『来い』

 たった一言の言葉だけでリニアに乗った碇シンジを、俺は馬鹿だと思う。

 嫌っているのに、嫌いきれない。
 関わりたくないのに、関係を断ち切れない。

 その優柔不断さが、俺を苛立たせる。












第零話



分岐点












 俺は名前のない意識体。
 はるか昔、碇シンジによって『喰われた』消えた双子だ。
 俺はずっとこの男の意識の下にいた。
 休む必要のない俺は、常に意識が働いている。
 自分の体のこともよく分かる。
 どうすれば記憶にしっかりと残せるか。
 どうすれば自分の体を鍛えられるか。
 全てよく分かっている。
 それなのに。
 この体が、まったく、ちっとも、ほんの少しもいうことを聞こうとしない。

「碇くん、やっぱりチェロ上手だね」

 長野県立第四中学校の室内オーケストラ部には、男子は碇シンジしかいない。
 物腰が柔らかい少年碇シンジは、実のところ女子から人気がある。客観的に見ていた俺にはよく分かっていた。
 俺ならどうするだろうか。手当たり次第に手をつけるのも悪くはない。
 だが、相手につきまとわれるのもあまり嬉しくはない。
 そしてこの碇シンジは鈍感にも、

「そ、そうかな」

 少し照れたように答えていた。

(苛々する)

 こんなところで意味もなくチェロを弾いているこの男が許せない。
 もしも俺が自分の体を使えるのなら、どんなことでもできるのに。
 この動かない体がうらめしい。
 俺と正反対の性格をしているこの男が憎らしい。
 自分の体を喰ったこの男を、俺は零歳の時から嫌いだった。





 最も苦痛なのは、碇シンジが眠る時だ。
 俺は寝る必要がない。視界が閉じられ、碇シンジが眠りについた時、そこから暗黒の数時間が始まる。
 何も見えない暗闇。
 確実に刻まれる壁掛け時計の秒針の音だけが、外界との手がかりだ。
 眠るとは、いったいどういう感覚なのか。
 そんなことは一歳になるかならないかのうちに検証は終わっている。それは、時間の無駄遣いだ。
 この八時間を利用することができたなら、俺はどれだけ喜ばしいだろう。
 この八時間だけでも利用することができたなら、俺はどれだけ喜べるだろう。
 諦めたのは、俺が一歳の時だ。





 碇シンジという男は俺からみて、典型的な事なかれ主義だ。
 同い年の従兄弟の顔を立てるために、勉強ができるにも関わらず成績を下げる。
 家族の団欒を壊さないために、決してリビングに長居することはない。
 自分の世界を丁寧に守り、誰も自分の心の奥底に踏み込ませない。
 苛々する。
 この男は、自分以外のものは何も好きにならない。
 自分だけが大事。
 自分だけが大切。
 そんな男に、いったい何の価値があるというのだろう。
 だが、俺は一生日の目を見ることはない。
 絶対にない。
 そんな希望は、二歳の時に捨てた。





 ある時、碇シンジは同じ部活の女子生徒から告白された。
 碇シンジは、ごめん、と謝って、逆に女子生徒以上に混乱した。
 その狼狽ぶりに相手もあわてたのか、本来なぐさめられるはずの女子生徒の方が碇シンジをなぐさめていた。
 そう。
 この碇シンジという少年は、人を好きにならない。
 何故なら、人に愛されたことがない。愛を受けて育っていない。
 それは少年が三歳の時。
 碇シンジは覚えていないだろう、あの、碇ユイがエヴァに解けてなくなった二〇〇四年。
 碇シンジの目の前で。
 俺の目の前で。
 母親──母さんは、エヴァに解けて消えた。





 そう。
 あのエヴァンゲリオンの中には今も碇ユイが眠っている。





 図書室で少年はよく勉強をする。
 教師たちも少年がよく一人で学習しているのは知っていたらしく、よく学習アドバイスをしてくれる。だが、それが点数につながったことは一度もない。
 それは、少年が従兄弟より高い点数を取らないようにしているためだ。
 彼の思考は勉強をしながらでも、テストの時でも、ダイレクトに自分に伝わる。
 従兄弟に負けるためには何点を取ればいいのか、緻密に計算してわざと間違える。
 勉強をしても従兄弟を超えられないという馬鹿な自分を演じることによって、従兄弟をたてる。
 くだらない人生だ。
 俺は、この碇シンジという少年を四歳の時に見限った。





 それから十年。





『来い』

 たった一言の手紙で、碇シンジはリニアに乗った。
 何故乗るのか俺には理解できない。碇シンジの中には葛藤があった。

 会いたくないのに、会いたい。
 信じられないのに、信じたい。

 あの碇ゲンドウを信じていったい何になるというのだろう。
 あの男は既に碇シンジという少年を見限っている。いや、違う。
 碇ユイに似ているシンジを傍に置きたくないのだ。
 ユイを思い出すから。
 思い出は心の中だけにあればいい。
 そんなことを思っているのに違いない。

 そんな碇ゲンドウを、俺は好きになれなかった。

 捨てられたのは『碇シンジ』であって俺ではない。別にそのことを恨みに思うつもりは全くない。
 一人の人間として、好きになれないのだ。
 あの男は、エヴァに眠る碇ユイに会うためなら何でもするだろう。
 そのために、愛する息子を殺すこともいとわないだろう。
 碇ゲンドウの優先順位は、一番にユイで、大きく離れた二番がシンジなのだ。

(俺は消されない)

 殺されるつもりはない。
 いつの日か、必ずこの体を使いこなせるようになるのだ。
 碇シンジに気づかれることなく。
 碇シンジから、この体を乗っ取る。
 それが、自分の、最大の望み。

 その望みは、自分が五歳の時から強くなっていた──





 リニアがトンネルに入る。
 瞬間、視界がブラックアウトした。
 トンネルに入ったからではない。
 誰かが、直接碇シンジの思考の中に入ってきて、外界と意識を強制的に遮断したのだ。

(何だ?)

 そして。
 俺の前に、一人の少年がいた。

「お前は」

 自分の口が動くことにも、その時は気づかなかった。

 そう。
 目の前にいたのは、碇シンジ、本人。
 そのシンジもまた、自分を見て戸惑っているようだった。

「僕?」

「俺?」

 お互いに自分たちを意識する。
 そう。
 この時初めて、碇シンジは俺のことを知った。
 巧妙に隠れていた俺に気づいた。
 そして、そのことを気づかせたのは──

「やあ、シンジくんたち。始めまして」

 赤い瞳をした少年。

「僕は、渚カヲル」

 そう。それが人ならざるものだということに気づくまで、二秒とかからなかった。

「何者だ」

 混乱して答えないシンジに対して、俺はすぐに相手の正体と、この場の現状を確認する。

「僕は君たち人間とは違う存在。第十七の使徒、タブリス。でも、そんな言葉にはあまり意味がない。僕は僕で、君は君だ。違うかい?」

 違わない。
 確かにその通りだ。自分は自分で、名前を持たない単なる意識上の存在。彼の言うことは自分にはよく分かる。

「じゃあ質問を変えよう。お前の目的は何だ」

「僕は見極めたい。はたして人間が、真に存在を許された唯一の知的生命体なのかということを」

 不思議なことを言う男だと思った。
 この地上には許されるものも許されないものもない。
 ただ、あるか、ないか、それだけだ。

「その答は存在しない」

 だから俺は正直に答えた。

「何故なら、問題自体が存在していないからだ」

「やっぱり、君はどこまでも正しいことを言うね、シンジくん」

 カヲルは俺に向かって、シンジ、と呼んだ。

「ま、待ってよ」

 そこに割り込んできたのは『本物』のシンジだ。

「わけわかんないよ。いったい、どういうことなんだよ」

「お前が真実を知る必要などない」

 俺は冷たく『本物』を視線で射抜く。だが、アルカイックスマイルを浮かべたカヲルが「それはかわいそうだよ」と俺を諭してきた。

「誰にでも真実を知る権利はある。ただ、その真実を許容できるかできないかの差があるにすぎない。君たち双子は特殊な関係だ。おそらく、今まで彼の方は全く君のことを感知していなかったんじゃないかな」

「俺がこいつに気づかれるようなヘマをするか」

 毒づいて唾を吐く。

「双子?」

『本物』の顔が奇妙に歪む。

「そうだ。俺はお前の双子の兄弟。もとは碇ユイの体内にお前と二人で存在していた。だが、母体の力が弱く、二人の子を育てるほどの力がなかった。碇ユイはそのことに気づくと、意識的に二つの子を一つにしようとした。薬を使ってな。だが、それはうまくいかなかった。自我を残したがったお前が逆に、一つになるくらいならばと、この俺を喰い殺した」

「く、喰い殺す……?」

「そうだ。俺の体を取り込んだお前は母体ともども安定した。いわゆる、ミッシング・ツインだ。もっとも、このミッシングは自然に発生したものではない。碇ユイが作った薬と、そしてお前の異常なまでに発達した自我が、もう一人の子供を殺すという結果として起こった事象だ。だが、それは奇妙な歪みを残した。その歪みが、俺だ」

「君は」

「俺は体を喰われても消えなかったただの意識だ。名づけられることもない、生まれることもない、ただお前の体の中にひっそりと隠れ、消されないように怯えていた、ただの影だ」

「僕が殺した」

「そうだ。お前が俺を殺した」

 さすがにその言葉はショックだったのか、碇シンジは愕然とした表情で目を見開いたまま俯く。
 だが。

「俺はお前を許さない。もう俺は消されない。逆に、俺がお前を消し去ってやる」

 その声が、さらにシンジを狼狽させた。

「さて、カヲル」

 こんな優柔不断男にはかまっていられない。俺は、この男の方が百倍気になっている。

「人間が許される知的生命体か、とお前は尋ねた。ということは、人間ではないお前は、生き延びることが目的ということか?」

 だが、カヲルは首を振って答えた。

「僕にとって、生と死は等価値なんだ。人間が生きたいと思わないのなら僕は生き残るし、そうでないのなら僕は死ぬだけだ。この地上に生きることを許された知的生命体は一つだけだから」

「それは『神の言葉』か?」

「そうとってもらってもかまわない。僕自身、神の掌の上に泳がされている存在にすぎないからね。そして君たちもそうだ、シンジくんたち。君たちは未来を選ばなければならない。人として生きるか、人として死ぬか。その選択権は君たちに託された」

「どういうことだ?」

「言葉通りだよ。神のプログラムの上で、君は選ばれた存在となった。何故と問われても、それが運命だったとしか答えようがないね。何しろ、このリニアの先に待っている未来は、君たちが予想することは到底不可能な内容なのだから」

「未来?」

「そう。未来は定まっている。未来を変えられる可能性は、ただ、今この時しかない。僕は、君たちの未来を変えるために来たんだ」

 カヲルの言っている言葉の意味がつかめない。

「未来というのはまさか、人類が滅びるということか?」

 カヲルの言葉を正しく追いかければそういう結論に行き着く。つまり、人類が生き残るか、それとも人間ならざる者たちが生き残るか、生存競争が行われるということだ。

「そう。それも、僕たち全ての使徒を倒したあげく、人類も全てが滅びてしまうという最悪のシナリオが待っている。どうだい、シンジくんたち。もしこのままリニアに乗っていったら、世界がどうなるのか、知りたいと思わないかい?」

「それは、このシンジに世界を託したら、という意味でとらえていいのか?」

「さすがに、君は聡いね。そうだよ」

「つまり、未来を変えたいのなら、このシンジではなく、俺に行動しろ、と言いたいんだな?」

 カヲルは凍った笑みで頷いた。

「いいだろう。見せてもらおう」

「じゃあ、行くよ」

 カヲルの手に現れたのは一本のフィルムだった。映写機にまわすかのような。そのラベルには『GENESIS 0』と書かれていた。

「これが、未来だ」

 ──そして、長い映像があふれ出した。





 道の先にいる制服の少女。
 第三新東京市に現れた謎の生命体。
 青いルノーと、年上の女性。
 紫色の巨人、エヴァンゲリオン。
 父親との再会。
 包帯だらけの少女。
 知らない天井。
 思い出される戦闘の記憶。
 クラスメートとの出会い。
 度重なる戦闘。
 命令違反。
 家出。
 壊れた眼鏡。
 叩かれた頬。
 溶けていく零号機。
 人造人間ジェットアローン。
 空母、オーバー・ザ・レインボウ。
 赤毛の少女との出会い。
 ユニゾン訓練。
 本部施設の電源カット。
 戦略自衛隊から転校してきた少女。
 宇宙から飛来する使徒。
 第八七タンパク壁に潜む使徒。
 ゼーレのシナリオ。
 魂の座。
 乗り込んだ零号機の暴走。
 赤毛の少女とのファーストキス。
 虚数空間からの凄惨な脱出劇。
 フォースチルドレン。
 友人との戦闘。
 懲戒処分。
 襲撃する最強の使徒。
 シンクロ率四〇〇%。
 三〇日後のサルベージ。
 副司令の誘拐。
 十五年前の記憶。
 加持の死。
 衛星軌道上の使徒。
 アスカへの精神攻撃。
 ロンギヌスの槍を投擲。
 融合する使徒。
 零号機が自爆。
 三人目の綾波レイ。
 ダミープラグ生産工場の破壊。
 最後の使徒。
 一次的接触。
 歓喜の歌と絶望へのシナリオ。
 ゼーレによるネルフ本部攻撃。
 戦略自衛隊の出動。
 九体のエヴァシリーズ。
 捕食される弐号機。
 発動する補完計画。

 そして。

 赤い世界。

『気持ち悪い』

 少女の言葉とともに、終幕を迎えた。





「これが未来だ」

 もう一度カヲルが言う。映像の途中で『シンジ』は何度も、やめて、と叫んでいたが、最後は映像の中のシンジと同様、完全にうつろな状態に陥り、膝をついて呆然としていた。

「これが、碇シンジが描いた未来と世界か。なるほど、寒気がする」

 正直な感想を俺が述べると、カヲルは張り付いた笑みのまま首をかしげた。

「一つ聞きたい」

「何だい?」

「お前は味方なのか、敵なのか」

「どちらとも言えないね。味方にもなるし、敵にもなる」

「お前はシンジの味方か、俺の味方か」

「どちらのシンジくんにとっても味方だし、どちらのシンジくんにとっても敵になる」

「お前自身の意思はどこにある」

「僕に自由意思はない。あるのはただ、生存本能だけさ。なまじ知恵がついているだけに、自分でも厄介な存在だとは思うけれどね」

 カヲルは笑って言うが、これは笑い事ではない。
 目の前の男は人類にとって最大の脅威であり、そして同時に人類の最大の庇護者でもある。
 こんな馬鹿げた話があっていいものか。

「俺が、体をのっとってしまってかまわないんだな?」

「そちらのシンジくんが許可してくれたらね」

 カヲルの視線の先に、まだ立ち直れていないシンジがいる。

「立て、シンジ」

 俺はシンジの胸倉を掴み上げて、強引に自分を向かせる。シンジが目を背けたので、その頬を叩く。

「現実から逃避しやがって! 全てはお前が引き起こした結果だろうが! お前が第三に来なければ、お前がもっと強ければ! お前さえしっかりしてれば『赤い世界』は生まれなかった!」

「だからって、僕に何ができたっていうんだよ。何も知らない、何も分からないなかで、僕に何ができるっていうんだよ!」

「甘ったれてるんじゃねえ! お前を想って、お前のために死んだ綾波に、お前は何をしてやった!? あの弱いアスカにお前はどんな仕打ちをした!? 独善者め、お前なんかに世界を背負わせることはできない!」

「だったらお前がやってみろよ! 僕じゃなくてお前がやればいいだろ!」

「言ったな」

 そして、俺は笑った。
 そう。それを言わせるだけで充分だった。
 その発言を引き出せればそれでよかった。

「うあああああああああああああああああああああああっ!」

 突如、シンジが叫びだす。何が起こったのかは分からないが、おそらくカヲルあたりが体の支配権をシンジから俺に移動させようとしているのだろう。

「お前はゆっくり俺の中で見ているがいい。俺は、俺が碇シンジになってやる。お前は永久にこの体に出てくることはない。安心しろ、お前が嫌いなアスカも、綾波も、マナも、全部俺が幸せにしてやる。俺が世界の崩壊を止めてやる。お前じゃない。俺がだ」

「嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、父さん、母さん、こんなのは──」

「お前も守るものは一人もいない! 潔く消えろ!」

 そして。
 その世界から、碇シンジが消えた。

「おめでとう、シンジくん。これで君は、体の支配権を手に入れた」

 カヲルが話しかけてくる。俺はそれに苦笑しながら答えた。

「一つ、聞きたい」

「どうぞ」

「お前は生きることを望んでいるのか」

「どちらとも言えないよ。僕はあらゆる意味で中立だからね」

「だが、最終的に俺の前に立ちはだかるのはお前なんだろう」

「僕の後ろにはゼーレがいるよ。僕だけを敵視しない方がいい」

「結局のところ、世界の滅亡とは戦わなければならないわけか」

「戦わなくてもいいよ。だいたい、君が人間の生死を背負う必要はない」

「ふん。あの腑抜けから体の支配権を奪っておいて、ここでおめおめと尻尾巻いて逃げるなど性に合わねえ。だが、覚悟を決めておきたい」

「覚悟?」

「そうだ。俺はずっと自分の体の支配権がほしかった。ずっとだ。それをお前はかなえてくれた。俺にとっては恩人だ。その恩人と戦うことになるなら、今のうちに覚悟を決めたい」

 カヲルは目を丸く見開いた。ありえないことだが、驚いたようだった。

「これは……なるほどね。うん、それがリリンの考え方か」

「それで? 結論を聞こうか」

「君が選ぶといいよ。人間を取るなら僕と戦うし、僕を取るなら人間は滅ぶ。それだけさ」

「はっきりと言ってくれれば楽なんだがな。だが、自分が生きるためにはお前を殺さなければならないということは確かなわけだ。それならいい」

 少年は殺気を込めてカヲルを睨んだ。

「お前を殺す。勝負は正々堂々といこう」

「それが君の覚悟というわけかい。いいよ、君が望むならね、シンジくん」

「よし。それじゃあ、意識を戻してくれ」

 少年は言った。そしてカヲルが告げる。

「それじゃあ、一年後にまた会おう、シンジくん」

「ああ。それまで俺が生きてたらな」

 そうして。
 この世界から意識が途切れた。





 目覚めた時は、スポーツバッグを持ったまま、どこかの街の中にいた。
 虫の声が聞こえた。
 空は青く、高い。雲は一つとして見えない。澄んだ空。そして、灰色の大地。
 舗装された道。そして、立ち並ぶビルの群れ。
 誰もいない都市。
 静かで、どこか物悲しさを感じさせる。

「……どこかで見た風景だな」

 自分の唇が動いた。
 そのことに、驚きを覚える。

(まさか)

 何が起こったのかなどわからない。
 だが。

(あ、あ、あ)

 自分の体が全く動かない。
 本当に、本当に自分でこの体を動かせるのか、確証がない。
 だが、確かに動いた。
 自分の思考を、自分の口がつむいだ。

(俺が──この体を使えるようになった、というのか。本当に?)

