対使徒決戦兵器、通称『エヴァンゲリオン』。
 エヴァンゲリオンには、『使徒』を研究することから新たに生み出された『スーパーソレノイド理論』において、無からエネルギーを作り出すという、従来の物理学では立証することができなかった仕組みによって作られた動力『S2機関』を搭載された。これにより理論上、エヴァンゲリオンは永久に稼動することができるようになった。ただ、原因は不明だがこの理論はエヴァンゲリオンのみにしか適用することができず、二十世紀におけるエネルギー問題を解決するような利便性のあるものではなかった。とにかく、エヴァンゲリオンはどういう理由か、永久稼動が可能である世界で唯一の機械となった。
 この点に関して幾人もの科学者が真相を追究しようとしたが、それは徒労に終わった。エヴァンゲリオンそのものの作り方に問題があるのではないかと疑いが持たれ、ネルフ立会いのもとで百人の科学者によるエヴァンゲリオンの研究がなされたが、特別疑うべき要素はなかった。あくまでもこれまでの科学で作られる最高水準のものでしかなかった。
 と同時に、このエヴァンゲリオンを稼動させるためには条件があった。それは、パイロットが子供でなければならない、という点だ。
 誰が行っても起動しなかったエヴァンゲリオンに、当時十歳の子供、俗にいう『ファーストチルドレン』が起動に成功。それ以後、S2機関を搭載するエヴァンゲリオンには年齢の制限があることが判明した。
 無論、子供の中にも起動ができる者とできない者がいた。それが判明するやいなや、自分も使徒と戦うという英雄願望を抱いた全世界の少年少女たちがネルフ本部、及びネルフ支部に殺到。こうしてエヴァンゲリオンを操縦することができる『適格者』を探し出し、訓練していくという作業が必要になった。
 この『適格者』の選抜にあたるため、ネルフは『マルドゥック委員会』を設置。ネルフ各支部で『適格者』が次々に選出され、合計で三千名からなる大所帯となる。
 彼らは日夜訓練に励み、きたる使徒との決戦に向けて寸暇を惜しまなかった。












第弐拾弐話



夢幻泡影












 セラが落ち着くまで、それからしばらくの時間が必要だった。
 恋する相手が自分のことを抱きしめている──それはあの事件が起こる前であれば、夢にまで見たことであった。
 だが、現実はどうだろう。彼がこんなに強く自分を抱きしめてくれているのに、心の中はあまりにぐちゃぐちゃしすぎている。

