全世界が震撼とした。
 タイムリミットは十五年。それまでに悔い改めることだけが人間にとって生き残るチャンスだという。
 いったい何が起こっているのか、それは誰にも分からなかった。
 原因を突き止め、悔い改めれば使徒の襲撃はないのかもしれない。
 だが、何が原因なのかは全く不明だ。それならばと、世界に生き残った国々の下した決断は当然のものだった。

 戦う。

 だが、この第一次使徒戦争の中ですら、あらゆる兵器が通用しなかった。水素爆弾などの攻撃をしても全く効果がなかった。
 人類は生き残るために、国連に使徒対策本部を設置。『特務機関ネルフ』と呼ばれるその組織の長となったのは、日本人の青年で碇ゲンドウという名の男だった。
『ネルフ』が考案した使徒対策は、対使徒用の決戦兵器を作るというものだった。
 火力が全く通用しなかった使徒ではあったが、神風よろしく自爆覚悟で突撃した戦闘機の打撃には多少ひるんだというデータがあったことから分析を行い、打撃戦闘が有効であると導きだされた上での結論であった。
 無論国連も対使徒決戦兵器だけに頼るわけにはいかない。国連軍を編成し、科学部には『N2爆弾』の開発を行わせる。No-Nuclear、すなわち非核兵器ではあるが、通常の核兵器よりも強力な破壊力を持つものとなった。












第弐拾壱話



艱苦奮闘












 三月三日(火)。

 次回の昇格試験まであと十日と迫ったこの日、葛木ミサトは『ランクA適格者一同意見書』を目の前にどうしたものかと悩んでいた。
 曰く、佐々ユキオの適格者資格を剥奪してほしい。さもなくば、ランクA適格者七名全員は、適格者資格を返上する。
 もちろん、下からの要望を簡単に通すわけにはいかないが、それでもこのメンバーが本気でやめてしまうと、ネルフはおろか世界が大きな痛手を受ける。ランクA適格者は使徒と戦える数少ない戦力なのだ。それがやめるとなると管理上の責任が当然生じる。
 ましてや辞めさせてほしいというのは、ネルフの問題児、佐々ユキオなのだ。
(佐々くんを切るときが来たか)
 だが、証拠はない。ランクA適格者は先日のセラの件を一つ問題にしているが、佐々はそれに対して自分は関係ないと言い張り、証拠もネルフにつかませていないのだ。
(どうにかして佐々くんの尻尾を掴まないといけないわね)
 だが佐々もここまでくると警戒するだろう。簡単にそうはさせてくれまい。
(まずは、ランクA適格者のみんなに実情を説明するところからね)
 なんとも面倒な仕事になりそうだ、とミサトは頭をかいた。






 桐島マキオは不満だった。
 石河リョウタは簡単にけしかけられたものの、ランクA適格者の神楽ヤヨイに乱入されて失敗。もっとも、シンジに心の傷を負わせることには成功したようだったが。
 昼休みの休憩中にこれからどうするかということを考えていたとき、視界に『嫌な』相手が見えた。
 教官の武藤ヨウだ。
「見つけたぜ。問題児の坊ちゃん」
 いきなりの挨拶がこれだ。とにかく彼の言うことすることが全て勘に障った。
「なんでしょうか」
「ああ。石河リョウタ。簡単にお前の名前を吐いたぜ。これ以上こういうことが続くようならこっちも容赦しないからな。その警告だ」
 マキオの表情が固まる。万一のために自分は『あれをしろ』『これをしろ』というような具体的な指示を石河には与えていない。シンジを苦しめるための方法をさりげなく気付かせただけだ。
 だが、この教官にとっては自分の名前が出ただけで、自分がどういう考えを持って行動したかが分かってしまっているようだった。
「それで、僕をどうするつもりですか」
「今んところはまだ何もしねえよ」
 ニヤリ、とヨウは笑ってさらに言った。
「もうしばらくは、お前をそのままにしといた方が、シンジを精神的に鍛えられそうだからな」
 沸騰した。
 自分が、碇シンジを精神的に痛めつけてネルフを辞めさせようとしているのを逆手にとって、彼はこれを『ストレスに耐える訓練』に変えているのだ。
「……ふざけるな」
「ふざけてるのはお前の方だろ。単なる嫌がらせですんでいるうちはいいが、エスカレートするなら本気で容赦はしねえよ。自分が成長できないもんだから、優秀な奴を蹴落とすことにばかり目がいくようになった。それは仕方ないことかもしれないが、みっともないぜ」
「傭兵なんかに何が分かる」
 瞬間、マキオの視界が変わっていた。
 今まで正面を向いていたはずなのに、何故か天井を見上げている。
 口の中に血の味が広がった。
 ──殴られたのだ。
「ガキは殴られないと分からないからな」
 この男は自分を殴ったのか。適格者である自分を。
「貴様!」
「言っておくがな、お前『なんか』には戦場の怖さなんて分からないぜ。味方を蹴落としたらその分自分がヤバくなる。自殺行為だ。その程度のことも分からない奴が適格者なんて言うんじゃねえ」
 言うことはそれだけだ、とヨウは立ち去っていく。
(ふざけるな)
 マキオは立ち上がって自らの血を飲み込む。苦い。
(お前の鼻を明かしてやる。お前が碇シンジを守るというのなら、絶対に碇シンジを殺してやる)






