やがて来るであろう第十七使徒は、少年の手紙にはおそろしく強いということがまざまざと描かれている。
何しろ、十七番目の使徒だというのに、ふざけたことにその数は九体。みな白く、エヴァと同じような格好をして、翼を持って空を飛ぶというのだ。
同時に戦略自衛隊の介入もあるということらしい。もしそうなったらネルフは壊滅だ。
そのための手段として、少年はこう記している。
『できるなら先制攻撃が一番です。戦略自衛隊の基地がたくさんあるのは分かってますけど、先に全部の基地を潰してしまうことができれば最善です。まあ、ネルフという組織が暴走したと見られて終わりでしょうけど。
それができないなら、方法はたった一つです。』
その方法というのが、本当に少年らしくて面白い。
『先にゼーレを壊滅させましょう。それしか方法はありません。』
ただ問題は、そのゼーレの場所が最後までわからないということだった。
「シンジ! あんたいったいドコほっつき歩いてたのよ! 怪我人だって自覚あるの!?」
帰ってくるなりこれだ。赤毛の少女の剣幕に少年も押されたが、苦笑したまま右手で彼女を制する。
「ああ、悪い。ちょっと客に会わなきゃいけなかったんでな。多分お前たちが心配すると思ったし、面倒だったから連れてきた」
「は?」
と、その少年の後ろにいたのは銀色の髪に紅の瞳を持った綺麗な少年だった。
「見かけの歳は一つ上。名前は渚カヲル」
「渚カヲルです。よろしく」
カヲルは笑顔を見せた。見るものを魅了する笑顔だが、敏感なアスカにはそれがどこか作り物のようにも見える。
「惣流・アスカ・ラングレーよ。よろしく。へえ、シンジの友達にしちゃ、なかなかイイ線いってるじゃない」
「そりゃまあ」
少年は頭をかいた。何と答えたらいいのか分からないという様子だ。
「レイとマナは?」
「いるわよ。二人とも怒ってる」
「ああ。悪いが、その怒りはなんとか静めてくれ。これから大事な話をしないとならない」
「大事な?」
「ああ。第十七使徒。最後の使徒のことでな」
アスカの顔色が変わる。そしてすぐにリビングに戻った。
「まあ、上がれ」
つっけんどんに少年が言う。
「すまないね、シンジくん」
「気にするな。俺もお前とは話さなきゃならないことが多くありすぎて、何からにしようか迷ってるところだ。お前は?」
「僕もかな。実際、シンジくんは僕が想像していた以上にこの世界を守ってくれたよ」
「何度か、あいつに出てこられそうになったけどな」
カヲルは驚いたような顔を見せる。
「もう一人のシンジくんにかい?」
「ああ。弱音を言うわけじゃないんだが、今の俺はあいつにかなわないかもしれない。本気でそう思う。これから俺がこの体で生きていくためにどうすればいいのか、悩んでいる状態だ」
「それで僕の力をもう一回借りたい、っていうことかな」
少年は首をかしげる。
「それも自分の中では分からないな。こうして生きているだけでも感謝するべきなのに、それ以上を望むのはバチ当たりな気がしてならない。それに、お前は使徒だ」
カヲルは肩をすくめる。
「まあ、話を先にすませよう。俺の大切な家族に会わせる」
「そうかい」
「そう。そしてできれば」
少年はカヲルを真っ直ぐに見つめる。
「お前さえよければ、戦わずに、俺たちの家族の一員になってほしい」
「僕が?」
その提案にはさすがに驚いたらしい。
「これは、本当に驚いたね。まさかそんな提案をするなんて」
「使徒と共存できるならそれが一番だ。お前は俺を理解している。まあ、俺の方がお前を理解しきれていないところが多いんだけどな」
「そうだろうね。僕も僕自身を理解するのは難しいよ」
「だったら、あとはお前に任せる。お前が戦うというのなら俺も戦うし、お前が一緒にいたいというのなら、それは俺の願いでもある」
「難しいね」
少し困ったようにカヲルは首をかしげた。
「ちょっと、何やってんのよ! もう準備できてるのよ!」
「ああ、今行く」
カヲルを伴ってリビングへ。キッチンテーブルには椅子が四つしかないため、別の椅子を持ってきてそこにマナが座っていた。
正面にはアスカとレイが隣同士で。そして空いているところに少年とカヲルが座る。
「さて、改めて紹介しておこう。こっちは渚カヲル」
「はじめまして」
「こっちから順番に、綾波レイ、惣流アスカ、霧島マナ」
