私は待っていた。その日の夜はちょうど雨が降っていた。昼までは晴れていたのに、彼女が家を出ていってから、少しずつ雲行きが怪しくなって、暗くなるころにはもう雨が降り出していた。
 帰宅の予定時刻は八時頃ということだった。二月一日。それは妹の誕生日。私は居間に置かれているピアノを開けると、人差し指でぽーんと音を出してみた。
 私はおよそ、音楽というものに興味がない。何を聞いても感動するということがない。
 ただ、妹が弾いてくれるピアノだけは別だった。それは、妹が一生懸命に弾いている姿を見ているのが楽しいのであって、曲そのもの、音そのものはどうでもいいことだった。
 それに、私がいるとき妹はいつもより一生懸命弾こうとする、らしかった。リラックスしてピアノを弾く姿なんて見たことがないから私はそれが本当かどうかは知らない。
 彼女がピアノを弾いてくれるのが、その姿を見るのが楽しみだった。
 午後七時半を回る。食事の準備はできている。母が作り置きした誕生日のご馳走と、私が作った誕生日ケーキ。甘いものは嫌いだけど、甘いものが大好きな妹のためにがんばった。甘いもの好きの友人に少しだけ手伝ってもらったおかげで味もばっちりだ。
 午後八時。そろそろだろうか。妹が帰ってくる。そして父と、母と、妹と、四人で楽しく食事をして、妹のピアノを聴いて、そのあとは疲れて眠るまで一緒の部屋で話をする。
 話したいことは山ほどある。それに、誕生日プレゼント。彼女が欲しがっていた、少し地味な色のストール。一ヶ月分のおこづかいがそれに消えたけれど、妹の喜ぶ顔が見られるのならそれでいい。
 午後八時半。まだ家族は戻ってこない。連絡もない。
 午後九時。遅い。いったい何をしているのだろう。何か事故とかないといいけれど。
 午後九時半。待ちきれなくて携帯に電話をかけてみる。だが電源が落とされているらしく、全く通話がかからない。ネルフに電話をかけても取り次いでもらえない。不安。
 午後十時。怖い。何があったのだろう。一人で待つ家は広すぎる。
 午後十時、十分。ようやく父の車の音が聞こえた。よかった。帰ってきた。きっとその実験というのが予想以上に長引いただけだったのだろう。私は玄関まで出迎える。遅い、と言わなければならない。
 玄関の扉が開く。遅い、と言おうとしたが、父も母も沈鬱な表情だった。どうかしたのだろうか。それに、シオリの姿が見えない。
 私が何か言うよりも早く、父が言った。

