ネルフは国連の公式な組織である。対使徒決戦のための特務機関として二〇〇一年に発足し、その後十四年の活動の結果として、対使徒人型決戦兵器エヴァンゲリオンの量産に成功。その専属パイロットの選抜が急務となっていた。
エヴァンゲリオンの仕組みは一般に公開されているわけではない。そのためか、エヴァンゲリオンのパイロットとして世界各地から集められている適格者たちも、自分がうまく動かせるのかどうか、どうすればうまく動かせるのか、そうしたことも知らされていない。
ただ適格者として認定されたら、ネルフ本部、もしくは各支部において毎日のように訓練を繰り返し、自分を高めるということをひたすら続けるだけである。
そのネルフ本部作戦部部長である葛城ミサトは、その日あまり気分がいいとはいえなかった。別に普段から愛用のアルコールを飲みすぎたわけではない。
いよいよ今年二〇一五年の八月には使徒が現れる。そのためのパイロット選抜が、いよいよ佳境に入っているのだ。
第壱話
昇格試験
二月十三日金曜日。どことなく不吉な気がするこの日は、本部・支部を問わず一斉に適格者の昇格試験が行われる日である。
本部と世界各地の十二の支部にはおよそ三千名近くの適格者がいる。適格者として認定されると、その少年少女たちは最初ランクEという地位が与えられる。いわゆる最低ランクだ。ここからエヴァンゲリオンを操縦する資格のあるランクAまで、ひたすら自己研鑽を積んでいくという形になる。ランクA適格者の中から特に優秀な人物は『チルドレン』として正式にエヴァンゲリオン操縦者として登録される。
昇格試験は月に一回。必ず第二金曜日に行われることになっている。そのため今月も十三日の金曜日なら、来月も十三日の金曜日に行われる。
(あんまりいい気分はしないのよね〜)
だいたい、一日で本部に詰めている七百人近い適格者の試験にすべて立ち会うのだ。もちろん一人ずつなどということはしない。十人程度で一グループとなり、それを随時試験していくという形だ。
特にランクBにおける争いが苛烈だ。ランクAになれるのは適格者のうち百人に一人もいない。それだけの狭き門を潜り抜ける最終関門だけに、気合の入り方も違う。
この本部にいるランクA適格者は七名。そしてランクBは四七名。はたしてどれだけの人数がランクAに入れるのか。いや、一人でも合格することができるのか。
最後にランクA適格者が誕生したのは、三ヶ月前の二〇一四年十一月の、日本本部と中国の第六支部。あれから三ヶ月ランクA適格者は誕生していない。下が育たないという長いトンネルに突入していた。
ただ、ランクB適格者をランクAに上げるには本人の努力だけではどうしようもない壁がある。エヴァンゲリオンを操縦するための要因、すなわち『シンクロ率』の問題が立ちはだかるのだ。
(今月も起動数値までシンクロ率を高められる子は出ないでしょうね)
普段からのトレーニングを見ていればそれくらいのことは分かる。ランクBからAに上がる時というのは回りで見ていて分かるものだ。シンクロ率、ハーモニクス、パルスパターン、シンクログラフなど、全ての面で常に安定した数値を保っており、それがテストにそのまま反映される形となる。
(となると、今日のランクCの中から、未来のランクAを探さなきゃ駄目ってことよね)
現在のランクB適格者に見込みがないのなら、ランクC以下の適格者からそれを探さなければならない。ただ、ランクC以下の適格者たちにはまず基礎トレーニングや、軍隊における規律のとれた行動、ものの考え方、そうしたところから叩き込まなければならない。それをクリアして初めてエヴァンゲリオンの操縦練習を行うことができるようになる。
試験はランクBから始まり、そしてランクCへと移る。
ランクCの一班から順に次々とテストが繰り返される。
そして、ランクCの七班がミサトが立ち会っていた筋力測定テストにやってきた。一人ずつ適格者番号と名前を言って、テストに臨んでいく。
「はい、次」
立ち会っていたミサトは次にテストを受ける少年を見て、そういえばこの子は七班だったっけ、と変に納得していた。