 道の先に、制服姿の少女が見えた。
 そうだ。これも見覚えがある。あの、精神世界の中で、渚カヲルが見せたビデオテープ。
 未来に起こる全てのことが。
 頭の中に還ってくる──

「……そんなことが、ありうるのか?」

 一歩、踏み出す。
 動く。
 歩く。
 見上げる。
 その先を、巨大な飛行物体が横切っていく。

「使徒か」

 戦う。
 あれと。

 ──この、俺が!

「くっ、くくくく、ふふはははははは、あははははははははははははははははははは!」

 少年は、しばらくの間、笑い続けた。





 ひとしきり笑ってから、少年は現状を確認した。
 あの『フィルム』の中では、これから碇シンジはサードチルドレンとして登録され、あの使徒たちと戦わなければならない。
 独善者たち、あのネルフの中に入り込まなければならない。
 どうしたものだろうか。

 そのまま、少年は道を歩く。
 誰もいない第三新東京は、爆音だけが響いている。

 カヲルにはああ言ったものの、実際こうして冷静になってみると、わざわざ自分が命をかけて戦うのも馬鹿らしく思えてくる。
 だいたい、自分さえいなければもしかしてサードインパクトは起こらないのではないだろうか。
 それは楽観的な憶測というものか。アダムと使徒の接触が本当にサードインパクトを起こすのだとしたら、それは防がなければならない。
 だが、その謎は『フィルム』では解決されていない。
 何故使徒はアダムを目指すのか。
 ジオフロントが黒き月と呼ばれるものであることに関係があるのか。

 と、そこへ。
 一台の、青いルノーが自分の前で急停止し、その助手席のドアが開く。

「早く乗って!」

 周りは、使徒によって破壊されたビルの破片が次々に降り注いできている。
 このままでは命の危険があるのは明らかだった。
 だが。

(これに乗れば、もう引き返せない)

 戦うか、戦わざるか。

(どうする、俺!?)

 真剣に考える。
 この車に乗って戦場に向かうか。
 それとも戦場を放棄し、安全な場所まで逃げるか。

 その時。
 自分の脳裏を映像がかすめていった。

 それは、霧島マナという名前であり、
 惣流・アスカ・ラングレーという名前であり、
 綾波レイ、という名前であった。

(あの三人を救うだけでも、俺がこの体を使えるようになった価値があるというものだ)

 悩んだようでいて、あまり悩んでいないのかもしれない。
 それに、約束をしたのだ。

(カヲル)

 そう。あの、皮肉屋に。

(俺はお前を、助けたい)

 純粋に誰かを思うことなど、今までになかった。

「早くなさい、死にたいの!?」

 この女の話は聞くつもりはない。作戦部長だか何だか知らないが、およそまともな作戦を考え付かないヤツだ。まあ、発想自体に大きな間違いはない、ただ、発想したことに喜びを見出し、それを完全にする努力を怠る。
 上司としては、不適格だ。

「ちょっとアンタ、人の話聞いてるの!?」

 空を見上げる。
 使徒が、こちらを見ていたかのようだった。

(俺に気づいているのか)

 それならそれで面白い。
 どのみち倒さなければならない相手ならば、全力でいこう。
 ゆっくりと車に乗り込み、急発進するのを予想して体を固定しつつ、シートベルトを締める。
 スピードメーターが一気に上がり、誰もいない街を時速二百キロで駆け抜けていく。

(この女と、よく一緒に暮らす気になれたものだ。碇シンジ)

 状況に流されるあの男に呆れるようになったのは、六歳の時からだ。





「ふ、出撃」

「拒否します」

 未来を知っている自分は、あらかじめ用意していた言葉を答える。
 だが、そんなことでこの厚顔無恥な男が動じるはずもない。もっとも、自分の様子がおかしいことにはとっくに気づいているのだろうが。
 そう。簡単に出撃してやるわけにはいかない。
 自分はこの世界で生きていく道具が足りない。
 仲間を増やし、碇ゲンドウとゼーレの牙城を切り崩し、そしてこの世界と自分の大切になるだろう人たちを守らなければならないのだ。
 そのためには、取れるものならばいくらでも取っておくべきだ。

「乗るなら早くしろ」

「でなければ帰れ、とでも言うつもり、父さん?」

 そう。これはゲンドウのはったりだ。
 最悪、レイの様子を見せれば自分が乗ると信じて──いや、分かっている。そういう性格にわざわざ育て上げたのだから。
 そして実際『フィルム』の中では綾波レイを助けるためにシンジは出撃している。
 だが、俺はそうじゃない。
 俺は『シンジ』じゃない。

「別に僕は帰ってもいいですよ。僕のほかに二人、パイロットがいるみたいですし」

 そう。パイロットはいる。怪我人の綾波と、ドイツにいるアスカ。
 実質、戦えるのは自分一人。

(おかしいな)

 碇ゲンドウのスケジュールには、使徒がこの時期にやってくることは予想がついていたはずだ。
 それなのに、何の手も打っていなかったというのは。

(綾波の事故がイレギュラーだったということか)

 失敗に終わった零号機の起動実験。考えてみれば、それが計画通りだったなんていうことがあるはずがない。綾波はゲンドウの切り札だ。それを簡単に失う真似はできない。

(アスカを呼ぼうにも上の許可がいる。つまり、ゲンドウは最後まで綾波とアスカでこの局面を乗り切ろうとしていたが、できなかった。だから第三使徒の襲来に合わせて『シンジ』を呼んだということか)

 あの男にとって、碇ユイの次に大切な存在、碇シンジ。
 だが、あの男すら知らない事実がある。
 そう。あの男が育てた碇シンジという子供は、もうどこにもいないということに。

「シンジ。乗るつもりがないのか」

「まあ、今のところはね」

「今のところ?」

「そりゃそうさ。だってこれに乗っても僕には何の見返りもない。ただ連れられてきて、戦えだなんて横暴だと父さんは思わないの?」

「報酬がほしいというのか」

 お金はほしい。そう、この後に発生するさまざまな現実から身を守るためにもお金はいくらあってもいい。
 戦略自衛隊で戦車一台十億円かけるくらいなら、その一台分だけでも自分に回してもらった方が有効に活用できるというものだ。

「十億。ここで手を打て」

「十億か……」

 望みどおりになった。あらかじめ百億と担架をきっておいてよかった。

「仕方がないからそれでいいよ。中学生だからって使える金額に限度をもたせないようにしてね。カードか何かですぐに使えるようにしてね」

「いいだろう……それで、わがまま、というのは何だ?」

「その前に、僕の仲間に会わせてくれるかな」

「仲間?」

「チルドレン、っていうの? 同じパイロットをぜひ見せてほしい。わがままはそれから伝えるよ」

 そう。綾波レイには早く会っておかなければならない。
 補完計画の柱となるレイ。この少女をゲンドウの手から奪い取り、自分の手元に置く。
 そして感情を持たせ、レイを守ることによって補完計画を防ぐと同時に、

(綾波を、幸せにしてみせる)

 それは誓いだ。
 この体を手に入れ、自分で思い通りにできることを許された自分ができること。
 他人を守れるのなら、力の及ぶ限り守り続ける。
 それだけの力と知恵が、自分にはある。
 そして、一台のカートが運ばれてくる。
 その上に載っているのが、綾波レイ。そう、白い巨人、リリスの一部。
 人間でありながら、人間でないもの。
 使徒。

(でも)

 彼女は、人間だ。

(俺は、お前が愛しい)

 運ばれてきた彼女のそばに近づき、片目でまっすぐに虚空を見つめる少女。
 その隣に行って、視界に入るように上からのぞきこむ。
 彼女の片目が動いて、自分を見つめてきた。

「君が……チルドレン?」

 微笑みながら尋ねる。相手にできる限り、安心を与えるために。

「はじめまして。僕は碇シンジ。言葉は喋れるかな。名前を教えてくれる?」

「……あなた、だれ」

 質問に質問で答えてくる。まあ、この辺りは『フィルム』の最初の頃の彼女を思い出すと、確かに素っ気無いものだった。

(彼女が求めているのは、人との絆だ)

 何故なら、彼女は人ではないから。人ではないことを自分が知っていて、人でありたいと願い、人との触れ合いを求め、そして触れ合うためにエヴァに乗ることを許容しているから。

「名前を教えて?」

 唇が触れ合うほどに近づく。

「……綾波、レイ」

(綾波)

 その彼女を、束縛から解き放つ。
 彼女が求めているのならば、自分が与えよう。
 そして、彼女を人間にするのだ。

「絆がほしい、綾波?」

 眼帯で隠されていない右目が、大きく見開かれる。

「僕は君に絆をあげる。エヴァンゲリオンパイロットとしてではなく、僕は碇シンジとして、君は綾波レイとして、お互いに一人の個人として一緒にいよう」

「……どうして、そんなこと言うの」

 彼女がかすかに震えたような気がした。
 彼女の『どうして』という言葉の裏には、『どうして自分の求めているものが分かっているのか』という意味が含まれている。

「君との絆がほしいから」

「……私」

「絆を求めているのは、みんな同じだよ」

「碇……くん」

 そのたった一言で、彼女の束縛は解かれた。
 その目に、信頼の灯が点ったことに納得し、また微笑む。

「うん。綾波、これからよろしく」

 そして、その唇を落とす。
 絆。
 このぬくもりが、確かな絆であってほしい。

「ごほっ」

 何秒かのキスが終わって彼女が咳き込む。
 そう、もうとっくに答は出ていた。
 自分は綾波レイ、この二人目を守り抜く。
 二人目が死んでも記憶が受け継がれるわけでもなく、感情が移るわけでもない。ましてや肉体は三人目以降とは全部別々のものだ。
 もちろん、三人目以降の綾波レイを殺していいということにはならない。だが、彼女たちに意識を持たせるためには、今の二人目を殺さなければいけないということだ。
 魂は、一人分しか存在しない。
 なら、今目の前にいるこの二人目の綾波レイを全力で守るだけだ。

「我儘を言ってもいいかい、父さん」

「ああ」

「彼女がほしい。彼女を僕のものにしてくれるというのなら、引き受けてもいいよ」

 絆が欲しいなどと思ったことはない。
 だが、自分が誰かに認識されたいとは、ずっと思い続けていた。
 それが明確になったのは、七歳ごろのことだっただろうか。





 エヴァンゲリオンの内装はある程度分かっている。だがあの『フィルム』にはそこまで詳しい映像がついていたわけではない。
 戦っている少年、碇シンジの絵だけが現れて、エントリープラグ内部の映像はそれほど重要視されていなかった。
 そのくせ、エヴァンゲリオン発進時の映像は細かいのだから、芸の細かさに無駄があるとしか思えない。

『シンジくん。今は歩くことだけを考えて』

 それしか考えていなかったら使徒にやられるだけだ。おそらくゲンドウは暴走させてでも勝てばいい、くらいにしか思っていないのだろうが、自分はそう簡単にやられるつもりはない。
 何しろ。

(いるんだろ、母さん)

 ここには、自分を産みそこなった母親、碇ユイがいるのだから。
 エヴァンゲリオンはいかに心を開くかでシンクロ率が変わる。
 だとしたら、ここにいる母親に心を開けば圧倒的な力を手に入れることができる、という結論に達する。

(いる)

 これが母親の意識だろうか。
 いや、変質した『エヴァ』の意識なのかもしれない。
 だが、どちらでもかまわない。
 この意識とシンクロすればエヴァンゲリオンは起動するのだから。
 だが。

(答えてくれ、母さん。あなたは俺があなたの中にいることを知っていた。そうなんだろう?)

 確証はない。だが、間違いないと思わせる何かがあった。

(俺はあんたが産まなかった子供だ。教えてくれ。あんたは俺の出産を望んだのか、それとも俺の出産は望まなかったのか。だから『シンジ』に俺を食わせたのか。どうなんだ)

 その返事次第では、自分のシンクロ率は〇%となることだろう。
 だが、返事はあった。
 自分の、ある意味では、望みどおりの答が。

『私の子』

 自分の頭を、優しくなでられたような感触を覚えた。もちろん、現実にそんなことが起こったわけではない。
 だが、それが碇ユイの意識ならば。

(そうか)

 納得して、唇の端を上げる。

(俺は、望まれていたんだな)

 その感情が伝わった。なら、もういい。

(あんたは許してあげるよ、母さん。だけど、俺を食った『シンジ』と、そして全てを操ろうとしているあの男、碇ゲンドウだけは絶対に許さない)

 ゲンドウは自分の都合のいいように子供を育て、そして利用しようとしている。
 奴に碇ユイも、碇シンジも、渡してなるものか。
 孤独に、たった一人で、救いもなく、見苦しく死んでいけばいい。

(質の悪い、エディプス・コンプレックスか)

 碇シンジが八歳の頃に読んだギリシャ神話の内容などを、ふと思い出していた。





 戦いが終わり、解放される。
 自分の希望通りに食事が与えられ、それを一気に食べつくす。
 初めての食事。
 味、というものはある程度記憶にあったが、自分で食べる食事は一層美味しかった。
 そして彼は要求した。

「綾波のところへ連れていってください」

 もちろんその要求は聞き届けられる。何しろ、彼女の身柄は自分が預かったのだ。
 これからレイのことをしっかりと育てなければならない。
 あんな環境で暮らしているのだ。もちろんネルフのSPがついているのは当然だが、それにしてもあの部屋はない。
 一人目のレイが死んでから、同年代の子供と付き合うことがなく、衣食住にこだわることがなかったからだ。何しろ、比較するものがどこにもないのだから当然だ。

(家がいるな。まあ、しばらくは綾波の家に──)

 そこまで考えたとき、少年は自分もまた彼女のことを『綾波』と呼んでいることに気づいた。どうやら『フィルム』で碇シンジがずっとそう呼び続けていたのが移ったのだろう。まあ、どう呼んだところで変わりはないことだが。

(しばらくは綾波の家にいるとして、ネルフの監視の及ばないところに家がほしいな。家がまずいならマンションか。とはいえ、この第三新東京市でMAGIの制御が及ばない建物なんかないだろうし)

 何しろ使徒迎撃要塞都市だ。全ての建物は地下に避難できるようになっている。漫画のような設定だ。

(とはいえ、MAGIの管理下にあるとはいえ、MAGIの監視システムがない建物くらいいくつもあるだろう。そうだな、加持さんが来たらいいところを見繕ってもらうか)

 それまでは不便だが、あのレイの家を使うことでまずは妥協する。荷物が少ないとはいえ、無駄に引越しをするのは面倒だ。

(三人目以降は殺さなければならないな)

 看護師に連れられながら、物騒なことを少年は考える。あのダミープラグがあるから、碇ゲンドウはいくらでも無茶な要求をレイにつきつけることができる。
 あのダミーたちに罪はない。だが、あれはあってはならないものだ。

(方法がなあ……『フィルム』では赤木博士が破壊していたけれど、自分一人で行くのは無理か。ここも加持さん頼みにならざるをえないか)

 だとすれば、いかにして加持を味方に取り込むかが重要になってくる。
 ネルフ特別監査部所属にして日本国内務省調査部所属にして『ゼーレの鈴』たる加持リョウジ。
 その全てから切り離し、自分を最優先にさせる。
 その狙いはいくつもある。

(ゼーレの補完計画だけは阻止しないといけないからな。最終目標がそこなら、ゼーレの居場所を加持さんに教えてもらって、あとはそこにN2でもなんでもぶち込めばいい)

 過激な考えだが、それに間違いはない。最終的にゼーレを倒すことができれば補完計画は防げるのだ。

(だったら、まずは加持さんの知りたい真実を教えるのが得策か。ゼーレやネルフとつながっているのは、加持さんがセカンドインパクトに関する知識がほしいからだ。それを与えてあげればゼーレに着く意味はなくなる。そして、自分につかせるためには)

 セカンドインパクト以上の謎と興味を自分に持たせるのが一番だ。

(じゃあ、せいぜい思わせぶることにしてあげよう)

 何故自分がセカンドインパクトやゼーレのことを知っているのか。その正体を解き明かすことに全力を尽くさせることによって、ゼーレの情報を全て引き出す。
 その形が一番、理想的だ。

(それに、考えることは多いな。アスカにマナ、それにカヲル、か)

 考えている間にもレイの部屋に到着する。
 レイは鎮静剤でも打たれていたのか、完全に意識がなく、ただこんこんと眠り続けている。

(レイにはまず常識を身につけさせないといけないな。友達を作って、一緒に買い物したり、遊んだり、そうした普通の暮らしを──そう。まだ全然、間に合うはずだから)

 彼女は生まれたばかりの子供と同じ。
 これから感情を少しずつ身につけていけばいいのだ。

(色々なことを教えてやろう。もっとも、俺もあまりたくさんのことを知っているわけじゃないんだけどな)

 碇シンジという少年を通して見たこの世界。少なくともいろいろな少年少女たちの姿を見てきたし、その記憶は全て残っていて引き出すことは自由自在だ。

(遊園地、テーマパーク、それに学校帰りの寄り道やショッピング。楽しいことはいくらでもあるさ、綾波)

 彼女の髪をそっとなでてから、彼女の右手を取る。

(綾波は問題ない。愛情を注げば注ぐだけ、きちんと反応はかえってくる。『フィルム』の綾波がそうだったように。だが、アスカとマナは、どうしたものかな)

 マナはまだいい。『フィルム』のときとは違って、今回は戦略自衛隊から送られてくるということが予め分かっている。最初の出会いさえ間違わなければ大丈夫。あとはネルフに身柄を保護させればいい。
 だが、アスカは。

(あの頑固娘はなあ……自分がトップだっていうエリート意識に凝り固まってるからな。それも母親に愛されたいって言う、捨てられた子供だっていう深層意識が問題だからな。どうしたものか)

 最初に出会ったときに叩いてきた少女。
 ならば自分が同格以上だということを知らしめるために、逆に叩き返してやろう。
 殴りかかってくるなら押さえ込んでやろう。
 そして、相手のすべてを受け入れてやろう。

(俺にとって、アスカが必要な存在だと分からせてやらなければならない)

 それは責任を伴うということにつながる。だが、あの少女のためならそれくらいのことをしてやってもいい。いや、

(あの『フィルム』にいたアスカも、マナも、綾波も。俺は手放したくないんだな)

 二股どころか三股だ。女の敵と言われても仕方がないだろう。
 だが、自分たち『家族』のいないものたちにとっては、新しい『家族』を作らなければならない。それは葛城ミサトも同じことを考えている。
 だったら四人で『家族』になりたい。
 そして、もう一人。

(カヲル)

 あいつが、使徒でありながら人間と共存する道を選んでくれるのならば、彼とも家族になりたい。
 この地上で、自分のことを唯一理解する人間。

(問題は、あいつが生きることに執着してないってことだ)

『フィルム』の中でカヲルは、生と死は同価値だと言った。
 精神が異なれば違う価値観が生まれる。それはよく分かっている。
 自分のように、意識がありながら生まれてくることがなかった存在からしてみれば、そのなんと贅沢すぎる悩みだろうか。

(生きていることに感謝すらしないあの馬鹿を、どうにかして生きたいと思わせなければならないな)

 一緒にいたいと、友達でいたいと。
 そう、真摯に伝えることだけが、彼に対する方法だ。

(あとは、使徒か)

 いくつかの使徒については攻略法を既に考えてある。
 難敵は、レリエルとアルミサエルか。

(レリエルには、結局向こうに飛び込まなければならないだろうな。あとはユイの力を借りるしかない)

 結論としてはそうなる。そして問題は。

(アルミサエル。奴の攻略法は現状で、ない)

 コアの存在しない使徒。コアがなければあとは自爆させるしかない。
『フィルム』では零号機に取り付かれ、そして二人目が自爆することで殲滅した。
 だが、もちろんそんな方法を取らせるわけにはいかない。

(ダミープラグではおそらく、相手が人間だと認知しないだろうな)

 使徒は人間の精神を調べようとしてくる。アラエルも、そしてアルミサエルもだ。
 だとしたら人間の精神を持たないダミープラグに取り付こうだなどとは、決して考えないだろう。

(最悪の場合は、ロンギヌスに頼るしかないが)

 アラエルをロンギヌス以外で倒す方法があるのなら、ロンギヌスを別の場面で使うことは当然可能だ。
 ただ、ロンギヌスで注意しなければならないのは、あのエヴァシリーズ戦で、ロンギヌスは弐号機を貫いた。ロンギヌスはA.T.フィールドを突き破って攻撃をしてくる。そのことだけは常に頭に入れておかなければならない。

(諸刃の剣か。だが、使徒を倒さなければ人類は滅ぶ)

 それはカヲルも否定していない。いかにしてアダムに接触するか──

(そうだ、アダム。アダムはどうする)

 だが。
 それについて考えていなかったということは、それほど重要視していなかったという意味でもある。
 簡単なことだった。

(そうだな。そうしよう)

 加持リョウジからそれをどうやって取り上げるかが問題だが、自分の手に入ってしまえばそれで問題はない。少なくとも碇ゲンドウにさえ渡らなければいい。

 ──と。

 突然、頭がくらりと揺れた。

(なんだ、この感覚)

 新手の誰かからの精神攻撃か、それとも碇シンジという少年が自分の体を動かそうとしているのか。
 いや、どちらでもない。

(……睡魔? これが?)