 こんなことは、ゆるされない。

 何故か、セラの脳裏にはそればかりが思い浮かんでいた。自分が悪いなどとは思わない。自分は被害者だ。それでも、シンジにこんなことをしてもらえるだけの資格が自分にはないと、抱きしめられる力が強ければ強いほど思い知らされる。
「もう、やめてくれ、シンジ」
 完全に力をなくした彼女は、かすれた声で言う。だがシンジは離さない。
「私は、もう、シンジにこんなことをしてもらえる人間じゃない」
「そんなの、関係ないよ」
 相手の息ができなくなるほどに強く抱きしめる。
「僕はセラがつらそうだから、少しでも楽になってほしいだけだから」
「シンジは、優しいな」
 セラはようやく苦笑する。だが、その優しさは今の自分にとってはナイフと同じで、傷つける効果しかもたらさない。
「でも、それなら余計にやめてくれないか。もう……大丈夫、自暴自棄になったりしないよ」
 セラの言葉に真実が含まれているのを感じたシンジは、ようやくその拘束を解く。こほっ、と軽く咳き込んだ。
「強く抱きすぎだ」
「ごめん」
「いや、謝るのは私の方だ。すまない、迷惑をかけた」
 小さな女の子がちょこんと頭を下げる。
「そんなことない。だってこれは、僕が──」
「分かってる。あいつらに聞かされた。私はシンジを苦しめるための生贄だって。恨むならシンジを恨めって」
「あいつら」
 シンジは歯を食いしばる。もうあの四人に復讐したくても、どうすることもできない。彼らは自殺した。それなりに罪の意識があったということだろうか。
「でも、私はシンジを恨んではいない。シンジがあいつらに恨まれる理由が何かは分からないけど、結局悪いことをしたのはあいつらだ。シンジのせいじゃない。気にしなくていい」
 冷静に話しているように見えたセラだが、シンジの目にその手が震えているのが見えた。
 無理をしている。こうしてただ話しているだけのことが、セラにとってはすさまじい負担なのだ。
(どうすれば)
 だが、答などあるはずがない。たとえ何年、何十年が経っても恐怖の記憶が薄れはせよ、なくなることはない。
「シンジ」
 セラは悲しそうにシンジを見つめて言う。
「私、シンジのことが好きだった」
 ──もちろん、それに全く気付かなかったわけではない。だが、彼には答える資格はなかった。何故なら、彼の気持ちは最初からセラにあったわけではない。
「僕は」
「何も言わなくても分かってる。シンジは私のことを何とも思っていないのはよく分かってる。でも、本当はこんなことがある前に、伝えたかった。それだけが心残りだよ」
 弱った体で言っても悲壮感があるだけだ。そして、セラもそれが分かっている。セラの想いは一方通行だ。シンジには届かない。それなのにこの状況がシンジに拒否させづらくしている。
「もうここには来なくていいよ。シンジも今回のことは忘れてくれ。私も忘れるために、努力する」
「セラ」
「別にシンジを恨んでるとかじゃないんだ。本当に。でも、シンジがそうやって辛そうな顔をしながら見られるのは、正直、堪えるんだ」
 好きな人だから、今の自分を見られたくない。
 好きな人だから、優しくされれば縋ってしまう。頼ってしまう。
 今のセラに、シンジの助けはむしろシンジを追い詰める結果になってしまう。
 助けたいのに。何とかしたいのに。
 でも、ここでセラを助けるということは、セラのその後まで全て責任を取るということと同義なのだ。
 その覚悟は、シンジにはない。
「さあ、行ってくれないか。それと、謝ったりしないで。私は大丈夫だから」
 大丈夫なはずがない。強がっているだけだ。それでも、シンジには彼女を助けることができない。シンジこそ、その資格がない。
 喉まででかかった『ごめん』という言葉を飲み込む。そして『また来るよ』とも言えないシンジは、何も言葉を残せないまま、病室を後にした。
 シンジがいなくなってから、セラは声を殺したまま泣いた。
(辛いよ。シンジ。傍にいてほしいよ)
 だが、その言葉だけは言ってはいけない。それを口にすれば、そう遠くない未来に、もっと後悔することが分かりきっているから。






「シンジ」
 病室を出てきたシンジの顔は、今にも泣き出しそうだった。
 出迎えたのはコモモとヨシノ、それにエンの三人だ。
「大丈夫かい、シンジくん」
 エンが彼の肩を叩くと、シンジはエンの胸に縋りついた。
「僕、セラに何も……っ」
 何もできないということの無力。
 シンジが悪いわけではないにせよ、セラが暴力を受けた理由にシンジがいるのは間違いのないことだ。それなのに、シンジにはセラを助けることすら許されていない。
 どうすることもできない。
「シンジくんは、二ノ宮さんの目を覚ましたじゃないか。それで充分だよ。心の傷は癒えなくても、時間は少しずつ傷を小さくしてくれる。大丈夫、シンジくんはよくやったよ」
 ぽんぽんとエンは彼の背中を叩く。シンジは顔を上げなかった。泣き顔を見られたくなかったから。
 コモモの手がシンジの背中に触れる。ヨシノはシンジの手を取った。
 シンジは確かに、仲間たちに慰められていた。慰められることがこれほど心地よいとは思わなかった。
 そして、慰めてくれる相手すらいないセラが、いっそう可哀相だった。






