『おはよう、お姉ちゃん』

ええ、おはよう、シオリ。

『一緒に学校行こ、お姉ちゃん』

分かってるから、早く支度しなさい。

『お姉ちゃん、ホント頭いいね』

……褒められてる気がしないわ。

『意地悪するお姉ちゃんなんて、嫌い!』

ごめんね、シオリ。

『お姉ちゃんもアイスクリーム、食べる?』

真冬にアイス食べるのはあなたくらいよ。

『お姉ちゃんとまた遊園地、行きたいな』

そうね。私も行きたい。

『あのストール、可愛い、すごい可愛いよお姉ちゃん!』

そう? ちょっと地味な感じがするけど。

『今度の私の誕生日、お姉ちゃんにピアノ弾いてあげるから』

それ、立場逆じゃない?

『明日、ちょっとネルフに行かないといけないんだって。かえってきたらみんなでパーティしようね、お姉ちゃん』

駄目。
行っては駄目。
そこへ行けばもう──



戻って、来られないから。



「シオリっ!」
 目が覚める。
 全身に汗をかいている。呼吸が荒い。
 そして、ゆっくりと右手で頭を押さえる。手が震えているのが分かる。
 枕元においていた飲料水を含む。喉がからからだった。
「……四時半、か」
 まだあと二時間以上は寝られる。
「随分早く、目が覚めちゃったな」
 だがもう、眠ることはできない。
 寝ればまた、同じ夢を見るだろうから。












第弐拾肆話



合縁奇縁












 三月六日(金)。

 運命の昇格試験まで、あと一週間。
 長いようで短かった三週間がすぎた。その間にもさまざまな事件が起こった。
 この一ヶ月で大きく変わったことといえば、ネルフ全体が活気づいたということだった。
 綾波レイを上回るシンクロ率を出した救世主、碇シンジの登場。
 ランクC以下の適格者には分からないことではあるが、少なくともネルフ上層部では碇シンジに対する期待というのはすさまじいものがある。ネルフ総司令の子という立場も、最初は七光りにしか見られていなかったのが、今では『シンクロ率という事情があったから昇格させたのだ』という意識に変化してきている。
 それに『あの』父親が、自分の息子だからという理由でわざわざランクを上げさせるようなことをするとは考えにくい。
 まさにシンクロ率がものを言う世界。それをまざまざと見せ付けることになった三週間だった。

 さて、当の碇シンジといえば、二週間前の事件からまだ立ち直ることができていない。当然だ。ネルフ上層部では終わった事件でも、当の本人たちはつい最近まで目覚めぬ少女を立ち直らせるために苦心してきたのだから。
 しかもその少女はといえば、二日前に目覚めてから、シンジに『二度と来るな』という絶縁宣言をされてしまっているのだ。もちろんそれはシンジに対する呪詛ではない。だが、自分のせいで相手を傷つけたのに何もすることができないというのは彼の心を苦しめていた。
 セラのために何かをしてあげたい。
 それでも彼にできることはといえば、彼女に近づかないこと、というそれだけなのだ。

 射撃訓練を終え、昼食。そしてシンクログラフとパルスパターンの測定。
 ここまで一度たりとも数値が落ちたことのないシンジに対するスタッフの視線は、日増しに強くなっている。どこまで伸びるのか。これだけの数値を最初から出せる適格者だ。最終的にはあのドイツのセカンドチルドレンをも上回る。その予測が立つ。
 四一.三二九%、四四.二九八%、四五.一〇八%。三週間数値が上がり続ける少年。こんな適格者は過去にいなかった。
 明日が試験前、最後のシンクロテスト。
 いったい何%を出してくるのか、スタッフは固唾を呑んで見守っている。
 まだ上がるのか。セカンドチルドレンですら、最初に出した数値からはなかなか伸びなかった。それをこの少年はどこまで上げるつもりなのか。
 その期待が分かるだけに、シンジの気持ちはさらにマイナスに入っていった。

「はい」
 夕方。シンジが誰もいなくなった広いロビーに座って天井を眺めていると、突然見知らぬショートカットの女の子がドリンクを渡してきた。
「え……と」
 シンジはそれを受け取る。女の子は他にドリンクを持っているわけではない。つまり、シンジのために買ってきてくれたということだろうか。
「元気出しなよ。それじゃ」
 見知らぬ女の子はそれだけ言うと、立ち去っていった。
 ドリンクを手にしたシンジはそれをただ見送っていた。






 三月七日(土)。

 シンクロテスト実施。
 班ごとに別れて行われるシンクロテスト。ランクB二班は本日は十一時からの測定となった。
 次々と行われるシンクロテスト。そして、シンジの番となる。
(シンクロ率が高いっていうのが、何の自慢になるんだよ)
 うんざりだった。
 自分のシンクロ率さえ高くなければ、自分は誰からも相手にされず、その結果セラがあんな目にあうこともなかったのだ。
 シンクロ率なんか低ければいい。
 やる気がしなかった。
 このシンクロというシステム自体を、呪った。
『シンクロ率、出ます』
 オペレーター、マヤの声に、シンジは自分のシンクロ率を憎むように睨み付けた。