「カオリ。シオリが心臓発作を起こして、亡くなったよ」












第弐拾参話



夜雨対床












 三月五日(木)。

 今週も残り半分となった。
 理科、数学と授業を受けたあとの三時間目、社会。今日もセカンドインパクト後の現代史が中心だ。
 回線を通じて配信される社会の先生はいつもの様子で授業を始める。
 西暦二〇〇〇年のときには約六〇億いた人口が、翌年には約二二億に減少。さらには二〇〇二年から二〇〇八年の食料危機の六年間でさらに減少した人口は、現在約十八億という状況になっている。
 ここ数年は人口がまた上昇傾向にあるが、毎年一億人近く増え続けていた二十世紀末のような人口爆発は起こっていない。それは食糧危機の時代に最貧国のアフリカなどから先に人口が減少していったせいでもある。
 国連もこの食糧危機の時代、途上国を救済するような動きをほとんどとらなかった。当然のことである。国連を構成するのは先進国なのだから、自分たちの首をしめるようなことをするはずがない。二十世紀後半からクローズアップされてきた南北問題が、如実に現われる結果となった。
 地域別の人口推移のグラフが表示される。六〇億以上いた人口が十八億まで減少している。そして地域別に見てみると、人口をほとんどそのまま残しているアメリカなどはこの十五年間の人口減少率が三〇.一%と最も低く、ついでヨーロッパが五四.二%となっている。世界人口の正確な減少率が七一.五%であることを考えれば非情に高い数値だ。一方で最貧国が集まるアフリカなどは人口減少率が八七.七%と最も高い。
 失われた国もある。二〇〇〇年のセカンドインパクトにより水位が上昇したため、一部の国はその存在自体が海の中に消えることとなった。モルディブなどのアジアの島国もそうだが、オセアニア地域の被害は甚大だった。オーストラリアやニュージーランド、パプアニューギニアといったやや大きめの大陸、島を残しほとんどが水没、わずかに陸地が残った場所も既に国としての機能を保つことはできず、全てオーストラリアに吸収合併された。また、ヨーロッパでもオランダなどは土地のほとんどが失われ、ベルギーと統合した。もっともそのベルギーにしても陸地の大部分が水没しているため、人口は大幅に減らしている。
 食糧危機のあおりを一番くらったのはインドだった。発展途上国の中でも人口が集中している国は最も被害が大きい。今日の食事にかろうじてありつけたとしても、そこから数日間何も飲食ができず、死んでいくこともある。せっかく分け与えられたわずかな食料すら無駄になってしまうことが多々あった。インドは実に十億の人口が一億四千万人まで減った。八億以上の人間がなくなったのだ。
 もっともそれは中国も同じだ。中国はそれでも現在四億人からの人口を抱えている。だが、もともと十三億近くいた人口が現在四億人だ。八億以上の人口がここでも失われている。
 このように世界各国で人口を減らしながらも、国連は来るべき使徒との戦いに備えてエヴァンゲリオンの開発を行っていった。
 開発には費用がかかる。だが、ここは人類滅亡の危機なのだ。目の前で餓死者がどれほど出ようとも研究・開発を止めるわけにはいかない。エヴァンゲリオンの機動実験で何百万、何千万と費用が捻出される。その費用でたくさんの命が救える。それが分かっていても実験をしなければ人類そのものが滅亡してしまうのだ。
(嘘。欺瞞。ネルフは公言できないような実験すら行っている。人体実験。たとえ人類が滅亡するのだとしても、そのために犠牲になっていい命なんかないのに)
 カオリはイライラして画面を消した。
 人は言う。人類のために命をかけたのだと、立派だと。だがその人たちは自分の家族や恋人が同じように犠牲になっても同じことが言えるのだろうか。少なくとも私は言えない。私にとって大切な妹が犠牲になって、人類のためによくやったわねだなどと墓石を前にして言えるはずがない。
 昨日、コウキから妹のことを追及されてからというもの、夜も寝られずに妹のことを、シオリのことを考え続けた。
 当初、ネルフには情報収集を目的として入った。適格者となればさまざまな情報が手に入る。その中で妹の情報を少しずつ集めていった。
 もっともそれは四ヶ月もすれば見つかった。その情報は不意に彼女に訪れることになった。
 赤木リツコ、葛木ミサトですら知らない妹の情報をどうやってカオリが入手できたのか──彼女はそのとき、MAGIで様々なものを検索していた。そのとき、美坂シオリの情報が、何故か、彼女の検索に引っかかったのだ。
 トップシークレットの情報が見られることは百%ありえない。だとしたらその情報は、何者かが作為的に彼女の検索画面に用意したということになる。
 誰が何を企んでいるのかは分からなかったが、情報はありがたかった。そして同時に、彼女に新たな情報が入手されることになった。
 妹と同じ、四百%のシンクロ率を出す可能性のある少年、碇シンジという情報を。
 その少年が二〇〇三年の九月に適格者として登録される。
 カオリは複雑な思いだった。憎い、という気持ちがないわけではない。だが、その少年も自分が何故シンクロ率が高いのかなど知らないのだ。彼もきっと、被害者なのだ。
 感情は少年を傷つけろという。だが、理性は少年を助けろという。
 その二つの感情の板ばさみとなって、カオリはシンジに対してどういうスタンスを取ればいいのか分からないでいた。それは今でも同じだ。
 カオリはシンジの情報を集めることにした。シンジの幼なじみたち、そして同期生たち。情報が手に入りそうな人物たちに話を聞いて、彼の人となりを確認した。
 するとどうだろう。彼は当然妹のことなど知るよしもなく、適格者になったにも関わらず戦うことを嫌い、チルドレンなどなりたくないという様子だという。
 妹は、彼がエヴァを操るために犠牲になったというのに、彼はエヴァに乗りたくないというのだ。
 許されるはずがない。彼がそのような気持ちなのだとしたら、初めから彼が犠牲になればよかったのだ。たとえ辛くても、苦しくても、シオリはまだ生きることができたのだ。犠牲になどならなくてもよかったのだ。
 それほど、彼のことを憎いと思っていたのに、それでも自分の冷静な思考は彼を糾弾することができずにいた。
 彼は何も悪くない。自分の妹のことを知る機会もない。エヴァに乗りたくないという気持ちは誰にでもある。彼の何が責められるだろう? 妹と同じように、彼もまた彼の意思とは関係なく強制的に適格者にさせられたというのだ。
 どうすることも、できなかった。憎むことも。許すことも。
 コウキに言った言葉は本心だ。彼が悪くないのは分かっている。でも憎まずにはいられない。自分がどうしたらいいのか分からない。
(今は、碇くんに会いたくない)
 三時間目が終わる。四時間目は格闘訓練だ。いやでも顔を合わせなければならない。
(あんな話をした後で、どんな顔で会えばいいのよ)
 それでも真面目な彼女は立ち上がって格闘訓練用のウェアに着替える。サボることもできない自分の性格が恨めしいと思うのはこういうときだった。