「暇そうにしてるな、カオリ嬢」
 美坂カオリは音楽室にいた。このネルフ内部にもそうした施設はある。それなりに楽器もそろっていて、気晴らしに演奏することもできるようになっている。某ロン毛のオペレーターが一番よく使っているという話だ。
 彼女はピアノの前に立っていた。ただ鍵盤をじっと見つめている。
「何か用かしら、野坂くん」
「ま、用といや用だな。お前さんの真意を知りたくてね」
「真意?」
「シンジにまとわりつく理由さ」
 コウキは扉を背にしたままカオリを見つめた。彼の位置からは、彼女の背中しか見えない。その背中がやけに小さく、また震えているようにも見えた。
「言ったでしょ、一目惚れ」
「そんな気のある奴がそんな態度をとるはずがないだろう?」
「感情が外に出にくいだけなのよ」
「妹の件は、シンジのせいじゃないだろ」
 直球をぶつける。明らかに彼女の体が反応した。
「私に妹はいないわ」
「ああ。二年前に死んでるからな」
 カオリはそっと右手の人差し指を出すと、ぽーん、とピアノの鍵盤を押した。
「なんのことかしら」
「とぼけなくてもいいぜ。ま、妹がずっと病気だったってのは本当みたいだな。カルテがきっちりと残ってやがった。ただ、直接の死因はやっぱり病気なんかじゃねえ。殺されたんだ」
 その背中は何も答えない。そこで、コウキはさらに付け加えた。
「碇、ゲンドウにな」
 空気が変わった。それは間違いなく正鵠を射ていることの裏返しだ。
「まだシラを切るってんなら、詳しく話してやろうか?」
 カオリが何も答えないので、ゆっくりとコウキは説明を始めた。
「二〇一二年八月。最初の適格者である綾波レイが発見されて以来、全世界の子供たちが我先にと適格者検査を受けた。どういう理由かは分からないが、あの使徒大戦が起こった後に生まれた子供でなければ適格者にはなれない。基本的には血液検査だけで適格者能力は分かる。命をかけて戦うのだから当然保護者の同意がいるが、基本的に本人の希望があれば検査は受けられる。ただ、本人の希望がなくても血液検査だけは受けることができる。特にネルフ本部に勤務している者の子は何故か血液のサンプルが保管されている者が多い。綾波レイも本人の希望がないままに高いシンクロ率を出す可能性が高いということで適格者として認められたらしいな」
 カオリは何も言わない。おそらくはその辺りの話も知っていたり知らなかったりということがあるのだろう。
「そうした本人の希望がなかったにも関わらず、高いシンクロ率を出せる人間が二人、見つかった。一人は碇シンジ。もう一人がお前の妹、美坂シオリだ」
「私に妹はいないわ」
「美坂シオリはもともと病弱だったから、血液のデータは大量にネルフにあった」
 カオリが何を言ってもかまわずにコウキは話を続けた。それにしても、真道カスミという男は本当に底が知れない。いったいどれだけのデータを見つけてくれば気がすむのか、という内容だ。
「推定シンクロ率、四〇〇%。当時のネルフの様子なんか知らないが、赤木博士なんかがそのことを知ったら驚愕しそうな数値だな。おそらくこれを知っているのは上層部の、ほんの一握りのメンバーなんだろう。俺も最初にこれを聞いたときには、さすがに何も言えなかったぜ。いずれにしてもその二人は高い可能性で、高いシンクロ率を出すことができる『チルドレン』となることが予測された……が、問題がある。この高すぎるシンクロ率だ」
「やめて」
「シンクロ率一〇〇%をこえると、徐々にエヴァと同化し始める。四〇〇%は理論上限値だ。これを超えると、完全に一体化する。つまり、LCLに溶ける。シンジとシオリにはこの可能性があった。だから、試した」
「やめて」
「シンジはネルフ司令官の息子。一方彼女の父親はネルフの中ではそれほど地位が高いわけでもなかった。まして彼女は医者に長くは生きられないことを宣告されていた。どちらを実験台にするかなど、考えるまでもないことだった。片方が犠牲になれば、もう片方が高いシンクロ率を維持しながらエヴァを操り、使徒と戦うことができる。上層部は迷わなかった。父親にも、適格者としての可能性がある、それほど危険な実験ではないと言いくるめられて娘を差し出した。だが、娘は却って来なかった。彼女は、LCLに溶けた」
「やめなさいっ!」
 はあ、はあ、とカオリが肩で息をする。だが、それでもコウキはやめなかった。
「家族には真実は伝えられなかった。実験中の発作による死亡。それだけを告げられた。当然ながら遺体は戻ってこなかった……彼女には姉がいた。姉は、そのことに疑問を持った。発作で死亡したのなら、どうして妹の遺体が戻ってこないのだろう。そして、真実を知るために、姉は適格者検査を受けた。姉は適格者となり、誰にも知られないようにしながら、妹の死の真相を探した。運が良かったのか悪かったのかは分からないが、姉はそれを突き止めた──と、ここまでが俺の知っていることで、ここから先は推測だ」
