第一使徒──光の巨人。
　二千年の南極に現れ、この地上から季節を奪った存在。
　だが、今少年は何と言ったのか。
　第一の使徒が、アダム。
　最初の人間だと。

「ど、どういうこと」

　リツコですら、第一、第二の使徒の詳細は知らされていない。おそらく知っている者がいるとすれば、それは碇ゲンドウただ一人。

「それについてはあいつと話したことはないので、僕にも分かりません。ただ、あいつの考えはおぼろげに僕にも伝わっています」

　少年はスクリーンから目を離さずに答える。

「すべての人間がアダムとイヴから生まれたように、すべての使徒はアダムから生まれたのだ、と」












The end of Another World

episode 2

──『真実』と『嘘』──












　新たに生まれたアダム──初号機の姿をした使徒は、全く動こうとしなかった。その様子は起動前の初号機に酷似していた。
　だが、当然このままでいられるはずがない。すぐにでも戦いは始まる。
　アスカは先制攻撃をかけるべきか、と動こうとする。

「動くな、アスカッ！」

　が、そこに少年の声が届く。全く、自分が求めている男性ではないというのに、同じ声をしているということが苛立つ。

『なによ、こっちが動いたら向こうも動くっていうの』

「そうだよ、多分ね」

　少年は言葉こそ確証のない言い方だったが、口調は違った。その裏に『間違いなく』と言っているのが分かる。

「アダムは今までの使徒とは違う。使徒はすべてアダムと接触することを目的としてきていた。でも、アダムは自分に接触する必要なんかない。だから、誰に対しても中立で、公平だ。こちらから牙をむけば、相手もそれと同じように返す。とにかくまだ攻撃しちゃ駄目だ」

　アスカは迷った。今の少年は、いつものように絶対的に信じられる彼とは違う。信頼していいものかどうか、自分では判断がつかなかった。

『リツコ、どうしたらいい？』

　彼の傍にいる頭脳明晰な女性を頼ることにした。

「アダムはまだ動く気配はないわ。向こうが攻撃してきたら迎撃。動かない以上は現状のまま待機して」

　とにかく最悪の状況になることを防ぐ。その指示をインプットしたアスカは『了解』と答えた。

「いくつか、疑問に答えてもらってもいいかしら、シンジ君」

「はい」

　少年はスクリーンから目をそらさずに答える。

「アダムとイブから人間は生まれた、と言ったわね。じゃあ、私たち人間は、あのアダムから生まれたっていうこと？」

「そうです」

「じゃあ、アダムから生まれた使徒と、私たちの違いは何？」

　少年は首をひねる。答えられないというより、何から説明をしたらいいのかが分からない、という様子だ。

「アダムとイブの神話、ご存知ですよね」

　楽園の物語。当然リツコがそれを知らないはずがない。

「ええ。原罪の話ね。楽園にあったリンゴを二人が食べるという」

「はい。その最初の人間、アダムとイブはどのようにして造られたのかもご存知ですよね」

　最初に、神が自分の形に似せてアダムを造った。そしてアダムが一人だけなのは可哀相なので、アダムの肋骨を一本取り、そこからイブが造られた。

「そのイブとの間に生まれた子供たちが人間？」

「と言われてますけど、実際には違うみたいです。僕には分かりませんけど、あいつは違うと考えていました」

「どういうこと？」

「神ではない、堕天使が造ったもう一人の女性型人間、アダムの最初の妻がいるんです」

「リリス」

「はい。それが僕たち人類の母、なんだそうです。そしてそれが第二使徒です」

　発令所の中が静まり返る。
　確かにこれは禁忌に近いほどの秘密だ。もう一人の少年が今までひた隠しにしていたのも分かるような気がする。それなのに、こちらの少年がわざわざ教えているのは、それに強い衝撃を受けていないせいだろうか。

