西暦二〇〇〇年。地球に突如現れた正体不明の二体の『未確認生命体』──通称『使徒』の攻撃は、地球にあったいくつかの大都市を破壊し、なおも侵攻の手を緩めなかった。
一ヶ月間で『使徒』により滅ぼされた都市は、ニューヨーク、ロンドン、東京、モスクワ、ケープタウン、シドニー、上海、さらにその侵攻過程で滅ぼされた中小の街は数知れず。
当時、世界の人口は六十億にまで達していたが、その数は三分の一にまで減少した。
人々は『ノストラダムスの予言があたった』と嘆き、『聖書ヨハネ黙示録の預言が実現した』と呻いた。
地下にもぐり、シェルターにこもっても、使徒の攻撃はとどまるところを知らない。大地ごと焼き尽くされ、人々に明日というものへの希望を奪った。
その『使徒』の侵攻は突如終了する。
一方的な力の差だけを見せた使徒は、現れてからちょうど一ヶ月の後に活動を停止。『第一使徒』は太平洋上で。『第二使徒』はドイツのミュンヘンの攻撃途中で、突如動きを止めた。
そして、徐々にその姿が消え、人々は『使徒』の恐怖から救われた。
だが、その『第二使徒』が消えた場所に、一つの石碑が建てられていた。無論、人の手によるものではない。その石碑は大きく、そして邪悪な空気が当たりに漂っていた。その空気の中にいるだけで人が発狂するほどであった。
無人偵察機にカメラを搭載し、その石碑を調べさせたところ、表面に文字が刻まれているのが分かった。古代ヘブライ語だった。
そこには、こう書かれていた。
『知恵の実のみならず、生命の実までを貪ろうとする人間どもよ。
汝ら、既にこの地に生きる用なし。
全会一致にて、裁きを与えん。
十五年の後、十五体の我らが分身をこの地上に送る。
それまで、己が罪を悔い、そして改めよ。
唯それだけが、汝らを救うだろう』
第弐拾話
内憂外患
シンジも別にレイと一緒にいたからといって特別会話があるわけではない。
ただ二人で黙って、時間が過ぎるままに茶を飲む。
二人は会話をすることが重要なのではない。
同じ時間を共有すること。それが二人にとって一番の『ごほうび』だった。
とはいえ、今のシンジはただ黙っていられるわけでもない。レイに聞かなければいけないことがあった。
「ねえ、綾波」
なに、と表情が訴える。
「僕が、はじめからエヴァに乗ることが決まっていたって、どういうことなんだい?」
レイの表情は変わらないが、かすかに悲しそうな雰囲気を見せた。
「分からない」
「分からない?」
「ええ。ただ、私がチルドレンになる前、碇くんが将来チルドレンになることが決まったから、私は今のうちから鍛えておかないと間に合わなくなるって」
それでネルフに入ったのか、と納得する。シンジに協力し、その傍にいるために彼女は先に一人でネルフに入っていったのだ。
「僕に相談してほしかったな」
「ごめんなさい」
「いや、綾波が自分で考えて出した結論だからかまわないよ」
少し自分を落ち着けるために茶を一口含む。
「じゃあ、どうして僕が選ばれたのかっていうのは、綾波も知らないんだ」
「知らない。シンクロ率があれだけ高いということも知らなかった」
何年も訓練してきたレイと、たった一度の起動でそれを上回ったシンジ。レイもあの数値を見た時に、追いつかなくなると言った冬月の言葉を理解した。
そう。シンジは何もしなくても既に自分のはるか上を行くのだ。
「そうなんだ」
そこでまた会話が途切れる。また数分間の沈黙が続いた。
シンジが話し下手であるのは、このレイとのやり取りに問題があると言ってもいい。レイが極端に喋らない子だったので、自分も自然と喋らなくてもいいのだという考えになっていった。それでも二人が一緒にいられればそれでいいと思うようになった。レイにとってはそれで間違いではないが、他の仲間たちにとってはそういう考えは多少改めてほしいところだろう。
「碇くんは、大丈夫?」
「何が?」
目的語を除いた質問に、シンジは何のことかが分からずに尋ね返す。だが、レイも珍しく言いよどんでいるらしく、次の言葉が出てこない。
「事件があったって聞いたから」
「……ああ」
レイに再会してからというもの、完全にセラのことは頭から抜けていた。ごめん、と心の中で謝る。結局人間というものは、目の前の事象に意識が傾くものらしい。
「大丈夫。いろいろあったけど、きっとうまくいくよ」
セラが回復してほしい。
そうは思うが、そこにいたるまでの道のりは随分長そうだった。
三月二日(月)。
いつもの一週間が始まる。五人しかいないB二班。そしてヨウの厳しい指導。それが終わったら昼食。
その日マキオはシンジに一切話しかけてこなかった。既に正体がバレているせいだろうか。逆に不気味さだけが漂う。
また、カオリもあまり口数が多くなかった。そんな状態だからシンジも自然と口数が減り、残り二人の女子適格者も雰囲気が悪くてお互いに話そうとしない。
五時間目のハーモニクステストは、またB一班との合同実施であった。
