綾波レイ。第三四〇回起動実験シミュレーション結果。

 最大シンクロ率 三六.四五二%。
 最低シンクロ率 三三.一一九%。
 最大誤差 三.三三三%
 ハーモニクス最大値 六五。
 シンクログラフ 常に安定。
 パルスパターン 常に安定。












第弐話



成績不振












「……これ、本当にレイ?」
 ミサトは目を疑った。
 今までどんなに頑張ってもシンクロ率三十%をぎりぎり超えるかどうかという数値しか出すことができなかったレイが、この日は三五を超えている。
「もし違うとしたら別人が昨日は乗っていたことになるわね」
「だって、三六よ? 今までこんな高い数字出したことは」
「なかったわね。今までの最高数値が去年の十二月にたたき出した三二.四九八%。それを大幅に上回ったわ」
「信じられない」
 ミサトはその数字をもう一度じっくりと見る。どれだけ見たとしても、数字そのものが変わるわけではないのだが。
「アンタ、この実験に立ち会ったんでしょ?」
「もちろんよ。エヴァの起動シミュレーションをこの本部でやる以上、私が立ち会わないわけにはいかないわ。その確かに安定していたわね。いつもならシンクロ率が不安定なままでいったりきたりの繰り返しだったけど、昨日はずっと高い数字で安定していた。理由を聞いても本人は『分かりません』ばっかりだしね」
 たしかにあの『鉄仮面』こと綾波レイに理由を聞いたところで何一つ分かることはないだろう。
「何か理由はないの? この間と今回の共通点とか」
「さあ。レイについてはいつもどおりだったけど、特別変わったことはなかったわ。それに冬月副司令が昨日は一日中一緒にいらっしゃったから」
「それが原因、てことは」
「ないでしょうね。それなら今までだって同じようにしていたんだから、今回だけ特別ってことはないわ」
 うーん、とミサトは唸る。むしろリツコの方がうなりたい気持ちだった。
 シンクロ率などあげたくてあげられるものではない。チルドレンやランクA、B適格者だって、数値を〇.〇〇一%でも上げようと必死になって訓練をしているのだ。それなのに、何の理由もなく、突然最大値を四%も上げられたのではたまったものではない。
「シンクロ率って、どうやれば上がるの?」
 素で尋ねてくるあたりがこの作戦部長の真髄だろう。
「そんなもの分かってたらとっくに実行してるわ」
「そうよね、ゴミン」
「でも、あなたの言いたいことは分かるわ。レイの今回の上がった理由を突き止めれば、もっと効率的にシンクロ率を上げることが可能になる」
「うん」
「ただ、不確定要素が多すぎるわね。多分、本人にとっては些細な変化で、それがシンクロ率に大きな影響を及ぼしている。いったい何が原因かなんて、後になってみないと分からないことが多いのだけれど」
 ただ、これでもう二回だ。突然シンクロ率が上がった背景に何があるのかを突き止めることは不可能ではないはず。
「外的要因には何も変化はなかった。そうしたら問題は内的要因しかないわね」
「レイが? あの子の内的要因なんてあるの?」
「あのね。あれでもあの子はまだ十四歳なのよ。色々と考えることもある年頃だっていうことを忘れないでちょうだい」
 ただ、レイを相手にしているとそういう感覚が徐々に乏しくなってくることも確かだ。それくらい、彼女は自分というものを表に出さない。感情を──
(感情?)
 考えてみれば、パルスパターンやシンクログラフなどは、精神が安定しているかどうかが一番のポイントになる。つまり、何か彼女にとって『良い事』があり、それが精神の安定につながったとすれば、シンクロ率が上がる素地があったことになる。
(良い事、か。それを特定するのが一番困難かもしれないわね)
 あの『鉄仮面』レイを相手にどうやって心の内を読み取ればいいのか。匙を投げたい気分だった。