「リリスとの間に生まれた僕たち人類は、いわゆる第十八番目の使徒ということになりました」

「どうして」

「アダムの肋骨から造られたイブが、エデンのリンゴを食べた罪で十五に分けられてしまったからです」

「十五……それって」

　第一使徒、第二使徒、そして第十八使徒。すべてつじつまがあっている。

「そうです。第三使徒から第十七使徒。全部で十五の使徒たちは、本来自分がいるべき場所、少なくなったアダムの肋骨のあった場所を目指していたんです。ゼーレは使徒たちに指向性を持たせました。つまり、アダムは第三新東京市にある、と言って使徒をここに向かわせるようにしていたんです。ここは使徒を迎撃するために作られた街、ここに使徒が来ることは決まっていたことなんです」

　次々に明かされていく謎に、ネルフ職員たちは既にパニック状態だ。ついてこられているのは唯一赤木リツコのみ。

「何故、十五に別れたのかしら」

「……分かりません。あいつはそこまで考えていませんでしたから。ただ、何個でも良かったんじゃないかと思います」

　たまたま八つ裂きにしたら十五に別れたということだろうか。もう少し数が少なければ楽だったのに。

「だから、あのアダムと戦うわけにはいきません」

　少年はおそるおそる言う。

「今までの使徒はアダムの肋骨一本分の強さ。アダムの強さはおそらく、今までの使徒の数百倍になるものと推測できるんです」

　──なるほど。少年が全力でアスカを引きとめたのはそれが理由だということか。
　少なくともどちらのシンジも、アダムにはかなわないと考えていた。だから虚数空間にアダムを放逐し、こちらの世界と接点をもたせないようにした。
　だが、あのエヴァシリーズがそのような方法で来るとは。

「じゃあ、アダムをどうすればいいの？」

　リツコが尋ねる。だが少年は首を振るばかりだった。

「僕にも分かりません」

　頼みの綱の少年がそんなことを言い始めたので、発令所が騒然となる。

「そんな！」

「あいつだって、まさかアダムが戻ってくるなんて考えてなかった。隔離するのに一番安全だと思ったから、あいつは虚数空間にアダムを送ったんです。でも、こうなった以上僕らができることはたった一つ」

「それは？」

　リツコは祈るように尋ねた。

「神の怒りに触れないことです」

　相変わらず、その目はスクリーンから逸れなかった。



　弐号機のアスカも、零号機のレイも、先ほどから重圧の中でアダムと対峙していた。
　初号機の姿をしたアダムは全く身動きをとらない。
　このままでいいものなのか。
　今なら、このアダムを倒すことができるのかもしれない。
　アスカの腕は次第に震えていた。

「アスカ」

　その耳に、少年からの声が届く。

『何よ』

「分かっていると思うけど、あいつから言われたことを忘れないで」

『何？』

「第十六使徒戦。アスカが暴走したときのことだよ」

　それで冷静になる。
　あの時は自分が暴走したせいで、少年の腕を切断するはめになったのだ。
　そうだ。こういうときこそ、自分が落ち着かなければならない。自分は最前線を受け持っているのだから。

『アンタに感謝するわ』

　少年はそれを聞いて少し驚いたような表情を見せた。
　ここまでアスカを成長させることができたのは、もう一人のシンジのおかげだ。
　もしも自分が同じようにこの戦いを繰り広げていたらこうはならなかっただろう。
　彼は見事に、アスカを守るということを実践したのだ。その命をかけて。

「……やっぱり、そうなのか」

　自分は不要な存在。
　だが、どうしても譲れないものもある。

（僕はもう二度と、この体を手放さない）

　そのことが、どれだけの人を苦しめて、どれだけの人間から恨まれたとしても。

（僕は絶対に、お前にだけは負けない。そうさ）

　少年は思い出していた。
　ほとんど自分の意識がなくなった中で上映された『フィルム』のラストシーン。

（もう一度会いたいと思った。その気持ちは本当だと思うから）

　みんなが好きだ。
　そして、みんなに好かれたい。

　それなら、自分が努力することをやめてはいけないのだ。

　そんな簡単なことにすら気付かなかった。
　あいつは──とっくの昔にそのことを悟っていた。そして自分が守りたいと思うものを全力で守っていた。自分が逃げ出していたのとは全く正反対に。