「シンジ! 今日はお前に負けないからな!」
「いや、無理だろそれは」
既にテストルームに来ていたコモモから指差し宣言をされるが、隣にいたジンに容赦なく切って捨てられる。
とはいうものの、あの事件から一週間のうち、不思議と同期のメンバー全員がハーモニクスなり、シンクロ率なりで過去最高の数値を出すようになっていた。もちろんコモモにはその理由が分かっている。どうにかしてシンジの役に立ちたいという一念が、トレーニングに集中させる結果につながっているのだろう。
シンクロ率は精神的な問題、とミサトやリツコは言う。とはいえ、いくら精神的にどうと言っても、それで上がるのなら苦労はしない。
ただ、集中力とシンクロ率がある程度比例するのは間違いない。シンジも一瞬の集中力を数値化すれば間違いなくS判定が出るだろう。
そうして、テストが始まる頃になって全員が揃う。だが、そこに一人の見知らぬ少年がいることにシンジは気付いていた。
B一班の人間ではない。だが、適格者であるのは間違いない。
誰だろう、とぼんやり彼の方を見ていると、その温厚そうな顔がこちらを向いて、にっこりと微笑んだ。
すごく、綺麗な笑顔だった。
(誰だろう)
だが、話しかける間もなく、テストが始まる。仕方なくシンジは自分の席につく。
そしていつもの説明を聞いてから、ハーモニクス値を出す。
碇シンジの数値は七七.三──またしても数値を更新した。
リラクゼーションチェアに座りながらの数値測定のため、さほど訓練という感じではない。ただ単に自分の数値を確認しているというような様子だ。
シンジはその中でもリラックスしていた。体に何本かのプラグをつけてただ座っているだけなのだ。他のどの訓練よりも楽なのだ。可能ならこのまま眠ってしまいたいくらいだ。
かすかにうとうととしかけたとき、すごいね、と耳元で声がした。
はっと気を取り直して横を見上げると、そこには先ほどの少年がいた。また笑顔で椅子に座っている自分を見下ろしている。
「はじめまして。碇シンジくん」
回りの適格者たちがざわめく。
「あ、えっと」
「僕は榎木タクヤ。野坂くんから話は聞いてるよ。よろしく」
悪意のまったくない朗らかな笑顔。
「あ、うん。よろしく」
だが名前を聞いてもまだピンとこない。すると逆隣の席に座っていたカオリから声がかかった。
「ランクA適格者の榎木くんよ」
ランクA適格者。この優しそうな人物が。
「やっぱり、僕が入ってくると目立っちゃうみたいだね」
それはもう、本来他に人がいないランクB適格者のトレーニングルームにランクA適格者がいて、しかもランクA間違いなしのシンジに話しかけているのだから、興味がなくとも視線が動くのは当然のことだろう。
「来月、野坂くんと一緒にランクAで待ってるから」
にっこりと笑ってタクヤはトレーニングルームを出ていった。他のメンバーなどまるで気にかけていない。ただシンジだけを見に来たのだ。
「注目されてるわね」
カオリの言葉に返すこともできない。ランクAから注目されているという事実。もっとも、ランクAの中でもトウジやコウキと友人なのだから、話は伝わりやすいのだろう。そして興味をもったタクヤが話しかけてきたということだ。
(でも、いい人そうだったな)
マキオの時のように、また自分は騙されようとしているのではないか、という不安が心をよぎった。
「どうだった、シンジは」
部屋から出てきたタクヤを出迎えたのはコウキであった。
「いい子だね。優しくて、でも、もろいところもある。守ってあげたくなるよ」
「言っておくがお前と同い年だ」
「分かってるよ」
タクヤは真剣な表情に切り替えて頷く。
「野坂くんが熱を上げるのも分かる気がする。でも残念なことに、自分に自信を持てないから他人の好意を素直に受け取ることができないんだね」
「ま、シンジを気に入ってくれたんならそれでいいさ」
「と同時に、やらないといけないことができたみたいだね」
ふう、と一息ついてタクヤが言う。
「朱童くん、やっぱり佐々くんのことを許さないって言ってるみたいだね」
「だろうな。さすがにアレは捨て置くわけにいかねえだろ」
あれから一週間の時間が過ぎた。少女はまだ自意識を取り戻すことができていない。それがシンジにも影響を与えている。もっとも、そのシンジを守りたいがために、同期のメンバーのシンクロ率が揃って上がったというのは皮肉なものだ。
「僕はあまり実力行使は好きじゃないけど」
「腕っぷしならカズマに任せておけよ。それより俺たちがやるのは、ランクA七人の意見は一致してるんだから、佐々の追放を陳情することだ。佐々をやめさせないんだったら俺たちが全員やめるっておどしをかけてな」
「碇総司令のことだから『やめる奴はやめろ』とかって言うかもしれないよ」
「『下』がそうしねえさ。ランクA適格者七人とランクAになることができない問題児適格者一人。どっちが重いかは馬鹿でも分かる」