はじめて迎える来客に少し緊張気味のマナが頭を下げ、レイは冷ややかな目でカヲルを見つめ、アスカが軽く頷く。
「で、そいつは何者なのよ」
突然の来客といったところで、当然少年のことだから、ただの友達であるはずがない。
「難しい質問だな。カヲル、結局フィフスチルドレンにはなったのか?」
三人が驚く。フィフス。ひそかに選抜が進められているというのは聞いてはいたが、まさかそのフィフスとは。
「いや。今回はその必要がないとお偉方が判断したみたいだね。僕はただ、アダムに接触してこいって言われただけだよ」
「そうか。なら説明は簡単でいい」
少年は呼吸を整えた。
「こいつはゼーレがネルフを壊滅させるために送り込んできた第十七使徒、タブリスだ」
間。
さすがにその言葉に三人は唖然とした。レイですら驚いているのだから、これはかなりの衝撃だったと言わなければならないだろう。
「一応こんな軟弱そうに見えても、A.T.フィールドも張ることができるし、その気になれば俺ら四人なんて瞬殺だろう」
「そんなことはしないよ。それでは意味がないからね」
冷静に話す少年も、にっこりと笑うカヲルも、どこか尋常ではない。
マナは完全にパニックに陥っているし、レイまで驚いているのだから、この状況を打開することは非常に難しい。
それでもアスカはなんとか気を取り直して、話を続けた。
「使徒?」
「そう、使徒」
「敵?」
「か、どうかは微妙だな。カヲル、まだ決めてないんだろ?」
「一応ゼーレからはアダムに接触しろって言われてるだけだからね。別にシンジくんたちと戦う理由はないよ」
「あああ、アンタバカァッ!?」
お得意の台詞が出て、アスカは一気にまくし立てる。
「使徒よ使徒! 今までアタシたちが戦ってきたのは使徒を殲滅するためで、馴れ合うためじゃないでしょうがっ! だいたい、その使徒がなんでこうやってのんきに茶なんか飲んでんのよっ! つーか同じテーブルについてること事態が不可思議よ不可思議っ!」
「ま、僕はシンジくんが『お茶でも飲んでいくか』って言うからついてきただけだけど」
「まあ、街中ぶらぶら歩いていればカヲルの方から接触してくるだろうとは思ってたからな。実際、都合がよかった」
「だぁかぁらぁっ! ジョーシキ的に考えなさいっ! 人間と使徒は相容れないでしょうがっ!」
「誰が決めた?」
少年の言葉で、アスカの攻勢はぴたりと止まる。
「だ、誰って」
「カヲルはカヲルだ。俺たちが人間であり、カヲルは使徒だ。俺が日本人であり、アスカがドイツ人なのと同じだ」
「同じなわけないでしょっ!」
「と言ってるよ、シンジくん」
にこにこ笑いながら茶をすするカヲル。まあ、使徒たるものそれくらいで動じることはないのだろうが。
「カヲルが戦うつもりだっていうんなら、俺も応戦するのにはやぶさかじゃない。ただ、決めつけるつもりはない。何しろ、俺にこの体を与えてくれたのがこいつだ。多少は感謝の気持ちもある」
「え」
「俺がこの体を操ることができるようになったのは、俺が最初に第三新東京に来ることになったリニアの中でのことだ。俺の意識に直接介入してきた奴がいた。それがカヲルだ。そして、俺に未来の知識を与えたのもカヲルだ。そして未来に絶望した『アナザー』は主人格ではなくなり、俺がこの体の支配権を手に入れた」
「人類が生き延びるためにはもう一人のシンジくんには眠ってもらうのが一番だと思ったからね」
あっさりと。
そう、望んでも手に入らなかった少年の秘密が、こともなげにあっさりと告げられた。
あまりのあっけなさに、女性陣三人組は何も口にできなかった。ただ呆然と、目の前に座っている美形男性人二人組を見つめるだけだ。
「それを考えるならば、カヲルは敵とはいえない。まあ、味方であるはずはないがな。まあ、人間と使徒とが相容れないというアスカの考え方は間違っていない。そうなんだろ?」
「そうだね。生き延びることを許された知的生命体は一つだけ。十八ある生命体のうち、残っているのはヒューマンかそれともタブリスか。最後の生存競争になるね」
生存競争、とカヲルは言った。そう。地球に十八もの知的生命体は多すぎる。一つの星に存在できる知的生命体は一つで充分なのだ。
「アンタは、敵なの? 味方なの?」
