ランクB二班の一日の動き
一時限目〜数学
二時限目〜英語
三時限目〜社会
四時限目〜格闘
昼食休憩
五時限目以降〜ハーモニクステスト
解散17:30予定
第陸話
軽佻浮薄
二月十六日。この日のランクB二班の動きは、朝から自宅で学習を三時間行い、昼食の前の四時間目に格闘訓練、そして午後からはハーモニクステストとなっている。
世界を救うために自主的に集まった子供たちとはいえ、教育は必要だ。従って適格者たちはその国の義務教育と同じ内容の教育をネルフ内部において受けることとなっている。
ただし、集団指導という形を取らず、パソコンへの授業の動画配信という形で行われる。適格者たちはそれをノートしたり、パソコンにまとめたり、レポートを作ったりということを行う。無論テストも行われる。
だが、通常の義務教育と異なるのは、いわゆる主要五科目──国語、英語、数学、理科、社会のみしか存在せず、それ以外の実技科目についてはすべてネルフの訓練への代行という形になっている。
シンジのように趣味でチェロをやるなどする者がごく少数いるが、義務教育にある美術や技術家庭、音楽、保健体育といったものは存在しない。
そして授業にしても、必ずその授業を見なければならないというわけでもない。動画は予め録画されていたものが流される。従って、授業開始時にその授業にアクセスさえしていれば、後は授業など見なくてもよい。乱暴なことをいえば、パソコンを起動したままの状態にして外出することも可能だ。実際そうした適格者は大勢いたし、ネルフもそれを止めようとはしていない。
ネルフの考えていることはあくまでも適格者を戦士として育てることであり、主要五科目の成績などどうでもよかった。だからテスト結果、内申などは第三東京市教育委員会に送られはするものの、それ以上のことを指導することはない。
実際に授業を真剣に行っているのは本部適格者三千名のうち、せいぜいが百名前後といったところだろう。
シンジはその少数派だった。
その日もいつも通りに起きてはシャワーを浴び、食事をして、情報をダウンロードする。授業が始まるまではそこからあと一時間くらいはある。朝の時間にチェロは合わない。あれは休日など、後に何も支えていない時にすることであって、こういう時間は旧型のDATで音楽を聴くに限る。
久しぶりにメンデルスゾーンを手にする。チェロソナタ第一番、変ロ長調。チェロという楽器に造詣がなければ知る者も少ないが、その芸術性を高く評価されている作品だ。特に、第一楽章──
その最初のフレーズがイヤホンを通して耳に届いた瞬間、来客のチャイムが鳴る。こんな時間に、と不審に思って相手を確認する。
ドアの前のカメラに映されていたのは──美坂、カオリだった。
何の用事だろうかと顔をしかめて扉を開ける。
「おはよう、碇くん」
「おはよう、美坂さん」
「お邪魔するわね」
何も答えるよりも早くカオリは行動に移る。小奇麗に片付けられた──というよりも、ほとんど物が置かれていない部屋に入って、カオリは驚いたように目を見開く。
「驚いた。何もないのね」
「な、何勝手に入ってるんだよ」
「ちゃんと断ったでしょ? それより、朝ごはんは?」
「もう食べたけど」
「そう。せっかく持ってきたんだけど、無駄になっちゃったか」
見るとカオリの手には二つ分の弁当箱があった。どうやらカオリ自身の分と、シンジの分らしい。
「なんで……」
「決まってるじゃない。ゴマすり」
しれっ、と言うのでいったい何を言われたのかが分からなかった。
「将来、自分の命を助けてくれる英雄に差し入れして気に入られようっていう腹」
「……冗談、だよね」
「もちろん」
どっと疲れる。何だか振り回されっぱなしだ。
「何がしたいんだよ」
本心を見せないカオリに剣呑な目つきになる。
「色々と話したいことがあって」
カオリはいいながらテーブルについて、ネルフ支給の水筒を置く。どうやら長くここにいるつもりのようだ。
「でも、勉強が」
「常時アクセスにしておけば大丈夫よ。それとも碇くんは毎回必ず授業を見ていた方なの?」
「あ、当たり前だろ」
馬鹿にされているような気がして、少しシンジもむっとする。
「多分その認識をしている適格者は多くないと思うけど」
珍しいものを見るかのような視線を向ける。
「まあいいわ。とにかく座りなさいな。少し長くなるけど」
「う、うん」
考えてみると、女の子を──どころか他人を、だが──この部屋に上げるのは初めてのことだった。そのことに気付いて今さらながらに緊張し始める。
