「納得がいきません」
 その日、リツコのもとにやってきたランクC適格者、石河リョウタが剣幕を荒くして言った。
「何が?」
「碇シンジがランクBで、どうして自分がランクCのままなんですか」
 この石河リョウタというのは、シンジがランクBに上がる直前の二回、連続でシンジと同班になっていた適格者だ。適格者番号は140300002。登録直後はしばらく伸び悩んでいたが、ランクDを二ヶ月で突破、ランクCは今回で四回目となる。
 無論、まだ一年もしていないのにランクCにいること自体、驚異的な出世といえる。なにしろ二〇一四年に登録された適格者のうち、ランクBに昇格した者は指折り数えるほどしか存在しないのだ。やはり一年以上鍛えなければ、ランクBに必要な適格者としての能力はなかなか身につかないものらしい。
「決まっているじゃない。あなたがランクBとしての基準を満たしていないからよ」
「それなら、碇シンジだってランクBの基準を満たしていないじゃないですか!」
「それは仕方ないわね。何しろ彼の合格はMAGIが決めたことだから。別に彼が親の七光りで入ったとかいうわけじゃないのよ」
 そういわれてもリョウタには納得がいかない。それも当然だ。彼らにはエヴァを動かすためにシンクロ率が必要なことも、シンジがその数値がダントツに高いことも知らされていないのだから。
「でも、フェアじゃありません」
「そうよ。ただ言っておくけど、ランクBに入ったシンジ君は、今度は自分の力で間違いなくランクAに行くわよ。これは技術部、作戦部の総意と思っていいわ。何しろ、エヴァを操縦するのが本部一上手いということを、私たちは知っているから」
 リツコにそこまで言われるとリョウタもそれ以上返す言葉はなかった。失礼します、と言い残して出ていく。
(シンジ君は上よりもむしろ、情報が伝わらない下から憎まれるかもしれないわね)
 だが、それもあとしばらくの辛抱だ。使徒がやってくれば、自分たちはどうにしろシンジを先頭にして戦っていくしかないのだから。
(問題のない兵士はいないけれど、兵士自体がいないよりはずっとマシね。どうせならMAGIももっと早くシンジ君を昇格させてくれればよかったのに)
 リツコはそう考えながら秒単位で送られてくるメールに目を戻した。そのほとんどはマヤのところで精査され、自分が目を通さなければならないものだけにフラグがついてやってくる。












第拾漆話



信賞必罰












 このように、たった一日しか経っていないにも関わらず、二ノ宮セラの件はネルフ本部内では既に『終わった事件』として処理されてしまっていた。
 だが、もちろん当事者たちにとっては終わりではない。直接の被害にあっていないシンジはしばらくの間この事件を引きずるだろうし、ましてやセラにいたっては一生消えない傷が残る。
 四人の男たちから乱暴されたという事実。
 大好きな男の前で陵辱されたという事実。
 それは、もう彼女を元の、毅然とした、凛々しくも可愛い二日以上前の『セラ』には会えないということを意味していた。
 シンジは病室の前でじっと立ち尽くしている。
 その扉一枚向こうにセラがいる。だが、会ってどうなるというのだろう。彼女も自分も傷つく結果にしかならない。
(逃げちゃ駄目だ)
 起こったことは変えられない。こうした問題は後に回せば回すほど悪化する。
 だから、逃げてはいけない。今、できることをしなければならない。
(守りたかったのに)
 そうだ。幼い頃に綾波レイを守ったように、自分に守れるものは守りたい。ただそれだけだったのに、どうしてこんなことになったのか。
「おい」
 と、その時。突然後ろからかかった声に驚いて振り向く。
 そこにいたのはランクAの、朱童カズマであった。貫くような鋭い視線に、気持ちが十歩くらい後退する。それを察したのか、カズマは苛立ったような表情で眉間に皺を寄せる。
「な、なに」
 考えてみれば直接話すのは初めてだった。一度シミュレーションでチャットらしきものを行ったが、それもほんの少しだけだった。
『お前には、守りたいものがあるのか?』
 そう。カズマは確かにそう書いてきた。
(セラが、僕の守りたい相手?)
 確かにそうかもしれない。だがそれは、彼の求めている答とは違う気がする。
「守る奴がいるんなら、ちゃんと守っとけ」
「なっ」
 何の関係もない相手から突然そんな風に言われては、シンジも神経を逆撫でされる。
「守れないのは、弱いせいだ」
 だが、カズマは憎しみを込めた目の中にどこか寂しさをたたえていた。
「俺は弱い奴が嫌いだ」
 ふん、とそのまま立ち去っていく。
(弱いから、守れない?)
 確かに自分は弱い。あの時だって、自分の思慮が足りなかったこと、四人を相手に組み伏せられたこと、全部自分の弱さから来たものだ。
(もっと強くならないと)
 守りたいものすら守れない。
(カズマくんは)
 それを自分に伝えたかったのだろうか。
(強くなる)
 シンジは意を決して、その扉を開けた。
 既に、セラは起き上がっていた。
 小さな体はいっそう小さく見えた。空ろな目は虚空の一点をただ見つめている。自分が入ってきたことにも気付いていない。
 外の世界と自分とを切り離している。それも自分を守るための手段の一つだ。
 現実を知ってしまえば、自分が傷つくから。その傷に耐えられないから。
 だから、何も思考しない。外のことは考えない。
(セラ)
 胸が痛い。
 どうして彼女がここまで苦しまなければならないのか。ただ自分と仲が良かったというそれだけの理由で、彼女はこの先の未来を失ってしまった。
「セラ」
 声をかけても全く反応がない。いや──かすかに、ほんのかすかに、震えている。
 思わず、手に力がこもった。
「ごめん、セラ。守ってあげられなくて」
 自分に関わらなければこんなことにはならなかった。もっと注意を払っていればよかった。自分ですらあれだけ危険な目にあったのだ。もっと危機意識をもって行動しなければいけなかった。
 セラをこんな風にしたのは、結局自分のせいなのだ。
「また来るよ」
 これ以上ここにいても、自分には何もできない。
 ただ、毎日こうやって顔を見に来ることくらいはできる。
「早く、よくなって」
 それは願い。叶う見込みのない、願いだった。






