翌朝。
少年たちは早めの朝食を終え、ネルフへと向かう。
もちろんマナも一緒だ。
四人はほとんど何も口にしない。
話は全て、昨夜のうちに終わっていた。
戦うのは少年、ただ一人。
それは頑として譲らなかった。
カヲルとは一対一で勝負をつける。
だから、みんなには見ていてほしい、と。
もちろん一対一とはいえ、少年はエヴァに乗るのだ。
使徒とはいえ、あの非力そうなカヲルに対してアドバンテージがあるのは当然のこと。
ただ、どれほどの強さなのかということを少年は言わなかった。
第十四使徒のような力を持っているわけでも、第十六使徒のように弱点がないわけでもない。
だが、倒すのは難しい。
そう少年は考えているようだった。
一つには少年自身が彼を敵としたくはないという心の問題。
もう一つは、今までの使徒と違って『知恵』があるという問題だ。
それがどれだけ戦況に影響を及ぼすかは分からない。
ただ、少年はすべてをふまえた上で、一人で戦うと言っている。
三人は止めなかった。
今まで、何度も少年が無理をするのは見てきたが、今回はそれとは違う。
いわば、自分に命を与えてくれた存在との戦いなのだ。
少年にとっては何よりも特別な相手で、それだけに他人任せにはできないという思いがあるのだろう。
だから、三人とも気持ちは同じだった。
戦いが避けられないのなら、少年が戦いに臨むというのなら。
三人ができるのは、彼の帰りを待つことだけだった。
「帰ってきて」
少年は優しそうに微笑み、力強く頷いた。
「エヴァの発進準備?」
リツコは少年から話しかけられて、例の九体からなる使徒との戦いがもはや来たのかと覚悟を決めた。
「ええ。博士を騙してすまないとは思いますけど、例の九体は使徒ではないんですよ」
リツコは顔をしかめて「どういうこと」と尋ねる。
「九体、で情報通の博士ならピンと来るかと思ったんですけどね。伍号機から拾参号機のことですよ」
「エヴァシリーズ」
「そうです。ゼーレがふっかけてきますから。我々としては倒さなければならない相手ですけど、それは使徒とは違う」
「それじゃあ使徒の倒し方を今から、」
「必要ありません」
少年は諦めたように顔をゆがめる。
「あれは、俺の獲物ですから、他の誰にも譲れませんので。それじゃあ、発進準備をお願いします。俺はプラグスーツに着替えてきますから」
「今日来るのは間違いないことなの?」
「ええ。本人とそう話しましたから」
少年の返事に、リツコは完全に言葉をなくした。
自分の携帯に非常招集がかかったのは分かっている。だが、ミサトは自宅でノートPCの画面に見入っては全く動こうとしない。
そこに書かれてあったもの。それは、少年に依頼されて探していた『ゼーレの本拠地』であった。
(開発番号kosmos−2369。セカンドインパクト直前の二〇〇〇年二月三日に打ち上げ。目的などは一切明らかにされず)
されるはずもないだろう。その中にゼーレの老人たちが乗っているというのなら。そもそもその頃の技術で何人もの人間がのった恒久的な友人人工衛星が開発されたこと自体がニュースになる。日本など気象衛星を何度も飛ばそうとしながら失敗が続いていた時期だ。
コスモス衛星はロシアで開発された全ての人工衛星の総称である。二千年までに二千機以上が打ち上げられ、中には失敗もあったが、開発目的不明の衛星はいくらでもある。
軍事衛星といっても攻撃システムを備えた衛星はこの頃にはない。偵察目的、通信目的、ミサイル探知目的などさまざまだが、いずれにしても攻撃力そのものを備えているわけではなかった。少なくとも公には。
だが、アメリカにせよロシアにせよ、機密がそう簡単に漏れるようではまずい。どの国よりも自分の国が最先端の技術を持っているのだということを示さなければ世界のリーダーとして動くことができないからだ。その技術をやすやすと手渡すことはできない。
セカンドインパクト後には攻撃システムを備えた軍事衛星も数々上げられていったが、それらは二〇一〇年のジュネーブ協定で全て凍結することになった。先のアラエル戦でミサトが一時凍結解除を求めたのはその衛星たちだ。
「問題は」
ミサトはそれらの情報を別フロッピーに保管し、最悪の事態を想定して携帯から少年に向けてメールを送る。
その内容はただ読んでもたいしたものではないように偽装する。あとは少年が気づくかどうかの勝負だ。
(あとは)
このフロッピーを届けるだけだ。