 四七.三三一%。






「また上げてきたわね、シンジくん」
 ミサトが親指を立ててシンジを褒める。シンジは「どうも」と一言だけ答えた。
「この伸び率だと来月には間違いなく五〇%ね。セカンドチルドレンに追いつくのも時間の問題かな」
 周りが何を言っても気にしない。そんなことには興味がない。
 誰かを傷つけるような力なら、欲しくない。
「浮かない顔ね」
 カオリが話しかけてきた。そういえばこのところ、あまり話をしていなかったような気がする。
「そんなことないよ」
「嘘つき」
 つらっ、として言うカオリに、シンジもムッときた。
「どうしてそんなこと言うんだよ」
「誰から見ても分かるのに自分だけ否定しても仕方がないでしょ。それに──」
 周りのことを考えて、声を潜める。
「二ノ宮さんのこと、聞いたわ」
 シンジも声が詰まる。それを言われれば何も否定できない。
「二ノ宮さんも、ある意味あなたの犠牲でああなってしまった。それを考えれば辛いのは分かるけど」
「勝手なこと言うなよっ!」
 思わず声を荒げる。オペレーターや他の適格者が何事か、とこちらの方を振り返ってきた。
「……あまり、目立つのは好きじゃないわ」
「……美坂さんが僕を怒らせるようなこと言うからだろ」
「事実よ。それに、あなたが知らない別の事実も」
 カオリはシンジと目を合わせようとしない。最後の一人がシンクロテストを行っている、その画面をただ見つめている。
「午後から暇なら、つきあって」
「何だよ」
「デートよ」
 その険悪な雰囲気でデートも何もあったものではない。だが、その言葉だけでも純情なシンジは顔を赤らめるのに充分だった。
「じょ、冗談言うなよ」
「そうね。あなたに話しておきたいことがあるのよ。二ノ宮さんのことも含めて、ね」
 シンジは顔をしかめた。だが、このままもやもやとした感情を抱き続けるのがよくないことも分かっている。
「いいよ。どうすればいいのさ」
「午後二時に入口で」
「分かった」
 そうして二人は黙り込んだ。
 その様子を横目で見ていた桐島マキオが──かすかに微笑んでいた。






「で、どうするつもりなんだい、野坂君?」
 榎木タクヤは一緒に昼食をとっていたコウキに今後の動きを確認する。
 佐々ユキオについては既に工作は終わっている。ランクA全員の総意という形でネルフ上層部に通した内容は無事に受理された。次の昇格試験までには佐々の適格者資格を剥奪できるはずだ。
「ま、佐々の件はそれで終わるとは思えないが、先にマキオの方を解決しなきゃいかんだろ」
 コウキは一枚の封筒を取り出す。内容はタクヤも分かっているのか、小さく頷く。
「動きは?」
「今日これからだ」
「随分余裕だね」
「午前のうちに活動終えてる同期の連中を動かしてある。あいつらだけでも大丈夫だろ」
「それに──アレも決着つけないといけないからね。だから君一人で残ったんだろ?」
 タクヤの言葉にコウキが苦笑する。全く、自分の周りにはどうしてこうも物事がよく見えるメンバーが揃っているのだろう。
「分かってんなら話は早い。手伝ってもらうぜ」
 食べ終わったところでコウキは立ち上がろうとしたが、話をしながら食べていたタクヤはまだ半分も食べていなかった。
「遅い」
「ごめん」
 タクヤは急いでご飯を食べた。まあ、急いでいるわけではない。コウキは残っていたお茶を飲み干した。