（みんながあいつを好きになるのが分かる）

　それだけ、あいつは魅力的な人間だった。少なくとも命がけで守られている人間にとっては、麻薬に近い恍惚感を得られるだろう。

（でも僕だって、今からでも遅くはないさ。そう、どんなに絶望的な状況でだって『遅い』ことなんか何もないんだ）

　今までずっと逃げていた。
　だが、冬月は『後悔するな』と言った。
　このまま逃げていて、自分は本当にいいのだろうか？
　自問自答してみた。だが、答なんて分かりきっていたのだ。

（逃げちゃ駄目だ）

　かつて自分の敬愛する、今は亡き女性の言葉を思い返す。

（僕はもう、この戦いから逃げない。そして、お前にも負けない）

　──そう。誰も、それこそ少年自身すら気付いていないが、間違いのないことだった。

　少年は、碇シンジ本人をも、成長させていたのだ。



「……なかなか動かないわね」

　リツコが汗をぬぐう。言葉の通り、アダムはなかなか動かない。このままいつまで膠着状態が続くのだろうか？　現場のプレッシャーだけでもすさまじいものがあるというのに、最前線にいるアスカとレイの疲労ははかりしれない。

「トライデントのマナちゃん、無事に回収しました」

　マヤからの報告に少年が少しだけ緊張を解き、リツコが頷く。

「一つ聞いてもいいかしら」

「なんでしょうか」

「さっきシンジ君は、使徒はすべてアダムに還ろうとしていると、言ったわね」

「はい」

「じゃあ、アダムというのは十五の使徒をその体内に取り込んだ時、完成体となるということ？」

「だと思います」

「じゃあ、あのアダムは永久に完成体にはならないということね」

　少年は答えられなかった。もし答えたとしても「おそらく」としか言いようがなかっただろう。少年にしても知識はあっても分析ができていない。分かるのは、彼が何を考えていたかということだけだ。

「使徒は、お互いに知識を共有できるんです」

　それが話のすり替えに近いものであるのは分かったが、リツコはその言葉の意味の方が気にかかった。

「どういう意味？」

「使徒が一度経験したことは、次の使徒に引き継がれるんです。そしてそれは、アダムにも」

「アダム、にも？」

「はい。もとは一つの生命体ですから。遺伝子レベルで記憶の共有が図られているんです。だから、使徒は必ず一体ずつ出てきましたし、それに──」

　それに、の先はまだあいつも仮説の段階でしか考えていなかった。だが、その考えが自分は正しいと思う。

「使徒は、第三使徒から第十七使徒まで徐々に成長していました」

「成長？」

「使徒は順番に、手を変え品を変え攻め込んできました。第三、第四使徒は直接戦闘。でも、それでかなわないとなれば要塞の形を取って。その後も戦闘が続きましたけど、ガギエルの時にエヴァが二体になったと知れば、次は分裂するようになりました。それでもまずいと思ったら、今度は本部を直接攻略しようとしてきました。マトリエルの溶解液、サハクィエルの自爆攻撃……おそらく、サンダルフォンはあのまま地中から本部を直接占拠しようと考えたのだと思います。イロウルはウイルスの形をとって、レリエルは障害となるエヴァを虚数空間に放り込もうとしました。でも、そのどの方法でもエヴァを倒せなかった」

「そこで取った手段が、エヴァを乗っ取る、という方法ね」

　第十三使徒バルディエル。あれでマナが危うく命を落とすところだった。

「でも、結局倒せないと分かると、力でねじ伏せようとしました。それが第十四使徒ゼルエルです」

「残りの三体は？」

「ゼーレは、使徒が人間を知ろうとしている……と考えたみたいですけど、違います。使徒はバルディエルと同じように、エヴァを操ることはできないかと考えたんです。エヴァを同士討ちさせるために、エヴァを制御下に置く方法がないかと探り出しました。そこで第十五使徒アラエルは弐号機のコアに直接触れた。第十六使徒アルミサエルはエヴァの中のコアを探り、その制御方法を身につけた。そして、カヲル君が弐号機を使った──」