そしてミサトが立ち上がった直後。
「葛城、ミサトさん」
男の声が、自分の部屋に響いた。
そして。
ライフルの一斉射撃の音を、最後に耳にした。
『来たな』
少年はエヴァのエントリープラグの中から外の光景を眺める。
使徒警報のおかげで街には既に誰もいない。決戦の準備は整っている。
「待たせたね、シンジくん」
『ああ、カヲル。決着をつけよう』
二人の会話はもちろん発令所にも届いている。
「どういうこと」
その『使徒』の姿を見たリツコはじっと画面を見つめる三人の少女たちを振り返る。
「どうもこうもないわ。あれが使徒よ」
アスカは見向きもせずに答えた。
第十七使徒、タブリス。
その姿は人間。その知性は人間の何百倍も高い。
「シンジにとって、たった一人の友人よ」
リツコはまた顔をしかめる。それではあの少年は、敵が何者か分かっていて出撃したというのか。
「シンジくん、聞こえる」
『ああ』
ぶっきらぼうに返答が来る。
「その使徒──」
『悪いけど、博士。こいつは俺の獲物だと言った。一切の手出しは無用。バックアップもいらない。ただ見ていてくれればいい』
直後。
その少年から、パターン青が発射された。
「パターン青、使徒です!」
「分かってるわよ!」
マヤの言葉に苛立ちを隠さずにリツコが言い返す。
少年も初めから銃など持っていない。エヴァの掌ほどしかない大きさの少年に、一部の隙も見せずにプログナイフを構える。
戦闘は、すさまじいスピードをもって開始された。
一瞬で初号機が詰め寄りプログナイフを振り下ろす。だが、それは強力なA.T.フィールドによって阻まれる。八角形の光の壁が、ナイフの侵入を許さない。
中和しようと左手でその壁に触れた瞬間、カヲルの姿が消える。
『後ろか』
体勢を立て直す間もなく、カヲルの体が光、その衝撃で初号機の体が大きく弾き飛ばされる。地面に倒れた初号機を見てリツコがうなった。
「こんなにあっけなく倒された初号機は初めて見るわね」
それだけカヲルの攻撃に威力があった、ということだ。
そう。少年はおよそ『苦戦』をしたことがない。シャムシエル戦、イスラフェル戦では腹部に重傷、アルミサエル戦では左腕を落とした少年であったが、大地に倒れるというシーンはそれでもなかったはずだ。
『やはり一筋縄ではいかないな』
少年の声が発令所に響く。
「何やってんのよシンジ! 負けたら承知しないわよ!」
『分かっている』
カヲルは宙に浮いて初号機を見下ろしている。立ち上がってプログナイフを構えると、その高さはちょうど目線の高さほどにいた。
「シンジくん」
そのカヲルから声がかけられる。
「君はこれから、一人でどうやって生きていくつもりだい?」
その言葉に、発令所の中がかすかに動揺を見せる。
「僕は補完計画を否定するつもりはない。でも、人類が一つの生命になるというのは確かに理想だ。そこには不和も争いもない。それを否定する理由が、シンジくんにはあるのかい?」
『答がほしいのか』
少年の声はかすかに苛立ちを帯びていた。
「できればね」
『なら答えてやる。俺はたとえこの世界にたった一人しかいなくてもあの【生命のスープ】に同化したりしない。何があってもだ。俺はこの体を使って、死ぬまで生き延びてやる。それが俺の存在の理由だ』
「レゾンデートル」
カヲルが鈴のように鳴り響く声で受け応える。
「なるほどね。確かにシンジくんのような境遇を考えると、何よりも自分が大事だっていうのはよく分かる気がするよ」
『当たり前の話だが、俺は大事なものを取りこぼすつもりはない。この世界に一人生き残っても意味がないのはお前の言う通りだ。だから大切なものは自分の手で守る』
「それがシンジくんにできるのかい?」
『何?』
「その気になれば僕は今すぐにでも、あの三人の女の子たちを殺すことだってできる。ただ僕がその気にならないだけだ。今はね」
『人質でも取ったつもりか』
「そういうわけじゃない。ただ、シンジくんがあの子たちを守りたいと思うなら、それは遠回りをしているようなものだ。どうして事を最短で運ばないのかな?」
少年が沈黙する。その言葉に何か思い当たることでもあったのだろうか。
「そのままでは僕を倒すことはできないよ。さあ、どうする?」
初号機は左手を伸ばした。そして、言う。
『来い』
その瞬間、ネルフ本部を巨大な地震が襲った。
「何!?」
「地下のターミナルドグマから巨大な質量をもった物質が上昇!」
マヤの報告に冬月が身を乗り出す。