 そうだ。非常に眠い。
 今まで一度も眠ったことのない自分にとって、それははじめての感覚だった。

(眠る、か。意識を失うということを俺は今まで体験したことがない。それについては恐怖もある。だが)

 そう。安らかに眠る碇シンジに憧れすら抱いたことがあった。
 ──あれは、九歳ごろのことだっただろうか。





 学校への転校が決まったが、別に嬉しいなどと思うことはなかった。
 自分はどんなことでも一度耳にしたこと、目にしたことならば完全に記憶しておける。その脳の仕組みを完全に理解している。
 だから学校の学習などは必要なかった。難しい本を次々に読破するだけで、万能の知識が手に入るのだ。
 だが、学校に行くことにしたのはたった一つ。
 レイも、アスカも、マナも、この学校に通うからだ。
 とはいえ、まだレイが退院もしていない状況では、この学校になんら感慨もない。
 委員長から図書室の場所を確認するなり、すぐに足を運ぶ。
『フィルム』でマナと会話していたところを思い出す。かなりの蔵書量があると思っていたが、予想以上だった。
 およそ公立の中学校には相応しくないほどの蔵書量。
 大学並、といっても差し支えないほどの本が陳列していた。
 少年は次々に読み漁る。
 数学ではノートを使って実際に数式を解いてみたりもした。
 だが、本当に必要としていたのは、心理学の参考書だ。
 結局、図書室の蔵書だけでは足りなくなって本屋から購入してくるようになるのは後日の話だ。
 そして学校が終わるとネルフに向かう。
 すぐに一度病室まで行って、レイの看病を行う。
 何度も相手に「好き」と伝えることで、レイの気持ちを徐々に溶かしてやる。
 彼女も少しずつ、心を開き始めるようになっていた。
 そんな折、ネルフ内部の廊下を歩いていると技術部二尉の伊吹マヤがやってきて、少年に伝えた。

「ねえ、シンジくん」

 この童顔で笑顔を見せられると、さすがの自分も冷静ではいられない。
 ある意味、アスカやマナやレイよりも、この伊吹マヤという女性の方が、女性のタイプとしては好みだった。
 いや、それよりも。

(この人になら甘えたいって思っているんだな、自分が)

 あの『フィルム』の中でも、彼女だけが大人たちの中で唯一感情をストレートに出していたような気がする。ただ、どうも赤木博士への敬慕の感情がいきすぎているような気はしたが。

「何でしょうか、マヤさん」

「あ、名前覚えてくれたんだ」

 にこにこと笑って自分の隣の場所を確保し、そのまま一緒に歩き出す。

「それで、何の用ですか」

「あ、シンジくんに、エヴァの起動実験に協力してもらえないかと思って」

 言われて立ち止まる。マヤもにこにこしながら立ち止まった。

(赤木博士の差し金か?)

 いや違う。もしそうなら、彼女は顔に出る。単純に思いつきで行動している、そういう様子だ。

「確かそれはもう、赤木博士に断ったはずですけど」

「うん、そうなんだけど、どうしても一回だけ、起動させてほしいの。お願いします、シンジくん」

 そうすると彼女は頭を下げてきた。
 やれやれ。
 この童顔美女に頭を下げられては、断ることなどできないではないか。

「どうして起動実験が必要なんですか?」

 一応、理由もない実験なら意味がない。それだけは念を押す。

「シンジくんのシンクロ率の高さを、レイやアスカにも応用できないかと思って」

「分かりました。いいですよ」

 既に返答を決めていた自分にとっては、それほど悩むことではなかった。

(そういや、同年代の子供には全く興味なかったっけ)

 自分が達観しているせいか、自分よりも年上の、しっかりとした考え方をする女性の方が好みだった。





 レイが退院すると、少年は自分のトレーニングを行うようになった。
 トレーニングというより、戦闘訓練だ。もちろん、エヴァに乗った訓練を行うのではない。
 肉弾戦。実戦だ。
 自分より大きな男を相手に、組み手の訓練を続ける。
 一日に三時間、土日など、長い時では十時間も通しで訓練を続けた。
 保安部から専属のトレーニングコーチが選ばれ、筋トレ、基礎訓練、組み手などのスケジュールを立案し、その通りに実行を繰り返した。
 実際、少年の吸収力は驚くべきほどだった。それは当然だ。体の動かし方もまた、少年にとっては一度記憶すれば何度でも行うことができるのだから。
 ただ、筋力だけはどうにもならない。これは持続的な訓練が必要だろう。





 レイと一緒に学校に登校し、レイが自分のものだということは一躍学校中に広まる。
 それ自体は別にどうでもいいことだ。ただ、周りがうるさくなるのは困る。
 今はまだレイを他の級友たちと話させるわけにはいかない。彼女はあまりに非常識なのだから。
 そんな折、

『碇くんがエヴァンゲリオンのパイロットって本当? Y/N』

 これは確か、クラスの誰かが全員に送ったメッセージのはずだ。
 クラス中が自分に注意を払っているのが分かった。
 結論として、公開することにした。別にそれ自体は問題ではない。どのみちアスカが来ればたちまち話が広まるのだ。早かろうが遅かろうが、同じことだ。
 が、それが誤りだったことに気づいたのは放課後のことだった。

(しまったな、すっかり忘れていた)

 自分を屋上に呼び出したのは鈴原トウジという少年だった。
 確か『フィルム』では裏庭だった気がする。まあ、どちらでもかまいはしないが。
 既に一週間以上、本気の訓練を行っている少年である。素人のトウジとでは既に雲泥の差が出来上がっていた。
 トウジの拳を避け、相手の腹部に打撃を見舞う。

(そうか。このイベントが起こったということは、今日は第四使徒戦か)

 そして同時に思い出す。

(この二人、そういえば邪魔をしに来るんだったな)

 うかつだった。とりあえずの嘘でもついて、エヴァに興味を持たせないようにすればよかった。
 あの『フィルム』でケンスケがシェルターを出たのは、直前にエヴァの話を聞いた、それが引き金になっていたのは間違いのないことなのだ。
 そこで、エヴァンゲリオンの出撃準備の声がかかった瞬間、民間人を戦場に出さないように見張っておいてほしい、と作戦部長に強く念を押す。

(これで出てきたら、殺すぞ本当に)

『フィルム』に出てきたあの二人、とくに鈴原トウジ。
 あの男は好きではなかった。いや、嫌いだった。

(自分の都合のいいようにしか考えられない奴と話すことは何もない)

 だが、そんな相手でも守れるものならば守っておかないと後味が悪い。

(やれやれ。どうして俺がそこまで他人の面倒を見なきゃならないんだ)

 自分にとって必要でもなんでもない相手、それなのに相手の尻拭いをしなければならないという状況、それが少年を苛立たせていた。

 そして初号機は、奇襲に成功する。

 何発かパレットガンを撃って、煙で見えなくなる前に場所を移動する。
 相手の武器は、両手のムチ。
 それさえ気をつければ、全く問題なく勝てる相手だった。
 ころあいを見て接近戦に切り替える。
 相手の両手を切り落としてしまえば、あとはコアだけだ。
 それで、勝てる。

 プログナイフに武器を持ち変え、使徒がムチを振り切った隙をついて突進、その両手を切り落としにかかる。
 が、その距離があと数歩というところまで来たとき、

 少年の目に、確かに映った。

 山の中腹、そこに二人の少年がいることに。

(馬鹿な)

 思った瞬間だった。

『トウジとケンスケは殺させない!』

 恐ろしいまでの、自分を縛り付けるパワー。
 それは『碇シンジ』が友人を守るためにこの自分の体を強引に従わせようとするものだった。

(馬鹿な、そんな無茶をすれば、このエヴァごと殺されるだろうがっ! しかも、敵の目前で! この馬鹿がっ!)

『トウジとケンスケを殺すなんて、絶対に駄目だっ!』

 と同時に、

『ちょっと、シンジくん、どうした──』

 作戦部長からの音声が入ってくる。だが、そんなものにかまっていられる暇はなかった。

「うるさい! お前の出る幕じゃない! 引っ込んでろ!」

 その言葉で『碇シンジ』からの束縛が解かれる。
 だが、それは使徒にとっては充分な時間だった。光の鞭がしなり、初号機の右手首を絡めとって、その二人がいる山の方へと投げ飛ばす。

「くそっ」

 碇シンジのせいで、危うく死にかけた。
 だから、あいつは嫌いなんだ。

「民間人の監視はしてもらえるんじゃなかったんですか」

 中腹で泣きながら倒れている二人を見ながら言う。

『ごめんなさい。私の責任です』

 ミサトが珍しく謝るが、それもどうでもいいことだ。
 光の鞭を手で掴むと、エントリープラグをイジェクトする。

「そこの二人、これに乗れ!」

 外部音声で二人を動かし、エントリープラグ内に回収する。
 そして再びプラグをエントリーし、素早く使徒と間を置く。もちろん、プログナイフを拾うことは忘れない。

(やれやれ)

 どうやら、自分は『碇シンジ』と同じ状態に立たされたらしい。
 この状況でできることなどたかが知れている。特攻だ。

(自分の命が一番大切なんだがな)

 まあ、生き残ると分かっているのなら、問題はない。

「ちっ……結局こうなるのかよ。仕方がないか、ちょっと痛いだろうな……じゃ、オ・ルヴォワール」

 使徒の光の鞭が、初号機の腹部を貫く。
 それにあわせて、プログナイフが使徒のコアに突き刺さった。

「があっ、がああああああああああああああああああっ!」

 絶叫がプラグ内部に響く。

「俺は……俺は生きて還る!」

 生き延びる。
 何があっても。
 この体が使える限り。

『パターン青、消滅!』

『シンクロカット! 急いで!』

 突如、ブン、という音がして激痛が治まる。
 治まったとはいえ、今の激痛の記憶だけは脳と、体全体に残る。
 呼吸も荒く、体も震えている。
 腹部に手を回したが、体は無事だ。
 当たり前だ。これはただの、シンクロにすぎないのだから。

(シンクロ率が高くなると、もしかしたら自分すら負傷するかもしれないな)

 充分にありうることだ。気をつけなければならない。

「サードチルドレン、初号機専属パイロット、碇シンジ、か……」

 すごい男だ。
 あの男はこの激痛に打ち勝ち(シンクロ率は自分より低く、激痛のレベルも自分より弱いのだろうが)、それでも使徒戦を全て完結させた。

(こんな形でお前の凄さを思い知ることになるとはな)

 しかもこの戦いの中で『碇シンジ』は一瞬だが自分の体の主導権を奪った。
 自分は何度行っても、それができなかったのに。
 主導権を奪うことを諦めたのは、十歳のことだったか。

 いずれにしても、少年は『碇シンジ』がすさまじく強大な『敵』であることを認識した。





 空母、オーバー・ザ・レインボウ。
 いよいよ、アスカとの対面の日だ。
 これほど緊張することはない。何しろ、全てはこの一瞬で決まる。
 自分とアスカ、どちらが優れているか、一瞬で分からせなければならない。
 そう。最初の一瞬で。

 そして、彼女と出会った。
 赤毛の少女は挑発的にこちらを眺め、逆にこちらは値踏みするように相手を見る。
 風が吹き、レモン色のワンピースがめくれあがる。
 それを口実に、彼女の手が伸びた。
 叩かれるよりも早く、少年も手を伸ばした。
 平手を打たれ、少年の顔が背かれる。と、同時に相手の頬も張り返した。
 呆然とした彼女の顔。
 だが、これで終わりではない。まだ、この少女は最初の時点で徹底的に叩かなければならない。
 かなわない相手がいるということを印象づけるためにも。

「何すんのよ!」

「こっちの台詞だよ。先に叩いたのはそっち」

「女の子の顔に手を上げるなんて、非常識よ!」

「男女差別だね。それに僕としては別に女の子に手を上げたつもりはないよ。飼いならされていない凶暴な動物をしつけただけだから」

「ど、どうぶつ……言うにことかいて……」

 相手が掴みかかってくる。が、アスカの左手をうまく取り、その手をねじる。
 そのまま相手の後ろにまわり、左手で相手の頭を押さえ、そのまま艦橋に押さえ込む。

「痛いっ!」

「悪いけど、殴りかかってくる相手に容赦はできないんだ」

 これで、相手をねじ伏せるのは成功した。
 どちらが上にいるのかは相手にもわかったはずだ。
 後は、相手の信頼を勝ち取る楔を埋め込むだけだ。
 そして少年はミサトを黙らせると、アスカの耳元に口を寄せる。

「ねえ、アスカ」

「気安く呼ぶんじゃないわよ」

「そういうわけにはいかないよ。僕はずっと君を待っていたんだから」

「気持ち悪い」

「強がりだね。そんなに自分に自信が持てない?」

 さっと、その顔に朱が差す。

「許さない……」

「許すも許さないもないよ。僕はね、アスカ。君を理解できる唯一の人間だよ」

「うるさいっ!」

「僕はずっと君を待っていた。君を一人にはしないよ。エヴァンゲリオンや容姿や学歴なんかどうだっていい。僕はアスカ、君だけをずっと待ってたんだ」

「離しなさいよ、この変態ストーカー男!」

「ふふ……」

「何する……」

「大丈夫」

 できる限り優しく。
 そして、相手に精一杯の誠意で。

「アスカは要らない子なんかじゃない。僕にはアスカが必要なんだ」

 瞬間、彼女の抵抗が止む。
 ゆっくりと、少年は拘束を解いた。
 その言葉の意味が分からないアスカではない。自分が彼女の過去をある程度知っているということを、これで理解したはずだ。

「どういう意味よ」

「どうもこうもないよ。今言った通りの意味」

「……アンタ、何者?」

「僕もそれが知りたいよ」

「ふざけないで。アンタ、いったいそんなことまで調べてアタシをどうするつもり?」

「どうもこうもないよ。僕はただ、パイロット同士仲良くしたいだけさ。でもそのためにはね、アスカ。君の協力が必要になる」

「協力……?」

「そうさ。僕がアスカを求めても、アスカが僕を拒絶したら終わりだ。アスカが心を閉ざしてしまったら協力関係は取れなくなる」

「地球で人類がアタシとアンタだけだったとしても、アンタの傍にいるのは絶対に嫌」

「嫌われたね。残念だよ」

 これでいい。いきなりやられた相手にアスカも素直になることなど決してできないだろう。
 だが、確実に自分が『アスカより上』という認識を持たせることはできたはずだ。
 アスカは振り向き、そして走り去っていく。
 これからだ。
 彼女の精神を鍛えなければならない。こんなことで参っているようでは彼女は最後の戦いを勝ち抜くことなどできない。
 最後に全員で勝利を得るためには、彼女には少々厳しい道を歩んでもらわなければならない。
 そして同時に、

(俺が彼女の全てを受け止めなければならない)

 彼女を拒絶することなく、彼女の全てを受け止める。
 母親に依存する彼女も、強がる彼女も。
 そして、素直な彼女も。

(さて)

 アスカの件はまずこれでいい。次に大事な仕事がある。

(加持さんに会わないとな)

 ミサトと共に、少年は艦長室へと向かった。





 そして艦長室に後から入ってきた加持リョウジと出会う。
 かつてミサトと恋人同士だった男。そして、真実だけを追い求める男。
 この男を味方につけられるかどうかが、この戦いの勝敗を分ける。
 無難な挨拶だけをかわし、二人きりになれるように話を進める。そして、加持の部屋へと向かうことになった。
 この男の関心を買うなら、相手の意表をつくことが一番だ。
 ならばあの『フィルム』で手に入れた情報を突きつけるのが一番だ。

「ところで加持さん」

「なんだい」

「加持さんには常時スパイがついていたり、盗聴されていたりするんですか」

「まさか。スパイがついていたら分かるよ。今は何を言われても誰にも分からないさ」

「そうですか。じゃあお話の内容を言ってもかまいませんか?」

「ああ。別に誰も聞いてなければどこでもかまわないからな」

「要件は、加持さんが持っているアダムのことです」

 加持の歩幅が、わずかに狂ったのを感じた。動揺が外に漏れるようならば、脈ありだ。

「……どうして、それを?」

「どうして知っているのかなんて、くだらないことですよ。そんなことより建設的な話をしませんか」

「まあ待て。それくらいの話になるとさすがに立ち話というわけにもいかないさ。とにかくまず、俺の部屋へ行こう」

「その間に自分を落ち着かせる、ということですね。かまいませんよ、僕は」

 あくまでも話は自分が主導権を握らなければならない。
 相手のペースにさせず、それでいて必要な情報は全て相手に話させる。
 それが交渉の基本だ。
 だが、今回自分が求めているものはたった一つの情報だ。
 すなわち、ゼーレの居場所。
 まず、アダムについては自分に引き渡すことで全面的な了承を得た。ここまではいい。
 その代わりにセカンドインパクトの正体とゼーレの計画を伝える。
 そして、尋ねた。