「ちょっと待って、それはどういう──」

「いえ、すみません。こっちの話でした。ここは僕の知っている未来じゃなかったですね」

　少年は首を振る。そうだ、ここではアラエルがアスカの精神を汚染していないし、アルミサエルと一緒にレイが自爆してもいない。だからカヲルは弐号機も零号機も操ることはできなかった。

「アラエルは初号機のコアを調査した、そしてアルミサエルは初号機と融合した。カヲルくんは、初号機にシンクロすることができたんです」

「シンクロ？」

「はい。初号機の中にある母さんのコアにシンクロし、直接動かすことができるんです。もしカヲルくんが初号機に乗ったら、百％のシンクロ率で動かすことができました。それどころか、カヲルくんは好きなパーセンテージでいつでも動かすことができたんです」

　そう、『フィルム』の中でもカヲルは弐号機とシンクロし、プラグを入れないまま起動させていた。あれは、アラエルがあらかじめ弐号機のコアを調べていたからこそできたのだ。
　あいつの考えでは、フィフスチルドレンとして送られてきたのは、アラエルとアルミサエルによってシンクロができるようになったカヲルをフィフスとして送り込む。そしてシンクロした時点でエヴァ弐号機を支配下に置く。いつでも動かすことができるように。
　今回は使徒が接触したのは初号機だけだった。初号機を操ることはできたのかもしれないが、それだと初号機をヨリシロとする人類補完計画は発動しない。だからカヲルがフィフスチルドレンになる『必要がないとお偉方が判断した』のだろう。

「シンクロ率百％？」

「でも、その方法を取ることができなかった。だから直接戦う道を選んだ。あいつだってカヲルくんを殺したくはなかった。でも、戦わなければならなかった。僕はそんなのを望んだことなんて一度もなかったのに。だから──」

　止めようとした。全力で。
　それでも、ほんの一瞬、あいつの支配力が上回った。その瞬間に、カヲルくんを殺されてしまった。
　だからもう、二度と負けない。
　あいつだけには、絶対に負けない。

「なるほどね。それがゼーレの思惑……」

　リツコはぶつぶつと呟き始めた。だが、それはあまりに小さな声なので、すぐ傍にいるマヤですら聞き取ることはできなかった。

『話は聞いたわ』

　と、そこへアスカからの通信が入る。

『その様子だと、あいつの倒し方は分からないってこと？』

　もちろん、その会話の間も少年は決して視線を逸らせていない。自分で言葉を口にしながら、何か方法はないのかとずっと考えていた。
　だが、結論は出ない。出るはずがない。
　それとも──あいつなら、何か妙案が浮かぶとでもいうのだろうか。

（駄目だ）

　この体を使わせないと決めた以上、すべては自分で解決しなければいけないのだ。

「分からない。でも見つける。それは、僕にしかできないことだ。これはうぬぼれじゃない。あいつと同じ、未来を知っている僕にしかできないことなんだ」

『アンタ──』

　アスカが顔をしかめる。が、首を振って答えた。

『いいわ。でも、早くしてよね』

「ああ。ありがとう、アスカ」

　これは自分に対する信頼ではない、と少年は分かっていた。
　あいつと同じ知識を持つという、その知識に対する信頼だ。

「でも、現実問題どうすればいいんですか」

　マヤが尋ねる。もちろん、その問に対する答はまだない。
　アダムを改めて注視する。
　ぴくりとも動かない。本当に攻撃したら反撃してくるのか疑問の思えるくらいに。一つのオブジェクトでもあるかのように、静止したままだ。