 三月四日(水)。

 一時間目の社会の時間。
 学年によって学習内容が異なるのは当然のことなのだが、社会の中一、中二は地理的分野、歴史的分野を学校側の裁量で順番を自由にしてよいということになっている。ネルフでもそれを取り入れ、今年は中一も中二も歴史、来年は地理というように交互に学習を行わせるようにしている。その方がかかる費用が安くすむというのが理由だ。
 というわけで、年度末の三月の歴史の授業は、いよいよセカンドインパクト後の歴史に入っていた。
 西暦二〇〇〇年の九月に現れた『第一使徒』と『第二使徒』により、地球の人口は三分の一にまで減少した。
 翌二〇〇一年、国連が『特務機関ネルフ』を設置。そして開発コード“Another X”とされた対使徒決戦兵器『エヴァンゲリオン』を開発。『S2機関』が搭載され、永久稼動が可能となった。
 だが、戦いの歴史はここから始まる。
 使徒により大きな被害を受けた世界各国で食料・エネルギーをめぐる紛争が絶えなくなった。特に大国に対する小国からの攻撃が頻繁に繰り返され、そのたびに軍隊が出動し地域紛争を鎮めてきた。
 日本にも攻撃をしかけられたことがある。いわゆる二〇〇二年から二〇〇八年にかけての『食料危機』の時代の最後の年に、複数国から同時に攻撃をしかけられた。セカンドインパクトの際、かろうじて崩壊を免れ、復興に向けて建設ラッシュが行われた第一東京は、これをもって完全に消滅した。ミサイルの雨が東京を火の海に変え、死者行方不明者をあわせて一〇三万人も出している。いわゆる『東京強襲』である。
 その東京強襲に参加した六カ国が紹介されたところで授業時間が終了した。






 四時間目の戦術理論を前に、元気のないシンジに古城エンが話しかけてきた。
「おはよう、シンジくん」
 気付いたシンジは頷いて「おはよう」と気乗りせずに答える。
「元気、なさそうだね」
「そ、そんなことないよ」
 エンが気づかうように言うが、シンジは空元気でも見せようとする。だが、シンジの様子をいつも見つめている同期メンバーにそんな演技は意味のないことだった。
「セラさん、まだ意識が戻らないんだってね」
 核心をつくと、シンジもまたうなだれて「うん」と答えた。
「それなら、お姫様の意識を取り戻す魔法でもかけてあげないかい?」
 シンジはエンの言いたいことがよく分からなかった。
「魔法?」
「うん、魔法。水曜日は午後オフだし、試してみる価値はあると思うんだ」
「試すって、何を」
「だから、魔法を。そのためにはシンジくんに持ってきてもらいたいものがあるんだけど、いいかな」
 エンは人懐こい笑みを見せながら尋ねた。もちろんセラの意識が戻る可能性があるということに否と言うつもりはない。シンジは何も悩まずに頷いた。