 二月十四日、土曜日。
 碇シンジの一日は、個室に備えつきのシャワーを浴びることから始まる。
 そうして徐々に身体が活動を始めると朝食を取る。朝はたいてい食堂に行くよりも、買い込んである食材で自分で作ることの方が多い。そのため、他の適格者たちよりもかなり早起きであるのは間違いない。
 食事が終わって後片付けが済んだころ、ようやく他の適格者たちが起きはじめる時間になる。シンジはその頃になってからコンピューターを立ち上げ、その日の情報を携帯端末にダウンロードする。
 ダウンロードしながら、その日のトップニュース『適格者昇格試験結果』をディスプレイに映して確認する。
 本部のランクC適格者の合格者数──九名。随分多い。それに対してランクB適格者の合格者数は〇名だった。
「受かってる」
 自分の名前がそこにある。だが、別に嬉しくともなんともない。EがDに、DがCに、CがBに変わっても、どうせ自分には何の変化もない。ただ与えられたことをやるだけなのだから。
「ケンスケにセラも受かったんだ。Cの七班は僕も入れて三人か」
 昨日までのランクC適格者は一〇一名で全部で十班に分かれていた。九名が合格したということはかなりの確率だということだろう。優秀な人間が集まったというよりはむしろ、
「……僕を合格させるための隠れ蓑に使われたのかな」
 自分が合格できる水準にいるとはとても思っていない。それは今までランクDに上がったときも、ランクCに上がったときも同じだった。自分より優秀な人間が後回しにされ、自分が階段を上がっていく──上げられていく。その状況にはもう慣れていた。慣れざるをえなかった。
「僕なんかを適格者にしてどうしたいんだろう」
 理由など分からない。ただ、父親である碇ゲンドウがそれを望んでいるのは確かだ。
 自分は昇格など望んでいない。その実力もない。それなのに自分がここまで昇格してきたのは、父親の意向がそこに絡んでいるからに他ならない。
「何を考えているのか、僕には分からないよ、父さん」
 Bの二班。五十六人に増えたランクB適格者は、全部で六班に分かれることになる。自分が所属する班にはランクCから昇格した人間は他に誰もいないようだった。
 B二班のミーティングは十時二十分。場所はミーティングルームP室。現在時刻は九時二十分。
「あと一時間か……どうしようかな」
 だが、どうせやることもないならさっさと現地で待っていた方がいいだろう。ダウンロードも終わったことだし、データはミーティングルームでも見ることはできる。ここでだらだらしていてもやることはないのだ。
 シンジは立ち上がり、適格者スーツに着替える。
(そういや、ランクBになったらプラグスーツがもらえるんだっけ)
 普段からプラグスーツばかり着ているわけではないが、各自のプラグスーツが新調されることになる。人の体格に合わせて作られるので、別人のものでは着られないことはないのだが、あまりよくないらしい。
 どのみちまだ支給もされていないものを考える必要はない。シンジは着替えるとミーティングルームに向かった。
 集合時間の前、適格者は好きに行動することができる仕組みになっている。特にこの日は土曜日で学業などの予定も入っていないのでなおさらだ。
 熱心なものは空いている時間にもトレーニングを入れて自分を鍛えているが、シンジはしたことがない。そうした時間はチェロを弾いたりMDに落とした曲を聴いたりしている。無論宿題があればそれを片付けたりもする。だが、エヴァを動かすために自分の時間を余計に使ったことはない。
 別にエヴァを動かしたいとか、チルドレンになりたいとか、そんなことを考えたことは一度もない。むしろ、適格者など今すぐやめて、平和なところでのんびりと過ごしたい。
 そんなことを言ったらきっと誰からも白い目で見られるのは分かっている。ここに集う適格者たちは自ら志願してなったものばかりだ。
 だが自分は違う。勝手に血液検査をされ、適格者としての資質があるからなれと、父親に言われて逆らうことができなかっただけのことだ。
 それが今や、十人に一人までしかなれないというランクB適格者なのだから皮肉なものだ。
 ミーティングルームP室に入ると、まだ九時三〇分を少し回っただけだというのに既に到着している者がいた。
「おはよう」
 茶色をつけたソバージュの髪。つんとすまして整った顔立ち。美人だった。そして適格者たちの中に漂うどこか『自分はエリートだ』という意識だけが全く感じられない。ここにいるのが不満だとでもいうかのような雰囲気。
「お、おはよう」
 思わずどきどきして、シンジは丸テーブルの、女性のもっとも遠いところに座った。
「碇シンジ君ね」
 もっとも遠いところ、すなわち真正面に座っていた女性から声をかけられる。
「は、はい」
「緊張しなくてもいいわよ。私も同い年だから。私は美坂カオリ。はじめまして。カオリでいいわよ」
「あ、僕は碇シンジ」
「知ってるわ」
 なんだか妙な会話だった。この人物がランクB適格者なのだろうか。
「どうして自分の名前を、って思ってる?」
「あ、はい」
 どうしてもこの自信たっぷりに見える女性を前にすると、つい敬語が出てしまう。
「簡単なことよ。あなたが有名だから。何しろ総司令の息子さんですものね」
『総司令の息子』
 その呼ばれ方はシンジの好むところではない。自分は自分、親は親だ。それなのに、世間は絶対に自分と父親を切り離すことはない。