なんとか立ち直ったアスカが尋ねた。
「それが僕も分からないんだ」
「ふざけないで!」
「アスカ、落ち着け。こいつの言っていることは冗談なんかじゃない。まだ決めていないんだ。未来を許されている生命体が一つだけならばカヲルと俺たちは戦わなければならない。だが、もし共存が可能なら共存したい。俺はカヲルに感謝しているし、お前たちを除けばおそらく、一番大切な相手だ」
「なるほど。僕は彼女たちの次なんだ」
「当たり前だろう。誰が悲しくて野郎を一番大切だなんて言わなきゃいけないんだ」
「ま、それはそうだけどね。僕も可愛い女の子は大好きだし」
「へえ。使徒でもそう思うのか」
「相手によるよ。命の輝きにあふれている女の子は可愛い。その点、ここにいるみんなは可愛い」
「カヲル」
真剣な顔で少年が釘をさす。
「ここの三人は、全部俺のものだ。口説くつもりなら命がけでやれよ」
「恋愛は略奪愛の方が燃えるってね。リリンもうまいこと言うね」
突如険悪そうな雰囲気を作る二人だが、別に本気というわけではない。お互いからかいあっているだけだ。
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ!」
アスカの逆鱗で、ふと二人は我に返る。
「そうだった。今はお前が敵か味方かという話だったな。で、どうする」
「どうするもこうするも、さっき言った通りだよ」
「違うな。それだけならお前は自分の意思で選ぶことができるはずだ。どちらでもいい、なんて言ってるのはただ単に自分で結論を出すのが面倒なだけだ。余計な責任を負うこともないし、自分が間違っていても言い訳ができる」
「うん、それは確かにそうだね」
「問題は共存できるかどうかなんだ。カヲル、お前の知っていることを教えろ。俺たちとお前とは共存できるのか、できないのか」
「できないんだろうね。さっきシンジくんは誰が決めたって言ってたけど、これは本当に決まっていることだったから」
「誰が決めた?」
「しいていうなら、神様」
少年は怯まない。一番に難色をしめしたのは意外にもアスカで、マナもわずかにたじろいでいた。
「神がいる、と?」
「いいや。それは単なる比喩。神様という表現が駄目なら、地球、でもいいよ。結局、僕とリリンとは戦わざるをえない運命なのかもしれない」
「そこだな、分からないのは。そもそも俺たちが戦わなければならない理由、それが分からなければお前と戦う意味がない」
「生き残るため、じゃ駄目なの?」
「お前は生き残るために人間を滅ぼすのか? そんなことしなくてもお前はこの世界で生きていけるだろう。生きていけないというのなら、その理由が知りたい」
「うーん」
カヲルは少し悩んだようにしてから答えた。
「どうして犬と猿って仲が悪いんだろうね」
突然そんなことを言い始めるカヲルに、少年はその質問の意味を考えるように眉間に皺を寄せる。
「人間が犬で、お前が猿か?」
「まあどっちでもいいけれどね。結局僕は人間と相容れることはできない。それは本能的なものだ。さっき神様が決めたって言ったけど、本当にそんな感じだよ。僕たちは戦わなければいけないんだ」
「我慢できないのか?」
単刀直入に少年は尋ねた。さすがにそれにはカヲルの方が笑った。
「いや、できるよ。僕はただ本能に従おうとしているだけだ」
「そこをまげてほしい。俺はお前が傍にいてくれた方が楽しい。多分、俺にとってお前は、唯一の友人になるだろう。何しろこんな人間とまともに付き合える奴がいるとは思えない。お前くらいがちょうどいい」
「使徒をちょうどいいと言えるシンジくんは少し異常だよ。シンジくんはあくまで人間だ」
「人間の規格からは外れている。俺の正体を正確に掴んでいるお前だからちょうどいいと言っているんだ」
「同じ言葉を返すよ。シンジくんも、同じ人間と友人を作る努力をしていないよ」
「自覚しているだけに何ともいえないな」
少年は肩をすくめた。
「だがな、俺から見れば学校の連中はあまりにもガキで、一緒に付き合う対象にならないんだ。ここにいる三人が例外みたいなものだ。俺と対等に話せる奴は多くない。お前は俺以上だろう。それとも、お前から見れば俺もガキに見えるのかな」
自嘲するように笑うがカヲルは首を振って答えた。
「そんなことはないよ。僕にとってはどちらのシンジくんも愛すべき対象さ」