「君に知らないことなんて何もなさそうに見えるけどな、碇シンジくん」

「僕にだって知らないことはたくさんありますよ。僕が知っているのは組織の目的だけですから。つまり……」

「つまり?」

「ゼーレの本拠地はどこなのか、ということです」

 加持の表情は変わらない。
 だが、雰囲気が変わったことだけは伝わってきた。

「知らないのか」

「知ってれば聞きませんよ」

「そうか、残念だな。俺も知りたかったんだ」

「?」

「残念ながら、俺が知っているのはゼーレのいくつかの『支部』だけで『本部』の場所までは知らないんだ」

(なん、だと)

 呆然とした。
 この男ならば知っていると思っていた。知っているからこそ、情報に通じているのだと。
 だが、違った。

(ゼーレはそこまで、自分たちを隠しているということか)

 おそらく本部にいる者以外、本部の場所など知らないのだろう。下手したら本部にいる者すら、そこがゼーレの本部だと知らないのかもしれない。
 これでは見つけるのは、不可能ではないか。

「あてがはずれた、って顔をしているな」

「ええ、正直はずれました。加持さんなら知っていると思ってたのに」

 頭を押さえる。まさかこんなところで計画が頓挫するとは思わなかった。
 早めにゼーレは叩きたかった。今後の使徒が動き出す前にだ。

「それこそ期待過剰って奴だな。俺も君と同じで、知らないことはたくさんあるのさ」

「じゃあ支部で構いません。知っている限り教えてください」

「いいぜ。俺が知っているのは五箇所。日本の第二東京、アメリカのセントルイス、ドイツのハンブルグ、イギリスのヨーク、オーストラリアのシドニー、この五箇所だ」

「なるほど。具体的には?」

「あとで地図を渡すよ。急がないだろう?」

「ええ。とりあえず僕の頭の中に場所がわかればそれでいいですから。それともう一つ」

「なんだい?」

「議長キール・ローレンツ以外のメンバーを僕は知りません。誰がゼーレのメンバーなのか、知っておきたいです。確かキール議長を含めて全部で十二人いるはず」

「詳しいな。だが、俺も全体を把握できているわけじゃない。俺に接触しているのはキール議長をはじめとする何人かだけさ」

「人類補完計画を叩き潰したければ、頭を叩くのが一番早いですからね。キール議長はどこにいるかご存知ですか?」

「いや。いつも会うのは立体映像で、おそらくは本拠地から通信しているんだろうが、その場所まではわからない。十二人のメンバーが直接会うことはほとんどないという話だしな」

「じゃあ、各支部にゼーレの議員がいるということも……」

「充分ありうるな」

 まさに期待はずれだった。情報通だと思っていた男が、ここまで情報を手に入れていなかったとは。
 おそらく加持もそれを調べようとはしていたのだろう。だが、目の前のセカンドインパクトという事実を調べるために、そちらを後回しにしていたのだ。

 と、その時、船が大きく揺れた。
 どうやら、使徒が襲来したようだ。

(アダムを取りにきたか、ガギエル)

 だが、表情には何も出さない。

(今回の敵は強くない。アスカ一人でも大丈夫だ。ただ、少しだけアドバイスをしておこうか)

 ミサトのところへ行かなければならない。少年はそう判断して移動を始めた。
 それにしても。

(ゼーレか。何とかして居場所を見つけないとな)

 まあそれは、加持に任せることになるのだが。

(アスカの教育は、少し時間がかかるな。次の使徒戦で、どうするかだけど)





 そのイスラフェル戦はそれほど時間を置くことなく行われることとなった。
 分離する使徒。分離するということについては昨日のうちにアスカに説明してある。
 お互いの呼吸を合わせ、二点加重攻撃で倒すのだと。
 別にユニゾン訓練など必要ない。自分がアスカに合わせ、アスカが自分に合わせればそれは問題ないことだ。
 だが、おそらくアスカは功を焦って失敗するだろう。
 となると、自分ひとりで二体の使徒を倒さなければならないということになる。

(どうしたものかな)

 方法はいくつか考えているが、一番楽な方法を取ることにした。
 そして、戦いが始まった。
 予想通り、二体に分離したあと弐号機は戦闘不能となった。ここまでは『フィルム』と同じだった。
 だが、使徒の攻撃パターンを見切っている自分にとってはここから倒すのはたやすいこと。
 左右から突進してくる使徒に合わせて二本のプログナイフを同時に突き出し、カウンターで攻撃する。
 再び一つになったところを足でホールドし、そのまま二本のプログナイフを一つになったコアに突き刺す。
 それで、完了するはずだった。
 この時点で、シンクロ率が百%を超えていなければ──

 爆発が生じた。

 使徒が爆破してパターン青が消える。
 だがその爆発は、初号機の腹部を破損させた。
 シンクロ率が、百%をはるかに超えた状態で、だ。

(やってくれたな)

 自分の腹部が負傷したのが分かった。
 技術部はそこまで認知してはいないようだった。おそらく、使徒のデータ分析を最優先にしているのだろう。
 かまわない。
 アスカの教育が先だ。
 時間が足りない。
 この程度で死ぬとは思っていない。だが、放っておけば命に関わる。
 それでもいい。
 アスカを守るのだ。
 守るには、この機会を逃すわけにはいかないのだ。

 そして、二人きりになる。
 時間は少ない。すぐに本題に入る。

「何の用よ」

「何の用、じゃないよアスカ。いったいどういうつもりだ」

「な、何がよ」

「僕は言ったはずだよ。一撃を浴びせたらすぐに退け、と。それなのに、どうして言う通りにしなかったんだい」

「な、何でアンタの言う通りに動かなきゃいけないのよ!」

 やはり、まだ素直には認められないらしい。
 彼女は、自分が失敗したのだということを認められずにいる。
 エリートだから、エースだから。
 自分より正しい選択をした自分を認められずにいる。
 だから、分からせる。

「生き残るために決まっているだろう!」

 彼女の体がびくんとはねた。

「アスカは戦場のことなんかまだ全く分かっちゃいない。戦場は命のやり取りをする場なんだ。格好よさとか、無駄とか、そんなことは関係ない。ただ勝って、生き残ること。それだけを考えなければならないんだ。少しでも油断をしたら、奴らは僕らの命を奪いに来る。命をかけた戦いなんだ! アスカは『パターン青消滅』『戦闘終了』の合図を聞いたのかい? 使徒の殲滅を確認するまで戦いは終わっていないんだ。今回は僕がいたから守ることもできた。でも、必ずしも僕がアスカを守れるわけじゃないんだ。ここは戦場なんだ。自分の身は自分で守るしかないんだよ! なんでそんなことも分からないんだ!」

「……なんで、アンタにそんなこと言われなきゃいけないのよ!」

 彼女は一瞬、躊躇した。
 それで充分。
 彼女は自分の間違いに気づいている──

「ごふっ!」

 と同時に、限界が来た。血を吐くのをこらえて話をした分、余計に吐き出した血の量が多い気がする。

「ちょっとシンジ! シンジ! ミサト! すぐに来て! シンジが大怪我をしてるわ!」

「死んでたまるか……」

 最後はそこまで、意識的に言ったことではない。
 だが、それはまぎれもない本音だった。

「絶対に死なない……この俺が、こんなところで……」





 目が覚めて最初にやってきたのは、リツコとミサトだった。彼の愛するレイでもアスカでもなかった。ひそかに敬慕しているマヤですらなかった。非常に残念だった。
 リツコはシンクロテストをしたいと言ってきた。今回の怪我の原因を調べたいというのだ。
 それはかまわない。だが、せっかく相手が下手に出てきたのだから、ある程度条件をつけてやってもいいだろう。

(そうか。せっかくだから、釘を刺しておくのもいいな)

 ふと、そこで思いついたことがある。ダミープラグにS2機関、非常に危険なものが現在開発中なのだ。

「そうですね。条件を二つ、いえ三つ呑んでいただけるなら」

「三つ?」

「ええ。一つはこの件に関してのシンクロテストは一回限りです。それ以上は参加できません」

「一回だけでも、すごい効果が上がるわ。ありがとう、シンジ君。それからあと二つは?」

「ええ、実は、もう少しで修学旅行があると思うんですけど、綾波とアスカをそこに行かせてあげてもらえないかと思いまして」

 そろそろレイも常識を身につけてきている。はじめてのおつかいというわけでもないが、そろそろ一人で行動するということを覚えてもいいころだ。
 それにアスカも修学旅行は楽しみにしていた。できれば行かせてあげたい。自分が残るくらいでアスカが行けるならそれが一番いい形だ。
 とはいえ、この後サンダルフォンが見つかるのだから、すぐに引き返すことになるが。それでも『フィルム』では二、三日は遊べたはずだ。

「まあ、シンジ君が本部に残ってくれるというのなら、それくらい問題はないけど」

 リツコは少し考えた様子で尋ねてきた。

「でも、シンジ君は修学旅行に行きたくないの?」

「沖縄ですよね? 行きたいとは思いません。これが石川か京都っていうのなら話は別ですけど」

「しぶい趣味ね」

「趣味が洗練されている、と言ってください」

 泳げるかどうかということなら、多分すぐに覚えられると思う。というか、その気になれば怪我が治り次第ただちに地下のプールで特訓すればすぐに覚えられる。
 だが、だからといって沖縄でのんびり、という気にはなれないのも事実だ。そんなことをする時間があるなら、この限りある命を有効に使いたい。
 今までできなかったことはいくらでもある。沖縄など、別に自分の興味の範疇にはない。

「それで、最後の条件っていうのは?」

「ええ。S2機関の開発、及び搭載実験を半永久的に凍結してほしいんです」

 さすがに、リツコの顔色が変わった。
 米国で極秘裏に行われてきたプロジェクト。それが、こうも簡単に少年の耳に入っているのだ。当然といえば当然だろう。

「……その話をどこで聞いたの、シンジ君」

「地獄耳と呼んでください」

 からかっていることに相手は気づいているのか、真剣な表情で少年に返答する。

「でも、それは正直言って難しいと思うわ。私の一存で決められることじゃない、あれはあなたのお父さんの管轄よ」

「で、しょうね。それじゃあどうしようかな」

「もったいぶらないで、シンジ君。あなたの考えはだいたい読めたわ」

「と言いますと?」

「先に解決不可能な課題を提示して断らせておいて、本来の要望を伝える。古典的な手法ね」

 さすがに赤木リツコ。その辺りの心理には長けている。

「さすがに心理学を学習している人は違いますね。まあ、僕も最初からS2機関の問題は無理だと思ってました。まあ、S2機関がどうなろうと僕には関係ありませんからね。どうせ今開発しているS2機関が初号機に搭載されることはありえない」

「それはどういう意味?」

「開発は失敗するっていう意味ですよ。S2機関を人の手で制御することは不可能ですからね」

「随分、分かったような口をきくのね」

「そのうち、現実になりますよ。まあ、それはともかく、本題の条件にいきましょうか」

 これでまず、S2機関については釘を刺した。あとはもう一つ。

「僕の本当の望みはたった一つ。ダミープラグの初号機搭載を防いでほしい、ということです」

「──どうしてそこまで知っているの?」

「知っているかどうか、というのはたいした問題じゃないんですよ。ようはそれが可能かどうかです。ダミープラグの開発はこの本部で行われている。赤木博士の気持ち一つで開発を進めるのも遅らせるのも自由自在でしょう。それこそ、父さんにばれることなくね」

「無理よ」

「可能です。開発の進行状況がうまくいかないという報告を父さんに一本入れるだけですみますから」

「そうしたら、その原因を報告しなければならなくなるわ」

「そのあたりはまかせます。とにかく僕の目的は、ダミープラグに乗っ取られることなく、自分の手で使徒を殲滅することですから」

「ダミープラグがなくても使徒を倒せるということ?」

「逆です。ダミープラグでは使徒は倒せません。一度使った段階で、エヴァの中にあるコアがダミープラグを拒絶するようになります」

「……なるほど」

 多少はリツコもダミープラグの危険性を感じていたらしい。
 そもそもダミープラグ用の実験は容赦なく自分が止めさせているのだ。現状でダミープラグなど使える見込みが立っているはずがない。

「了承していただけますか?」

「難しいわね。それに、あなたの目的もよく分からない」

「人間の行動に目的が必要なんですか?」

「理由のない行動はなくってよ」

「じゃあ逆に聞きますけど、赤木博士や葛城さんの目的はいったい何なんですか? どうしてネルフで使徒を倒すために戦っているんですか?」

 それを答えられるほど、二人は大人でも子供でもない。

「つまり、そういうことです」

 話はそれで終わりだった。
 別にこれでS2機関やダミープラグがどう転ぼうと自分には関係ない。
 あくまでも釘を刺しておくこと。それが目的なのだから。





 サンダルフォン戦は、自分の言った通りにプログナイフの固定が行われた。あとは自分が言った通り、熱膨張の攻撃を行えば倒せるだろう。
 自分が準備する必要すらない。そう判断した少年は発令所のロッカールームまで戻ってくる。

 その時だった。

 ぐらり、と天地が揺れた。いや、揺れたのは天地ではない。自分だ。

(なんだ?)

 長椅子に座る。一緒にいたレイが心配そうにその隣に座る。
 目を閉じて、じっと黙り込む。そうして、自分の体内の状況をチェックした。
 不調の原因はすぐに分かった。

 ──貧血。

 何故。
 この体は十四年間を通して、大きな怪我も病気もなかった。もちろん貧血で倒れることなど全くもってなかった。
 最近読んだ、病理関連の書籍の内容を思い出す。
 貧血になる理由。
 その一、食生活。問題なし。これは自分が栄養バランスを考えて作っている。問題が生じるはずがない。
 その二、出血。確かにイスラフェル戦でおびただしい量の出血はしたものの、すぐに輸血されている。問題はないはずだ。
 その三、激しい運動。これも最近はよく運動している。が、同じくイスラフェル戦後に輸血されたのだから、赤血球も新しいものが体内に入っているはず。問題はない。
 その四、不規則な生活。それでも睡眠時間は規則正しくとっていたはず。これも問題はない。
 その五、妊娠中・授乳中、もしくは成長期──成長期?

(確かに、身長が伸びる際には鉄分を必要とする。成長に追いつくだけの鉄分が取られていなければまずいな)

 だが、それほど急激に背が伸びたのだろうか。確かに一年で五センチ、十センチと伸びる年代ではあるのだが。

「碇君」

 レイがその体を優しく抱きしめる。
 その温かさに、自分の体の震えが少しずつ治まっていく。
 貧血がそう簡単に治るものでもないが、少し休めば大丈夫だろう。

「……ありがとう。もう、大丈夫。助かったよ」

「私は何もしていないわ」

「綾波が傍にいてくれるっていうことが、一番の薬なんだよ」

 それは本心だ。アスカもそうだが、こうして誰かが傍にいる、それも自分が大好きな人が傍にいることがどれほど薬になるか。

(よし)

 戦いはまだ続く。
 みんなを守るために。





 その後、マトリエル戦が終わると、少年にとって大切な最後の一人が登場した。

「霧島マナです! よろしくお願いします!」

 あからさまに少年は顔をしかめた。
 急すぎる。
 確かにあの『フィルム』の番外編『鋼鉄』は前後の時期が明確にされていなかった。いつやってくるのかなど全く分からなかったが。
 まさか、こんなときに。

 というのも、つい昨日、アスカが自分とレイの新居に引っ越してくることになったのだ。
 加持に用意してもらったマンションは充分な数の部屋が確保されているものの、アスカがやってきてすぐにマナだ。やれやれ、と思っても仕方のないことだった。

「本日わたくし霧島マナは碇シンジ君のために、本日朝六時に起きてこの制服を着てまいりました! どう、似合う?」

 まったく、どうしてこの少女はこんなにも可愛いのだろう。それが自分の気を惹く演技だというのは分かっているものの、それでも彼女には惹かれてしまう。
『フィルム』の中で、碇シンジが本気で愛した少女。

(確かに、その気持ちは分かるけどな)

 これだけ愛想を振りまいているのだ。それも、自分ひとりに。

「マナ」

 自分がファーストネームで呼びかけたことで、どうやらアスカとレイが不機嫌になったようだった。だが、自分にとってはこの少女も助けなければならない人物の一人。
 必ず、助けてみせる。

「少し、話せるかな」

 そうしてマナを屋上へと連れていく。
 そして、早速切り出した。もちろん、自分が知っていることではあるのだが。

「別にたいした話じゃないよ。戦略自衛隊は僕から何の情報を手に入れようとしているのかを確認したかっただけ」

 マナの表情は変わらなかった。動揺を見せないのは立派だが、隠すだけ無駄だ。何しろ、自分はあの『フィルム』ですべてを知っている。

「え〜っと、言ってることがよく分からないんだけど」

「戦略自衛隊が整備した特殊チーム。詳しい名前は忘れたけど、子供たちだけのロボット運転のためのチームがあるだろ。その中で二人の脱走者が出た。確か、ムサシとケイタ。苗字までは覚えてないけど」

 忘れたというのではなく『フィルム』の中でそれほど重要視されていなかったので、出てこなかったというのが正しい。

「ま、安心していいよ。ネルフはまだそのことを知らないから」

「私を、どうするつもり」

「取引しないか」

「取引?」

「そう。君が知りうる限りの戦略自衛隊の情報を流してほしい。そのかわり、僕のできうる限りで協力をしてもいい」

「協力?」

「君とムサシ、ケイタの三人をネルフで預かろう。そのかわり、戦自の情報を全てネルフに流す。もっとも、君たちの知っている情報くらい、ネルフはおさえているだろうけど、体験者の話はネルフにとって有益だろうからね」

「でも──」

 迷った時点で、既に自分の手の内に入っている。あとは詰むまで王手をかけ続ければいいだけだ。

「どのみち、このまま君が戦自に協力したとしても、ムサシとケイタは助けられない。何故なら、軍隊での逃亡は──」

「やめてっ!」

「選ぶのは君だ。僕はどっちでもいいけどね。でも、僕から持っていける情報では戦自は何も得るものはないよ。君が戦自と運命を共にするっていうんならかまわないけど」

 あえて冷たい態度を取る。これは最初から決めていたことだ。
 マナは優しくされたことがない。それはあの『フィルム』を見て、そしてその境遇に思いを馳せて分かっていたことだ。
 戦略自衛隊の中で育てられた少女。唯一、自分の仲間ということでムサシとケイタだけが存在していたが、誰かに優しくされたり、守られたりしたということがない。
 だから、誰も信じられない。
 逆に、素直に正面からぶつかっていった碇シンジという少年を、マナも愛するところとなったのだ。