「適格者番号130900001、碇シンジです。よろしくお願いします」
少年の表情は、いつもと同じように無表情で、笑顔も緊張も何もない。ただ与えられたことをこなすだけのロボットのような動作。
(苦手なのよね、この子)
作戦部長であるミサトはテストに対して決して口出ししない。ただじっとテストの結果を見ている。
ランクCどころか、ランクDすら危ういのではないかと思えるような測定数値。本当にここのトレーニングをしっかりと受けているのだろうか。思えば彼の肉体はどこか細く、頼りない。
(ホント、総司令の息子だからって、お情けでランクCに入れられて、可哀相といえば可哀相だけど)
そもそもこの少年と話す機会があったミサトはよく知っている。彼は、適格者などになりたくなかった。ただ平穏な暮らしだけを望む、どこにでもいるような優しい少年だった。
それなのに、適格者選抜試験を受けたわけでもないのに、彼は適格者であるということが判明してしまった。それは総司令碇ゲンドウが息子の意思も確認せずに血液検査にかけて判明したことが原因だった。分かってしまえば仕方のないこと。ゲンドウは息子に「来い」と言い、少年は素直にそれに従った。
それ以後、少年は何の不満も口にせず、もくもくと、しかし決して全力を尽くさないようにしながらこの適格者という地位をまっとうしていた。
(ま、このままランクCでいられれば問題ないでしょ。ランクCからBに上がるのは二十人に一人だもんね。総司令もそこまでを望んでいるわけじゃないでしょうし)
ただネルフ総司令という立場から、自分の息子も適格者として世のため人のために働いているのだというポーズをとりたかっただけなのだろう。ミサトはそう考えている。
測定が終わった少年は、無表情に一礼すると検査室から出ていった。
「なあなあ、筋力測定の時、葛城作戦部長が来てたよな」
同じランクC七班のメンバー、相田ケンスケが話しかけてくる。うん、とシンジは一つ答えた。
「やっぱり大人の女性って感じだよなあ」
「いや、俺はやっぱり伊吹サンだな。年上なのにそんな感じがしないところがいいんだよ」
「何言ってんだよ。やっぱりオペレーターのアイドル、シズカさんだろ! あの美貌、あの笑顔……ああ、一回でいいからゆっくり話とかしたいよなあ」
最初に話しかけられたシンジを無視してわいわいとさわぐ男子適格者たち。それに対して女子適格者たちが冷ややかな視線を送っていた。
ランクC七班は、男子七名、女子三名という構成だった。こうした男女比率というのは特別意識されるものでもない。編成は昇格試験の翌日、昇格した者も交えてランダムに組みなおす。そのため、この七班で行動するのも今日が最後だということだ。
「これでシンジともお別れか。残念だな」
シンジの隣にちょこんとついてきたのは、彼より一つ年下で、身長が彼より頭一つ分以上小さい女の子、二ノ宮セラだった。だが、この小さな小さな女の子は誰よりも大人びた言動をする。むしろシンジやその他の年上の少年少女たちの方が時に年下に見えるほどだった。
「僕は昇格することもないだろうけれどね」
「そうかな。シンジの能力は数値では測れないと思っている。シンジはもっと自信を持つべきだ」
真っ直ぐな瞳で見つめられると彼も照れる。この一ヶ月、自分にとにかく厳しく、そして優しく接してくれていたのがこのセラだった。確かに彼もセラと別れるのは寂しいと思う。せっかく仲良くなれたのだから、これからも一緒にやっていきたいという気持ちは強い。
「おおおおっ! 綾波サンだっ!!」
と、そんな折、男子適格者の一人が通路の手すりにつかまって、吹き抜けのホールの反対側を進んでいた一行を指さす。
ネルフ副司令の冬月コウゾウと、その後ろを歩く綾波レイ──ファーストチルドレン。
エヴァンゲリオンが適格者と呼ばれる子供にしか動かすことができないということを世の中に知らしめた少女であり、その功績をかわれてエヴァンゲリオン零号機の専属パイロットとして、エヴァンゲリオンの開発・研究に携わっている。いわゆる最初の適格者でもあるが、エヴァンゲリオンのパイロットとして最初の一人でもあるため、ファーストチルドレンと呼ばれている。