「まさか、ロンギヌスか!?」
総司令碇ゲンドウだけがいつもの体勢で身動ぎせず状況を見守っている。
ラミエルの開けた大穴を上昇し、ロンギヌスが使用者である初号機の手に収まる。
「気づいたようだね。それでないと僕は倒せないということに」
少年はその槍を構える。
「そう。ロンギヌスの槍はA.T.フィールドを無効にする。ここからが本当の勝負だ」
そして、少年は両手でそのロンギヌスを抱えた。
投擲をするように。
「そう。『その方向』でいい。僕の方に向かって投げるんだ」
『お前の──お前たちの命は確かに受け取った』
少年はそのまま助走し、カヲルのことなど無視したかのようにする。
狙いは、一点。
『くだけろ、kosmos2369!』
放たれたロンギヌスが光の速さとなって一瞬で人工衛星kosmos2369を貫く。
乗船していたゼーレのメンバーは、何も考える暇すらなく、一瞬で宇宙の塵と化した。
発令所では何が起こっているのか、全く理解できない。
ただ、少年と使徒の会話だけが響いた。
「お疲れ様、シンジくん。これでゼーレの脅威は半分ほどなくなった」
『半分?』
「まあね。ゼーレは存在していてもしていなくても、世界に影響を与えることができるっていうこと。ある意味で世界経済はゼーレがいたから何とか回っていたようなものだ。それがなくなればバランスを失う。問題は山積みだよ」
『だが、これで補完計画は防げた』
「それもまだだよ、シンジくん。エヴァシリーズが残っている。あれには僕のダミーがインストールされている」
『カヲル、お前』
「僕はね、シンジくんがどこまでやれるのかを見てみたい。あの『フィルム』の状況に陥っても、それでもシンジくんは生き残ることができるのか。だから、ゼーレがいなくなった以上、これからは僕が相手だ。僕も、滅びの運命に対して、少しだけ逆らってみたくなったのさ」
『──ふん』
少年は鼻で笑った。
『お前の補完計画の目的は、自分の補完か?』
「そう。そのために必要なものがある」
『アダムか』
「そう。だから、シンジくん。これは僕か、それとも人類か、どちらかが生き残るサバイバルだ。その最初の戦いだ。僕は死んでもダミーが動く。分かってると思うけど」
『既に戦略自衛隊、それに国連軍も動かす手はずは整っている、ということだろう。ネルフを壊滅させるつもりか』
どよ、と発令所がどよめく。
「もっともシンジくんはそれを見越して、先にN2爆弾を全て投棄させたんだろう?」
『それだけじゃない。戦略自衛隊を封じ込める手段も俺にはある。少なくとも国際世論的に身動きが取れなくなるようなものがな。マナ』
「はい」
突然呼びかけられたマナだが、驚いた様子はなかった。戦略自衛隊、という言葉が出てきた時点で既に覚悟は決まっていたかのような言い方だ。
『すまない。お前のことを使わせてもらう』
「いいよ。シンジくんのためだもん」
『ならば博士。MAGIに命令して碇シンジのフォルダからsenji.docのフォルダを無差別に垂れ流すように指示』
「シンジくん、これは」
『戦略自衛隊の非合法活動について、マナから聞いた限りの話です。国際世論が一時的にパニックになりますよ。表立っての活動はおそらく難しくなるでしょう』
「なるほどね」
カヲルが頷いて初号機を見つめる。
「まさかそんな隠し玉があるなんてね。国連軍はどうするつもり?」
『お前は意外に人間を知らないな。ゼーレがいなくなったこの状況で国連軍を本気で動かせるとでも思っているのか? 各国とも今は情報の収集に全力をつくし、自分の国の軍隊は少しも動かしたくないと考えるだろう。このネルフはしばらく安泰だ。問題はお前の、エヴァシリーズだけだ』
「なるほど。全て計算づく、ということか」
カヲルは素直に感心して首を振った。
「じゃあ、やっぱりシンジくんとは決着をつけなければいけないね」
『そういうことだな。お前もエヴァシリーズをすぐにこの場に呼ぶことはできないんだろう。なら、お前との決着だけはこの場でつける』
素手のまま、初号機はカヲルに向き合う。
「言っておくけど、こんな姿のままでも僕は強いよ」
『知っている。あの『フィルム』の中ではお前は全く戦わなかったが、そのA.T.フィールドの強力さは承知している。俺がお前を捕まえるのが早いか、それともお前が初号機を完全に破壊するのが早いか、勝負だ』
「勝負にならないよ」
カヲルの姿が消える。咄嗟に横に初号機が飛び退く。