「ねえ、碇くん」
「なに?」
「綾波さんとはどういう関係?」
いきなりすごい質問だった。
というより、何をもってそう尋ね、どういう答を期待しているのかが分からない。
「どうしてそんなこと」
「昨日の会話に、綾波さんのことを知ってる感じがしたからよ。呼び捨ててたり、少なくとも知らない女の子っていうわけじゃない。よく知ってる子の、別の一面を見せられたような感じ」
「でも、そんなの美坂さんには関係ないだろ」
少しむくれたようになって言う。
「そうね。でも、一言アドバイスをするなら、もしも知り合いだっていうのなら、それは隠した方がいいわよ」
答が得られなかったことを別に悔しがるでもなく、淡々と言う。
「どうして?」
「碇くん、昨日のシンクロ率の件で方々から何て言われてるか、知ってる?」
方々と言われても、昨日メールで十件以上の返信を打ったことからも、仲間うちでは相当話題にされていたのは分かる。だが、関係ない人間のことなど、別にどうでもいいのではないか。
「認識が甘いわね。まずランクA適格者からは──まあ、なんとも思われてないみたいだけど。あそこにいる人たちっていうのは、そういう人間くさい感情とは無縁なのかしらね。でも、ランクB適格者は違う。ここにいる人たちは、ほぼ全員が、碇くんに対して敵対意識を持つようになった」
「て、敵対!?」
突然言われてパニックになるシンジ。
「そりゃ、ランクCから上がってきていきなりあのシンクロ率じゃ、ランクA当確は間違いないって言われてるようなものだもの。同じランクの人たちは嫉妬するでしょ」
でしょ、と言われても、そのシンクロ率に対して価値を抱かないシンジにはそれが理解できない。
「美坂さんの言っていることが分からないよ」
「端的に言うなら、狙われてるってこと」
物騒な話だ。狙うとは、どこまでの意味をこめて言っているのだろうか。
「順調出世、って知ってる?」
「あ、うん。ランクEから毎月きちんとランクが上がっていくこと、だよね」
「そう。ランクEからランクBまで順調出世したのは本部七〇〇人のうちたったの三人。そのうち一人はランクAになってるけど、二〇一二年八月の適格者──いわゆる第一世代の中の二人、箕島トシオ、文月ソウタはそれから二年たってもランクBのままだった。二年がんばってきた自分より新参者のあなたがランクAになる。それがどれほど悔しいことか、分かるでしょ?」
そう言われると分かりやすいが、だがそれでも狙うというのは言いすぎではないだろうか。
「ランクBでね、先月適格者をやめた人がいるのよ。名前は音羽ケイイチ」
突然不穏な話になる。この話の流れでこういう話題が出たということは、つまり。
「私はその人と一緒になったことはなかったんだけど、シンクロ率の高い人だった。それはもう、この本部にいる全員が分かってたことだった。ハーモニクス値も高い。シンクログラフも問題なかった。ただ、パルスパターンだけがどうしても正常を維持できなかった。それで一年以上、ずっとランクBにいた。それがようやく、ようやく五分間の維持に成功した。これでランクA適格者が一人増えるだろう、とランクB適格者のみんなが思った。でも、さっきの二人がそれを、駄目にした」
「駄目にって……」
「以前からシンクロ率が常時二〇%、最大で三〇%を超えたことがある音羽くんは、それまでも嫌がらせは受けていたみたい。でも、同じように長くランクBにいた二人からは、音羽くんだけがランクAに行くのを許せなかった。だから、音羽くんが乗り込んだ模擬体に細工をした。それも単なる嫌がらせの一環にすぎなかった。一度シンクロを開始すると、止められなくなるという稚拙なもの。でも、それは大きな事故を起こすことになった。シンクロを続けすぎた音羽くんの精神が汚染されて、生命の危機に陥った。何しろ二時間もあれに乗ってたんだから、その負荷は恐ろしいものだった。何とか救出したときには、完全に精神が壊れてしまっていた。それから音羽くんはずっとベッドで寝たきりになった。いたずらをした二人は今も牢に入れられたまま」
恐ろしい話だ。だが、だというのなら。
「それならもう大丈夫じゃないか。その二人はもう捕まってるんだろ?」
「同じことをする奴があとどれくらいいると思っているの? この部屋を出た途端、碇くんが辻斬りにあったって私は驚かないわよ」
辻斬りとはまた、すごい表現だ。
「だから、多少の噂が立つことを覚悟の上で来たのよ。物騒だから」