 そんなわけで、昼の休みにシンジがその巨大な荷物を持ってセラの病室に来たとき、既に同期メンバーはそこに勢ぞろいしていた。
「なんでみんないるの?」
 ぽかんとして尋ねると、コウキが呆れたように答えた。
「お前な、俺らも一応あのとき二ノ宮を助けてるんだけど?」
 確かにシンジが独断で動いたとき、バックアップして動いたのがこの七人だった。その意味では関係がないとはいえない。だが、それよりも理由は別のところにあるのだろう。
「そりゃ、シンちゃんのチェロが久しぶりに聞けるんだもん。みんな集まるよ」
 いたずら顔のヨシノが言う。同感、とコモモが手を上げた。
「俺たちは確かに二ノ宮さんのことを心配してはいるが、それ以上にお前のことが心配なんだよ、シンジ」
 まとめに入ったのはリーダーのジンだ。
「僕を? どうして?」
「二ノ宮さんのことがあってから、お前は元気をなくしていたからな。みんなお前のことを心配していたんだ」
 七人の視線が注がれる。そうは言われてもこればかりはどうしようもない。自分の心の問題なのだから。
「というわけで、今日はシンジ・リサイタルを楽しもうってことさ」
 カスミが言うとエンが少し膨れた顔を見せた。
「一応、僕もバイオリンを弾くんだけど?」
「誰も忘れてはいない。心配するな」
 そのエンを微妙に慰めたのはダイチだ。ダイチが人を気遣った、とかすかにメンバーの中にどよめきが起きる。
「ま、そういうわけだからさっさとしようぜ」
「うん」
 コウキが締めくくって、八人は病室に入る。
 セラの病室は相変わらずだ。何も変わらず、白い病室は時が止まってしまっている。
 セラの目は開いている。だが意識が戻ってきていない。それほどにショックだったのだ。
 好きな人の前で、レイプされたという衝撃。
 喉がちりちりと痛む。もしあの四人がいたなら、すぐにでも殴って、もう一度息の根を止めてみせるだけの覚悟がシンジにはある。だが、そんなことよりも今は彼女を助ける方が大事だ。
 セラの意識を取り戻す。
「さあ、始めよう、シンジくん」
 エンがすすめて、シンジはチェロを準備する。エンもまたバイオリンを取り出した。既に調弦は済ませてある。
(セラ)
 目を覚ましてほしい。
 また、あの大人びた口調で自分と話をしてほしい。
 その願いを込めて、弦を引く。
 チェロの、低い、それでいて優しい調べが病室に響いた。






 そのとき、神楽ヤヨイは自室のベッドに横たわっていた。
 それまでうとうととしていたものの、やがて目を覚ますとその『音』に耳を傾ける。
 病室からこの部屋までは、いくつもの壁と床と天井とが間にある。従って、シンジのチェロが彼女の耳に届くことは百%ありえない。
 だが、彼女は聞いていた。
 実際には耳に届いていない音だが、彼女はその感情を心で聞いていたのだ。
「悲しい音」
 ヤヨイは天井を見上げながら言う。
「約束の子が紡ぐ調べは、この世界に何をもたらすのかしら?」
 と、その彼女の枕元に置いてあった携帯電話に着信メールのランプがともる。
 同じランクAの、榎木タクヤからのメールだった。
 曰く──ネルフ幹部は佐々を追放する方向で動く、とのこと。
「そう……正念場ね」
 彼女は携帯を投げ捨てて、また天井を見つめる。
 佐々ユキオ。桐島マキオ。そして美坂カオリ。
 彼を取り巻く環境は、おそらくあと数日のうちに、全て決着がつく。
 そしてそれは、彼が自分一人で解決しなければいけないこと。これから先、こんなことは日常茶飯事でやってくる。
「あなたの音色が、この世界を救わんことを」
 そうしてヤヨイは、心に直接響く音色に任せて、また眠りについた。