「ムサシとケイタは、助けてくれるの?」

「戦自よりも先に見つけることができればね。それこそ、君からムサシとケイタを説得してくれればいい。戦自のロボットなんて、どうせたいした戦力にはならない。少なくともネルフの敵にはならないよ」

「それは──」

「自分がもともと居た場所をかばいたい気持ちは分かるけど、これは現実だから。試してみるかい? 戦自の通常兵器で一度たりとも倒せなかった使徒、それを倒したエヴァンゲリオンの力がどれほどのものなのか、見せてあげるよ」

 アスカをねじふせた時よりも自分は強くなっている。それは実感していた。
 マナが戦闘訓練を積んでいるのも知っている。だが、自分を甘く見ている相手ならば、簡単に組み伏せることは可能だ。
 そして挑発すれば、そのエリート意識が無抵抗で白旗をあげることなどありえない。
 ここで相手を倒せば、マナは完全に、自分の手の中に落ちる。

「シンジ君」

「やる気? 僕は強いよ」

「シンジ君の言葉が正しいかどうかを確かめたいの。受けてくれる?」

「怪我をするよ」

「いくわよ」

 マナの中には油断はなかっただろう。だが、甘く見ていたには違いない。
 何でもないノーモーションから少女の横につき、体当たりでバランスを崩しておいて、足を払う。
 正面から倒れた少女の背に乗ってその上に乗った。

「オ・ルヴォワール」

 少年はその首に手をかけた。
 ──もちろん、力を込めたりはしないが。

「まいったわ」

「分かってくれて嬉しいよ」

 そして手を差し伸べる。
 こういう時、敗残者は油断した相手に逆に攻撃するのがセオリーというものだ。
 だから、すぐに反撃できるように左手はいつでも攻撃できるようにした。
 だが、彼女は素直に自分の手を取った。

「へえ」

「なに?」

「よく今仕掛けなかったなって思って。返り討ちにするところだったんだけど」

 苦笑しながら言う。マナは少しむくれて答えた。

「勝てない相手に歯向かうほど馬鹿じゃないのよ。ああもう、朝六時に着てきた制服が汚れちゃった」

「それは本当なの?」

「そうよ。上からはシンジ君を色仕掛けででも落としてこいって言われてたんだもの。メイクにだって気を使うわよ」

 思わず吹き出す。そろそろ、相手に優しくする頃合だろう。

「マナに色仕掛けをさせるなんて、無駄な行為だね」

「それって、私に色気がないっていうこと!?」

 女の子としては当然の怒りだ。それを、一気に逆転させる。

「逆。色仕掛けをするまでもなく、マナは充分に綺麗だっていうこと。たとえマナが何を目的にしていようと、僕のことを何とも思っていなかったとしてもね」

「ちょ」

 素で言われては顔を赤らめるしかない。不意をつかれて完全に照れてしまったマナには、もはや反撃の余地はなかった。

「もう、シンジ君、ズルイ!」

 右手で叩く振りをするマナに、少年は微笑みかけた。

(うまくいったな)

 これでもはや、マナに敵意はない。
 完全にネルフに着くことを了承してくれる。
 あとは。

(ネルフを、ゲンドウをどうやって口説くかだな)

 実際のところ、それが一番の難関とも言えた。





 結局、ゲンドウの補完計画に協力するという口実で、三人の身柄をネルフで保護することとなった。
 ムサシとケイタの捜索は極秘裏に、しかし早急に始められた。こうなると後はスピード勝負だ。
 そして一緒に暮らすアスカとレイにマナを紹介する。
 家主の権限で強行にマナのことを認めさせ、食事を作るために立ち上がる。
 アスカはリビングのソファに寝転び、そのアスカをマッサージしようとマナが向かう。
 レイを促して、マナと一緒にマッサージをさせるように指示する。
 これで少しでも三人が仲良くなるといいけど、と思ってキッチンに向かおうとした。

 その時、また、天地が揺れた。

(またか)

 今度は、大きい。
 立っていられない、意識を保っていられないほどに。

(何故だ。鉄分は充分に取ったはずなのに──)

 疑問だけを残したまま、意識が暗転した。





 目が覚めると病院だった。
 周りには誰もいないが、扉の向こうからアスカやマナ、リツコの声が聞こえてくる。

(心配をかけさせたみたいだな)

 だが、こうたびたび貧血が起こるのは好ましくない。
 理由があるはずだ。
 もう少し、細かくチェックした方がいい。
 病室を出る前に、自分の体の中を丁寧に調べる。

(確かに、成長しているな)

 この半年間で、五センチどころか十センチも伸びたような気がする。
 半年で十センチだ。これは成長しすぎというものだろう。

(成長ホルモンの分泌量は──正常、だな)

 正常だが、何かがおかしい。
 急激にエネルギーを使用しているような、そんな感覚だ。

(細胞分裂スピード──通常の、二倍?)

 おかしい。
 そんなことがあるはずがない。
 何故。

(このスピードが続けば、単純計算、寿命が半分に縮まるな)

 まあ、一年や二年ならそれほど大きな差になるわけではないが、十年、二十年となると話は別だ。

(何故)

 さらに自分の脳へ思考をめぐらせる。
 そこで、ようやく理解した。

(お前か──碇、シンジ)

 自分の意識と、シンジの意識が、両方とも成長を促している。
 結果として、通常の二倍のスピードで細胞分裂が行われている。
 脳が倍働いているせいで、体中が倍のスピードで老化しているのだ。

(エネルギーが足りなくなるわけだ)

 だとしたら単純計算、二倍の量の食事を取らなければならない。といっても胃に入る量は限られているわけだから、そう簡単に食事を取ればいいというものでもない。

(エネルギーの不足分は錠剤で補うとしようか)

 それが一番無難な解決方法だろう。それこそ市販の錠剤はいくらでもある。
 だが、それが根本的な解決になるわけではない。

(使徒戦はどうせあと半年くらいで終わる。それなら、終わってから考えよう)

 今危険を冒すよりも、全てが終わってゆっくりしてからの方がいい。

(よし)

 少年は立ち上がった。栄養剤を打たれたせいか、充分に体は回復している。
 あとは自分がエネルギーの補給に常に気をつけていればいいだけだ。
 そして扉を開いた。

「シンジ君」

 リツコが驚いたように目を見開く。

「やあみんな。心配かけて御免」

「碇君!」

 がばっ、と抱きついてきたのはもちろんレイだ。マナもうっすらと涙を浮かべている。どうやら彼女の『教育』は無事に終了したらしい。
 あとはアスカだが。

「なんだ、ぴんぴんしてるんじゃないの」

 素っ気無い態度だったが、心配してくれていたのは明らかだった。

(いい傾向だな。あとはエリート意識を根底から覆すことができれば終わりか)

 レイの教育はもう終わっている。マナはムサシの件が片付けば終了。あとはアスカだけだと判断した。

「そうみたいだね。というわけで赤木博士、僕はもう帰りますので」

「何言ってるの。全治一週間。本当は一ヶ月くらいは入院させたいところなのよ」

「自分の体調のことは自分が一番よく分かってます。どうして倒れたのかも分かってるつもりです。だから大丈夫」

「素人はみんなそう言うのよ」

「赤木博士は原因が何だとお考えですか? 少なくとも、僕は自分のことをよく分かっているつもりです。それに今は、みんなと一緒にいたいから。その方が僕の心は安らぎます。面会謝絶になんかされたら、ますます気が狂いますよ」

 その言葉にレイは抱きしめる力を強め、マナも少年の肩に自分のおでこをあて、アスカはふんとそっぽを向いた。

「というわけですので」

「全く、罪つくりね。何人の女の子を囲えば気がすむわけ?」

「別に囲っているつもりもないですよ。僕のことが嫌いになれば、三人とも僕から離れていくでしょうし、そうならないように僕はみんなを愛する努力をやめませんから」

 偽らざる本音。まあ、エヴァを動かすことができるエリートで、しかも出撃のたびに高額な報酬を受け取っているのだ。しかも女の子たちは本気で愛されている、ように見える。
 これほどの相手を手放すことは、そうそうあるまい。





 マナの仕上げは、それほど時間があいたわけではなかった。
 ケイタは先に戦時に連れていかれた。これはネルフ側のミスといえるだろう。おそらくもう、ケイタは助かるまい。仮に助かったとしても、どういう扱いを受けるか。
 あとはムサシだが、少年は一つ知っていることがある。
『フィルム』ではこのあと、マナはムサシと一度会うのだ。
 あらかじめ加持を呼び出し、先回りしてその店で待ち伏せる。
 そして、ムサシとマナがやってきた。
 会話は徐々に白熱し、マナは真剣にムサシに投降を呼びかけるが、ムサシは一向に聞かない。

(何様のつもりだ、この男)

 たかが十四の子供が、戦時やネルフから逃れられると本気で思っているのか。
 しかもそれに、マナを巻き添えにしようとしている。
 本気で腹が立った。
 もし本気で好きな女の子を守りたいのなら、どうやって守るのが最善かを考えるべきなのに。
 将来の計画も何もなく、ただ現状を脱したいという願いだけがある。

(駄目だな、こいつは)

 そう思ったとき、ムサシの手がマナの頬を叩いていた。
 思わず、立ち上がっていた。

(俺のマナを)

 ただでさえ傷心の彼女をこれ以上傷つける権利など誰にもない。

「女性を殴るなんて、最低だね」

 近くにあったおしぼりを取る。少し温くなっているが、ないよりましだろう。
 叩かれた時は、温めて血行をよくしてやるといい。そうすれば痕が残らなくなる。

「話は聞かせてもらったよ、脱走兵のエリートさん」

「てめえ」

「マナのお願いだからね。君の安全は保証する。でも、自由が約束されるなんて思わないでね。僕はこれから君をネルフに連行する」

「やれるもんならやってみろよ」

 一触即発。加持は止めるつもりもなく、ただそれを見ていた。
 一回、二回、三回と、ムサシの拳が少年の腹、顔、肩を殴打した。
 だが、四回目はなかった。
 もう一度顔を狙ってきたムサシの拳を、少年は体を開いてかわす。
 そして、勢いをつけて肘でムサシの顔を叩きつけた。
 ムサシは少年を三回殴ったが、少年は一回でムサシを叩きのめした。膝をついたムサシの腕をねじり上げ、ムサシが悲鳴を上げる。

「シンジ君、あまり痛めつけない方がいいんじゃないのか? 彼女が心配しているぞ」

「三回も殴られて、この愚か者に仕返しもできないんですか?」

「それはまあそうなんだが、ダメージは彼の方が大きいだろう。肉体的にも、精神的にもな」

「大人ですね、加持さんは」

「そうか? こんなことを言われて反抗的にならない君の方がずっと大人だと思うがな」

「僕は案外感情的なんです。あまり僕を過大評価しないでください」

「それで、彼をどうするつもりだい?」

 加持はポケットからチャラチャラと音を鳴らして手錠を取り出す。

「そうですね。それが一番でしょう」

「やめろ!」

 ムサシが下で暴れるが、腕を捻られていては抵抗できない。あえなく少年に後手で手錠をかけられる。

「それじゃあ、ネルフに連行しておいてください。拷問はしないでくださいね。マナを悲しませるつもりはありませんから」

「分かっているよ。こちらで預からせてもらう」

「はい。それじゃ、マナ。帰ろうか」

 まるで勝負にもならず捕らえられたムサシを見て、いや少年を見て、マナはぽかんとしていた。

「強いんだね、シンジ君」

「そうでもないよ」

 本当にそう思っているのか、吐き捨てるように少年は答える。

「でも、あまりムサシを」

「分かっているよ。拘束はさせてもらうと思うけど、痛めつけるようなことは絶対にないから安心して」

 ほっと安心したようにマナは安堵の笑みを浮かべる。

「マナ」

 ムサシは後手で手錠をかけられた状態でマナを見る。

「どうしてだ。なんで、ネルフなんかに……」

「戦自から離れて、どうやって暮らしていくつもりだったの、ムサシ」

 ムサシより、マナの方がずっと現実的だった。

「俺は、ケイタとマナの三人でずっと」

「そんな場所、どこにもないんだよ」

 マナは諦めたように彼を見つめる。

「だって、私たちはもう、戦自から追われる立場なんだもん。どこに逃げたって逃げ切れない。だったら私たちを守ってくれる場所を探さなければいけないんだよ」

「ネルフだって、同じ穴のムジナじゃないか!」

「違う! だって、シンジ君はネルフの人間じゃないもん!」

「見損なったぜ、マナ。他の男に騙されるなんてな」

 この男は。
 自分が口を挟む場面ではないのは分かっていたが、それでも苛々が限界に来ていた。

「ちが……私、騙されてなんかない!」

「脱走したあげくにお前に裏切られるとは思ってなかったよ!」

「ムサシ!」

「お前は──」

「いい加減にしろ、うるさい」

 少年はムサシの頭を掴むと、思い切り床にその頭を打ち付ける。

「シンジ君、やめて!」

「悪いけどやめない。こう見えても僕は怒ってるから。僕の大事なマナを傷つけるようなことを言った奴にはお仕置きが必要だからね」

「何言ってやがる。マナは俺とケイタが……」

「黙れ」

 再び頭を打ち付けられる。そして、やれやれと立ち上がった少年はマナの腕を取った。

「こんな僕は嫌いかい?」

 そう。これは偽りのない自分の一面。
 だが、何があってもマナを守りたいという本心だ。

「マナが僕を嫌いだっていうのなら、それでもかまわないよ。加持さん、彼女を頼みます」

「いいのかい?」

「ええ。マナ、君の部屋はいつでも空けておくから、気が向いたら戻ってきて」

 カウンターで代金を支払うのと同時に迷惑料を払う。もちろん深く頭を下げて「ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」と丁寧な態度は忘れない。
 そして少年はタクシーを捕まえてそれに乗った。

(マナは帰ってくる)

 そう。マナが自ら言った。彼女は他に行くところがない。
 だからこそ、自分の庇護下に入ろうとする。
 と同時に、強く頼りがいがあり、そしてその裏に優しさを持つ自分に、確実に惹かれている。畏怖と恋慕が同時に生じている。
 今はそれでいい。
 それで自分のところにいてくれるのなら、それで充分だ。





 第十の使徒、サハクィエル。衛星軌道上から自由落下してくる使徒。
 これは使徒の下に入り込めるかどうかが勝負だ。それなら無人機にN2を持たせて爆発させ、使徒の勢いを殺させればそれでいい。
 あっけなく、使徒は倒された。

 第十一の使徒、イロウル。コンピュータ・ウイルスとしてMAGIに侵入する使徒。
 だが、あの『フィルム』で第八十七タンパク壁のことは分かっている。工事終了と同時にその部分だけ切除し、自滅促進を行えばいい。
 あっけなく、使徒は倒された。





 問題は、第十二の使徒。レリエル。
 最初からこの使徒は最大の問題だった。
 と同時に、一つの考えが自分の中にはあった。

(この戦いで、N2を全て放棄させる)

 このままN2爆弾を全て保有させておくと、将来ゼーレがネルフ本部への攻撃に使う可能性がある。だとしたら捨てられる場所があるときに捨ててしまうのがいい。
 何しろ黒い月を表に出すためだけにN2の全てを使うような相手だ。できる限りゼーレの先手を打ちたい。
 そのためにはまず、N2を使うという作戦を立てること。
『フィルム』では生命維持モードの限界、十七時間をタイムリミットに作戦を実行する予定だった。だが、それより早く初号機が暴走したため、N2の投下はなくなった。
 今回は確実に投下させなければならない。

 同時に、使徒を倒す方法を考えなければならない。
 一番確実なのは、初号機が中に入って暴走することだ。
 それは碇ユイの力を借りれば可能なはずだ。
 そのためには、最初の戦いで飲み込まれる必要がある。
 いつもは慎重策で相手の出方を伺うのがやり方だが、今回は最初に自分が出向かなければならない。

 それに、何があっても少年には、あの虚数空間に入らなければならない理由がある。

 誰にも言えない。それは賭けだ。
 だが、あの『フィルム』を見る限り、その賭けに勝つ自信はある。
 下手をすれば──

(大丈夫)

 逸る心をおさえて、ゆっくりと自分を落ち着かせる。
 あとのことは全て、加持に任せる。

(行くぞ)

 初号機が出撃した。
 浮遊したまま、ゆっくりと近づいてくるレリエル。
 進行ルートと初号機の配置から、先に加持には準備をしてもらっている。
 エヴァからみると、小さな、小さなアタッシュケース。それがあるのを確認して、少年は頷く。
 使徒もまさか、そんなところに、無造作にあるとは思ってもみまい。

 ──アダムが。

「行きます」

 少年がライフルを三射する。
 と同時に球体が消え、初号機の真上に現れる。
 同時に、初号機の足元に影。

(うまくいった!)