コウキはこういうときの自分の商品価値をよく分かっている。ランクAは地球を守るための最前線を戦う兵士なのだ。それをクビにするのはよほどの理由がなければできない。何しろ現在世界中でたった二三人しかいないのだ。
「そしたら赤木博士のところにでも行くか。面倒なことはさっさと終わらせた方がいいだろ」
足を向けようとしたコウキがすぐに立ち止まる。どうしたの、とタクヤが大きな目で見つめてきた。
「悪いな、タクヤ。シンジの友達になってやってくれ。俺じゃ、あいつを過保護にしすぎて駄目なんだ」
それを聞いたタクヤは無敵の笑顔で応えた。
「悪いけどできないよ。友達っていうのは意識してなるものじゃなくて、自然となってるものだから。でも大丈夫。碇くんとなら友達になっていると思うよ」
「さんきゅ」
コウキが答えると、タクヤは嬉しそうにその背中をばんばんと叩いた。てめえ、と声を低くして言っても迫力がない。タクヤは終始笑顔だった。
トレーニング後、着替えが終わったシンジが更衣室から出ると、そこに見たことのある顔が何個か並んでいた。
「シンジ」
代表して話しかけてきたのは、先月まで二ヶ月一緒の班で活動した石河リョウタであった。
「納得がいかねえから、話をつけにきた」
「話って、なんの」
「決まってる。お前がランクBに入って、ここにいる俺たちがランクBになれないことだ」
シンジを囲む少年の数は全部で六名だった。いずれもシンジの見知った顔ばかりで、中には全部で六回も一緒の班になったことがある先輩の鈴木ヒロシもいる。
「僕だって、なりたくてなったわけじゃない。MAGIが勝手に決めたことだろ」
だがその言葉は火に油を注ぐだけだ。適格者を侮辱するような発言を、適格者自身が認めるはずがない。
売り言葉に買い言葉──というほどではなかったのだろう。だが、適格者たちの間に確実に備わっていた感情が堰を切った。そして、それは一つの形を作る。
「お前がランクBにならなきゃ、セラはあんな目に合わなかったんだよっ!」
分かっていることだった。
自分がランクBにならなければ、余計なやっかみも、余計な混乱も生じなかった。自分がいたから全ての問題は起こった。
(だったら僕はどうすればよかったんだよ)
自分の知らないところで勝手に決められて、流されるままにこの状況に放り出された。拒否することも否定することも何もできなかった。
大人しく従っても駄目。反抗しても駄目。
そんな自分に、いったい何ができるというのだろう。
「そして救世主のいない人類は滅びるというの。本末転倒ね」
だが、その殺伐とした空気の中に透き通った声が響いた。
廊下の向こうから現れたその姿は、深い紺色の髪と、綾波よりも深く紅い瞳をした女の子のものだった。
「や、ヤヨイさん」
明らかに六人は怯んでいた。
(ヤヨイ?)
だがシンジにとっては見知らぬ相手に他ならなかった。ランクBに入ってからというもの、知らない人がたくさん出てきすぎて、誰が誰なのかも分からなくなっているのだ。
「その子は我々ランクA適格者全員が必要としているわ。もし彼を傷つけるようなら、ランクA全員を敵にすると思うことね」
ランクA適格者。
先ほどもトレーニングのときにタクヤが話しかけてきていた。いったいランクA適格者の間で何があったというのか。
「ど……どうしてですか!」
年の変わらない相手にも敬語になる。それがランクAの重みだ。最前線を戦うランクA適格者に、他の適格者たちは最高の敬意を払っている。それがこのネルフ組織の不文律だった。
「エヴァを操縦する資格のないあなたたちには分からないことよ。それから、セラの件は彼の責任ではないわ。見当違いのあてつけをするのなら、もっと上手にすることね」
淡々と話す様子に、明らかに六人が怯んでいく。
とはいえ、相手は一人なのだ。もし六人が一斉に動けば彼女とてひとたまりもないだろう。だが、ランクAに逆らってはいけないという意識が優先された。
「いくぞ」
石河が回りに言う。そうしてシンジを囲む男たちは立ち去っていった。
「あ、あの、ありがとうございました」
「はい」
彼女は真剣な表情で、す、と彼女は右手に持っていた紙袋を差し出してくる。何か自分に渡そうとしている。シンジは素直に受け取った。
袋の中を見てみると、そこには蕎麦麺が入っていた。
「……蕎麦?」
「お近づきの印に。来月にはランクAに来るっていうから」
……。
……。
……引越し蕎麦?
(どこまで本気なんだろう、この人)
シンジより少し背が高いだろうか。きりっとした凛々しい表情の前ではこちらが萎縮してしまう。
「えっと、僕は、碇シンジ」
「私は神楽ヤヨイ。ランクAで待ってるわ」
そして、その綺麗な顔に微笑を浮かべた。見る者を魅了する笑顔だった。
「あなたと、お蕎麦を」
そして彼女は立ち去っていく。
(……お蕎麦を?)
どこまで本気で言っているのか、分からない相手だった。
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