「男が男に向かって愛してるとか言うな」
かなり嫌そうな顔をして少年が答える。
「寂しいなあ。僕とシンジくんの仲じゃないか」
「その誤解を招く表現をやめないとこの場で百回殺す」
その二人の様子を見た女性陣が互いに顔を見合す。
「こんなシンジくん、初めて見ました」
「同感ね。シンジとウマが合う奴なんていないと思ってたけど」
とはいえ、相手は使徒だ。
どれほど仲がよくても人間としては許容できるものではない。
「じゃ、話は早いわね。あんたがシンジと一緒にいたいかどうか、それだけじゃない」
アスカが話をまとめた。うーん、とそれを聞いたカヲルが悩む。
「シンジくんと一緒にいたいとは思うけどね。同時にシンジくんを見ていると殺したいとも思う」
「物騒な奴め」
「それが本能だからね。でも、駄目かな」
カヲルは冷ややかな笑みを浮かべる。
「僕はシンジくんと戦うよ。思えば、僕は最初からそれを決めていたんだと思う。僕はあの【赤い世界】にはしたくない。この世界が今のまま続いてほしい。そのためには僕がシンジくんに負ける、そのプロセスが必要だ」
「そうか、なるほ──!」
それまで普通に活動していた少年が、突然苦悶の表情を浮かべる。そして体が徐々に震え始め、自分の体をその両手で抱える。
「シンジ、どう──」
「黙れ」
その口から搾り出すかのような声が漏れる。
「黙れ、黙れ黙れ黙れ、これはお前の体じゃない!」
鈍い音がした。
少年は自ら大きく頭を振り上げると、勢いよく自分の頭をテーブルに打ち付けたのだ。
あまりの情景に、女性陣は言葉もない。
だが、それを見ていたカヲルがゆっくりと少年の体を起こす。
「大丈夫かい、シンジくん?」
「ああ。迷惑をかける」
起き上がった少年は既にいつも通りに落ち着いていた。
「こんなことがよくあるのかい?」
「ここ最近は特に多かったな。やっぱり自分からこの体の支配権を一度手放したのが悪かった」
それを聞いたカヲルが驚いたように尋ねる。
「自分から? 自殺行為というか、それはシンジくんにとっては自殺に等しいよ」
「分かってる。だが、蘇生できるアテがあったからできたことだ。それに今のタイミングでアナザーが起きかけたってことは、やはりお前とは戦いたくないってことなんだろうな」
「でも、それじゃ困るんだよね」
「お前が戦わないっていう方法を取ってくれれば一番よかったんだが、仕方がないな」
少年は隣にいるカヲルの肩を抱く。
「シンジくん?」
「お前は俺のたった一人の友人だ。ま、お前がそう考えるってんなら、俺も付き合ってやる」
「殺し合いをすることを、かい?」
「そうだ。俺は容赦しないぞ」
「分かった」
カヲルも頷いて答える。そして二人は離れた。
「それじゃあ、いつにしようか」
「いつでもかまわないけどな。そうだな、明日にでもするか」
「僕はかまわないよ。それはタイムスケジュール通り、ということだね」
「そうなるな。ところで聞きたいんだが、お前はどうやってアダムに接触するつもりだ? ここにアダムがないことくらいは知っているんだろ」
女性陣にはまた意味不明な言葉が出てくる。
「でも、ジオフロントのどこかにはあるんだろう?」
「多分な。俺も加持さん任せにしておいたから、どこに隠したかなんて知らないけどな」
「それは困ったな。でもまあ、いいよ。シンジくんと正面から戦おう。明日の正午。それでいいね?」
「問題ない。タイマンだ」
「分かった」
するとカヲルは立ち上がった。それを追うように少年も立ち上がる。
「君に会えてよかった。君ならこの世界を安心して任せられるよ」
「馬鹿言え。世界を滅ぼそうとしている奴が」
「確かにね」
カヲルは苦笑しながら手を出した。そして少年もそれを取る。
「最後に、もう一度だけお礼を言わせてくれ」
「僕は僕がやりたいようにやっただけだよ」
「それでも、お前のおかげで俺はこの体を手に入れた。もう二度と手放さない」
「そうあってほしいよ、僕も。でも気をつけてね。アナザーは友人を守るためなら自分の命だって捨てられる人だよ。シンジくんも見ただろう?」
少年は顔をしかめた。
「そうだったな」
「だったら、容赦しちゃいけない。シンジくんは自分のために、そしてここにいる可愛い女の子たちのために戦うんだ」
