腕の接合手術が行われた。失血が多すぎたために体に負担がかかり、手術途中、何度も心臓が止まった。そのたびに電気ショックで強引に心臓を動かし続けた。
 脳死にいたらなかったことが不幸中の幸いだった。脳派はきわめて安定していた。
 ただ体だけが衰弱していた。腕を一本切り落としたのだ。それもきわめて心臓に近い場所で。ただですむはずがない。
 アスカは体を震わせながら手術室の前で、ただ手を合わせて一身に祈っていた。
 自分のミスで。
 自分が小さなプライドにこだわったばかりに、彼に余計な負担を背負わせることになった。
 きっと少年には何か作戦があったに違いない。それを自分が台無しにした。

 少年の作戦はこうだ。
 コアが不明な以上、使徒を倒すには自爆させるしかない。問題はそれをどうやって行うかだ。
 手っ取り早いのはエヴァを一つ犠牲にすることだった。エヴァに使徒を寄生させて倒す。それが一番効率的だ。
 そこで少年がリツコに用意させたものが、ムサシの乗っていた戦自のロボットであった。
 もちろんエヴァではないロボットが使徒の対象になるはずがない。だが、だからこそそこに盲点が生まれる。
 A.T.フィールドを完全に中和したところにロボットで使徒に接触。自滅促進プログラムを直接使徒体内に注入し、まとめて自爆、という流れを考えたのだ。
 それを台無しにしたのはアスカの特攻が原因だ。もちろん、少年の作戦にも問題は多々あっただろう。ロボットが使徒に接触できるかどうかは大きな問題が残るところだし、それまでに初号機が寄生されないと言い切ることはできなかった。
 結論として使徒が倒せたのだから、という考え方もないではない。

 だが、彼女にとって使徒を倒すことができたなんていうことはなんの慰めにもならない。
 今、ほしいもの。
 それはエースパイロットの称号でも名誉でも、母親からの愛ですらない。

 碇シンジという少年、ただ一つ。

「弐号機パイロット」

 突然声がかけられた。振り返るとそこには、無表情で立っている綾波レイの姿。
 いつものアスカなら、きっと何か口汚く罵ったに違いない。
 だが、今の彼女にはそんなことをできはしない。ただ彼女の心を占めるのは後悔の感情であり、何を言われても反論することができなかった。

「碇くんはあなたを守ったのね」

 冷たい視線だった。いや、冷たく見えるのは自分の勝手な意識の押し付けだ。
 彼女はこれが通常なのだ。余計な感情を持たないだけなのだ。

「あなたが羨ましい。碇くんは、あなたのことを本当に大切に想っている」

「ア、タシ……」

「碇くんは大丈夫。いつだって大丈夫だった」

 そうして、レイは泣いている彼女の頭を優しく抱きしめる。
 それは、彼女が見せた初めての母性だった。

「アタシを、罵らないの?」

「私にはそんなことをする資格がないもの」

 ダミープラグを破壊したことはレイも知っている。もはや自分に『代わり』はない。
 もし自分に『代わり』を用意できるのなら、自分と零号機が犠牲になることだって充分可能だったはずなのだ。後は三人目にすべてを託せばいい。
 少年はそれを考えて、ダミープラグを破壊したのだろうか。

「ファースト……!」

 外面もなくアスカはレイの胸の中で嗚咽する。
 その彼女の頭を撫でながら、レイは自分を理解できていなかった。
 弐号機パイロットは、最初から嫌いだったはずだ。
 碇シンジという自分にとって全てともいえる人に気軽に近づき、その心を奪おうとする人物。
 奪われる恐怖、失う恐怖を常にこの女性からは与えられ続けてきた。
 それに、そもそも考え方が全く違う。自己主張の激しい彼女に、常に自分を押し殺すことができる自分、陰と陽、水と油、絶対に相容れない者として考えてきた。
 それが、今、自分は彼女を受け入れようとしている。

(何故?)

 自問しても答は返ってこない。
 ただ分かるのは、自分は以前ほど弐号機パイロットを嫌ってはいない、というその一事だけであった。

 と、その時。
 手術中のランプが消えた。

 レイがそれを確認し、状況を察したアスカがそれを見て表情をこわばらせる。
 二人の視線が、扉に集中した。
 開いたその部屋から、リツコが出てきた。

「あら、あなたたち」

 リツコはここに二人がいるということを知らなかったようだった。

「リツコ。シンジは──」

「大丈夫よ。本当にしぶとい子ね。何度も心臓が止まったけど、もう小康状態に入ったわ。目が覚めるまでは数日かかるでしょうけど」

 それを聞いた、アスカの目からまた涙が零れ出す。

「かみさま……っ!」

 アスカがその場にまた両手を組みながら崩れ落ちる。
 その心は感謝の気持ちでいっぱいだった。何に感謝すればいいのかは分からないが、とにかく自分から少年を奪わないでくれてよかったという気持ちがすべてだ。

