シンクロ率とは、自分がエヴァに対して何%自在に操ることができるのか、そのスピードやパワーなど、生身の状態とどれだけ同じ動きができるのかということを示す数値である。
 それに対し、ハーモニクス値というのはエヴァとどれだけの同調性があるかということを示す値である。エヴァは常に異物であるパイロットを取り込もうとする。だが、このハーモニクス値が高ければ高いほど、取り込もうとする力が弱くなるので、結果的に長時間の運転が可能になる。それだけではなく、抵抗が少ないのでエヴァをスムーズに動かすこともできるし、何より取り込みの危険が少なくなる。
 従って、ハーモニクス値というのはパイロットにとっての生命線とも言える。もしもこの数値が低ければ、最悪命を落とすこともありうるのだから。
 そのネルフがクリアラインとして設けているハーモニクス値は、抵抗を通常にした場合で、三〇である。












第玖話



平穏無事












 二〇一五年二月度第一回ハーモニクステスト。
 B一班成績
  弓塚 シオリ 〜十六.三
  羽鳥 ショウヤ〜十四.八
  皆塚 イブキ 〜 九.五
  小池 ジュン 〜二一.一
  谷山 マイ  〜二八.三
  坂内 マリナ 〜三一.五
  篠原 トモキ 〜十九.三
  湯谷 フミヤ 〜 十.六
  倉田 ジン  〜三八.八
  桜井 コモモ 〜三二.五
 B二班成績
  葛西 ショウジ〜二三.五
  瀬戸 リュウタ〜二六.六
  三輪 コウスケ〜三四.五
  山崎 タイチ 〜十八.四
  桐島 マキオ 〜二九.一
  美坂 カオリ 〜 十.三
  三上 エリ  〜 七.九
  碇 シンジ  〜七〇.三
  園浦 ハルカ 〜十三.一



 ハーモニクステストは全員一斉に行われる。両手足、首筋にパルス測定装置を取り付け、そのプラグから圧力をかけて抵抗を計り、ハーモニクス値を算出する。
 もちろん、本物のエヴァと同じような抵抗が生まれるわけではないが、それでも誤差で二ポイントも出ることはありえない。
 被験者たちは全員が同じ部屋で一斉に行う。そしてモニターに映っている数値を見て、一喜一憂するわけである。
 だが、今日ばかりはそんな自分の数値など、ある意味ではどうでもいいようなものだった。
 ここはもう碇シンジの独壇場だった。ハーモニクス値七〇.三。最低ラインの二倍。そして、もっともハーモニクス値の高いジンよりも三〇ポイント以上高いのだ。
 誰もがその数値の高さに唖然とした。何しろ本部で最もハーモニクスが高い綾波レイの最大値が六五。シンクロ率に続いてハーモニクス値においても碇シンジは本部一番の称号を手にしたということだ。
「これを才能というのかしらね」
 現実の数値を見た赤木リツコ博士が唸る。この数値ならば、エヴァを動かすのに相応しい。基礎体力がないことが心配の種だが、これからいくらでも育てることができる。だが、エヴァを動かすのに訓練は必要ない。それは才能の勝負なのだ。
 そして、それを見ている適格者たちの中にも動揺が広がり、それに応じてハーモニクス値がまた細かく変動する。若干高くなる者もいれば、逆に下がる者もいる。
(やはり、すごいわね、碇君)
 カオリはそれほど感慨もなくその数値を見ていた。
(そう。あなたはもっと、もっと、もっと高いところまで行ってもらわなければ)
 カオリが隣の席についているシンジを見る。少年はその数値を見て戸惑っているように見えた。
 無論、少年は実際のところ戸惑っている。戸惑っているばかりか、どうして自分ばかりがこれだけ数値が高いのかが分からない。いや、他者がどうして数値を高くできないのかが分からない。
 何しろ少年はただそこに座っているだけなのだ。特別なことは何もしていない。ハーモニクスというものが何者かも分からず、ただそこに漠然と座っているだけなのに、それが他の誰よりも成績が高いときている。
 だが、それは考えても意味のないことだ。鳥は自分が何故飛べるのかを知らない。その能力は生まれつき備わっているものなのだ。
「うわ、やっぱりすごいなあ、シンジは」
 前の方に座っていたジンが振り向いてシンジの方を見る。
「そんなこと」
「ないとか言うなよ。ここにいる全員を敵に回すぜ」
 もっともだ。少年が自分のことをどう思っていたとしても、ハーモニクス値七〇は厳然たる事実なのだ。
「うーん、私も三〇を超えるようになってきたんだけどな……シンジは別格か」
 コモモがため息をつく。だが、残念ながらその会話に他の適格者たちは入ってこれない。もちろんシンジも何人か知っている人物や、以前に同じ班だった相手もいるが、付き合いの薄い自分にとってはコモモとジンしか話す相手はいなかった。カオリを除けば。
「シンジ君、気分はどう?」
 リツコが尋ねる。だがシンジは首をひねるばかりだ。
「特に何もないです。座っているだけでいいと言われたので、その通りにしてます」
「リラックスしてる?」
「はい。これがトレーニングなら、ずっとしていてもいいです」
 室内がどよめく。うそだろ、とか、まじかよ、とか聞こえる。中には悪意をもって、ばけもんかよ、というものもあった。
「そう。通常の圧力ではシンジ君には不足だったみたいね。少し抵抗をかけてもいいかしら」
「え、あ、はい」
 何のことか分からなかったが、今のままでは特別何の苦労も感じない。トレーニングにならないのなら意味のないことだ。
「シズカ。シンジ君の抵抗だけ、あと十、落として」
「はい」
 オペレーターのシズカが数値を動かす。と、シンジは突然、具合の悪さを感じた。
 同時にハーモニクス値が下がる。七〇から六九、六八、六七……で止まった。
 リツコは冷静にそれを眺めていた。そして少年の顔をじっと見る。
「何ですか?」
「まだ余裕があるのかな、と思って」
「はい」
 リツコは考えてからもう一度「あと十、落として」と言った。
 今度はいよいよ体にかかってくる力が明確に現れてきた。体が重たく感じられ、その顔にも何かに耐えているような様子が浮かんできた。
 そうしてようやくハーモニクス値が──
「うそ」
 リツコが目を見張る。

