国連組織であるネルフは日本に本部を置き、世界中に支部を十二持つ。

 第一支部、アメリカ。
 第二支部、アメリカ。
 第三支部、ドイツ。
 第四支部、ロシア。
 第五支部、フランス。
 第六支部、中国。
 第七支部、イギリス。
 第八支部、ブラジル。
 第九支部、オーストラリア。
 第十支部、サウジアラビア。
 第十一支部、南アフリカ。
 第十二支部、ギリシャ。












第拾壱話



雲泥万里












「それにしてもあの四人には困ったものね」
 報告を受けたリツコがコーヒーを飲みながらぼやく。いずれにしても殴られたのは彼女ではない。他人のことだ。
「まあね。今回ばかりはちょっとキツくお仕置きしたいんだけど……」
「証拠がない。だから何も言えない。そんなところでしょう?」
「ええ。やってないって言い張ればそれで終わりだもの。指紋や掌紋鑑定なんて、あの部屋に何十人、何百人って適格者の痕が残ってるもの、まるで効果がないわ」
 ミサトがため息をつく。
「保安部長の更迭が必要ね。言っておくけどミサト、これはあなたにも責任があるのよ? 適格者の管理はあなたの責任なんだから」
「分かってるわよ。だから悩んでるんじゃない」
「いずれにしても、ネルフ内部の保安体制の強化は必要ね」
 キーボードに向かったリツコの手が高速で動く。いつ見てもほれぼれするほどその速度は速い。
「音羽くんの件が十二月にあったばかりなのに、二ヶ月でこれじゃ思いやられるわ」
「ここにきて連続したものね。何か理由があるのかしら」
「決まってるじゃない。使徒があと半年でここに来るからよ」
 いよいよ迫るカタストロフィ。それが人間の行動に強い影響を与えているのだとしたら、これから先、事件はさらに増え続けることになるだろう。
「そっか。迷ってもいられないってことね」
「そういうことよ。ま、安心しなさいな。アメリカの第一支部に行ってたカレ、音羽くんの件以後戻ってくるように強く押してたけど、週末帰国するって話だから。月曜着任ね」
 ミサトの顔が輝く。
「ホント!? やー、悪いことの後にはいいこともあるものねー」
「言っておくけどミサト。これで事件が続発するようなら、本当にあなたのクビが飛ぶわよ」
 う、とミサトが詰まる。彼女にはこれくらい強く言っておかないと仕事を中途半端に行うところがある。友人の性格を見切っているリツコは任務に私情を挟まない女だった。






「いいんですか、彼を一人にしておいて」
 その日の訓練明け。美坂カオリはあまり話したくない相手から声をかけられた。
 桐島マキオ。彼が格闘訓練でシンジを叩きのめしたのはつい昨日のことだ。
「彼って?」
「碇くんのことですよ。美坂さん、仲良かったでしょう?」
 彼の控えめに見えてなれなれしい態度はカオリの気に入るところではなかった。少なくともろくに話したこともない相手からそんな風に追及されるいわれはない。
「関係ないわよ」
「今日のパルスパターンとシンクログラフの検査についてはランクA、B生の全員、それどころか世界中の支部のランクA適格者が注目してたんですよ。一回目であれだけのシンクロ率を出した適格者。当然話題にもなりますよね。彼の今日の欠席は誰にとっても非常に残念でしょう。もちろんネルフ側にとっても」
「だから?」
「そんなに邪険にしないでください」
 マキオは苦笑する。だがそんな仕草すら気に入らない。
「碇くんは私とは何の関係もないもの」
「どうして僕たちの肌が合わないか、分かりますか?」
 マキオの目が光る。どうやらかぶっていた猫を脱ぎだしたようだ。
「それも興味ないわ。あなたとは──」
「僕たちは本質的に近いんですよ」
 カオリの目も真剣になる。
「私と、あなたが、似てる? 冗談」
「いいえ。方向性は違っても本質は同じです。僕とあなたの心の中にある共通の感情。それは、憎しみ」
 カオリの言葉が詰まる。
「事実だから何も言えませんよね。あ、安心していいですよ。その件について僕が知っているのは本当に偶然ですから」
「別に知られて困るようなことでもないし、それで碇くんを憎んでいるつもりもないわ。ただ、私は──碇くんがどんな人間なのか、知りたかっただけ。だからもういいのよ」
「それで本当に諦めきれるんですか?」
 カオリはため息をついた。
 何を言われても挑発に乗るつもりはない。だが、このしつこさはどうにかならないものなのか。
「はっきり言っておくけど、私は、あなたに何の興味もない。だから何を言われても関係ないわ」
「そうですか? お互い、協力できると思ったんですけどね」
 少し声が小さくなる。別に回りに誰かいるというわけではないが、聞かれたくはない内容なのだろう。
「お互い碇くんが憎い者同士。協力すれば彼をネルフからたたき出すこともできなくはない」
「別に私は碇くんが何をしようと関係ないもの。興味はもうなくなったから、別にあなたが碇くんをどうしようと関係ないわ。でも、私を巻き込まないで」
「そうですね。分かりました。今日のところは引き下がります」
 マキオは両手を上げる。そして笑って言った。
「でも、あなたの過去が消えない限り、碇くんを憎む気持ちは永久になくならないんですよ」
 最後の捨て台詞が、カオリの胸にチクリと刺さった。