 チェロの音に、バイオリンが重なる。
 相変わらず二人の音はぴたりと一致している。調和している。
 特にシンジは相手に合わせるのが上手だ。チェロの特性はメインとなる楽器をカバーすることだ。だからチェロを前面に出した曲というのは少ない。だが、この曲はバイオリンとチェロの音が互いにカバーしあって、聞くものに安らぎと高揚感を与える。
(セラ)
 傷つき、心を塞いだ彼女の心に響くだろうか。
 心の傷は、そんな簡単に癒えるものではない。だが、誓う。決して君から逃げないと。君の傷を癒すために自分も戦うと。
(だから、目を覚まして)
 最後の音が、余韻を残して、静まる。
 しん、と静まり返った病室。
 そして、シンジがそっと目を彼女の方へと向けた。
 その、彼女は──

 涙を流して、自分を見ていた。

「セラ?」
 声をかける。だが、彼女は次の瞬間に叫び声を上げた。
「嫌ああああああああああああああっ!」
「セラ! 大丈夫、大丈夫だよ!」
 暴れるセラを、シンジがなんとかなだめようとする。捕まえようとしても暴れまわるので何もできない。もっとも、暴れているのはベッドの上だけなので、本気で捕らえようとしたら決して難しくないだろう。だが、そうして相手を押さえつけるのは、彼女に余計あの出来事を思い出させることになる。
「セラ! 聞いてよ、僕の話を聞いて!」
「やだっ! シンジ、シンジにだけはこんな姿見られたくないっ!!!」
「セラ!」
 最後の手段、とばかりにシンジは彼女がひっかいてくるのも構わず、強く彼女を抱きしめた。彼女の少し伸びた爪が自分の喉を少し切って、血が滲んだ。だが、そんな傷は彼女が受けた傷に比べればないようなものだ。
「大丈夫。ここに、セラを苦しめる奴はもういない」
「やだぁ……やだよぅ、シンジ、私に、触らないで。離して」
 徐々に力が弱くなり、泣き声に変わっていく。完全にセラは目覚めた。だがそれは、辛い過去が蘇ったということでもあった。
 シンジの腕の中でさらに力を上げて暴れ、離れようとする。だが、シンジも離さない。彼女の痛みを、自分の痛みとして受け止める覚悟はとっくにできている。
 守りきれなかった自分。
 その分、彼女の痛みを少しでも受け取るのだと心に誓っている。
「ごめん、セラ。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん……」
 少女のすすり泣く声と、少年の謝罪の声。
 同期のメンバーはお互いに目を合わせると、そっと病室から出ていった。
 七人が外に出る。最初に外に出たヨシノは、反対側の壁を思い切り殴りつけていた。
「何やってんだよ、ヨシノ」
 カスミがその右手を取って異常ないか確認する。
「だって、あれ見て、何とも思わないの!?」
「まさか。腹も立つし、憤りもするさ。ただ、俺たちが苦しんだってあの子のために何かしてやれるわけじゃない」
 カスミの言うことはもっともだが、誰もがあの少女の苦しみをその身に浴びて、冷静ではいられなかった。そのあたりはまだ十四、五の少年少女たち。
「あのときさ」
 コモモが小さな声で言う。
「私、すごい悔しくて。なんでこんなことするんだろうって」
「あの場にいたのが俺でよかった」
 ダイチが続けて言う。
「あの場を見て俺ですら冷静ではいられなかった。お前たちならシンジと一緒にキレていただろう」
「そうだな。私もそう思う。あの四人、この手で殺したかった」
「落ち着こう、みんな」
 こういうときに全員をまとめるのはリーダーの役割だ。ジンは六人を見回してから言う。
「ともかく、二ノ宮の意識は戻ったんだ。あとは本人たちに任せて、俺たちはできることをしよう」
「できることって?」
 エンが尋ねる。ジンは「コウキ」と呼びかける。
「うっす。シンジがランクAに上がるための障害を取り除く、そのために動くってことだな」
 障害。
 それがいったい何を表しているのかは分かる。佐々ユキオ、それに桐島マキオ。この二名のことだろう。
「それにもう一人」
 コウキはカスミに視線を送った。
「調べはついたか」
「ま、なんとか。美坂カオリ嬢のプロフィール、一応確認済みさ」






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