「お前、俺の味方か? それともアナザーの味方か?」
カヲルは肩をすくめた。
「どちらも。ただ僕はシンジくんを応援しているよ。アナザーではどうしても【赤い世界】にたどりついてしまうから」
「感謝するよ。ありがとう、カヲル」
「どういたしまして、シンジくん」
「それじゃ、また明日」
「ああ。それじゃあね」
そして、カヲルは出ていく。
玄関まで見送ることもせず、カヲルが出ていくのに任せる少年。
もちろん、女性陣も全く動かなかった。案内役の少年が動かないのだから当然だ。
「結局」
少年は苦笑して言った。
「あいつと戦う未来だけは、変えようがなかったってことか」
少年は笑ったが、その顔は泣いているかのように見えた。
葛城ミサトはスイカ畑にいた。
その畑には彼の痕跡は全くなかった。ただ実ったスイカだけがそのあたりに乱雑にあった。
「バカ」
いなくなった男をなじる。
彼は、言いたいことだけを言い残して消えた。もう二度と会うことはない。
「真実は、私と共にある、か」
加持からの伝言では、スイカ畑に何かがあるということだった。直接的にそうは言っていないが、おそらくあれは諜報員に悟られないようにするため。スイカ畑に何かを残したから受け取ってほしい。そういうメッセージだ。
ミサトはじっと周りを見る。
それほど大きくない畑の中に、大小さまざまなスイカが実っている。
ジョウロで水をやる。もしかしたら自分の見張られているかもしれない。もし見つかっても、悟られないように持ち運ぶべきだ。
あの男のことだ。それと分かるような隠し方はしていないはず。
この辺り一帯、あらゆる道具の表裏、それに土の中にいたるまで。
(待って。土……)
そう。それこそ土など分からないようにすべてを確認しているはず。
だが、そこまで加持が考えていたとするならば。
(これだ)
よく実った、形の整ったスイカ。
その中の一つに、かすかな切れ込みがあることを確認する。
(受け取ったわ)
鋏でそのスイカを切り取る。監視されていることを予測して、それを用意しておいたビニール袋に入れる。念のため、隣のスイカも切り取ってもう一つの袋に入れる。
実ったスイカを持って帰るのだと思わせられるように。
(さて、何が入っているのかしらね)
その夜。
少年は目を見開いて暗闇を見つめていた。
銀色の髪と、紅い瞳を持った少年の姿を思い浮かべているのか。
レイは隣でその少年を見つめていた。
いつもなら優しく自分を寝かしつけてくれるのに、今日はそんな余裕はどこにもなかった。
明日戦う、彼にとってたった一人の友人のことで胸がいっぱいなのだ。
それなら。
せめて今日くらいは。
「碇くん」
レイは体を動かして、逆に少年を抱きすくめる格好を取る。
「あや、なみ?」
「辛いのなら、泣けばいいわ」
自分がどうしてそんなことを言ったのかは分からない。
だが、なんとなく、少年が泣きたいのにそれを我慢しているように見えた。
「碇くんはすぐに無理をするから。この部屋なら他に誰も見てないわ」
「綾波」
「無理、しないで」
ぎゅ、と音がするくらいにレイは彼の頭を抱きしめる。
次第に、嗚咽すら出さないものの、少年はレイにしがみついて体を震わせた。
「あいつと戦いたくない」
「ええ」
「あいつは俺を救ってくれた。俺を一番に理解している。分かってるんだ。これは俺のわがままで、甘えだっていうことは。でも、俺がその一人を大切にしたいと思うのは許されないことなのか」
「碇くんは、碇くんの好きなようにすればいいわ」
「俺の気持ちは決まってるよ」
ふふ、と少年は笑った。
「カヲルよりも綾波やアスカ、マナの方が大事だ。天秤にかければどちらを選ぶかなんてことは分かりきっている」
「でも」
「ああ、そうさ。俺はどちらも手に入れたがっている。俺の理想の生活をするために、俺にとって最高の【今】を手に入れるために。俺は誰も失いたくない。誰も取りこぼしたくない。でも、その一人のために他のみんなを犠牲にすることはできないんだ」
「どうして、そんなにあの人のことが気になるの」
少年は苦笑した。
「それはどうして綾波やアスカやマナのことが気になるのかっていうのと同じ質問だよ。意味なんかない。綾波にしたって、例えば綾波が俺のことを好きなのは、俺との絆があるからかい?」
「ええ」