 その影のエリアには、アダムの入ったアタッシュケースも存在する。
 この影は使徒の本体などではない。虚数空間へいたる、ただの扉。
 その虚数空間へ、アダムを捨てる。
 確実にそれを行うには、この方法がもっとも適していたのだ。
 ゼーレにも、使徒にも、誰にも知られぬまま。
 ひっそりと、アダムは消滅する。
 この、実数空間から。

「あとのことは加持さんに伝えてありますから、聞いてください。何とかなることを祈ってください。それじゃあ」

 充分な戦果は出した。これでN2を投棄させることができれば完勝だ。
 笑いが出そうになる。

『ちょっとシンジ! あんた、次の使徒は問題ないって言ったわよね!?』

 アスカから、何か意味不明な言葉を浴びせられる。
 この使徒が問題ないだなどと言ったことは一度もないはず──と考えて、気づいた。

「ああ、ごめん。次の使徒って、こいつじゃないんだ。すっかり言うの忘れてた。アスカたちの知らないところで、もうとっくに一体倒してたんだよ」

『はあ!?』

 アスカの目がこれ以上ないくらいに見開かれる。

『碇くん!』

 同時にレイからも叫び声が上がる。

「大丈夫。なんとかはするつもりだから。もしかしたら協力を仰ぐかもしれないけど、後はよろしく。じゃあ」

 そう。どうにでもなるのだ。初号機が暴走さえすれば、だが。

(初号機がきちんと暴走してくれるかどうか、が一番の問題だけれどね)

 さすがにそれを言うことはできず、虚数空間の中に落ちた。





「十七時間か……」

 初号機の暴走を信じて飛び込んだはいいが、さすがに十七時間は長い。
 そのうち睡魔も出てくるのだろうが、最初のうちはただただ暇なだけだ。

(予想通り、サードインパクトは起こらなかったな)

 もし使徒とアダムが接触したらサードインパクトが起こると言われていたが、それはゼーレが裏死海文書を誤読したか、それともあの虚数空間への扉が使徒との接触にいたらず、単なる扉としての役割にすぎなかったかのいずれかだ。そして少年は、後者だと判断した。もちろん最初からそう思っていた。
 根拠はある。
 あの『フィルム』では初号機は暴走して球体の内側から殻を破るようにして出てきた。と同時に黒い影も亀裂が走り、くだけた。そして、使徒はあの球体も影も、内向きのA.T.フィールドで自らの体を支え、外側は単なる影として存在していた。
 つまり、使徒の本体は影の内側に存在するのであり、外側にはいくら触れても使徒に接触することにはならない。それは使徒ではないからだ。
 ただ、使徒の存在の仕方が歪んでいるために、外側の影に触れると歪んだ世界、虚数空間へ渡ることになってしまうのだ。
 そして虚数空間の先に使徒がいるのでもない。使徒はあくまであの影の内側に存在するのだ。
 つまり、虚数空間に放り込まれたものは、未来永劫そこから抜け出ることはできない。
 唯一の例外が、この初号機なのだ。

(頼むぜ、母さん)

 エヴァの中の母親に祈る。

(俺は死ぬために飛び込んだんじゃない。生き残るために来たんだからな)

 エヴァの中の意識が、チカッ、と反応したように感じられた。





 ……経過時間、十時間。
 自分の指示が的確に行われていれば、そろそろN2の投棄が行われている頃だった。

(無事に終わっているといいんだがな)

 光も何もないこの世界では、それを確認することもできない。
 この何もない虚数空間で心細くなる碇シンジの姿は『フィルム』で見た。
 おなかがすいたと、寒いと、呟く少年の声が耳に残っている。
 その気持ちは、今の自分だからこそよく分かる。

(この後に浄化作用がなくなって、血生臭くなってくるんだよな)

 それを考えるとうんざりする。
 だが、生命維持モードで十七時間耐える。その苦痛があってはじめて初号機が暴走するのだとしたら、冒険はできない。

(あと七時間か、遠いな)

 ようやく訪れてきた睡魔に、身を任せることにした。





 そうだ。あれは十一歳の時だ。
 三歳の時に母親を亡くし、父親に捨てられ、それから八年。
 俺はあの男に再会した。
 碇シンジも、俺も、よく覚えていた。
 碇シンジは怖れと期待を抱き、
 俺は、ただ憎しみだけがあった。
 だが、結論として、父親は子供にかける言葉もなく。
 それからまた三年、会うことはなかったのだ。

「どうしてお前は、それほどまでに父親を求める?」

 精神世界の碇シンジに尋ねる。

『どうしてって、父さんは父さんじゃないか』

「お前を捨てたのにか?」

『それは、だって、仕方がないじゃないか。母さんを失くしたばかりで』

「そうだ。生き残っているお前を見捨てて碇ユイを取った」

『違うっ! 父さんは、父さんはそれでも僕のことを』

「愛していたと? お前が望んでもいない愛し方でか?」

『仕方ないじゃないか! 父さんは、父さんは……』

「碇、シンジ」

 俺はどうしても、こいつを許せない。
 アスカが内罰的だと言ったのもよく分かる。
 こいつは他の人間の失点を全部自分のせいにする傾向がある。

「だから、お前はサードインパクトを引き起こしたんだ」

『ひっ』

「あの赤い世界、まさかお前に責任がないなどとは言わないだろうな。まあ、十四歳。多感な時期だというのは認めよう。お前一人に全てを押し付けた大人たちの責任もあるだろう。だが、お前はその中で自らに課せられた使命を果たすことはしなかった」

『そんなの、僕が望んだことじゃない!』

「そうだな。だが、選ばれた。選ばれたのなら、やらなければならない。やらなければ、赤い世界だ」

『そんなの僕に押し付けないでよ!』

「ああ、もう二度と押し付けたりはしない。だから、永久に俺の中で眠っていろ。いいか、出てくるなよ。二度と出てくるな。この間の戦いの時みたいに口を挟むようなら、絶対に許さないからな」

 碇シンジの姿が消える。どうやら自分の殻に閉じこもったのだろう。

(近く、第十三使徒もあるからな)

 鈴原トウジ。
 あいつとの戦いの時に出て来られるのは困る。ダミーを動かすなどということは防がなければならない。

(出撃前に、ダミーシステムはリセットさせなければな)

 鈴原トウジは嫌いだ。だが、助けられる命なら助けなければならない。
 もし第十三使徒戦でシンジの意識が覚醒するようなら、ゲンドウは迷うことなくダミーを起動するだろう。それが中途半端なものであったとしても。

(まあ、いいさ)

 目が覚める。
 あと、二時間。

(濁って来たな……確かに、生臭い)

 具合が悪くて、眠ることすら気分が悪い。
 あと二時間、耐えられるだろうか。

(やはり、碇シンジという少年は優れていたということか)

 狂うつもりはないが、この状況を耐えることができたのは少年の精神力だろう。
 自分が悪い。だから、これくらいのことは当たり前。
 そう思うことで耐えられるのは、ある意味異常だ。

(──もうすぐだ)

 強引に、眠り込んだ。





 動く。
 動く。
 動く。
 初号機が、動く。

(母さん?)

 その感覚がようやく、自分にもめぐってくる。

(教えてほしい。俺が失われた時、あなたはどう思ったのか)

 チカチカ、と反応がある。

(悲しかったと思ってくれるのか──ありがとう、母さん)

 唯一、自分の存在を知る相手。

(だから、今回一度きりだけお願いします。どうか俺を、助けてください)

 初号機が、動く。





 瞬時に、初号機の手の中に赤いボールがあった。
 それは、使徒のコア。
 それを握りつぶすと同時に、影と、そして球体に亀裂が走る。

 自分が覚えていたのは、そこまでだった。





 目が覚める。
 病室。近くで、アスカと、マナと、レイの声。
 だが、体が動かない。
 どこか遠くから眺めているような感覚。

(おい)

 自分の体が、自分のものではなくなっている。
 コントロール権が奪われている。

(どうしてだ。お前は、出てくるなと言ったはず)

「いやだ……」

 勝手に、口が開いた。
 自分の意思とは関係なしに。

(やめろ、シンジ。出てくるな! お前にこの体を使う権利はない! それをお前は放棄したはずだ! 黙れ、黙れ、黙れ!)

「なんでだよ! どうしてこんな苦しい思いまでして戦わなきゃいけないんだよ! 僕はもう戦いたくないって何度言えばいいんだよ!」

「碇くん!」

 レイが正面から抱きついてくる。その体を抱きしめてやりたいのに、体が動かない。逆に、怯えたように離れる。

「綾波、レイ……やめろ! いやだ! いやだ! こんなのはいやなんだよっ! どうしてみんな僕をほっておいてくれないんだ! どうして僕ばっかりこんな目にあうんだよっ! こんな怖いのはもうたくさんだ!」

 力の限り、レイを突き飛ばす。

(てめえ、レイを傷つけるんじゃねえっ!)

「シンジ!」

 アスカが自分を取り押さえようとして動くが、それより早く、コントロール権が徐々に戻ってくる。

「……──ぁ」

 かすかに声を出すことができた。あと一歩だ。

「シン──」

「いいから、お前は、黙ってろ……っ!」

 徐々に、徐々に体の支配権が帰ってくる。
 緊張していた体から徐々に力が抜け、呼吸も整いはじめる。

(消えたか)

 碇シンジの気配が消えたのを確認して、少年は顔を上げた。

「綾波」

 彼女に駆け寄って、優しく抱きしめる。

「ごめん、大丈夫だったかい、綾波。ごめん、綾波、ごめん……」

「碇くん……」

 レイは呆然として少年の腕の中で目を瞬かせる。

(くそっ、あの馬鹿、綾波を傷つけやがって!)

 心の中は怒りが渦巻いているが、それでも彼女を安心させる方が先だった。

「ちょっと混乱していたんだ。使徒の精神汚染を受けていたから。でも、もう大丈夫。突き飛ばしたりして、ごめん。心配かけて、本当にごめん」

「……もう、いいの」

 そうしてレイが一度胸に顔を埋めてくる、が、びくんとその体が跳ねた。

「綾波? あやな──」

「碇くんは、私が怖い?」

 それを聞いて、やはり綾波を傷つけてしまったということが明確になった。
 せっかくここまで、彼女を優しく守り続けてきたというのに、この一件で全て台無しだ。

「怒るよ、綾波。僕は絶対に綾波を嫌ったりしない」

「なら、絆をちょうだい」

 言われずとも、彼女の涙を親指で拭い、彼女の目が閉じるのをまって、そこに唇を落とす。

「誰にも渡さない。僕の綾波」

 それは自分の心からの感情。
 同時に、彼女の心の安定を取り戻すための手段。

「……怒るんじゃなかったんですか」

「なんていうの、毒気? 抜かれるわよ、これじゃあ」

 マナとアスカが目の前のラブシーンに肩をすくめ、ため息をつく。

「シンジ。その辺りにしときなさいよね。ギャラリーがいるんだから」

「アスカ」

 綾波を支えて立ち上がらせる。そしてベッドに腰かけて、少年はアスカに向き合った。

「全く、アンタは最初からエヴァを暴走させるつもりだったの?」

「まあ、それくらいしか方法は思いつかなかったからね」

「自分の命を危険に晒してまで?」

「生き延びる自信はあったよ。ただ、みんなに心配はかけたのは間違いないことだ。それについては本当にごめん」

「シンジ。歯を食いしばりなさい」

「うん」

 言われたとおりに歯を食いしばる。そして、少女の平手を受けた。
 これは、相手を騙したことの罰。そして、許しだ。

「これで今回のことはナシにしてあげるわ。これにこりたら、二度と一人で特攻するなんて真似はやめてよね」

「うん、大丈夫。多分そんなことになるのは今回だけだから。僕だってこんな苦しい思いをするのは嫌だよ」

 その言葉にアスカは少し困ったような表情をする。
 おそらくは、先ほどの『碇シンジ』の言葉が頭をよぎったのだろう。

(あれは俺のセリフではないんだけどな)

 とはいえ、それを説明することもできない。全く、あいつが出てくるとろくなことにならない。

「シンジくん」

「ごめん、マナにも心配かけちゃったね。戻ってくる自信があったから、マナには言わないようにしてたんだけど」

「うん。気遣いは嬉しいよ。でも、アスカが言ってたの。アスカ、自分なら一人だけカヤの外は嫌だって。家族なら苦しいことも分け合うものだって」

「そんなことを言ったの?」

 本気で驚いてアスカを見つめる。ふん、と彼女はそっぽを向いた。

「アンタならそう言うんじゃないかと思ったからよ。どうやらアタシの見込み違いだったみたいだけどね」

「ごめん」

「今日のアンタは謝りすぎ! 内罰的よ!」

「そうだね、確かに」

 苦笑し、手をつないできたマナを抱き寄せる。

「あ、シンジくん」

「ごめん、マナ。でも、僕は絶対に死なないから、安心して。僕はマナを置いてはどこにも行かないよ」

「うん」

 だが、今度はそうなると目の前のクールビューティが静かな怒りを見せる。
 なかなか、三人を平等に愛するというのは難しいことのようであった。





 そして、第十三使徒、バルディエル戦に入る。
 予め、ゲンドウにはダミープラグを切らせておいて、初号機に乗り込む。

(鈴原トウジ、か)

 あの男が嫌いな理由。
 それは。

(碇シンジに、何の相談をすることもなく、勝手に自分ひとりで決めたことだ……!)

 話していれば、また違う展開があった。
 碇シンジの心が傷つけられたのは、間違いなくトウジの件があったことに他ならない。
 別に、碇シンジの肩をもつわけではない。
 だが、トウジがもし少しでも相談し、碇シンジがそれを分かっていたら、もしかしたらあの赤い世界は起こらなかったのかもしれない。

(今回はすべて事情を知っているとはいえ、まったくやっかいなことになりやがって)

 いっそ、参号機をその場で消滅させた方が早かったかもしれない。参号機を徹底的に洗い出して使徒を発見することができれば殲滅は容易だったはずだ。

(まあいい。敵は強くない。それに、結局トウジは助かった。それを考えれば、先にエントリープラグさえ引き抜くことができれば、何の後遺症もなく助けることができるはずだ)

 楽観的になるのはいけないことだが、それでも初号機の力なら負けることはないと戦力分析は済んでいる。

(いくぞ)

 初号機が駆け出す。そして参号機の頭を殴りつける。

「できるだけ痛くしないようにしてやる。だから、じっとしてろ」

 その、時だった──

(トウ、ジ)

 頭の中で『別の』声がする。

(くそっ、こんなときに、お前か、碇シンジ!)

 急激にシンクロ率が下がっていくのが分かる。このままだと何を叫ぶか分からない。
 音声通信をOFFにして、碇シンジの精神を追い出す。

「出て行け、このっ!」

 その一言で再びシンクロ率が上がる。が、またすぐに声は戻ってくる。

(トウジは、殺させない──)

「そのために俺が戦ってるんだろうが、この馬鹿がっ!」

 本気で、苛々する。
 自分では何もできないくせに、俺に任せていればすべてがうまくいくのに。

「お前が出てきたら全てが台無しだっ!」

 それなのに、何よりも腹立たしいのは。
 この俺よりも、あいつの方が体の支配力が強いということだっ!

『碇くん!』

 レイの声が聞こえる。ちょうどそこへ、参号機の攻撃が始まった。組み付き、初号機に浸食してくる。

(おい。碇シンジ)

 吹っ切れた。
 この状況だ。相手を諭して、黙らせた方がいい。自分も頭に血が上りすぎている。

(このままだったら、俺も、お前も、そして鈴原トウジも、全員が死ぬ。だから、俺に任せろ。今回は絶対に、鈴原トウジを助ける。だから、お前は手を引け)

(トウジ)

(手を引け)

(……)

 すう、と体が軽くなる。どうやら、理解してくれたようだ。

『初号機、シンクロ率97%で安定!』

「うおおおおおおおおおおっ!」

 参号機の腕を逆にねじり上げると、力任せにその腕をねじ切る。

「ごめん、今、助ける」

 参号機を地面に組み伏せて、粘着質の物質をはがし、エントリープラグを強引に引き抜く。

「オ・ルヴォワール」

 コアを貫いた参号機を上空へ放り投げる。そして、十字の光が空に輝いた。

「至急戻る! 緊急手術の準備をしてくれ!」

 エントリープラグを握り締めたまま、矢のように真っ直ぐ、初号機はケイジの入り口へ戻る。
 そしてケイジで、パイロット三人がそろい、エントリープラグから運び出されてくる、参号機パイロットを見た。
 黒いプラグスーツの、彼女を。

「……え……?」

 霧島、マナ。

 何故。
 どうして。

 瞬時に、頭の中が回転する。
 フォースチルドレンが鈴原トウジであることを確認したか?
 ──した。赤木リツコと、鈴原トウジ、本人に。
 赤木リツコは何と言っていた?
 ──鈴原アヤを人柱にはしないと。生きている人間を犠牲にすることはないと。
 つまりそれは、鈴原トウジがチルドレンとして選抜される可能性がない、ということではないか。
 鈴原トウジは何といっていた?
 ──ネルフに入る、と。そう、パイロットになる、とは言っていない。

 騙された。

 赤木リツコは全てを分かっていて、自分を騙したのだ。
 彼女がそのようなことを独断でするはずがない。
 指示したのは無論。

「父さん。聞こえてる?」

『ああ』

 抑揚のない声がスピーカーから流れてくる。

「どうしてマナをパイロットにしたの?」

『コアが見つかったからだ。貴様もコアには何が使われているのか、知っているだろう』

「誰を」

『コアは別に近親者である理由はない。友人、幼馴染、その人物を保護してくれる人物であれば血のつながりは必要ない』

「誰をコアに使った」

『以前、このネルフで保護した少年だ』

 ムサシ・リー。

「戦自に帰したんじゃなかったのかっ!」

『彼が拒否した。しかもネルフから逃亡を図ろうとして、射殺された。不運な事故だ』

「貴様の言葉が信用できるか! マナをパイロットにしたことを俺に隠していただろうがっ!」

『それが貴様に何の関係がある』

 駄目だ。
 ゲンドウのことは憎んでいたが、それはもう、殺意に変わった。
 ここまで、大切に、大切に守り続けてきたマナ。
 それを、この男は、無残に、踏みにじった。

「シンジ、どこに行くつもりよ」

「どいてろ。邪魔だ」

「シンジ……馬鹿なことを考えているんだったら、やめなさい」

「どいていろ。聞こえなかったか」

「力ずくでもアンタを押さえるわよ」

「無駄だ」

「無駄かどうか──?」

 だが、何も話させない。彼女の首筋に手刀を一つ。それで、彼女の意識が途切れた。

「待っていろ、碇ゲンドウ。殺してやる」

 そして駆け出す。
 その途中。

『総員。サードチルドレンを取り押さえてください。生死は問いません』

「生死は問わず、か」

 今のは伊吹マヤの声だ。おそらく、自分を殺して、ゲンドウからの指示を泣きそうになりながら復唱したのだろう。可哀相に。
 彼女はきっと、自分を責めるだろう。もしも自分が本当に死んだなら、自分を殺した命令を下したのは自分だと、永遠に自分を呪うだろう。

(死ねないな)

 憧れすら抱く女性を悲しませることはできない。
 だが、あの男は殺す。そう決めた。
 命令に戸惑う黒服たちに近づくと、次々に意識を奪う。そして、その懐から拳銃を奪う。
 直後、自分の近くを弾丸が通り抜けていく。

(威嚇か)

 やはり、たとえ射殺の許可が出ているとはいえ、二流の黒服たちでは殺す覚悟はもてないだろう。
 人数が少ないうちなら、自分でなんとかカバーできる。
 こちらからも威嚇射撃を行い、近づいてから意識を次々に奪う。
 そして、その先に。

「よう」

 それはいつも訓練場で鍛えてくれていた人物。

「あなたも僕を止めるんですか」

「そりゃま、仕事だからな」

「殺してでも?」

「その許可は出ている。あまりそうしたくはないから、降参してくれるとありがたい」

 笑って、駆け出す。もちろん降参などしない。
 肉弾戦になる、と相手は考えただろう。そして自分も、十回に一回しか勝てない相手に正面から立ち向かうほど馬鹿じゃない。
 途中でとまり、拳銃を構えた。その腹部に放つ。

「シン……ジ……」

 まさか、と黒服はその場に膝を着く。

「急所は外しました。早く手当てを受けてください」

 そしてさらに速度を上げた。
 が、こちらが拳銃で相手を傷つけたことば知れ渡ったのか、もはや威嚇という段階ではなくなってきた。完全に相手も殺意を持つようになった。

(殺さずに進むのはこの辺りが限界だな)

 もちろん射撃訓練も積んだ。万が一の時のために、どんなことでもしてきた。
 急所を外して撃つようには訓練している。だが、さすがに数が多くなってくるとそうもいかない。
 撃つ。倒れる。撃つ。倒れる。撃つ。倒れる。
 おそらくもう、彼らは助かるまい。
 申し訳ないとは思う。だが、それ以上に殺意を抱かせる相手がそこにいる。

「碇ゲンドウ!」

 発令所のドアを開く。だが、司令の前にいた最後の砦は、自分の知る限り最強の難敵、加持リョウジ。
 殺したくはないが、体が反応していた。考える間もなく拳銃を撃とうとする。
 が、それより早く加持は銃を抜いて放つ。それは正確に、自分の拳銃を弾き飛ばしていた。

(くそっ!)