 ハーモニクス値は、変わっていなかった。






「それにしても、すごかったな、さっきのは」
 更衣室で、ジンが自分の着替えをしながらシンジに話しかける。
「さっきの?」
「何とぼけてるんだよ。ハーモニクス値だよ。ここまできてシンクログラフやパルスパターンに異常が出るとは思えないから、もうお前のランクAは確定だな」
 更衣室に緊張が走る。それを聞いて快く思わない人間がそっぽを向く。
「ジンは、悔しいとかは思わない?」
 ケンスケの時もそうだったが、率直に聞くのはシンジの悪いところだ。さすがにジンも苦笑して答える。
「多少はな。でも、お前が合格しようがしまいが、俺は俺で成績を出せばランクAに行けるんだ。そこまで気にはしないさ。それに、これだけ次元の違う数値を出されると、正直格が違うなって思うだけで、嫉妬の対象にならないんだろうな」
 そういう人間ばかりだったなら、シンジはとても平和に過ごすことができただろう。だが、ジンやケンスケのように考えられるのが少数派だということも、ようやくシンジは分かるようになってきていた。
「もしかして、ジンも?」
 コウキたちと同じように、自分を守ってくれているのだろうか。
 考えてみれば他の適格者、とくに例の四人組の視線が厳しい。また自分に喧嘩を仕掛けようとしているのを、ジンがガードになって防いでくれている。
「ま、な。俺らみんなで話し合って、お前を守らなきゃなって話になってるからさ」
「でも」
「いいんだよ、この程度のことは気にしなくても。他人のことばかり気遣ってないで、少しは自分のことを考えてくれよな」
「う、うん」
 ジンは頼もしさを感じる笑顔でシンジの肩を叩く。本当に、こういう心遣いはありがたい。だが、ありがたいだけではなく、多少の申し訳なさも感じるのだ。
「そういえば、シンジ。美坂のことだけれど」
「美坂さん?」
「ああ。よく一緒にいるみたいだけど、付き合ったりしてるのか?」
 一瞬、言われた意味が分からなかったが、直後に顔を真っ赤にして「違うよ!」と答えた。
「な、何もそんなにムキにならなくてもいいだろ。単なる確認だよ」
 ジンも少し動揺して言う。その様子に逆にシンジは落ち着きを取り戻した。
「美坂さんもジンたちと同じように、僕を守ってくれてるんだ。もう何回も助けてもらった」
「そうか。美坂がな」
 少し考える素振りを見せたジンに「どうかしたの」と尋ねる。
「いや、美坂、前にもお前のことを調べてたからな」
「前にも?」
「ああ。いつだったかな、確かランクCの時に一緒の班になったときだったけど、たまたま二人になったときに聞かれたんだ。『碇くんって、どんな人』って」
「え、でも」
 まだそのころは、自分とカオリとの間には何の関係もない。
「ああ。それで俺も聞いたんだ。興味があるのかって」
「そうしたら?」
「碇総司令の子ってどんな子なのか、興味はあるってさ」
 シンジの顔が曇った。そういえば確かに初対面の時から彼女は自分のことを知っていた。それはつまり、他にシンジのことを知っている人間に片っ端から尋ねていったということだろうか。
「さっきコモモとも話してたんだけど、コモモもそれ、美坂に聞かれたって言ってたな」
「コモモも?」
「ああ。後で確認してみれば分かるだろうけど、一三年九月組の全員に声をかけてるんじゃないか? そこまでして何が知りたいのかは知らないけどな」