 カオリに連れられたシンジは目的地も知らされずにただ一緒に歩き、バスに乗って移動した。
 二人の間には特別の会話はない。シンジは普通のジーンズにチェックのシャツを着ていたが、カオリは本当にデートでもするかのように、白地のワンピースを着ていた。
(何考えてるんだよ)
 最初に会った時からもう三週間。その間、自分はこの女性にずっと振り回されているような気がする。
『言葉通りよ』
 そう。
 初めから彼女はそう言い続けてきた。言葉通りだと。
 言葉にしないということは──それだけ、言えない何かがあるということだ。
(僕が、誰かを犠牲にして生きている)
 彼女が言うのなら、それは多分、本当。そして彼女はその真実のままに生きているに違いない。
「ついたわ」
 そうしてバスを降りたところは──テーマパークだった。
「遊園地?」
「ええ。言ったでしょ、デートだって」
「でも、冗談だって」
「私は言ってないわよ」
 さらっと答えてカオリはさっさとチケットを購入する。
「ほら、いくわよ」
 カオリはシンジの手を取るとさっさと歩き出した。
「ちょ、ちょっと」
「これくらいのことで照れないで」
 カオリは楽しそうな表情を全くせず、近くのコースターの列に並ぶ。
 ループ・ザ・ループと名前のついているそのコースターは、出発と同時に時速九〇キロまで加速し、コースターを一回転。そのまま減速してストップし、今度は後ろ向きに時速九〇キロ。後ろ向きのままコースターを一回転してスタート位置を通過。そして後方の高い位置まで運び上げられ、最後は急加速で下りてくるという、このテーマパーク一番の目玉商品だ。
「え……」
 心なしか、シンジの顔が青ざめていた。
「さ、行くわよ」
 すぐ目の前で、キャー! という悲鳴が聞こえる。
「ご、ごめん。僕、パス」
「何言ってるのよ。これ、客の回転速いんだから、すぐ次よ」
 一度に二四人まで乗れるコースターは、実はすぐ次の回で乗れるらしかった。ますますシンジの顔が悪くなる。
(逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ)
 さすがに女の子がやる気満々なのに、自分が逃げ出すわけにはいかない。シンジは震える体でカオリの隣の席に座り、シートベルトをしっかりとつける。
「加速、すごいから」
 カオリの言葉のあと、出発の合図の笛がなる。
 直後、葛城ミサトのルノーもびっくりの急加速。
「うわああああああああああああああああああっ!」
 叫んでいる間に視点がめまぐるしくかわり、何も考える間もなく加速と減速が繰り返される。
 永遠より長く感じられた一分間は、笛の音とともに終わりを告げた。
「大丈夫、碇くん」
 やはり表情のないカオリが隣のシンジに尋ねる。
「……だい、じょうぶ」
 あまり大丈夫そうではないシンジの様子に、ようやくカオリは苦笑を浮かべた。



 それから、カオリはシンジをとにかく連れまわした。
 六大コースターと呼ばれる絶叫マシン系を制覇した後、四Dシアターという、観客に直接主人公と同じ感触が味わえる仕組みが備わっている映画を見て、その後早めの夕食をとった。とはいえ、六大コースターで内臓をやられていた(ような気がしていた)シンジはスパゲティとジュースを頼んだだけだった。一方のカオリもサンドイッチだけだったが。
「そんなもので足りるの?」
「……食欲がないんだよ」
 睨むように見つめるシンジを、カオリはやはり苦笑して見つめていた。
 最初に来たときのようなギスギスした空気はどこかへ吹き飛んでいたが、それでも彼女の言葉はまだ気になっている。
 いったい、自分に何を話すつもりなのか。
「それじゃ、食べ終わったら、あれ、行きましょうか」
 カオリがレストランの窓の外を指差す。
「観覧車?」
「ええ。私、あれ、大好きなの」
 そのときのカオリの表情は、とても安らいでいるように見えた。



 夜になって、少しずつ星明かりも空に輝きだす。
 二人の乗ったゴンドラは、まだ頂上につかない。一周二十分という時間は、二人が会話をするのに長いのか、短いのか。
「美坂さんは、どうして今日、僕をここに連れてきたの?」
「言ったでしょ、デートだって」
「デートをする理由はなかったと思うけど」
「碇くんにはね。私にはあるのよ」
 また表情が消えた。窓の外、遠くを見つめるカオリの目は、どこか虚ろだ。
「どんな?」
「私が碇くんのことを気にしている、っていうこと」
 その手には乗らない。動揺しようとする心を押さえつけて、もう一度聞きなおした。
「どういう意味で?」
「言葉通り……というわけではないわね、さすがに」
 好きとか嫌いとか、そんなものが自分たちの間にあるとは全く思わない。
 ただ、今日のこの『デート』を通じて、お互いに何か考えるところはあった。
 適格者とか、他のいろいろな要因がなかったら、もしかしたら自分たちは仲のいい友達になれたのかもしれない。
 だが、おそらく、カオリの抱えている秘密は、自分たちの関係を普通のものにするには、大きすぎるのだろう。
「渡す物があるのよ」
 カオリは手提げのバッグから、一枚の地味な色合いのストールを取り出した。
「これを、もらってほしいの」
 有無を言わさずに、受け取れという表情。今日一番、真剣な顔つきだった。
「どうして、僕に」
「受け取ってくれたら、話すわ」
 シンジはやむなく、そのストールを受け取る。もちろん自分が使うようなことはしないだろうが、それでも断ることができる雰囲気ではなかった。
「それは、妹へのプレゼントだったのよ」
「妹?」
「ええ」
 そして、カオリはそのことを告げた。

「あなたの身代わりになって死んだ、妹へのね」






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