 武器もなく、肉弾戦で勝ち目があるわけではない。だが、退くこともできない。
 特攻するが、やむなく加持によって押さえ込まれる。この辺りは年季の差か。
 組み伏せられても、決してゲンドウを睨むことだけはやめなかった。
 ゲンドウは冷たく、自分を見下ろしている。
 お互い、何も言わない。言う必要もない。





 そして、自分は投獄された。





 一晩牢屋にいて頭が冷えると、いろいろなことが見えてくる。
 そういえばマナもまた、前日の夜はおかしかった。一緒に寝たいと言ってきたり、何かをうったえようとしていた。あの時点で既に話は来ていたのだろう。
 何故、自分に相談しなかったのか。決まっている。自分が反対するからだ。自分に反対されることなくパイロットになるためには、黙っているしかなかった。だからそうした。
 おそらく、口封じはマナからリツコあたりに行われたのだろう。もし自分にばれたらパイロットにはなれないから、と。

「俺は、お前を守りたかったのにな、マナ」

 大事な人の気持ちに気づくことが出来なかった自分は間抜けだ。
 その結果、こんなところに囚われている。さらに間抜けだ。
 と、そのとき鉄格子の向こうに面会があった。

「ご機嫌はいかが、シンジくん」

 赤木リツコ。自分を騙した相手。
 聞きたくない。
 無視して不貞寝を決め込む。

「霧島マナの病状が知りたくないの」

 病状とは不思議な言葉を使う。だが、同時に相応しい気もする。

「よくもその口で、そんなことが言えるものですね」

 その後、赤木リツコから聞いた話はおおよそ予想のつく内容だった。
 まず、彼女は持ち直し、数日もすれば意識が戻ること。『フィルム』の時のように片足がなくなるなどということはないということは幸いだった。
 それから今回内密にされていたのは、全てマナの一存だったということ。それもどうでもいいことだ。そんなことは考えれば分かることだ。
 同時に、このままでは自分は次の第十四使徒戦に出られることはない。
 だから赤木リツコにはダミープラグの準備をさせた。
 ダミーの凶暴性とシンクロ率なら、充分に倒すことができるだろう。
 そして、紙とペンをもらった。

 頼れるのは、加持だけだ。

 このような状況に陥ってしまった以上、牢から出られる方法は数少ない。
 正直言って、この方法は危険だ。
 命をかける必要がある。
 これは本当に、万が一の時のための、保険だ。

(アラエル、アルミサエル、そしてタブリス)

 残り三体の使徒。
 その特徴と倒し方を、簡単に列挙する。

(もっとも、アルミサエルを倒すのは至難だ。罠にうまく引っかかればいいが)

 ムサシが乗っていた戦自のトライデントを罠として利用し、倒す。その方法を記述する。
 そしてタブリスの記載はせず、かわりにエヴァシリーズを十七体目の使徒として記す。

(そして、あとは)

 加持だけに託すことができる内容。それは、

(ダミーを、殺してくれ)

 自分にはできない。どうあがいてもMAGIの管理するドグマに侵入することなど不可能だ。
 ならば、加持に頼むしかない。

 準備は整った。
 あとは、碇ゲンドウがやってくるのを待つだけだ。





 そしてついに、その時が来た。
 ネルフ総司令、碇ゲンドウがただ一人、自分の前に立つ。

「やあ、ゲンドウ」

 相手のファーストネームを呼ぶ。もちろん自分はこの男を父親だなどとは思っていない。

「お前は誰だ」

「単刀直入だな。俺は碇シンジ。あんたの息子だよ」

「お前はシンジではない。シンジの中にいる別人だろう」

「半分正解。でも、正確な理解ではないな」

「存在自体がイレギュラーな奴が何を言う」

「存在はイレギュラーだが、正体はレギュラーだ。知らないのか、碇ユイに子供ができたとき、その子供が双子だったことを」

「なに?」

 ゲンドウの顔が険しくなる。

「へえ。やっぱり知らなかったんだな。碇ユイは知っていたぞ。どうやらユイはあんたに隠し事をするタイプだったらしい」

 だがそれでゲンドウは動じない。

「お前がその『消えた双子』だというのか」

「そう。物分りが早いな。その通り。そしてあのリニアの中で入れ替わった」

「シンジの意識を残したままか。なるほど、やはり『イレギュラー』だな」

 苦笑して答える。そんな言葉で自分を傷つけようだなどとは、笑わせる。

「ならば改めて言おう。シンジを返せ」

「ああ」

 あっさりと答える。その答に、逆にゲンドウが戸惑った。

「どういうことだ?」

「どうもこうもない。俺がこの牢屋から出るにはそれが一番だと判断しただけのことさ」

 そして立ち上がる。
 そう、これは賭けだ。
 自分は、もう一度、帰ってくる。
 必ずだ。

「だが、いいのか?」

「何がだ」

「碇シンジは霧島マナに惚れていた。そのマナがあんなことになったんだ。おそらく今のシンジの状態は、後悔のあまり、自分で自分を殺したいくらいのはずだ」

 ゲンドウが少し慌てたように身構える。
 それに対して、自分は右手で指鉄砲を作り、自分のこめかみに当てた。

「ゲンドウ。自分の息子を愛するのも結構なことだが、愛し方を間違えたな。お前は永久に、碇シンジに許されることはないだろう。そして、碇ユイにもな」

 引き金を引く。

(さよなら、綾波。アスカ。マナ)

 だが、必ず帰ってくる。
 帰ってくる。
 必ず。

 そして。

 牢屋の中に立ち尽くす少年。
 碇シンジ。
 そう。

 本物の。

「うああああああああああああああああああああああああっ!」

「シンジ」

 ゲンドウが話しかけるが、シンジは全く聞かない。ただ、ただ叫び声を上げ続ける。
 ネルフ総司令は、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。

「ああああああああああああっ! うあっ! あがっあああああああああっ!」

 そこに加持リョウジが駆け込んでくる。が、その牢の中の異常性に、一瞬加持は怯んだ。
 そして、状況が悪化する。

「があああああああああああっ!」

 シンジが思い切り頭を振り上げ、そして地面に頭を打ち付けたのだ。
 さすがにそれを見た加持は錠を開き、シンジを取り押さえる。
 加持はそこに落ちていた紙片を咄嗟に拾い上げ、ポケットにしまう。

「俺だ。すぐに牢へ来てくれ。医者もだ。鎮静剤を持ってくるように」

 携帯電話で連絡を取る。直後、シンジが舌を噛み切ろうとするので、咄嗟に加持は自分の左手を噛ませる。歯が肉に食い込む。

「シンジくん、俺だ。分かるか」

 だが、シンジは唸るばかりで答えない。すぐに医者が駆けつけ、鎮静剤が打たれ、意識をなくした。





 シンジは目を覚ました時、自分が体の支配権を取り戻していることを悟った。
 苦痛は、全部『彼』が引き受けてくれるはずだった。
 それなのに。
 それなのに。
 それなのに。

「……やだ

 シンジは小さく言葉をこぼす。

「もういやだ。どうして、どうして今さら、こんな……」

 どうして今さら、体の支配権なんかを返すのか。
 父親は自分を裏切り、
 母親はこの世界になく、
 アスカも、レイも、もはや自分のことなど認識していない。
 そして。
 あの霧島マナが、自らの手で昏睡状態に陥っているのだ。

 どうして、こんなときに返されてしまったのか。

「碇くん」
「シンジ!」
「シンジ君、大丈夫か」

 いずれも心配そうな顔をしている。
 だが、シンジにとっては、そのどれもが、自分に向けられたものではないということを知っている。
 彼らが心配しているのは自分じゃない。
 自分じゃない。
『彼』だ。

「いやだっ!」

 ばさっ、とタオルケットを跳ね上げ、三人が躊躇している間にシンジは壁際に逃げる。
 だが、もちろんどこへ逃げる場所もない。シンジはただ袋の鼠になっただけだ。

「どうしたのよ、シンジ!」

「嫌だ! 僕に近づくな! 僕は、僕はこんなこと望んでなんかないっ!」

 そう。望んでなどいない。
 自分はこの地上にいたくない。
 誰も自分を愛してくれない世界などいらない。
 サードインパクトで滅びればいい。
 赤い世界になってしまえばいい。
 それがいやなら、僕にこんな体を押し付けないでほしい!

「どうしてこんなことしたんだよっ! 何とか言えよっ!」

「碇くん!」

 そのシンジに組み付いたのはレイであった。

「やめろ! 離せ! 触るな! 綾波なんか、僕のこと何も知らないくせに!」

「碇くんが話してくれなければ、何も知らないのは当然だわ」

「知った顔で言うなよ! どうせ綾波なんて僕のことなんか少しも想ってくれてないくせに!」

「アンタ──」

 レイを押しのけて、アスカがシンジの肩を掴んで強く握った。

「何するんだよアスカ! 離せよ!」

「アンタ、何様のつもりよ。だいたいにして、いつものアンタらしくないわよ。何から逃げてるのか知らないけど、とっとといつものアンタに戻りなさい!」

 その、瞬間。
 シンジの顔が、凍りついた。

「そうか」

 そして、シンジは、泣いた。

「そうなんだ」

 泣きながら、笑った。

「僕はもう、僕じゃないんだ」

 分かっていた。
 アスカも、レイも、マナも、ミサトもリツコもマヤも加持も誰も彼も。
 ここに『自分』を知っている者は誰一人いない。
 自分はもう『自分』じゃない。
 ここは『自分』の居場所じゃない。
 居場所は『彼』が奪った。
 もう、どこにも、行き場は、ない。
 逃げ場所は、ない。
 何も、ない。
 僕も、ない。

「さよなら」

 ふっ、とシンジの意識が切れる。
 そして、その場に倒れた。





「なんだ、戻ってきたのか」

 自ら意識を閉ざした『シンジ』を笑って出迎える。

「どうやら俺に体を明け渡す気になったようだな」

 だが、シンジは首を振った。

「何?」

「僕の体は僕のものだ。でも、もう二度と目覚めさせない。僕はあの体をもう誰にも使わせないし、サードインパクトの道具になんかさせない」

 はっきりとした口調だった。何かが吹っ切れたようだ。

「ほう。どういう心境の変化だ?」

「もうアダムはこの世にないんだろ? だったら、使徒がどこに攻めてこようと同じだ」

「エヴァ初号機を使えば補完計画は可能だ。ヨリシロは、綾波かな」

 だが、シンジは怯まない。

「かまわない」

「何?」

「僕の知っている綾波なら、世界を破滅させることはしない。サードインパクトは起こらない。もし補完計画が起こったとしても、それはゼーレのじゃない。父さんの補完計画だ。それなら赤い世界は起こらない」

「正しい判断だ」

 どうやら、本気で自分と戦うつもりのようだ。

「マナをあんな目にあわせた、罪滅ぼしのつもりか?」

 さっ、とシンジの顔が紅潮する。

「あれは僕じゃない。お前の仕業じゃないか!」

「そうさ。そしてそれを裏で操っていたのは碇ゲンドウだ。それでもお前はまだ父親だと言うのか」

「父さんは父さんだ。それに、僕はあの場面で戦うのは反対だった」

「最後は了承したはずだ。俺にコントロール権を渡したんだからな」

 くっ、とシンジは表情に出す。そういうところがまだまだ甘いのだ。

「それに、これから来る三体の使徒、分かっているだろう」

「何がだよ」

「アラエルはアスカを潰す。アルミサエルはレイを殺す。そして、カヲルがやってくる。お前まさか、本当に大丈夫だなんて、心から言っているなんてことはないだろうな」

 シンジは歯を食いしばって耐える。

「い、今の綾波やアスカなら、使徒には負けないよ」

「ふざけるなよこの野郎」

 視線を逸らしながら言うシンジの胸倉を掴み揚げる。

「お前はアスカや綾波、マナを助けたいっていう気持ちはこれっぽっちもないのか? だから俺がこの体を使ってやるって言ったんだ」

「その体を返したのはお前じゃないか!」

「そうだ。そうしなければ牢屋から出ることはできなさそうだったからな。『碇シンジ』が牢から出られたのは、俺の意識が一旦引き、お前が現れたからだ。そうでなければあの碇ゲンドウが牢から出すものか」

 シンジが何も答えなくなった。それは何も言い返すことができないということだ。
 どん、と突き飛ばす。そして、一つ息をついた。

「お前、どうして使徒が第三新東京に来るか、分かるか」

「どうしてって、アダムじゃないのか」

「違うな。それは後付けの説明にすぎない。だいたい、アダムは当初ドイツにあったんだぞ」

「そういえば……」

 頭を使わない男というのはこういうものなのか。
 こんなからくり、誰が考えたって分かるものなのに。

「簡単だ。使徒迎撃要塞を作り、そこに使徒を向かわせる。使徒の目標はアダムなんかじゃない。第三新東京、そのものだ」

「第三新東京、そのもの? じゃ、じゃあ使徒の目的って、なんなんだよ」

「使徒に目的なんかない。ただ人間を滅ぼすことだけが目的だ。それは本能だ。生存競争に生き残るためにな」

 使徒のカラクリは、あの『フィルム』を見て気がついた。
 十八ある使徒の中で、現在の世界を統べているのはヒトだ。
 だから残り十七の使徒たちはヒトを倒すために現れる。
 そして、この地上の支配権をめぐって争うのだ。

「じゃあ、どうして第三新東京が狙われるんだよ!」

「だから頭を使えと言っている。その使徒たちそのものを、人間が操っていると考えればどうだ」

 人間が、操る。

「誰が」

「ゼーレ。裏死海文書にある使徒たちを探り当て、その使徒に指向性──つまり、第三新東京を狙えという指示を与える。第三新東京を滅ぼせばヒトを滅ぼすことができる、と。ゼーレは倒すべき使徒を、まんまと一番迎撃しやすいポイントにおびき寄せたということだ」

 さすがにシンジも衝撃で言葉がないようだった。

「仕組まれてた、ってことなのか」

「誰も知らないところでな。だが、碇ゲンドウだけは知っている。お前も『フィルム』で見ただろう。国連軍から権限委譲されたときの碇ゲンドウを」

『そのためのネルフです』

「そう。ゲンドウは最初から全てを知っていた。当然だな、ゼーレの一員なのだから」

「で、でも、それならどうして、使徒は一斉に攻めてこないんだ?」

「それもゼーレのカラクリだろう。裏死海文書に刻まれているスケジュールとやら、おそらくは使徒覚醒のスケジュールなのだろう。どういう都合で仕組んだのかは分からないが、うまくできている」

「全て、ゼーレの掌の上ってことなのか」

 ようやくシンジは諸悪の根源にたどりついたようだ。だが、これくらいのことは最初から分かっていてほしい。仮にもあの『フィルム』を最初から最後まで見たのなら。

「だからゼーレは倒さなければならないんだ。サードインパクトはアダムとの接触なんかで起こるわけじゃない。アンチA.T.フィールドを全開にして赤い世界を生み出すこと、それがサードインパクトなのだから」

「アンチA.T.フィールド」

「そう。その秘密がジオフロントに眠る、黒き月だ。あの黒き月のパワーは、人間が持っているA.T.フィールドの力を全て無効化する。その黒き月を表面に出さないようにするために、N2は一応全弾投棄させたが、ゼーレのことだ、すぐに再開発に移るだろう。時間は少ない」

「どうして」

 シンジは呆然と、自分を見つめてくる。

「どうして、そんなに、何もかもが分かっているんだ?」

「お前が分かろうとしていないだけだ。あの『フィルム』を見て、キール議長らが何を企んでいるのかさえ抑えれば、あとはだいたい芋づるに分かっていく。そんなに難しいことじゃない」

「お前はそれを分かって、止めるつもりなのか?」

「当たり前だ。お前はそうじゃないのか」

「僕は」

「俺は自分の体と命が大事だ。お前になど使われたくない。だが、死ぬよりはお前が使う方がまだマシだ。俺の意識はここにきちんとあるからな」

「……」

「もちろん、お前を消滅させて、俺が体の支配権を完全に握る。それが俺にとってのベストな形だ。そうすれば俺はこの世界を守ることもできるだろう」

「でも、僕の体はヨリシロに使われる」

「ふん。どんなことをしてでもタブリスを倒す前に、ゼーレの老人どもを葬ってやる。そうすればきっと、カヲルもゼーレの呪縛から解き放たれるだろうしな」

「カヲルくん──」

「だから、シンジ」

 これだけ説明して、分かっただろうか。
 自分なら、この世界を救えるということを。救うための方策があるのだということを。

「お前の体を、俺に引き渡せ。お前も、この世界が滅びるのは嫌だろう」

 シンジは顔を伏せた。

「でも、僕は──」

 その、瞬間だった。
 自分たちの左手が、ほのかに熱を帯びる。

「これは?」

 それはシンジには分からなかっただろう。何しろ、経験したことがないのだから。
 これは、人の温もり。

「お前には聞こえないだろうな、碇シンジ」

 勝ち誇ったように微笑みを浮かべる。

「これは人の温もり。これは、マナか。マナが俺に、戻ってきてほしいと、伝えてきている」

「マナが」

「そうだ。お前じゃない。俺がだ。もうお前のことを知っている者は、碇ゲンドウ以外に誰もいない」

「……」

「できればお前がまた邪魔をするのは防ぎたかったからな。お前がこのまま、この精神世界にいてくれればいいんだが。まあ、お前が出てくるつもりなら俺は叩き潰す。そのつもりでいろ」