「碇くんには会えるんですか」

 レイは表情を変えずに尋ねる。

「もう少したってからの方がいいでしょうね。落ち着いたとはいっても絶対安静には変わりないわけだから。目が覚めていなくても明日には面会ができるようにするわ」

「リツコ」

 泣きはらしたアスカの顔がリツコに向けられる。それを見たリツコはかなり驚いたような様子を見せた。

「ありがとう」

「気にすることはないわ。これは私の仕事だもの」

 もちろん、それだけではない。
 この少年を失うということは多分、自分には耐えられないのだ。
 次に何をしてくるのかがよめない相手。そんな相手と付き合うことが人生でもっとも楽しいと感じる瞬間だ。
 かつては碇ゲンドウ、そして今はその子供。

(それに、今日はいいものを見させてもらったわ)

 アスカの泣き顔は、いつものすました顔よりもずっと可愛らしかった。
 いつもそうやって素直にしていれば、今の十倍は好感度があがるだろうに。

(シンジくんはそのことを知っているのかしらね。いえ、知っているからこそ傍にいさせるのか)

 自分のような可愛くない女では全く見向きもされないに違いない。
 だが、十五も年下の少年に何を考えているのか、とリツコは自嘲した。

「今日はもう帰りなさい。それに、あなたたちの家族がまた一人で取り残されているんじゃないの?」

 それを言われて、アスカとレイは顔を見合わせた。
 今回ばかりは、二人とも完全に忘れていた。目の前で少年を失うかもしれないという恐怖に戦っていたのは、二人とも同じだった。それ以上のことまで頭が回らなかったとて、彼女たちを責めるのは酷だろう。





『葛城か。俺だ。この電話を聞く頃は、もう君に多大な迷惑をかけた後だと思う』

 そんなわけで、葛城ミサトがその電話を聞くのは使徒戦の後の混乱が終わり、ようやく一時帰宅が許された三日後のことであった。
 たくさんある着信のうち、最近姿を見ない男の着信履歴に真っ先に手が伸びる。

『すまなかったな。もしもう一度会えたら、今度は十五年前に言えなかったことを言うよ』

 そのフレーズで、彼女は彼が今どこにいるのかを察した。
 突然、大きな穴がぽっかりと胸に開いた気がする。

「加持」

 呼びかけても、返答はない。

『葛城。真実は君と共にある』

 真実。
 セカンドインパクトの真実、そして碇シンジの真実。
 この世界の真実。

『それから迷惑ついでに、俺が育てていたスイカ畑がある。それを君に頼みたい。場所はシンジ君が知っている』

 そう。投げ出すわけにはいかない。

(スイカ畑)

 おそらくは、そこだ。
 そこに、彼の全てがある。彼が考え、行動し、記録した何かがそのスイカ畑に隠されている。
 見に行かなければ。
 だいたいの見当はついている。彼女は、彼の最後の言葉を頭の中で再度リフレインさせ、帰ってきたばかりの自宅から出ていった。

『──愛している』





 少年が目を覚ましたのがその翌日だった。
 アスカ、レイ、マナはそろって歓喜の声をあげた。そして不安視された彼の意識だが、きちんと碇シンジのものだった。『アナザー』の気配は微塵もなかった。
 少年はゆっくりと体を起こす。体を重たそうにしているのはまだ体力が回復しきっていないからだ。ただ体を起こすだけなのに、少年はそれに全力を振り絞って行っていた。
 マナが助けようとしたが、いい、と彼は断る。そして完全に体を起こすと、真正面からアスカを見た。

「アスカ。どうして飛び出してきた?」

 詰問。もちろん、アスカは必ずその話になると思っていた。第九使徒の時のように、戦争というものを軽々しく考えるなということを言いたいのだろう。

「分かってる。アタシが全部悪いって」

「アスカ。聞きたいのはそこじゃない。理由だ」

 少年はマナとレイに目配せする。目が開いて喜びたい気持ちは少年にも伝わっているだろう。だが、二人の前ではまだアスカは自分の気持ちを素直に言うことはできないという少年の配慮だ。それを感じ取ったレイが、マナと共に部屋を出る。

「アスカ」

 少年が話の先をうながしてくる。進退窮まったアスカは呼吸を整えて正直に答えた。

「悔しかったからよ」

 少年の視線が鋭くなる。

「アスカ。前にも言ったはずだ。俺たちは生き延びることを考えなければならないと──」

「分かってる!」

「分かってるなら」

「違うの! アタシが悔しかったのは、自分が弱いことなんかじゃない」

 少年はきっと誤解しているだろう。だから、素直に自分の気持ちを伝えなければならない。

「アタシが、アンタに助けてもらいたいと思っている自分が、悔しかったからよ」

 少年は目を丸くした。
 もちろん、その驚きはいろいろなものがあるだろう。アスカがここまで素直になったこと、そしてアスカの性格に大きな変化が起こっているということ。そうしたさまざまな事実が少年に驚きを与えている。