「え、なに──」

　と、その時である。
　マヤが手元のディスプレイに釘付けになる。

「シンジくん」

　そのマヤが少年を呼ぶ。アダムは気にかかったが、少年はすぐにマヤの傍に近づいた。
　そのマヤのもとに、一通のメールが届いていた。
　件名が、

『シンジくんへ』

　となっている。メールのサイズはわずか一キロバイト。

（この時期に、いったい誰が）

　少年には何も分からなかったが、マヤにそのメールを開いてもらう。

“3-left, by R & M”

　たったそれだけ。
　それ以上は何も書かれていない。

「な、何、かな」

　マヤが何故か緊張しながら少年に尋ねる。

（by……って確か、〜によって、って意味だったっけ。ええっと……leftは左？）

　もう一人のシンジと違って、記憶の方法を知るはずもなく、従って中学二年の学習すら終わっていない少年にとってはこの程度の単語でもすぐには日本語にならない。

（どういう意味だ？）

　何かの暗号だろうか。そういや暗号といえば、以前にも──

（……まさか）

　じっと、そのディスプレイに見入る。
　間違いない。
　これは。

（僕に、教えてくれているんですか）

　わざわざ、暗号を使ってまで。暗号を使わなければ、イロウルの力をも備えているアダムに気付かれる可能性があるから。

（でもいったい──どういう意味なんですか）

　わざわざ謎かけなどせず、分かりやすく教えてほしい。
　だが。

（あいつは解いたんだ）

　暗号を解いた。だからこそ、

（僕だって、解いてみせる──）

　そして、顔を上げる。スクリーンに映ったアダムを見つめる。
　と、その画面の中に、一つの点が見えた。

（あれは？）

　その点は、徐々に大きくなる。

「飛行機……？」

　少しずつ大きくなるその機体。

『何よ、アレ』

　それにアスカも気付いたらしい。徐々に大きくなる機体に対して不審な声を上げる。

「あれは──拡大して！」

　リツコの指示で、スクリーンの一部にその機体が拡大されて映る。

「ＵＮ……？」

　国連軍の機体が、何故ここに──

「先輩、大変です！」

「どうしたの、マヤ」

「国連軍が、正体不明の使徒──アダムに対してＮ２爆雷の投下を命令しています！」

　全員の体が凍りついた。そんな、そんなことをしてはアダムが、動いてしまう。

「止めるんだ！」

　少年が叫ぶ。

「無理です！　国連軍はネルフの力では」

「綾波！　アスカ！　あの機体を止めるんだ！　アダムに対して攻撃しちゃ駄目だ！」

　だが、遅かった。
　既に機体はアダムの直上に到達しており、そして──

　Ｎ２爆雷が、落ちる。

　瞬間、白い光がスクリーンを包んだ。

『くっ』

『一旦、引きます』

　その爆発に巻き込まれないよう、零号機と弐号機は一度間を取る。
　いや、爆発を警戒したのではない。

　この攻撃によって、反撃してくるアダムにだ。

「Ｎ２爆雷は現存するものをすべて使ったはずなのに」

　マヤが言うが、当然そんなことを少年もリツコも信じてなどいなかった。絶対に誰かは隠し持っているに決まっている。その中の一つが浮き彫りになっただけのことだ。

　一条の閃光が、その爆心地から伸びる。それは正確に、ＵＮ機を消滅させた。
　そして、爆心地の初号機の姿をしたアダムが、目を光らせた。

「アダムが、動く」

　少年が言う。その言葉に導かれるかのように、ついにアダムがその第一歩を踏み進めた。
　直後、

「避けろ、アスカ！　綾波！」

　その言葉に、頭より先に体が反応する。直後、零号機と弐号機のいた場所を、閃光が通り過ぎていく。

『な、何なのよ、こいつ』

　その一撃だけで分かった。あれに触れたら、一瞬で消滅させられる。それほどの衝撃。

「はからずも、シンジくんの言っていたことが立証されたというわけね」

　リツコがその威力に唇を噛む。