その場所が、爆発を起こした。
「よくかわしたね」
だが、続く背後からの攻撃をかわすことはできなかった。また弾き飛ばされて大地に倒れる。
「ゲブラー!」
倒れた初号機の上に浮くカヲルが、何か魔法のようなものを唱える。その組んだ両手に黄金色の光があふれる。
それが、初号機に照射された。
『A.T.フィールド全開!』
初号機は反転してA.T.フィールドを張る。だが、そのフィールドに瞬時に亀裂が走る。
「ティファレト!」
さらに今度は、カヲルが光の弓を構える。白色の矢が放たれ、その亀裂から矢が侵入してくる。
『A.T.フィールド中和!』
この『魔法』の種はA.T.フィールドだ。単なる防護フィールドとして使うのではなく、攻撃用にフィールドを固めて放っているのだ。
『さすがタブリス』
だが、それを中和しきって消滅させる少年も只者ではない。
『だが、カヲル。勝つのは俺だ!』
初号機が飛び上がる。そして宙に浮いているカヲルに鋭く拳を繰り出す。
だがそれも八角形のA.T.フィールドに阻まれる。
『A.T.フィールド浸食!』
「初号機のシンクロ率、二〇〇%です!」
まずい、とリツコは即座に判断する。過去、一〇〇%を越えたとき、少年は必ず重傷を負っている。また、重傷を負うことを承知の上でシンクロ率を高めている。
『何もするなよ、博士!』
だが、そのリツコの行動を先読みしたのか、少年からの声が発令所に届く。
『必ず俺がこいつを倒す。だから、黙ってそこで見学していろ』
徐々に亀裂が生じ、そして完全にA.T.フィールドがくだける。両手で握りつぶしにいく初号機だったが、それより早くカヲルは姿を消して初号機の背後につく。
「無駄だよ。僕には一瞬があればいい。一瞬、初号機の動きが止まれば、その間に逃げることができる。シンジくんが僕を倒すには、その一瞬すら無効にするロンギヌスの槍が絶対に必要だった。ゼーレを倒すためとはいえ、僕を倒す切り札を手放したんだ。シンジくんに勝ち目はないよ」
『ほざけ』
少年は左腕でそのカヲルを叩き落とそうとするが、またカヲルが姿を消し、横手に現れる。
『本気で生き延びようともしてない奴に負けてらんねえんだよっ!』
初号機の右拳がうなる。カヲルはA.T.フィールドを張ったが、ほんの一瞬、右手を押し留めることはできたものの、すぐにそのフィールドが破られ、カヲルのすれすれを右腕がかすめていく。
「驚いた。こんなにやすやすとA.T.フィールドを打ち破るなんてね」
『まだまだ。お楽しみはこれからだぜ、カヲル』
いつの間にか、初号機の手にはプログナイフが握られていた。取りこぼしていたものを抜け目なく拾っていたのだ。
『行くぜ、カヲル!』
少年が叫び、初号機が駆ける。
カヲルはA.T.フィールドを全開にしてその突進を食い止める。
今度は初号機もやすやすとは打ち破れなかった。だが、恐るべきスピードで浸食し、フィールドを引きちぎっていく。
「まだまだだよ」
直後、爆発が初号機の頭部の辺りで起こった。
初号機の頭部が、破損した。
──発令所に、沈黙が訪れた。
何しろ、シンクロ率二百%だ。
今まではこの状況で怪我をした場合、そのダメージが直接搭乗者に跳ね返ってきていた。
ならば。
頭部が破損したら。少年は。
「シンジィッ!!」
初号機のエントリープラグ内が血で濁っている。
だが、頭部が完全に破壊されたというわけではない。血走った少年の目が、そこに映っていた。
『そういうことか、カヲル』
はっきりとした意識で目の前に現れたカヲルを睨みつける。
『今度は仕留める』
「無駄だよ。今ので分かったはずだ。シンジくんは僕には勝てない」
『ならやってみな。今度は俺がお前を捕まえてみせる』
初号機は近づき、そして左手を伸ばす。
だが、再びA.T.フィールドによってその動きが阻まれる。
瞬間、
『そこだっ!』
初号機は右手に持ったプログナイフで、何もない空間を切り裂く。
だが、その直後、カヲルの姿は掻き消え、その初号機が切り裂いた場所にカヲルの姿が現れた。
「何故」
カヲルが我に返るより早く、初号機は動いていた。両手が伸びて、カヲルの体を掴む。
勝負、あった。
「シンジくんには驚かされるな」
初号機の両手の中から頭だけ出したカヲルが微笑みながら初号機を見つめる。
「どうして分かったんだい?」