 突然、今まで単に同族という意識で一緒にいたカオリに影が差し込んでくる。
 ジンやコモモが嘘を言う必要はない。だが、カオリには確かに不審なところが多すぎる。
 最初から自分のことをよく知っているようだった。そして、何の関係もないのに自分をかばい、守ろうとしている。
 そこには、何か別の意図があるのだろうか。
「ま、悪い奴じゃないのは間違いないけどな」
「うん」
「ただ、ま、どんな相手であれ気をつけろ。それこそ、俺たちだって信頼しすぎるなよ。ここではみんなライバルなんだからな」
 他の適格者たちと異なり、一三年九月組の絆は強い。だが、それだとて必ずしも完全なものではない。ジンはそのように言う。
 だが、シンジはあくまでも人を疑うようなことはしなかった。
「僕はみんなを信頼しているから」
 それを聞いたジンは驚いたように目を見開き、そして微笑んで肘でシンジを小突いた。
「嬉しいこと言ってくれやがって。今の今まで、俺たち同期生全員、シンジからは嫌われているかと思ってたよ」
「そんな、嫌うなんて」
「でもシンジって、あまり回りと話さないだろ? やっぱり結構気にはなるんだよな。不破ですらお前のことは心配してるんだから」
 シンジは苦笑する。不破は適格者の中でも一、二を争う能面で通っている。自分の感情を表に出さず、冷静に頭の中で分析を繰り返す。キャラクターとしては面白い男だが、シンジとしては確かに苦手な部類に入る。そのくせ不破は会うたびにシンジに何かとかまってくるのだから面白いコンビだともいえる。
「さ、そしたら部屋に戻ろうぜ。部屋までは送ってやるから」
 そしてジンは鋭く部屋の中に視線を向けた。例の四人組がこちらを見て何か話している。
 二人はロッカールームを出るとため息をついた。
「全く、嫌になるな、あの態度」
 ジンが言うが、シンジは答えなかった。
「ごめん。迷惑かけて」
「謝るなよ。俺たちは迷惑だなんて思ってない。シンジ、お前だったら仲間を守るのを迷惑だって思うのか?」
 確かに思わない。
 だが、自分は守ってもらう価値などない。何しろ、本当ならランクBにいるはずがないのだし、自分がランクBにさえなっていなければ、ジンもみんなも、余計な労力を使わずに済んだはずなのだ。
「シンジ。お前が碇総司令の息子だってことは分かってる。でもな、俺たちにとってみれば、シンジはシンジだ。たった八人、他の月の連中に比べて半分もいないんだ。俺はこの八人がみんなで協力していけるのはいいことだと思っている」
「うん」
「だからシンジも、もう少し俺たちを頼ってくれよな。俺なんかもランクAは正直厳しいけど、お前が最前線で戦うならバックアップするのが俺たちの仕事だ」
「待ってよ。僕はまだランクAになったわけじゃない」
「確定だろ、それは」
 確かにこの数値だけを見たなら確かに今すぐランクAどころかチルドレン認定をして一つ機体を与えてしまった方がいい。
 だがシンジはどうしても実感が持てなかった。それほど自分の何がいいのだろう。シンクロテストにしてもハーモニクステストにしても、言われた通りただ座っていただけなのだ。それをどうしてそこまで高く評価しているのかが分からない。
(いったい何を考えているんだ、父さん)
 心の中がまた少し重たくなった。






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