 結局、格闘訓練ではほとんどシンジとカオリは顔を合わせたりすることもなく昼の時間となった。そして食事が終わってハーモニクステストとなる。
 B一班、B二班合同で行われるハーモニクステスト。シンジはいつものように、ジンとコモモとの三人で会話をしているようだった。その方が助かる。今の自分がシンジと顔を合わせれば、何を言うか知れたものではない。
 いつものようにゆっくりとリラックスしてそのテストが開始される。
(シオリ)
 そのテストの最中に、カオリは妹のことを考えた。
(あなたはどんな気持ちで、実験に望んだのかしら。それに、LCLに溶けたあなたの魂は、どこへ行ってしまったのかしら)
 それは、油断だった。
 彼女がハーモニクスに対する気持ちが途切れた瞬間、画面上の数値に大きな変化が現われた。

 ハーモニクス値
  碇シンジ 〜 73.6
  美坂カオリ〜 69.8

 会場がどよめく。その瞬間、カオリは自分が何をしでかしたのか、気が付いた。慌てて集中する。すると、ハーモニクス値は瞬く間に下がっていった。そしていつも通りの十前後の数値で落ち着く。
 だが、その一瞬の数値を誰もが目撃していた。突如上がった数値。それが何を意味しているのか、誰も分からない。ただ、何かの変化があったことだけは確かなのだ。
「美坂さん?」
 リツコが近づいてくる。もちろん、今の件について詳しく調べようとしているのだろう。
「はい」
「今あなた、何をしたの?」
「何をと言われても、分かりません。私も何かぼうっとしてたら勝手にハーモニクス値が高まっていました。なんとなく数値を見たらすごい値だったので目が覚めたら、あっという間に下がったんです」
「……そう」
 言われてリツコはパネルを叩いた。おそらくは脳波を確認しているのだろう。
「ぼうっとしていたというより、別のことに集中していたという感じね。訓練には集中しなさい」
「すみません」
「でもあなたの場合、別のことを考えていた方が数値が高まるのかもしれないわね。何を考えていたの?」
「特に何も。考えていたというより、本当にぼうっととりとめのないことを考えていました。何か、と言われても」
 こういう場合、変に嘘をつくよりは『何も』という切り返しの方が信憑性が増す。嘘なら矛盾がどこかに生まれるが、『覚えていない』『分からない』という答は確かめようがないだけに、逆に鉄壁の防衛線を引くことができるのだ。
「そう。あなたが考えていたことの中に、シンクロ率が高まる秘密があるのかと思ったのだけれど」
 それを聞いて、カオリは内心でため息をついた。
(本当にこの人たちは、何も知らないのね)
 エヴァの実験を進めるためにシオリが犠牲になったことなど知らないのだろう。
 自分のシンクロ率やハーモニクス値が高い理由など分かっている。
 それは、エヴァの中に眠るシオリの魂とシンクロしているからだ。
(シオリの魂は私を求めている。気をつけないと、私もシオリと同じようにLCLに溶けてしまう)
 だから意識的にシンクロをカットしないとシンクロ率やハーモニクス値は勝手に上がってしまうのだ。こんな、エヴァとは関係ないただのテストですら、自分は高い数値を出すことができる。
(違うわね)
 嘘。欺瞞。それは、自分の方にこそある。
(私がシオリを求めているから、シンクロ率が高まるんだわ)
 感情は求めている。だが、理性はそうしてはいけないと理解している。
 確かにコウキの言うとおり、シンクロ率を操作しているといえばしているのだろう。だが、自分はシンクロ率を高めているのではない。逆だ。高すぎるシンクロ率が露見しないように、そしてエヴァに溶け込んでしまわないためにシンクロ率を強引に下げているだけなのだ。
(いったい、どうすればいいのかしら)
 一〇.三、というハーモニクス値を見ながらカオリは長い思考に入った。