「違うよ。最初はそうだったかもしれないけど、今の綾波はもうそうじゃない。俺の傍にいることを自分が求めているからだ。言葉だけの絆なんかのためじゃない。【自分がそうしたい】からそうする。人間っていうのはすべからくそういう生き物なんだよ。そして綾波はもう人間になっている。それは喜ばしいことなんだ」
少年の久しぶりの哲学が語られる。レイは彼の哲学を聞くのが好きだ。彼の話は自分の殻を壊してくれるような気がする。
「俺がカヲルを理解できないのは、カヲルにはその【そうしたい】という気持ちがないことだ。その気持ちがある人間ならいくらでもやりようはある。出会ったばかりの時の綾波みたいに、絆がほしいと思っているのならそれをあげることはいくらでも可能だ。だが、カヲルはそうじゃない。あいつは何も求めていない。あいつの微笑みと同じで、どこにも感情がない」
レイは何も言わなかった。
自分も同じだと、瞬間的にそう思ったことが原因だが、それでも今の自分には『少年のことが好きだ』という感情が明確になってきている。その点だけは以前より成長していると思うことができた。
もっとも、そのように『成長している』と思うこと自体が、彼女の成長なのだが。
「だから俺の言葉は届かない。おそらくあいつが本能的に人間を嫌うのは、その感情が醜いからだ。あいつは綾波たちが可愛いと言った。それは感情が綺麗だからだろう。醜い感情を当てられるのがあいつはたまらなく嫌なんだ、きっと。だから人間の傍にはいられない」
ならば彼と付き合うには感情をなくさなければならない。だが、感情をなくしてしまえば『彼と一緒にいたい』という感情すらなくなる。結論として彼の傍には誰もいない。うまくできている。
「あいつは、やっぱり俺のことなんかどうでもいいと思っているのかな」
「そんなことない。どうでもいいなら、はじめから碇くんのことにかまってなんかいないと思う」
レイのフォローに、また少年は小さく笑う。
「ありがとう、綾波」
と、そのときだった。
勢いよく扉が開かれ、その向こうから光と人影が差し込んでくる。
「お邪魔するわよ」
「し、失礼します」
と言って入ってきたのはアスカとマナであった。
「どうしたの、こんな時間に」
「どうしたもこうしたもないわよ。ほら、マナがシンジの隣。私は端っこだからね。ほら、ファーストはもっと奥にいきなさい。ダブルベッドとはいえ、四人も一緒に寝るんだったら狭いでしょ」
「す、すみません。アスカさんがどうしても今日はみんなで一緒に寝るんだって」
少年は暗がりからアスカの青い瞳を見る。
アスカは挑発的に少年を見つめた。悪い? とでも聞いているかのようだ。
「アスカも一緒に寝るの?」
「何よ、文句ある?」
「いや、ないけど」
だが面食らっているのは間違いない。その態度が少し癇に障った。
「アスカさんは、シンジくんのことが心配なんです」
「転校生!」
「シンジくんが苦しんでるかもしれないから、みんなで一緒にいた方がいいだろうって。すみません、レイさん」
「かまわないわ」
女三人の話が進み、レイはベッドの奥に場所を移す。引きずられるように少年がずれて、マナとアスカがベッドの中に入ってくる。
「シンジくんの匂いがする」
マナが嬉しそうに言って、えい、と少年に抱きついた。
「……匂いフェチ?」
「そんなこと言うアスカさん、嫌いです」
「ふうん、私に向かってそんな口をきいて、どうなるか分かってるわけ?」
「どうなるって──ちょっ、くすぐらないでくださいっ!」
突然じたばたと暴れるマナ。どうやらアスカが両手でくすぐり地獄に落とし込んでいるらしい。
「……寝ないの、二人とも」
少年が疲れたように言う。
「何言ってるの。修学旅行みたいで楽しいじゃない」
「いつからそんな話になったんだい」
「にぎやかな方があんただって気楽でしょ、って言ってるのよ。えい」
アスカの手がマナを通りこえて、こつんと少年を叩いた。
「……迷惑かけるね、アスカには」
「いいのよ。そのかわり一ぬけして先に寝た人はマジックで落書きされるからね」
「そんな古典的な」
少年は苦笑する。
そして、深夜のおしゃべり大会が始まった。
第弐拾陸話
おかえりなさい
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