「くっ、このままじゃ」

　少年は焦る。このままでは勝てない。人類は滅びる。このままでは──

　その、時だった。










『俺に、体を寄越せ』

　あいつの声が聞こえた。
　間違いなく、この体の支配権を、自分から奪おうとしている。

　いつしか、自分の周りは、精神世界に入っていた。
　あいつと会うときは、いつもこの場所だ。

　誰もいない、夕陽射す電車の中。

　自分の目の前には、ただあいつだけがいる。
　そして、自分を切り刻んでくる。

「絶対に、嫌だ」

　これは決めたことだ。絶対にもう、この体を渡すことはしない、と。

「お前の自由になんかさせない。カヲルくんを殺した、お前には」

『だが、お前はそれに同意した』

「なにを！？」

　動揺する。
　自分が同意したなど、そんなことはありえない。自分は絶対に、彼を助けたかった。

『助けたかったという気持ちを否定するつもりはない。だが、お前は百％、絶対にカヲルを助けなければいけないと思っていたわけではなかった』

「何を言うんだよ！　そんなことあるわけないだろ！」

『何故、俺がお前の支配力を一瞬でも上回ったか、分からないか？』

　はじめて、あいつが立ち上がる。この電車の中で話すとき、絶対に座ったまま動かなかったのに。

「な、なんだよ」

『お前は、心の奥底で、かすかにカヲルの死を認めた。だから、俺の支配をほんの一瞬、許したんだ』

「嘘だっ！」

『なら、何故全力で否定する』

　もう一人の自分は、冷たい目で自分を見下ろしてくる。自分はそこから目を背けて俯く。目を合わせたら、自分の正しさを塗りつぶされてしまいそうで。

『ふん、少しは成長したのかと思ったが、そうでもなかったらしい』

「なんだよ！　お前なんか、僕のこと何も分かろうとしないくせに！」

『お前のことなんかどうだっていいんだよ、阿呆』

　そして、胸倉を掴んでくる。

『分かってんのか。このままだったら、俺たちだけじゃない。アスカも、綾波も、マナも、全員が殺されるんだ。それどころか、この世界そのものが崩壊する。お前はそれでいいというのか！？』

「いいわけないだろ！」

『だったら俺に体を寄越せ！　俺なら、アダムを倒せる！』

「なんでだよ、アダムを倒すことはできないからお前は──」

　だが、そこで気付いた。

　──こいつは、アダムの倒し方を知っている。

「どうしてお前が分かるんだ！」

『分からないお前がどうかしている。倒し方はもう教わった』

「うるさい！　お前に任せるくらいだったら──」

　任せるくらいなら──

「僕が、あいつを倒してやる！」










「リツコさん！　初号機の準備を！」

　あいつからの囁きを強引に振り切り、リツコに初号機起動の指示を出す。

「そ、それじゃ、シンジくん」

　決意の瞳で、だが少し恐れを中に込めて、少年は頷く。

「僕が乗ります。それから、冬月副司令につないでください」

「副司令に？」

　リツコは逡巡したが、すぐに内線ボタンを押す。

「副司令を」

　その一言で何が起こったのかが把握できていたのか、すぐにスクリーンに冬月副司令が、そして──

（父さん）

　碇ゲンドウ、総司令の姿が映し出された。

『どうかしたのかね』

「シンジくんが、副司令にお話があるとのことです」

『私にかね。碇にではなく』

　冬月は隣の男をちらりと見るが、ゲンドウは全く動かない。

「父さん──」

　だが、少年はその冬月ではなく、父親に話しかけた。

『お前か、シンジ』

「そうだよ。父さん、一つだけ、教えてほしい」

『早くしろ』

「父さんはそこまで、母さんのことを忘れられないの？」

　場が静まる。
　事情を知る冬月やリツコなどは、それが『補完計画を始動させるのか』という最終確認の質問であることが分かっていた。そして、それに対してゲンドウがどう答えるのかということは分かっていた。