現状、パイロットはファーストとセカンドの二人だけ。オーストラリアのランクA適格者がサードチルドレンにもっとも近いといわれているが、そんなことはシンジには関係のないことだった。
綾波が、綾波レイが自分の手の届かないところにいる。
それが彼には苦痛で、耐えられないことだったのだ。
僕はここにいるのに。
君は僕を見てくれないのか。
そんな心の悲鳴が届いたのかどうか。
レイは手すりから乗り出そうとしている適格者たちを見た。そして──『鉄仮面』とあだ名される少女の顔に、微笑みが浮かんだ。
(綾波)
少年には分かっていた。
それが、自分に向けられた微笑であるということを。
「お、お、おい、今、綾波サン、笑ったぞ!」
「うわああああっ! 何でこんなときに限ってカメラ持ってきてないんだよっ!」
「今の誰に向かって笑ったんだ!? 俺か!? 俺なのか!?」
騒ぐ男子六人と、冷める女子三人。そして、
(今のは、僕に微笑んだんだ。綾波──)
彼女にとってまだ自分は特別な存在でいることができている。そのことが彼にとってこの日、何よりもの慰めとなった。
「どうかしたかね、レイ」
前を歩いていた冬月が、歩みの遅くなったレイに向かって振り返る。
「いえ、なんでもありません」
「そうか」
そしてまた冬月は歩き出そうとした。が、その振り返ったところで冬月の目に知っている顔が映った。
「ああ、シンジ君か」
冬月はその適格者たちの中の少年に目を向ける。
「もう少しの辛抱だ、レイ。今にシンジ君は、お前と同じ、いや、お前よりももっと高いところへ行く。そのためにはお前が今のうちから鍛えておかなければいかん」
「はい」
「では行こう」
そうして冬月は歩いていく。
レイはもう、シンジの方を見ることはなかった。
「いや〜、やっぱ可愛いよなあ、綾波サンは」
「そうそう。あのクールなところが何ともいえないよなあ」
「でも、あんなふうに笑うなんて……うわ、俺今日夢見そう」
男子なんていうものは現金なもので、適格者たちの憧れの的、アイドルともいうべき存在の綾波レイの前には、先ほど上がっていた女性たちの名などかすんで消えるようであった。
「ほんと、コロコロ変わるから男って嫌」
そんな男たちに誰より強い軽蔑を放ったのがセラだった。
「でもシンジはそういうのにあまり興味ないんだね」
セラが見上げながら尋ねる──その少年の顔に、何故か幸せそうな様子がかすかに見えた。
「シンジ?」
「え、うん。そりゃ僕とは住む場所が違いすぎるしね」
そんな風に言葉を濁したが、セラの表情は固かった。
「なんだ、シンジもレイさんのファンだったんだ」
「そういうわけじゃないけど」
「だって、レイさんのこと考えてるシンジなんて、すぐに分かるもん!」
ふん、と言ってセラは歩き出していく。何か怒らせるようなことでもしただろうか、と首をかしげてその後を追った。三々五々、他の班員たちも移動を始めた。
(それにしても、綾波、相変わらず忙しいんだろうなあ)
少年は振り返ることもなかった彼女の後姿を思い返しながら、誰にも気付かれないようにため息をついた。
「で、結論としては今回も本部、全支部の中でランクAへの昇格者はなし」
翌朝。科学部の赤木リツコを訪れたミサトが聞かされたのはそんな内容だった。
ブラジル第八支部、及びアメリカ第一支部、第二支部で全昇格試験が終わり、その結果が速報で届いたところだった。
「CからBに上がった子は結構いるわね……まあ採点官が甘くなるのも分かるけど。ランクCの子は今回がある意味、最終期限だったわけだし」
リツコが言うと、ミサトは眉をひそめる。
「どゆこと?」
「四月一日の話、どうやら決定らしいわ」
それでリツコの言いたいことがすべて伝わった。四月一日。その日は──
「じゃあ、現在ランクAの二十三人全員にエヴァが渡るわけ?」
「そういうことね。現状でエヴァは弐拾伍号機まで建造完了。前から各支部に置かれていた分もあるけど、これからランクAの人数が多いところから優先的に回される形になるわ」
「どこの支部も、一体でも多くエヴァを手に入れようとしてるわけか。やっきになるわけよね。採点も甘くなるか」