 テスト後、一人になった彼女を訪れた人物がいた。
 以前はその顔を見るだけで腹立たしかったのだが、今ではそうでもない。ただ哀れなだけだ。
「以前のお話、考えていただけましたか?」
 桐島マキオ。あれだけはっきりと断ったというのに、まだ自分にまとわりついてくるのか。
「いいえ」
「でも、今日のあなたは随分と物思いにふけっているようですよ。昨日の音楽室での話がそんなに堪えましたか」
 カオリは反応しない。動揺を見せれば自分の負けだからだ。
「何の話?」
「気丈なところはさすがですね。でも、今日のあなたなら僕の話を聞いてくれると思います。碇シンジに対する憎しみ。方向は異なっても、僕たちの感情は全く同じはずだ」
 カオリは首をかしげた。それから「そう」と答えた。
「ようやく納得したわ。そういえばあなた、私の同期だったわね」
「よくご存知でしたね」
「あなたも私の妹と、関係があるのね」
「ええ、そうです」
 マキオは誤魔化すことなく頷いた。
「僕の父がネルフ病院に勤めていました。主治医というわけではなかったんですけど、妹さんの実験に医者の立場として立ち会ったのは僕の父なんです」
「だから知っていたの」
「ええ。父の手記が残っていまして」
「手記?」
「父も殺されましたから、碇ゲンドウに。分かりやすく言うと口封じ、というやつです」
 それがきっかけでネルフに入るようになったということか。
「復讐のために適格者になったの?」
「きっかけになったのは間違いないですけど、すみません、僕にとっては親のことはどうでもいいことなんです。そのことで恨んだりしたことはありません。僕はただ、自分が誰よりも優れているということを証明したいだけですから」
「そのために一番成績のいい碇くんを狙っているというわけ」
「そうです。自分が二番の位置にいるなら、一番を消せばいい。そうすれば一番になれる。わかりやすい理屈でしょう?」
「自分を二番と認めているというの」
「一番になるためなら、別に方法はかまわないですし、数値上の差があるのは事実ですからね。今のランクAの連中なら追い抜く自信はあっても、一発であれだけの成績を出し、それからも順調に成績が伸びている碇シンジを抜くことはできない。あんな愚図に負けるなんて、僕のプライドが赦しません」
「負けてるじゃないの。相手を倒さないと一番になれないって」
「だから、方法はどうでもいいんですよ。最後に勝ち残っていればそれでいいんです」
 この少年も、随分とひねくれたものの考え方をするようだった。カオリはため息をつく。
「残念だけど、私は碇くんのことを憎んではいないから」
「でも、碇ゲンドウは憎んでいる。違いませんか」
 その言葉には反応した。確かに自分はシオリを殺した碇ゲンドウが憎い。復讐したい。だが。
「あなたはどうするつもりなの」
「簡単ですよ。碇ゲンドウも人の親。我が子のシンクロ率を見にくるくらい、自分の子のことを考えている父親なんです。だったら簡単、ゲンドウに復讐したいのなら、その息子を殺せばいい。美坂カオリさん──」
 悪魔のささやきが、彼女を打つ。

「──あなたが、シオリさんを殺されたように」

 しばらく彼女は考える。だが、長考に入るということはその意見に魅力を感じているということだ。あとは理性がどちらに傾くか次第だった。
 たっぷり五分の時間の後、彼女は答えた。
「何をすればいいの?」
 その返事にマキオは満足して頷いた。
「簡単なことですよ。とても簡単です」






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