 震える彼女の背に、さらに追い討ちをかける。
「姉が真実を知ったとき、まず最初に思い描いたのは、復讐だ。生贄として自分の妹を選んだ上層部の人間、この事件に携わった人間に残らず復讐すること。それが最初だった。同時に、もう一つ、彼女にとって許せない存在があった。それが、碇シンジだ」
 彼女は答えない。それが正しいかどうかは分からない。真実を知ったコウキが、彼女の心境を考えて推測で言っているだけだ。
「シンジは妹が犠牲になったことも知らずに、のうのうと暮らしていた。適格者になりたくないとすら考えていた。妹は間違いなく、彼のために犠牲になったというのに、そのことも知らず、感謝もせず、ましてや妹の死を無駄にするかのごとき言動をしているのだ。許せるはずがなかった。そして彼女は、こう思った──」
 そう。自分ならきっと、こう思う。
「彼は、勇敢に使徒と戦って、そして死んでいけばいいのだ、と」
 カオリが振り返る。その表情に、戸惑いもためらいもない。
 そして、動いた。
 彼女の拳が鋭くコウキを打つ。だがコウキはその手を取ってひねり、彼女の後ろをとって壁に押し付けた。
 カオリは格闘ランクB。コウキは格闘ランクA。一つのランクの間には大きな違いがあるということの、明確な証であった。
「痛い!」
「先に仕掛けてきたのはお前だぜ、カオリ嬢」
「言われもない言いがかりをつけられて怒らない方がおかしいわ」
「そこまでしてシラを切っていいことが何かあるのかよ。お前がそういう態度を取るってんなら、この事実を全部公表するぜ。それでもいいのか」
 背中ごしだが、明らかに動揺した様子が伝わった。
「卑怯者。人間のクズね」
「卑怯者でけっこう。俺はどうなろうとシンジだけは絶対に守るぜ。この件で改めて分かった。あいつはこの世界の救世主なんだってことがな。あいつが世界を守る勇者なら、俺は勇者を守る戦士だ。お前がこの件であいつを傷つけるっていうんなら、その前に俺がお前を片付ける」
「あなたも処分を受けるわよ」
「かまうかよ。それだけ俺はシンジに惚れこんでるんでね」
 カオリは鼻で笑った。
「笑えるわ。結局あなただって、碇くんに振り回されてるだけじゃない」
「お前ほどじゃないけどな」
 実際、カオリはシンジにいいように振り回されている。妹を奪われ、そして彼の一挙一動に怒ったり悔しがったりと。これほど滑稽なことはない。
「妹は、ピアノが好きだった……」
 力をなくしたカオリが、横目でグランドピアノを見る。
「あの子、自分の誕生日に、私に曲を弾いてくれる約束だった。でも、急にネルフで実験をすることになったから、夜になるのを、父と母と妹が帰ってくるのを、私は一人で待ってたのよ……ずっと、待ってたのよ」
 直後、カオリはコウキの拘束を強引に振りほどくと、彼の胸倉を掴んだ。
「でも帰ってきたのは両親だけだった。妹は帰ってこなかったのよ! 遺体すら返ってこなかった! 行ってきますって言ったきり、それきり私はあの子の姿を見ていないのよ! あの子が何をしたっていうのよ! 一人の命を犠牲にしないと研究はできないものなの!? 私から妹を奪う権利が誰にあるっていうのよ!」
 彼女の憤りは当然のものだ。だが、それが誰かを憎むことにつながっていいわけではない。
 それを頭で理解できても、感情がついていかない。
 それが、今のカオリなのだ。
「恨まずにいられない……憎まずにいられないのよ! それのどこが悪いのよ! 私だって分かってるわよ! 碇くんは何も悪くない。ただ彼が巻き込まれただけだなんて、そんなことは分かってる。でも、でもそうしたら……私はどうすればいいのよ! どうすれば……いいのよ……」
 コウキは答えられなかった。シンジを守ることが自分の任務だったが、この場で彼女をこれ以上追い詰めることができないのは分かりきっていることだった。
(やっかいな星の下に生まれたな、シンジ)
 シオリの件も、セラの件も、全てはシンジが高いシンクロ率を持っていることと、碇ゲンドウという父親を持っていること、この二つの要因によるものだ。
 それらは彼が生まれながらにして備わっており、決して切り離せない要因だ。
(これからもお前はその要因に縛られるのか? だったら、俺が守ってやらないとな)
 カオリの背を撫でながら、彼は自分の守るべき相手のことを考えていた。






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