──四月一日にランクAになっていなければ自分専用のエヴァが与えられないということは、残り二月十三日、三月十三日の二回の試験でランクAになっていなければならない、ということだ。昇格チャンスは二回。となると、ランクC適格者は今回の試験でランクBにならなければ自動的にエヴァが当たらない計算になる。
「だいたい、そんな直前になってからランクBに上げたって無駄よ。何しろ、ランクBを一ヶ月でクリアしてランクAに到達したのは、今の二十三人中たった二人だけ。セカンドチルドレンを含めても三人しかいないのよ」
「ま、シンクロとかってワケわかんないからね」
「その一言で片付けられるようなものではないけれどね」
リツコは大雑把な戦友に対して苦笑をもらす。
「それでもすがりつきたいってことでしょ? 去年の十二月からまた『適格者』の登録数が上がってるそうじゃない」
「ええ。いよいよ目前の使徒戦のために、自分も何かできないだろうかっていう意識が子供たちの中に広がった結果でしょうね。でももう手遅れよ。こんな時期に入ってこられても軍のことも分からなければ体力だってない。そんな兵士を前線に投入することはできないわ」
リツコは以前から、もう適格者の一般公募はやめるべきだと主張している。どのみち二〇一五年の八月、使徒の襲来に間に合わないのでは意味がないのだ。公募があるたびにこちらの時間と予算を削られ、そのくせ残りの半年では絶対にエヴァに乗れるほどに育てることはできない。まさに無駄の極みだ。
「ああ、そういやあの子はどうだったの」
ミサトがなんとなく思い出して尋ねる。
「あの子?」
「ええ。総司令の息子さん」
「ああ、シンジ君ね」
リツコはパラパラと何枚か紙をめくって今回の昇格者のリストを確認する。
「あら、彼も昇格したみたいね。Cの七班からBの二班に編入になってるわ」
「え、マジ?」
ミサトはその紙を覗き込む。
「……どうしてこの成績で昇格なんかできるの?」
「仕方がないんじゃない? 現状で優秀なパイロットが欲しいのは事実だし、採点官が甘くなるのも事実だし、総司令の息子だっていうのも事実だしね」
「コネ?」
「彼にそんなことをする理由がないわね。あなただって分かっているでしょう。エヴァンゲリオンの操縦なんかしたくありませんと、あなたがはっきり言われたのはあの子だけだものね」
まあね、とミサトは肩を竦めた。そしてまたその合格者リストを見る。
ランクCをクリアするのだから、体力、そして知力的なところから総合評価でB以上がついていることが条件だ。
その結果が、こうだ。
適格者番号:130900001
氏名:碇 シンジ
筋力 −E
持久力−D
知力 −C
判断力−E
分析力−C
体力 −E
協調性−D
総合評価 −E
「どうしてこれで、ランクBどころか、ランクEをクリアしてきたのよ」
「さあ。それこそ採点官に聞かないと分からないところだけれどね。でもこの件に関しては上からのGOサインが出てるから何ともしがたいのよ」
「上って、まさか総司令が」
ネルフ総司令が身内贔屓をしていると、そういうことなのだろうか。
「ま、もしかしたらシンクロ率とかの数値は高いかもしれないわけだし、もしそうなったら見つけ物でしょ。ランクBでめぼしかった子はみんなもうランクAに行ってるんだから」
「そうね。ま、今回の人事が良かったものだと神にでも祈ることにするわ」
そうして、二人は別れた。今日からやることがたくさんある。
まずは──編成をしなおしたそれぞれのランク、班の人間を呼び、話をしなければならない。今日はまずそれからだ。
「それはそうと、面白いデータがあるのよ」
既にプリントアウトされている資料の束をリツコが手渡してくる。
「何?」
「昨日のレイの第三四〇回起動シミュレーションのデータよ」
当然『面白い』というからにはそれなりのデータがそこにあるということなのだろう。
表紙をめくり、二枚目。そこに昨日の数値結果が表れている。
ミサトの目が、真剣なものになった。
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