 ネルフでは夕食は自由に取ることができる。自室で作ることも可能だし、食堂で手軽にすますことも自由だ。費用は月単位で給与から差し引かれる。従って食材などは注文しておけば届けてくれるし、食堂を利用する場合はネルフのIDカードを通すだけで食べることができる。
 シンジは一人で出歩くのは危険だと考えて、不用意に部屋を出るのを避けた。料理は嫌いではない。自分一人分くらいいくらでも作ることができる。
 と、作り始めたところで部屋のチャイムがなった。誰が来たのかと確認してみると、そこには二人の同期の姿があった。
『ちわーっす。愛と勇気の配達人、シンジの心の恋人、野坂コウキでーっす。開けてくれると嬉しいんだけどなー?』
『ほらほらか弱いレディをあんまり待たせるんじゃないわよ。さっさと開けないとぶっ殺すわよ?』
 同期のお気楽極楽コンビの登場だった。やれやれ、とシンジが苦笑しながら扉を開ける。
「ようシンジ。元気そうで良かったぜー」
 容赦なくコウキはシンジを抱きしめる。
「ちょ、コウキっ!」
「あーあー始まった。ほらコウキっ! シンちゃんから離れる離れるっ!」
 ぶー、と膨れる野坂を横に、シンジに笑顔を見せたのはお気楽極楽コンビの突っ込み役、裏表星人の染井ヨシノだ。回りに同期のメンバーがいないときは彼女は猫を五十枚くらいかぶる。だが、こうして同期だけが集まると裏の顔が出る。
「ま、コウキと一緒のこと言うけど、ホント元気そうで良かったわ。怪我の原因って、アイツらなんでしょ?」
 佐々一味の件はシンジの同期の間では既にブラックリストにのっているらしい。うん、まあと曖昧な返事をするとヨシノは「ふーん」とシンジを睨む。
「……んで、そのことをアタシたちに何も相談してくれないんだ」
 ごめん、と一言呟くが、そんなものはおかまいなしにヨシノは嘘泣きでコウキにすがりつく。
「コウキぃ〜。シンちゃんがアタシを頼ってくれない〜」
「おおよしよし。シンジ。駄目だぞ女の子を泣かせちゃ」
「泣いてないだろ」
 ため息をつく。コウキ一人、ヨシノ一人でももてあますというのに、二人がペアになるともう手がつけられない。
「それで、何しに来たんだよ」
「ま、つれないお言葉。聞きましたヨシノさん?」
「聞きました聞きました。せっかく友人を心配して来てあげたのになんて薄情な子なんでしょ」
「……もう好きにしてよ」
 大きくため息をついてキッチンに戻る。二人の魂胆は分かっていた。自分を心配していると言いながら食事をたかりに来たのだろう。今度きっちりと費用を請求しなければいけない。
「で、二人は何が食べたいの?」
「かれーらいすー」
「はやしらいすー」
「……どっちかにしてよ。お願いだから」
 こうして『第十七回碇シンジの料理決定権ジャンケン三回勝負』の火蓋が切って落とされたのだった。
(今日くらい一人で静かに食べたかったんだけど)
 ただ、一人でなければ先ほどのことを思い悩むこともない。少しだけ気は晴れるかもしれない。
(──二人とも、僕を元気づけるために?)
 と考えたが、ヨシノが二連勝で飛び跳ねている姿を見て首を振った。
(そんなわけないか)
 またため息をついたシンジだった。