 だいたいがこの成績だ。自分の成績はあますことなくデータとして公表されている。ランクBどころか、ランクDだってなれるかどうか分からないような成績。なんだって、自分はこんな場違いな場所にいるのだろう。
「あまり気構え無くていいわよ。私は他の人たちみたいにあなたにやっかんでるわけじゃないから。ただ気になっただけ」
「どういう意味ですか」
 だが尋ねると、彼女は笑いもせずに答えた。
「言葉通りよ」
 だが、その裏に隠されている『何か』がちらほらと見え隠れしている。とても言葉通りとは思えない。
「あなたもなんでしょう?」
「何がですか」
「適格者になんか、なりたくない」
 突然、核心を突かれたシンジは言葉に詰まる。
 そんなことをこのネルフで話したことは一度もない。
「どうして……そう思うんですか」
「気になったから」
 だが彼女はそれ以上のことを言わない。そしてもう話は終わったとばかりに、携帯端末を取り出してなにやら操作し始めた。
 その女性の動作とすました顔を見ていたが、彼女の今の言葉が本当なのだとしたら、最初に感じたことも納得がいく。
 あなた『も』なんでしょう。
 つまり、彼女『も』適格者になどなりたくなかったと、そう思っている人物だということだ。だから適格者をエリートの証だなどとは考えない。その意識がない以上、その雰囲気をかもし出すこともない。
「……なに、じっと見て? 照れるじゃない」
 少しも照れた様子を見せずにカオリが言う。
「美坂さんは、適格者になりたくなかったの?」
「ええ。死にたくないもの」
 携帯を操作しながらさらりと答える。
「死にたく?」
「だってエヴァンゲリオンに乗るってことは、今年の八月にやってくる使徒と最前線で戦うってことでしょ。死ぬ可能性が一番高いってことじゃない」
「そうだけど、でも、チルドレンが戦わなかったら世界は滅びるんだろう?」
 同じじゃないのか、と思う。それなら自分が生き残るにせよ死ぬにせよ、使徒と戦った方がいいという理屈はシンジにも分かるのだ。
「そうね。だから優秀な人にチルドレンになってもらって助けてもらいたいと思ってるわ。よろしくね、碇君」
「どういう意味だよ」
「言葉通りよ。少しずつくだけてきたみたいね」
 そしてようやくカオリは微笑をたたえた。思った通り、とても綺麗だった。
「言葉通りって、僕にチルドレンになれっていうの?」
「それ以外の言葉に聞こえたのなら謝るわ」
「謝る必要はないけど、どうして」
「今回、あなたが昇格してくるのは予想がついていたわ。だって、あなたは四月一日にはランクAにいなければいけないもの。二月にランクB、三月にランクAにならないとうまくいかないでしょ」
 話が飛びすぎる。この女性は自分の都合で話をする。だからついていけない。
「ちょ、ちょっと待ってよ。どうして僕がランクAに行けるなんていうんだ? それに四月一日までにってどういう」
「一気に言われても答えられないわよ」
 シンジの言葉を切ってカオリが言う。
「まずあなたがランクAになれるっていうのはやっぱり、碇総司令の息子っていう七光りかな。まあ、そればかりが理由じゃないけど。それに、ランクCまでの成績なら気にしなくていいわよ。ランクAに行けるかどうかなんて、体力や知識は必要ないから」
「え?」
「ランクAっていうのはエヴァンゲリオンを操ることができる人だけがなれるのよ。だから、ランクCまでの訓練とランクBの訓練は百八十度違う。明日には分かるわ」
 明日のスケジュールを携帯端末で拾う。ランクBの二班は朝九時半からシンクロテストと書かれている。ランクCまでではなかった内容だ。
「シンクロって?」
「まあ、それはおいおい話すとして、先にあなたのもう一つの質問に答えるわね。四月一日」
「あ、うん」
「四月一日にはランクA適格者全員にエヴァンゲリオンが支給されるの。つまり、全員まとめてチルドレン登録されるってこと。全世界に今ランクA適格者が二十三人。つまり、次の昇格試験がエヴァに乗れるかどうかの最終テストってことね。ランクC適格者については今回の試験でランクBになれなかったらエヴァに乗れるチャンスはもうないっていうこと」
 突然の事実にシンジは驚く。
「そんな、聞いてないよ」
「ランクC以下の適格者については極秘扱いだもの」
 さらっとそんなことを言う。やれやれ、適格者はランクで扱いが大きく異なっていたが、まさか情報がこれほど寸断されていたとは思わなかった。
「私たちだってランクA適格者に比べたらたぶん、すごい情報量の差があるわ。ただ、私たちのはエヴァの操縦訓練をまがいなりにも受けている。いろいろと知っていることには差が出るわ。だから、気をつけてね」
「は?」
 突然話がまた変わる。いったい何を気をつけるというのだろう。
「ランクB適格者はあと一回しかチャンスがないからピリピリしてるわ。新しくランクBになった、それもこの成績で七光りで上がってきたあなたを歓迎する人はいないわ。私の他にはね」
 これは歓迎してくれていたのだろうか。シンジは首をひねった。
「どうせ、友達とかあまりいないから」
 そう言うと、カオリはくすっと笑った。
「奇遇ね。私もよ」
 どこか憂いを帯びた表情が、シンジの脳裏に焼きついた。






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