「……分かった。でも、僕の願いは一つだけだ」

 シンジは、真っ直ぐに自分を睨んで言った。

「僕の知っている人たちを、殺さないでほしい」

「当たり前だ。俺だって同じだ」

 そして。





「ん……」

 戻ってきた。
 ゆっくりを目を開けると、そこはまた病室だった。

「シンジくん──聞こえる?」

「──経過は良好、赤木博士」

 それで、リツコはほっとした表情を浮かべた。

「良かった。あなたに会いたかったのよ。戻ってきてくれてありがとう『偽者』さん」

 頬をかすかに上げる。そのような言い方をするということは、つまり。

「どうやら『俺』の正体に気づいたようで」

「それがあなたの本性ね。良かったわ、ここで『本物』に戻ってこられたら私たちはどうしようもなかった」

 本物など、もう二度と表面には出さない。
 永遠に、俺の中で眠らせておく。
 そう決めた。

「ところで、この体中のプラグと針はいつになったら抜いてくれるんだ?」

「痛みはないでしょう?」

「だったらお前が頭に針を刺してみろ」

 リツコは苦笑した。

「すぐよ。その前に確認しておきたかっただけだから。もう少し寝ていてもらえるかしら。すぐにあなたの愛しい女の子たちにも会わせてあげるから。いいわよ」

 リツコは振り返って少女を見つめる。そして医者の手から離れた少女が駆け寄った。

「シンジくん!」

「マナ、か」

「ごめんなさい、シンジくん、私、私──」

「お前が無事なら、もういい」

 麻酔がきいていて、全く体が動かない。だが、その指だけがぴくりと動いた。
 彼女はさっと手を取るとまた頬にあてる。

「ただいま。随分心配をかけた」

「おかえりなさい、シンジくん。レイさんもアスカさんも、みんな帰ってくるの、待ってたんだから」

「二人とも、随分怒ってるだろうな。けど、悪い。話はゆっくり、目が覚めてから……」

 そして再び、眠りにつく。
 だが、今度は必ず目が覚めると分かっている。
 その事実に、ひどく安らぎを覚えていた。





 いろいろと考えることがあった。
 碇シンジはこの後も自分を邪魔してくるだろう。特に、もしもカヲルとの最終決戦となった場合、全力で抵抗してくるに違いない。まったく、面倒なことだ。
 もっとも、それはそのときにならなければどうにもならない。それよりも今の優先は、一つ。
 ゼーレ。
 いよいよ最終決戦は近い。カヲルとの前にゼーレを滅ぼすことができなければ、赤い世界が生み出されてしまうかもしれない。
 とはいえ、そのゼーレの居場所すら分からない。
 ゼーレの本拠地は、加持の情報でロシアの人工衛星だという。
 ロシアが打ち上げている人工衛星は二千を超える。その中の一つを見極めるなど、まず不可能だ。
 ロシアの人工衛星はその開発目的に関係なく、全てkosmosと呼ばれる。打ち上げた順番に、一番、二番と番号が振られていく仕組みだ。
 そんなものを、どうやって見極めるというのか。
 そしてもう一つ。赤木博士から伝えられた『テロメア』の件だ。
 以前から自分の寿命は短いと覚悟してはいたものの、こうして事実を突きつけられるとさすがに堪える。
 ただ、加持も冬月も赤木博士も、ゲンドウを見限って自分に協力してくれるとのことだ。
 順調、といえばいいのだろうか。
 少なくともあの『フィルム』の状況よりは好転していると考えていいだろう。

(あとは、使徒二体をどう倒すかだな)

 アラエルはいい。だが、アルミサエルは。
 現状で対応できる方法を赤木博士に用意させてはいるものの、難しいと言わざるをえまい。
 正直、勝てる見込みはない。

(何か、いい方法があるといいんだけど)





 そうしている間にも、アラエルが襲来する。
 その瞬間、ネルフは軍事衛星凍結を解除。いつでも使徒に対して攻撃ができるようにする。
 あとはA.T.フィールドだけ張らせなければいい。そのために初号機が生贄となる。
 使徒の精神攻撃が、自分を貫く。
 そして、自分は心の中を全て、丸裸にされた──

 そう。
 たった一つだけ、自分には弱点がある。
 それは。
 許し。
 この世界に生きているという許し。
 本来体を与えられていないのにも関わらず、この世界で生きてもいいという許し。
 アスカはその許しをくれた。
 でも、神がそれを与えてくれたわけじゃない。
 そして、

「この体は、僕のものだよ」

 あの男の声が聞こえる。

「だ、まれ……!」

 アラエルの精神波の影響か、あの男の声がやけに強く感じられる。

「俺は……お前には……負け、ないっ……!」

 負けられない。
 何があっても。
 この体を、二度と手放さない。

 この世界が好きだ。

 レイ、アスカ、マナ。みんなが自分を好きだと言ってくれるこの世界が好きだ。
 だから、譲れない。
 自分がここに、本当にいたいと思うから。

『アンタが好き! だから、アナザーに負けないで!!!』

 聞こえた。
 その言葉が。

(俺も好きだ)

 そして、少年は空を見上げた。

「オ・ルヴォワール」

 軍事衛星からの集中砲火を浴びたアラエルは消滅した。





 そして、アルミサエル戦。
 戦略自衛隊の『トライデント』を罠に使う作戦は、アスカの特攻によってものの見事に失敗に終わった。
 だが、そのおかげで覚悟が決まったともいえる。
 シンクロ率を二百%まで一気に高めて、弐号機から使徒を分離させ、呼び込む。
 そして左手に寝食させ、A.T.フィールドで固定。
 左手を切り落とした。
 もちろん、シンクロ率をそこまで高めているということは、自分の左手もまた切り落とされるということでもある。
 そして、右手に握ったプログナイフを、その左手に刺し、エネルギーをオーバーロードさせる。

「オ・ルヴォワール」

 爆発。
 アルミサエルは痕跡も残さず、消滅した。





 そして、タブリスとの出会いが来る。

(カヲルか)

 人気のない街を歩く。
 あの『フィルム』では、零号機の自爆によって完全に失われた街だ。
 だが、今はまだここに残っている。
 敵のN2もない。
 このまま、この街を守ることができるだろうか。

(全てはお前次第だな、カヲル)

 そうして聞こえてくる、ベートーベンの第九。

「歌はいいねえ。歌は心を潤してくれる。リリンの造った文化の極みだよ。そうは思わないかい? 碇、シンジくん」

「ふん」

 会いたかった。
 この体を与えてくれた恩人。
 そして、最後の敵。

「ようやく会えたな、カヲル」

「そうだね。長かったよ。あの始まりの日からここにいたるまで、もう何年も経ったみたいだ」

 少年は苦笑した。確かに長かった。ここまで来るのに、さまざまな紆余曲折を経てきた。
 辛かったことも、楽しかったことも、さまざまある。
 だが、今はこの男と心ゆくまで話し合いたい。

「茶でも飲むか」

 カヲルは首をかしげた。

「時間はあるんだろ。うちに来い。それくらいはご馳走してやる」

「そうかい、悪いね」

「悪いも何も、お前は俺に体をくれた命の恩人だ。茶くらい出さないとバチがあたる」

「別に、僕は君のためにしたわけじゃないよ」

「分かっている。お前が俺を利用しているというのはな。だが、俺はこう見えてもお前に感謝しているんだ。心の底から。だから、精一杯もてなしたいと思う」

「最初から断るつもりはないけどね。シンジくんがそう言ってくれるのは嬉しいよ」

「なあ、カヲル」

 少年は聞きづらそうに顔をしかめて言う。

「お前の気持ちは分からない。お前が何を考えて俺にこの体をくれたのかも、正直なところ理解はできていないんだ」

「そうだろうね。僕も理屈で行動しているわけじゃない」

「本能でもないな。もしそうなら、お前は自分の敵を作ったことになる。本能でできることじゃない」

「そうだね。理屈でも本能でもなければあとは、感情のなせるわざかな」

「そこだ、カヲル。お前は感情を持っているのか? あの『フィルム』を見る限りでは、お前に感情など欠片もないように見えた。それなのにお前は、人間を助けようとするのか?」

「僕は人間が好きなんだよ」

 笑いながら言う。だが、その笑いには感情がこもっていない。

「だからお前が理解できないんだ。お前が人間を好きだと本気で言っているとは、俺には信じられない」

「シンジくんは僕が信じられないのかい?」

「お前みたいな奇天烈な生き物を信じろという方が無理だ」

「ひどいなあ。僕はこんなにシンジくんのことが大好きなのに」

「そのふざけた形容詞をやめないとこの場で十回殺す」

 そしてお互い笑いあう。

「だが、まあ。お前が俺のことを気に入ってくれているというのは信じてやってもいい」

「どうしてだい?」

「あの『フィルム』の中で、お前はシンジだけを特別扱いしていた。理由は分からないけどな」

「あれも未来の一つの可能性だよ。いうなれば別の世界ってところかな」

「アナザーワールドか。そういえばシンジの奴は、アスカたちから『アナザー』と呼ばれるようになっていたな」

「もともと彼の方が本物なのに?」

「ああ。少しだけあいつが憐れだった」

 その後は二人ともしばらく言葉がなかった。
 少年はその間も考えていた。この使徒と、何を話せばいいのかと。
 何度かカヲルとの会話については事前に考えてはいた。だが、結局この使徒が戦いの道を選び、凄惨な殺し合いになるのだろうという予測はあった。
 だから、覚悟はできていた。

「カヲル」

 だが、その前に、自分は伝えなければならない。
 この使徒に。

「俺は、お前と友達になりたい」

 真剣な表情で見つめる。だがカヲルの笑みは変わらない。

「僕は最初から、そのつもりだよ」

「だったら!」

「僕にとって大切なのはシンジくんだけだ。ただ僕にはアダムと接触してサードインパクトを起こすという役割がある。どちらを選ぶかはこれから決めるよ」

 これから?
 違う、それはもう、カヲルの中では決まっているはずだ。

「分かった」

 だが、それを追及することはしなかった。
 ──結論は、分かっていたから。





 交渉は、当然、決裂。
 そして翌日の戦いを迎える。





 プラグスーツを着て、精神を集中する。
 問題は、戦いそのものではない。本気になったカヲルは確かに強いのだろうが、それ自体を恐れることはない。
 碇シンジが覚醒することだ。
 その瞬間、エヴァを操ることができなくなる。カヲルをいざ殺そうとした時に、あいつは必ずこの体を乗っ取ろうとするはずだ。
 その前に決着をつける。
 ──可能なら。

(いや、無駄か)

 可能なら、もう一度考えなおしてもらうように説得する。

(結局、ゼーレの居場所を見つけることができなかった俺の敗因か)

 加持の死が全てだった。せっかくロシアの軍事衛星というところまでは突き止めたのに、その内偵をしていた加持の口は塞がれてしまった。
 あとはゼーレの操るエヴァシリーズとの戦いが待っている。

(赤い世界には、させない)

 少年が気合を入れると、そこに携帯のメール着信があった。

(こんな時に?)

 誰からか、と思ったがその発信者は葛城ミサトであった。

(こんな時にいったい)

 着信内容を表示する。

『やほ〜♪ 今ちょ〜っちそっちに行くのが遅れそうだから、がんばって最後の使徒、倒しちゃってね。無事に全部終わったら、この間の約束、きちんとするから。ゴミン! BRMRふあおよ』

 何を考えているのか。
 鬱陶しくなって表示を切ろうかと思ったが、ふと気になる表現があった。

 この間の約束。

 いったい何のことだ。
 それに、最後に書いてあるこの意味不明の言葉。

(……暗号?)

 このメールは当然、誰かに見られているのは間違いない。ばれないようにするために暗号化することにしたのなら。

(何か、理由がある)

 それこそミサトの行動を制限できるとすれば、ゲンドウかゼーレだけだ。

(ゼーレ……ゼーレ?)

 ゼーレの居場所は、ロシアの軍事衛星。
 ロシアの衛星はkosmosと呼ばれる──

(大金星だ)

 おそらくは、加持からミサトへ、伝言ゲームが行われたのだろう。
 自分に、ゼーレの居場所が伝わるように、と。

 BRMRふあおよ⇒コスモス2369。

(そこが、ゼーレの本拠地か)

 だが。
 まさにこの戦いの直前にいたって、どうやってそのゼーレの本拠地を叩き潰せばいいというのだろうか。

(いや、方法はある)

 きっと。
 どうにか、できる──





『そういうわけじゃない。ただ、シンジくんがあの子たちを守りたいと思うなら、それは遠回りをしているようなものだ。どうして事を最短で運ばないのかな?』

 カヲルが「今だ」とサインをくれる。
 この立ち位置。
 自分から見てカヲルの向こう。そこに、kosmos2369がある。

「来い」

 ずっと考えていた。
 衛星が本拠地ならば、ロンギヌスで貫くことができないものか、と。

『気づいたようだね。それでないと僕は倒せないということに』

 そう。これでなければカヲルは倒せない。カヲルはそれだけの力を持った使徒だ。
 だが、もしこれでゼーレの頸木を逃れられるのなら。

『そう。ロンギヌスの槍はA.T.フィールドを無効にする。ここからが本当の勝負だ』

 投擲をするようにロンギヌスを構える。
 そして。

『そう。『その方向』でいい。僕の方に向かって投げるんだ』

「お前の──お前たちの命は確かに受け取った」

 加持リョウジ、葛城ミサト。
 二人の命が無駄ではなかったということを、今ここで証明する。

「くだけろ、kosmos2369!」

 ロンギヌスの槍は、真っ直ぐに標的目掛けて進む。光の速さで、ゼーレの老人たちが乗る衛星を貫く。
 そして、消滅。
 ロンギヌスは月軌道へと移った。

『お疲れ様、シンジくん。これでゼーレの脅威は半分ほどなくなった』

「半分?」

『まあね。ゼーレは存在していてもしていなくても、世界に影響を与えることができるっていうこと。ある意味で世界経済はゼーレがいたから何とか回っていたようなものだ。それがなくなればバランスを失う。問題は山積みだよ』

「だが、これで補完計画は防げた」

『それもまだだよ、シンジくん。エヴァシリーズが残っている。あれには僕のダミーがインストールされている』

「カヲル、お前」

『僕はね、シンジくんがどこまでやれるのかを見てみたい。あの『フィルム』の状況に陥っても、それでもシンジくんは生き残ることができるのか。だから、ゼーレがいなくなった以上、これからは僕が相手だ。僕も、滅びの運命に対して、少しだけ逆らってみたくなったのさ』

 ──かくして、戦闘は継続された。





 激闘の中で少年自身も怪我を負い、だがそのおかげもあって初号機がカヲルの体を捕まえる。
 これで、王手がかかった。
 これからが、最後の会話だ。

「チェックメイトだぜ、カヲル」

 初号機と使徒とが──いや、シンジとカヲルとが、視線を合わせる。
 たった一人の自分の友人。
 彼を死なせたくない。
 死なせるつもりはない。
 これが、最後の説得の機会だ。

『そうだね。結局僕は滅びの運命に勝つことはできなかった。さあ、殺しておくれよ。分かってるだろう、僕には生と死は等価値だっていうことを』

「分かっている。だが、俺にとってはお前の生には大きな価値がある。今からでも遅くはないだろう。カヲル。俺のところに来い。俺と同じ時を生きてくれ」

 しかしカヲルは首を振る。それはできない、と。

『もう僕の正体がばれてしまっているしね。それに、やっぱり僕にはその選択だけはできないみたいだ。これは本当のことなんだけれど、シンジくんと一緒に生きる未来というのも考えてみたんだ。でも、僕にはそれを選ぶことだけはできなかった。その未来は僕に用意されていないんだ』

「未来なんて、自分で作るものだろう」

『人間にとってはね。でもタブリスにとってはそうではないんだ』

 悟りきった者の瞳。
 これ以上の会話が無意味であるということの意思表示。

(カヲル)

 やはり自分は、自分の手で友人を殺さなければいけないのか。
『フィルム』の中で碇シンジがたどった道を、今度は自分が歩まされる。
 そうはならないと思っていた。
 だが、人間の力には限界があった。

 他者を変えることは、できないのだ。

「分かった」

 吐き出すように、少年は言った。

「オ・ルヴォワール、カヲル」

『ああ。シンジくんに会うことができて、嬉しかったよ』

 そして少年はその両手に力を込めた──





 その時だった。

 どくん。

 自分の体内で脈打つ『何か』がいた。
 その存在の正体は、とっくに分かっている。
 自分がカヲルを殺すと決めた時に、あいつもまた決断した。

 何があっても、カヲルを殺させないと。

(シンジか)

 急激に自分の体が奪われていくのが分かる。
 奴の意識が休息に浮上してくるのが分かる。

「駄目だ、カヲルくんは殺させない!」

 自分の口が勝手に開いた。だが、そうはさせない。

「黙れ! お前にはもうこの体を使わせねえ!」

 一秒置きに力を失っていく自分の体。
 だが、気力で必死に持ちこたえる。

「お前こそ黙れよ! どうして友達を殺したりすることができるんだよ!」

「俺はお前と違って自分の命が最優先なんだよ! 他の奴のために自分が死ねるか!」

「他の誰かを殺すくらいなら僕は自分の死を選ぶ!」

「だから俺はお前が嫌いなんだ!」

「僕の台詞だ!」

 同じ口から交互に発せられる『碇シンジたち』の言葉。
 その体を奪い合いを、発令所のメンバーは固唾をのんで見守り、そして愛しげな表情でカヲルが見つめていた。

「お前は俺の僕は絶対に許さねえ何がこの体を渡したのはふざけるな俺が僕はこんなことお前の出る幕じゃするためなんかじゃない黙ってろこのカヲルくんは使徒は俺が友達を殺すなんてお前なんかに負けてこの体をこれ以上絶対に許さ嫌だ僕は黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ黙れ嫌だ」

(まずいな)

 意識が徐々に途切れていく。いや、体から離れていく。
 動けなくなる。完全に。

(負けるのか、俺が)

 気力で負けたら終わりだ。だが冷静な思考力が自分の敗北を悟っている。
 友人を守るためには、無限の力を発揮することができる男、碇シンジ。
 所詮自分は、自分のためにしか力を発揮することができないのだと、悟らざるを得なかった。

(だが)

 最後の気力を振り絞る。

(お前にこの体を奪われたとしても、カヲルだけは、カヲルだけは俺がとどめをさす)

 人間の未来を信じたカヲル。
 その信念を遂げさせてやることこそが。

 彼の、たった一人の友人としての、自分の役目だ。

「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」

 あらん限りに声を振り絞って、一瞬だけ、コントロール権を奪い返す。
 その一瞬で、少年は両手を握り締めた。

 ──そして、彼はこの体から切り離された。





 碇シンジの目は覚めて、担架に乗せられたまま運ばれていく。
 結局、誰も救えなかった。
 その嘆きと後悔だけが残る。
 もし自分が最初から、全てを受け入れていたら、結果は違っていただろうか。
 いや、それでも自分は友人が死ぬなんて真っ平だった。

「シンジ」
「碇くん」
「シンジくん」

 ──そう。
 自分こそが『碇シンジ』だった。
 自分は『アナザー』なんかじゃない。
 でも。
 彼女たちは自分なんかを求めてはいない。
 彼女たちに必要なのは自分なんかではない。
 自分は誰にも必要とされず、他人を苦しめてばかりいる。
 それでも。
 この体の中で生きていくことが、あの「赤い世界」を作り出す者としての、贖罪なのだろうか。

「ごめん」

 碇シンジは、彼女たちに謝っていた──






Go to Heaven ?

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