『どうしてもこうしてもない。お前がいくら使徒でも瞬間移動なんかできるはずがない。だったら、そこにカヲルの幻影をA.T.フィールドを利用して用意しておき、本体はA.T.フィールドに隠れて移動し、効果的なポイントから初号機を攻撃する。あたかも瞬間移動して攻撃したように。だが、タイミングを間違えたな。攻撃を受けたときに、お前のダミーはまだ消えていなかった。ダミーが消えるよりも早くお前が攻撃したんだ。だから、お前は少しも攻撃動作をしていないのに俺はダメージを受けた。そんなことがあるはずがないのにな』
「それだけで全てのことが分かるシンジくんは少し異常だよ」
『言ってろ。それより、チェックメイトだぜ、カヲル』
初号機と使徒とが視線を合わせる。
発令所も、これからどうなるのかとかたずをのんで見守る。
「そうだね。結局僕は滅びの運命に勝つことはできなかった。さあ、殺しておくれよ。分かってるだろう、僕には生と死は等価値だっていうことを」
『分かっている』
だが少年はすぐに実行はしなかった。
『だが、俺にとってはお前の生には大きな価値がある』
発令所がかすかに揺らぐ。
『今からでも遅くはないだろう。カヲル。俺のところに来い。俺と同じ時を生きてくれ』
しかしカヲルは首を振る。それはできない、と。
「もう僕の正体がばれてしまっているしね。それに、やっぱり僕にはその選択だけはできないみたいだ。これは本当のことなんだけれど、シンジくんと一緒に生きる未来というのも考えてみたんだ。でも、僕にはそれを選ぶことだけはできなかった。その未来は僕に用意されていないんだ」
『未来なんて、自分で作るものだろう』
「人間にとってはね。でもタブリスにとってはそうではないんだ」
異なる価値観、異なる哲学。
説得が不可能であるということを悟ったのか、少年は息を吐いた。
『分かった。オ・ルヴォワール、カヲル』
「ああ。シンジくんに会うことができて、嬉しかったよ」
だが。
それからしばらく、初号機は動かなかった。
ためらっているのかと発令所のメンバーは思ったが、そうではない。
かすかに初号機と、少年自身が震えている。
アスカは疑問に思った。
たとえ彼にとってどれほど大切な相手とはいえ、ここで躊躇するような少年ではない。
何か、そう、彼が実行できない何か別の力が──
「しまった、アナザー!?」
アスカの叫びに反応したかのように、初号機の少年が叫ぶ。
『駄目だ、カヲルくんは殺させない!』
『黙れ! お前にはもうこの体を使わせねえ!』
『お前こそ黙れよ! どうして友達を殺したりすることができるんだよ!』
『俺はお前と違って自分の命が最優先なんだよ! 他の奴のために自分が死ねるか!』
『他の誰かを殺すくらいなら僕は自分の死を選ぶ!』
『だから俺はお前が嫌いなんだ!』
『僕の台詞だ!』
──そう。
今までも友人の危地の時ばかり現れていた『アナザー』がこの場面で出てこないはずがないのだ。
少年をして『自分より強い』と言わしめた『アナザー』。
誰も、その戦いに口を挟める者はいなかった。
ただ呆然と、その戦いの趨勢を見守る。
『お前は俺の僕は絶対に許さねえ何がこの体を渡したのはふざけるな俺が僕はこんなことお前の出る幕じゃするためなんかじゃない黙ってろこのカヲルくんは使徒は俺が友達を殺すなんてお前なんかに負けてこの体をこれ以上絶対に許さ嫌だ僕は黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ』
一つの体の主導権をめぐる争い。
どちらが勝つのかというよりも、その『二人』の意思にあてられた発令所はもう、何も言葉はない。
『ああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!』
最後は絶叫。
そして。
第十七使徒の、首が落ちた。
初号機は全く動かなかった。
頭部に損傷はあるが、命に別状がないというのは発令所からも確認できるところだ。
アスカが弐号機で初号機を回収し、ケイジでエントリープラグが排出される。
少年は自分では動けないのか、LCLが排水された後、職員の手で運び出される。
その目が、虚空を見つめていた。
三人は担架に乗せられた少年に近づく。
「シンジ」
「碇くん」
「シンジくん」
その声に反応するかのように、少年は三人を見て、言った。
「ごめん」
……最後の戦いは、目前に迫っていた。
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