カオリが少し目をそらして言った。そして、ようやく気付いた。
ここにカオリが来た理由。それは、この後の移動の時にシンジが嫌がらせや暴力を振るおうとする生徒から守るため。
「……心配、してくれてたの」
「それ以外の意味に聞こえたなら、私の言葉の使い方がおかしいのね」
はあ、とため息をつく。
「そっか。ありがとう」
「遅いのよ。でも、毎日来るっていうわけにもいかないから、今日はとにかく碇くんにその現状を知ってもらおうと思ったのよ。正直、不穏な動きがあるから」
「え」
また表情が険しくなる。
「佐々ユキオ、って知ってる?」
首を振る。おそらくシンジはこのランクB適格者の中で、最も知り合いの少ない人物だろう。
「佐々君はね、一昨日碇君に因縁をつけてきた四人組の親玉」
その言葉でシンジが身構えたのを見て、カオリが頷く。
「そう。佐々君もランクBがすごく長いわね。一度ランクA適格者に喧嘩を売って返り討ちにされてから、いっそう態度が悪くなったわ」
「喧嘩を売って?」
「ええ。この本部の最初のランクA適格者、朱童カズマ君。有名な話だったから、知らない人はいないと思ってたけど」
「いつごろの話?」
「そうね、去年の十月くらいかしら。ほら、去年のその頃って、ランクA適格者が次々に出てたじゃない」
それがやっかみとなって、最初のランクA適格者である人物に喧嘩を売ったのだとしたら──あまりにも情けない話だ。
「そんなにエヴァンゲリオンに乗りたいのかな」
その言葉を聞いてカオリが笑う。
「そうね。多分それを聞いて納得できるのは本部の中で私くらいよ。外ではあまりそういうことは言わない方がいいわ。ただでさえ狙われてるんだから」
「でも、僕は別に自分から検査を受けたわけじゃない」
またふくれてシンジが言う。
「それはそれよ。現実に碇君がシンクロ率が高くて、エヴァに乗ることができるチャンスが目の前にある。碇君の気持ちがどこにあるにしても、それを羨ましく思っている人がいるのも事実」
結局シンジの気持ちなどどうでもいいということなのだ。だったらそもそも自分に構わないでほしい。自分は誰とも諍いなど起こしたくないのだから。
「美坂さんは、自分から検査を受けたの?」
ふと、そんなことを気になって尋ねてみた。
「ええ」
「エヴァに乗りたくないのに?」
「色々と事情があるのよ」
ため息をつきながら答える。その事情については顔に『聞くな』と書いてある。それ以上追及するのは失礼というものだろう。
「わかった」
「あとそれから、ランクC適格者からも狙われるわね」
またその話に戻るのか、とシンジはいい加減うんざりした。
「もう誰だっていいよ」
「いいから聞きなさい。碇君はシンクロとかそういったことをランクBに上がるまで誰からも学ばなかったでしょう?」
確かにそうだ。ランクによって得られる情報は格段に違うが、ランクCとBのすみわけは徹底的ともいえた。エヴァを操縦するのに必要な技能を高めた覚えは今までにはない。ランクBになって初めて習ったのだ。
「だから、誰も碇君がどうしてランクBになれたのかということを知らない。スーパーコンピューターMAGIがこの結果を予測してランクBに昇格させたのだとはいえ、シンクロ率のことも知らないランクC以下の適格者たちは、総合評価でEがついている碇君を『親の七光りだ』と考える人もいるでしょう」
「どうだっていいよ。どうせ七光りは本当のことだし」
「本部最高のシンクロ率なのに?」
シンクロ率四十%。その数値を出せるのはドイツのセカンドチルドレンとオーストラリアのランクA適格者、この二人のみ。
「ある意味、総合評価なんていうものはあってもなくてもいいのよ。ただ軍隊の中で協調性をしっかり持たせたいとか、基礎体力をつけさせたいとか、基礎知識を学ばせたいとか、そういった目的でやっている、いわばトレーニングと同じよ。トレーニングをクリアしてランクBにならない限り、自分がエヴァの適性があるかどうかすら分からないんだから、無駄なことをしてるわよね、ネルフも。まあ、たとえどれだけシンクロ率が高かったとしても、全然いう事をきかない人間だったら、戦闘のときに勝手な判断で味方まで被害を出すかもしれない。慎重だっていうのは認めるけどね。あ、そろそろ授業が始まるわね」
気付けば九時。一時限目の始まりだった。
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