 桜井コモモは食堂でため息をついていた。
 それは四時限目の格闘訓練の成績が思ったより悪かったからとかいう問題ではない。気になっているのはたった一人、シンジの様子だけだ。
「あら、コモモさん。随分と浮かない顔をされてますのね」
 そのコモモに近づいてきたのは同期の染井ヨシノ、お嬢様バージョンだ。もしもこれが素の状態なら彼女は自分のことを『コモモっち』と呼ぶ。
 回りに誰がいるか分からない状態だと、彼女は猫の皮を何重にもかぶって決して表に出さない。おかげで『上品』とか『たおやか』とかいろいろな形容詞を彼女につける男たちがいるが、それは完全に見る目がない。本当の彼女は知的で狡猾で、容赦の欠片もない冷酷な人間だ。
 もっとも、そのような彼女を気に入っているのだが。
「そりゃそうさ。昨日の今日だからな。昨日は私がもっと早く行動できていれば、違う結果になったかもしれないんだ」
「終わったことですわ」
 ヨシノはその件については冷たく言い放った。
「ヨシノ、オマエ」
「いみじくも、あなたが昨日おっしゃったことですわよ。一人では何もできない。だから私たちは力を合わせる必要があるのだと」
『たおやか』にヨシノが笑う。まったく、確かにこの女性はおとなしくしていればどこの貴族の令嬢かというくらいのものを見せてくれる。
「でも、コモモさんが悩んでいるのは別のところにあるのだと、私は思ったのですけれど、違いましたかしら?」
 う、とコモモが詰まる。全く、同じような考えをする相手には隠し事は何もできない。
「オマエだって同じなんだろ。私たちはみんな、シンジを守りきることができなかった」
 そう。結局頭の中にあるのはシンジのことばかりだ。
「そうですわね。私もコモモさんも、他のみなさんだって、気持ちはみんな同じです。でもそれも、終わったことです。シンジさんには大きなショックだったかもしれません。でもシンジさんは生きているのです。そして、あれだけのシンクロ率、エヴァに乗って使徒と戦うことは半ば義務づけられています。私たちは、これから先シンジさんの盾となるように努力しなければなりません」
「ああ」
「だから、私たちは今できることをすべきなのではありませんか?」
 今できること。
 それは、傷ついたシンジを慰め、癒すことだろうか。それとも。
「……私たちが、ランクAに入る」
 そうすれば、まさに実戦でシンジの盾になることだってできるのだ。
 今のところ自分たちの中でランクAに近いのはエンとジンとカスミ。ダイチは決定的にシンクロ率が足りない。それは自分もヨシノも同じだ。
「そういえばさ、ヨシノって変わった名前だよな」
 コモモがふと気付いたように言う。
「変わった?」
「ああ。だって、染井ヨシノって、昔日本に咲いてた桜の種類の名前だろ? まるで偽名──」
 そこまで言ったところでコモモの言葉は止まった。
 ヨシノが、笑顔だけを残して冷酷な表情を向けている。
「あら、コモモさん。お互いのプライバシーには立ち入らないのが私達の間での約束ではありませんでしたか?」
 怒っている。これはものすごい怒っている。不用意に足を踏み入れた先はデンジャーゾーンをぶっちぎりで越えていた。
「ご、ごめん。悪気があったわけじゃないんだ」
「分かってますわ。コモモさんに邪気がないことはよく分かっておりますもの。でも、少し思慮に欠ける物言いは避けた方がよろしいですわよ?」
「気をつける。ごめんなさい」
 ぺこり、と頭を下げる。
「ええ。もう気にしていません。それでは」
 と、ヨシノが立ち上がる。見れば食事は半分以上も残していた。
「なんだ、食べないのか?」
「ええ。私もちょっと、昨日のことで心が苦しいんですもの」
 ヨシノがそんな口調でそんなことを言うのはどうかと思うのだが、コモモもあえて逆らわなかった。逆らわないかわりにじっとヨシノを睨む。
「一粒のお米には七人の神様がいるんだぞ。無駄にするくらいなら私が食う」
 食べきれないものなら買わない、用意しない。だが用意されたものならば絶対に何があっても食べ切る。さすがに残り物の全てをたいらげるつもりはないが、目の前で食事を残されるのを見て黙っていられないほど、コモモは裕福という言葉とは無縁のところにいた。
「いいですけど、よろしいんですの? 午後からまたトレーニングですのに」
「食う。何があっても食う」
 握りこぶしで主張されては仕方がない。ヨシノはため息をついて座りなおした。
「分かりました。私もわがままを言わずに食べることにいたします」
「そうか? いいんだぞ、別に」
「責める視線でおっしゃらないでくださいませ」
 少し膨れた様子でヨシノはがんばって完食した。それを見たコモモが嬉しそうな顔をしていた。
(だからこの子は嫌えないのよね)
 ヨシノは自分の人の良さが少し恨めしかった。