 二月十八日(水)。適格者たちの一日が始まる。
 この日は社会、英語、国語と文系科目が連なり、そして四時間目に戦術理論の講義がある。この講義はさすがに適格者任せとはならず、大講堂にランクA、Bの適格者を全員集めた大掛かりなものとして行われる。
 ランクCまでであればこの時間帯は班ごとの体力トレーニングにあてられていた。つまり、ランクB以上の適格者がいざエヴァンゲリオンを出動させる場合に、正しい判断基準で乗ってもらわなければならないという、まさに実戦的な理論の指導が行われることになる。
 今まではミーティングなどの中でそうした基礎理論の指導が行われてきたが、これからはこの場を使って週一回行われることになるということだ。
(やっぱり、CとBじゃ全然違うんだな)
 正直、ランクが一つ上がるごとに格段に情報量が変わることはシンジも分かっていた。ただ、その情報量も使いこなせないのでは意味がない。だからこそ段階を踏ませているのかもしれない。
 この日も社会からの授業に集中して講義を受けようとして自室でパソコンを開いて待っていたシンジだったが、そんな折、部屋のチャイムが鳴る。
(こんな朝からまた誰だ?)
 ここ数日、どうにも来客が多い。そう考えて相手を確認してみると、オペレーターの伊吹マヤだった。
『あ、シンジくん、ちょっといい?』
 もちろん断る理由はない。扉を開けると、そこに童顔のオペレーターが立っている。
「今すぐトレーニングルームに来てもらえるかな?」
 突然のことにシンジも「どうしてですか?」と素直に尋ねる。
「それがね、ちょっと困ったことになってて。私からじゃちょっと言えないんだけど。あ、別にその、昨日のことがどうとかっていうことじゃないから安心して」
 それが命令ということならいずれにしても拒否はできない。分かりましたと答えてただちに準備する。
 そしてマヤと共にトレーニングルームに向かうと、そこには既にミサトとリツコがスタンバイして待っていた。
「あ、おっつかれん♪ わざわざ勉強サボらせてまで来てもらって悪いわね、シンジくん」
「いえ」
 シンジは答えながら何をされるのかと内心でびくびくしていた。が、話はたいしたことではなかった。
「今日来てもらったのは、シンジくんに昨日受けられなかったトレーニングをやってもらおうと思ったからよ」
「昨日? パルスパターンとシンクログラフって奴ですか」
「そ。それがさあ、昨日、シンジくんが休んじゃったから、みんなすごい気になってるのよ。両方ともOKが出れば、その時点でもうランクAは決定みたいなものじゃない。このシンクロ率でこのハーモニクス。だから早くみんな結果が知りたいのよ。金曜日まで待てなかったってワケ」
「はあ」
「それは本部の人間だけじゃなくて、他の支部からも問い合わせがあったのよ。『碇シンジのテスト結果はどうなっているんだ』って。十二支部中、九つから問い合わせがあったのよ。もうシンジくん、有名人ね」
 そう言われても実感がわかない。ただ、自分が世界中から注目を一躍集めたということだけは理解できた。
(どうしてこうなったんだろ)
 普通最初にシンクロ率を計測すると十%にも満たないという話は聞いた。そして現実、その十%の前後でランクB適格者が苦労しているという話も聞いた。確かにその数値からいけば、四十を越すシンクロ率、世界で三番目のシンクロ率というのは非常に価値が高いのだろう。
 その高いシンクロ率ということの実感がないだけに戸惑いも大きい。何しろ、シンクロ率のことを知らずにテストを受けたものだから、四十という数値が低いものだと考えてしまったのだ。まあ、今までの成績からそれもやむをえなかったのだろうが。
 そういうわけで、シンジは一人でテストを受けることになった。
 シンクロ率やハーモニクスを計測するのと違って、パルスパターンやシンクログラフは最大値を出すことを目的にするのではなく、時間の維持を目安として行われる。
 シンクログラフはいわば、起動するためのスイッチが全て入っているかどうかというもの。これが一箇所でも切断されるとエヴァは一切起動しない。
 パルスパターンはエヴァからの精神汚染に耐えられるかどうかという数値だ。これをグリーン=正常に保ち、五分間の維持ができれば成功となる。
 シンクログラフの実験はハーモニクステストの時と同じ擬似エントリーシステムを使用し、パルスパターンはシンクロ率テストの時と同じ模擬エントリープラグを使用する。
 まずシンクログラフ。
 起動ラインを、ものの数秒でクリアしたシンジに、ミサトもリツコもマヤもため息をもらす。
「これを才能というのかしらね」
 その快挙を褒め称えるものがここに三人しかいないというのが残念でならない。
 続けてパルスパターン。模擬プラグに入ったシンジがシンクロスタートと同時に精神汚染を受ける。が、それも耐えられないほどではない。あっさりと五分の維持に成功。まだ余裕がありそうだったので十分まで測定を続けたが、問題なしとみてそこで切り上げた。
「お疲れ様、シンジくん」
 模擬プラグから出てきたシンジにミサトが親指を立てる。
「おめでと。これで来月からのランクAはほぼ決まりよ」
「ありがとうございます」
 あまり嬉しそうな様子を見せずにシンジは頭を下げる。
「嬉しくないの?」
「そんなことはないです」
 だがその表情が明らかに否定していた。
 エヴァに乗りたくない。
 ランクCの時、シンジはミサトにそう伝えていた。だが、それは総司令の意向によるもの。決してそれを認めるわけにはいかない。
 ましてや今やシンジは世界中から注目を集める次期パイロットなのだ。
「あ、それから、昨日のことなんだけど、今度正式にシンジ君にガードをつけることになったから」
「ガード?」
 シンジが理解できないというように顔をしかめる。
「そ。何度も狙われてたら安心できないでしょ? 来週の月曜には紹介できると思うから。あ、すごい腕のいいガードだから、期待していいわよん」
「ありがとうございます」
 抑揚のない声でシンジは答えるとトレーニングルームを出ていく。
「やれやれ。昨日あんなことがあっても。微動だにしないか」
「そう見せているだけよ。相手は十四歳の少年なのよ。ショックをあれだけ隠せるのは賞賛に値するわね」
 リツコが言うと、ミサトは肩を竦ませた。






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