「そうか」

 だが、その言葉を聞いた少年は嬉しそうに微笑んだ。

「馬鹿だな、アスカは」

 少年の右手がゆっくりと上がり、そして力なく彼女の左頬に触れるような感じで叩いた。

「これでチャラにするよ。アスカ、俺に嫌われたくなかったら二度とこんなことはするな」

「うん」

「そのかわり、期待に応えるよ。俺が必ずアスカを守る。だから、お前は俺に守られていろ」

 そんなに。
 そんなに頼もしい台詞をかつて言った者がいただろうか。
 アスカはまた涙がこみあげてきて、少年の胸に崩れ落ちた。
 少年は、力のない右手でその頭を優しく撫でた。





 少年が退院することができたのはそれから四日後のことだった。
 みるみるうちに少年は力を取り戻していった。ただ、左腕だけはリハビリが必要だった。全く動かないというほどではないが、きちんと動けるようになるまでは少し時間が必要だった。
 もうすぐ最後の使徒も来る。そうなれば、またエヴァの出番が来るのだ。
 リツコたちは最後の戦いの準備に忙しい。
 この時期、暇になっていたのはまさにパイロットたちであった。

「次が最後?」

 アスカがその話を聞いて驚く。マナとレイも真剣な表情だ。

「ああ。だからもうエヴァはいらない。最後の使徒はそんな倒し方をする相手じゃないから」

「第十二使徒みたいなやつ?」

 イロウルのことを意味しているのだろうが、それも違う、と少年は首を振る。

「いずれにしても、最後の使徒は俺の獲物だ。横取りは許さない」

 そこまではっきりと言う少年も珍しい。
 そう、戻ってくるなり少年は言った。

『もうすぐ現れる第十七使徒が最後になる。こいつは俺が倒す。お前たちは何もしなくていい』

 そんな話をされれば誰だって戸惑う。こういう話になるとマナは決して自分から参加はしない。パイロット同士の、つまりはアスカと少年の会話に任せている。レイもまた、性格上自分から話すことはしない。

「じゃ、アタシたちは何をしていればいいわけ?」

「何も。次の使徒はどうでもいいんだ。でも、それが終わったら最後の戦いが待っている」

 同時に三人の顔に疑問符が打たれる。

「どういうことよ」

「人間の敵は人間。最後の敵は使徒じゃない。人間なんだ」

「ネルフを潰そうとする組織があるってわけ?」

「さすがに頭の回転が早いね。その通り。ゼーレが動く。使徒を倒し、人間が滅びる可能性がなくなった後に、奴らは動きはじめる。そして人間の理想郷を造ろうとする」

「理想郷?」

「あまり信用しない方がいい理想郷だがな」

 少年の脳裏にどのような未来図が描かれているのかは伝わらない。だが、よほどのことがない限りここまでの嫌悪感は見せないだろう。

「つまり、アタシたちはそのゼーレを見つけて叩き潰せばいいのね」

「残念だけど、居場所はもう分かっているんだ」

「どこよ」

 少年は人差し指をたてた。上、という意味らしい。
 もちろんこの建物の中にいるはずがない。それを超えれば青い空。そして──

「……宇宙?」

 おずおずとアスカが尋ねる。

「そう。ロシアの軍事衛星のどれかに入ってる。問題はロシアの衛星だけでも千はあるってことなんだよな」

 軍事衛星の名目で、何十年もその中だけで生きられるように造られた快適な居住空間。そんな衛星が宇宙の中のどこかにある。
 一つずつ調べていけばどこにいるのかは分かるだろうが、そんなことを調べている間に最後の戦いはやってきてしまう。

「それが分かればどうするの?」

「そうだな」

 少年は少し考える。

「もちろん壊滅させるけど、方法が難しいだろうね。うまくいけば、アレを使えば倒せるかもしれないけど」

「アレ?」

 アスカは分からない。当然といえば当然だ。少年の知識は自分たちのはるか上を行くのだから。

「そう。ロンギヌスの槍と呼ばれるもの。あれを使えば、目標を消滅させることもできると思う」

 ロンギヌスの槍。
 かつてナチスのヒトラーが持っていたという、決して腐らない槍。
 かつてゴルゴダの丘でイエスを刺した男の名にちなんだ槍。

「ツテはある。今調べてもらっているけれど、きっと見つけ出してくれると信じている。きっとゼーレの居場所をつかんでくれている」

 誰に頼んだのか、ということは言わない。だが、少年がその人物を信頼しているのを見て、彼女たちにも誰に頼んだのかということが想像ついたようだった。





 だが、三日後に少年たちに知らされた現実は、加持リョウジが死んだというものであった。





 少年は一人、街の中にいた。
 度重なる戦闘のおかげで、人影はほとんどない。
 廃墟のような町の中を一人、歩く。
 その心の中で何を考えているのかは分からない。
 ただ一人、闇雲に歩く。

 やがて。

 陽気なベートーベンの第九が聞こえてきた。

「歌はいいねえ」

 少年は言葉の出所に注意を払った。

「歌は心を潤してくれる。リリンの造った文化の極みだよ。そうは思わないかい?」

 銀色の髪と紅い瞳。
 第十七の使徒、タブリス。

「碇、シンジくん」

「ふん」

 少年はつまらなさそうに答えた。

「ようやく会えたな、カヲル」






第弐拾陸話

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