「減給三ヶ月。ま、仕方ないと思わなきゃね」
 冬月副司令から直々に今回の件について言い渡されたミサトは自室で浮かない顔をしていた。
 一人の女の子の未来を奪ったことに対する管理体制の不備は、総責任者が取らなければならないのは当然のことだった。それに今回の事件では四人の少年を自殺に追い込んでいるのだ。
 正直、こういう事件があると辛い。だが、指揮官がそのような顔を部下=適格者たちの前で見せるわけにはいかない。毅然とした態度を取り続けなければならない。
 だが、シンジやセラの前で、いったい自分はそのような態度を取り続けることができるだろうか。
「なんか大変そうっすね、葛城サン」
 人を食ったような声で部屋に入ってきたのは武藤ヨウ。ミサトは肩を竦めて今日からの同僚を迎えた。
「ま、仕方のないことだけどね。そっちはどう?」
「ああ。碇の息子ならもう顔合わせしてきましたけど、なかなか面白い奴ですね、あれは」
 不敵な笑いを見せながらヨウが格闘訓練中にあったことを説明する。
「人を殴りなれてないっていうのはマイナスですが、ただ、技術だけならおそらく適格者の中でも一、二を争うでしょう」
「そんなに」
「ああ。飲み込みは驚くほど早い。ここにいたのは二年くらいですか? 習ったことは多分全部あいつの中で眠ってるんでしょう。それが表面に出てないだけです。二ヶ月俺に預けてくれれば、ランクAに相応しい人材に育てることができますよ」
 飄々と言ってのけるが、実際にこの人間はそれを可能にすることができる。わずか十五歳で一流の軍人達を『指導』したことがあるという経験の持ち主だ。
「二ヶ月か。使徒が来るのは予定で八月だから、充分ね」
「それから管理体制ですが、現状まずいでしょう、これ」
 昨日のこともある。ミサトは神妙に頷いた。
「冬月サンにも伝えましたけど、俺に保安部を任せてもらいたいですね。鍛え上げてみせますよ」
「そうね。保安部長も更迭されたばかりだし、冬月副司令がGOサインを出せばそれは問題ないと思うけど」
「外様の俺が入るのは不安がありますか?」
 人懐こい笑みを見せた。ミサトは首を振って「いいえ」と答える。
「あなたが人を手懐けるのが得意なのは知っているわよ」
「人間も動物の一種ですから。誰がリーダーなのかを分からせればきちんと懐きますよ」
 そう。ヨウはアメリカで何度も傭兵部隊の指揮を取った、幼いながらに根っからのリーダー気質を備えている。人を扱うということが極端に長けている。
 ミサトには到底真似のできないことであった。
「すぐに副司令に打診してみるわ」
「OK。期待してます」
 言うだけのことを言い残してヨウは出ていった。
 会話をする前と後とで、随分気持ちが違っていることに気がつかされるミサトだった。
(すごい奴ね、やっぱり)
 ため息をついた。






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