『お前には関係のないことだ。乗るなら早くしろ』

　結局。

（父さん。父さんは僕を犠牲にしてでも、母さんともう一度会いたいんだね）

　分かりきっていたことだった。ただ、認められないだけで。
　確かにゲンドウは自分のことを少しは気にかけてくれているのだろう。あのユイの息子だ。気にならないはずがない。
　だが、それもユイ本人が帰ってくるというのなら、どうでもいいことなのだ。
　彼には、ユイだけしかいないのだから。

「分かった」

　そして、改めて冬月に尋ねる。

「副司令──冬月さんは、まだ後悔していますか？」

　抽象的な、漠然とした質問。その意味は誰も分からない。ただ、冬月だけには分かっていたらしい。

『……そうだな』

「じゃあ、これが取り戻す最後のチャンスです」

『何？』

「僕の願いを、聞いてください」

　少年は真剣な目で冬月を見つめる。
　それが何を意味しているのか。冬月にすら、一瞬分からなかった。
　だがやがて、そっと目を閉じる。そして、開いた。

『君こそ、後悔しないのかね？』

「します。でも、やらない後悔より、やって後悔する方がいい。副司令も、そう思ってるんですよね」

　冬月は大きく息をついた。
　そして、分かった、と答えた。

　少年は、目を逸らさなかった。それが、自分の出した決断だったから。

　冬月はごく当たり前のように、腰から拳銃を取り出すと、すぐ隣の男に向けた。
　一瞬、男は驚いたような様子を見せたが、すぐに大きな音と同時に、びくん、と跳ねると、勢いで椅子から落ちていった。

　愕然とするリツコ。
　あまりの衝撃で動けなくなる発令所メンバー。
　そして、その光景から目を背けなかった、碇少年。

『……これでいいのかね、シンジくん』

　碇ゲンドウを殺した冬月が、ゆっくりとスクリーンに向き直る。

「ありがとうございます。これで、補完計画は誰も発動することができなくなりました」

　できるだけ冷静に答える少年。
　だが、冷静でいられるはずがない。

　自分で、父親の処刑を願ったのだから。

「そ、そんな……」

　がくり、と崩れ落ちるリツコ。彼女にとっては決して幸せとはいえなくとも、自分のすべてを捧げた最愛の男性の最期が信じられず呆然とする。

『シンジくん、君なら、アダムを倒せるのだね』

　ゲンドウの死体を横に、冬月が平然とした様子で言う。

「……はい。必ず倒します」

　だが、まだ倒し方は分からない。それでもきっと、倒せるはずだ。
　あいつに分かったのだから、同じ『シンジ』である自分に分からないはずがない──！

「いってきます」

　少年は決意を胸に秘め、ケイジへと向かって駆け出す。

「あ」

　が、すぐにその足を止めて、一度振り返る。
　そこには、もはや生気を失っているリツコと、そして自分を不安げに見つめているマヤの姿があった。

「マヤさん」

「あ、は、はい！」

　びくんとマヤが起立する。

「リツコさんに、ごめんなさい、と伝えてください。それから──」

　これは、伝えておかなければならない。
　彼の変わりに。マヤ自身のために。

「あいつからの伝言です」

「はい？」

「『生死は問わず』──あの命令をマヤさんが言わなければならなかったのは、仕方のないことです。そんなに自分を追い詰めないでください」

「え？」

　びく、とその顔がひきつる。

「僕はもう、あいつを外に出すつもりはありません。だから、僕が変わりに言います。マヤさんはあの件で自分を責める必要はありません。それにあいつは、マヤさんのことが大好きだったから」

「し、シンジくん」

「あいつじゃなくて、すみません。でも、僕もそう思いますし、僕もあいつも、あの件でマヤさんのことを少しも悪く思ったりしていません。だから、本当に気にしないでください」

　そして、少年はケイジへ向かって走り出す。

　その後ろ姿を、マヤが少し困ったように見送った。












──『存在』と『時間』──

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