『一月三十一日(木)晴れ

 今日も天気はよく、暖かかった。
 この前、学校の先生が日本には昔、冬という季節があったと言っていた。冬には北極とかにあるような雪がたくさん降るということだった。一度、そんなロマンチックな情景を見てみたい。私は多分、冬を好きになれると思う。

 今日は具合が悪くて学校は休んでしまったけれど、お姉ちゃんが帰ってきてから一緒にいてくれてよかった。

 明日は私の誕生日。
 お姉ちゃんには、帰ってきたらピアノを弾いてあげる約束をした。誕生日会が楽しみだ。
 お姉ちゃんからもらうプレゼントはもう分かってる。前に話してたあのストール。

 一ヵ月後はお姉ちゃんの誕生日。
 上げるものはもう決めている。前から絶対、あの髪飾りにしようと思ってた。
 お姉ちゃんなら絶対に似合うと思うんだけど、そういうのがあまり好きじゃないみたいだから、喜んでもらえるかちょっと不安。

 春が来れば、私は小学五年生になる。
 今年もあまり、学校には行けなかった。
 いつになったら、私は自由に外を走ることができるのだろう。
 中学?
 高校?
 大学?
 そこまで、生きることはできている?

 少しでも長く生きていたい。
 明日はネルフにいって検査実験というのを行う。どういうものか分からないけど、わざわざ誕生日にしてくれるくらいだから、きっと何か治療に役立つものなのだろうと思う。
 でも、今までも色々な治療をしても駄目だった。
 きっと今回も、何かが変わるようなことはないのだと思う。

 それでも。
 私は、生きたい。
 だから、できることは、何だってする。

 神様、どうか。
 私の願いを、聞いてください。』












第弐拾伍話



冷暖自知












 観覧車から降りて、二人はテーマパークを出ると、バスに乗った。
 ネルフに向かうバスではなく、反対側に向かっていくバス。テーマパークのある郊外の、さらに遠く。
 そこにあるものはたった一つ。第三新東京市の総合墓地。
 夜の墓地は何かが出そうなほど静かで不気味だ。
 シンジももちろん行きたいなどとは思わなかったが、先ほどの話の後で『妹の墓に行くからついてきてくれる?』と頼まれれば断れない。
 美坂シオリの話は衝撃的ではあったが、それよりもどこか冷静に『そんなこともあるのだろう』と思った自分に驚いた。
 ネルフによる人体実験。それも自分、碇シンジのシンクロ率を安定させるためだけの人柱。
(シンクロ率四〇〇%? 僕が? いったい、何の間違いだっていうんだよ)
 だが、間違いばかりではないということが、いい加減シンジにも分かってきている。とにかく自分やシオリは、使徒を倒すための駒としてしか見られていないらしい。
(それが、父さんの仕事なの?)
 ネルフ総司令、碇ゲンドウ。
 ゲンドウはシンジが初めてシンクロテストを行ったときに状況を見に来たという。もしかすると、シンクロ率が安定しているかどうかを確かめるために来たのではないだろうか。
「碇くんは、自分の昇格がすべて仕組まれていたことだったっていうのに気付いてる?」
「え?」
 墓地を先に歩くカオリが、後ろのシンジに言う。
「昇格試験は第二金曜日と決まっている。碇くんが昇格したのは、二〇一二年十二月十三日Eランククリア、二〇一三年六月十三日Dランククリア、二〇一五年二月十三日Cランククリア……言いたいこと、分かるわよね」
「必ず十三日になっている?」
「ええ。二〇一五年の四月一日に、Aランク適格者全員にエヴァが支給されるのは知ってるわよね」
「うん」
「それが最初から決まっていたことだとしたら、Aランクになるための最後の昇格試験が来週の金曜日、三月十三日。多分ネルフが誇るスーパーコンピュータ、MAGIに、十三日の金曜日のときだけは碇くんを必ず昇格させるようにというプログラムが打ち込まれていたんだと思うわ」
「何のために」
「決まってるじゃない。碇くんが確実にランクAになるためによ。だから碇くんは二〇一二年の九月に適格者にさせられた。九月も十三日が金曜日だから。適格者試験を受ければ早い段階でランクBになってしまうから」
「先になっていると何か問題があるの?」
「予測だけならいくらでもできるけど? でも何が正しいのかなんて私が知ってるはずがないわ。あのスーパーコンピュータ、MAGIを開発した赤木ナオコ博士なら別かもしれないけど」
 赤木ナオコ。その名前はシンジももちろん知っている。ネルフ知識を学ぶ際に必ず出てくる名前だ。その娘が赤木リツコ。現在のMAGI担当者だ。
「ついたわ」
 ようやくたどりついた墓は、他の大きな墓に比べて、背丈よりも低いものだった。敷地もそれほど広くない。
 ただ、掃除はきちんとされていた。
「月命日には毎月来てるのよ。今月も先月も日曜日だったから、長居してたしね」
 月命日。日曜日、三月一日。
(……綾波と食事しに行った日か)
 自分がそうして綾波と過ごしている間、彼女はずっとここに一人でいたというのか。
「僕をここに連れてきて、どうしたかったの?」
「たいしたことじゃないわ」
 言うなり──カオリは、そのワンピースを脱ぎ捨てた。
「……っ!」
 だが、その下には陸上選手が着るようなランニングシャツとショートパンツ。これからすぐにでもスポーツができそうな格好になっていた。
「決着を、つけようと思っただけ」
「け、決着?」
「ええ。悪いけど、私、碇くんのこと、許すことも憎むこともできそうにないわ。でも、もう二年も私はずっと同じ気持ちのままでいる。どうにか、前に進みたいのよ」
「だからって、どうして」
「私にも分からないわよ。でも、何もしなかったら私は変わらない。変わるためには、何かをしなければいけないのよ。巻き込んでしまって申し訳ないとは思うけど、付き合ってもらうわよ」
「嫌だよ。美坂さんと戦う理由なんてないよ」
「あるわよ」
 その、カオリから発せられていたのは──殺気。
「私を倒さないと、あなたが死ぬもの」
「し、死ぬって、どういうことだよっ!」
「物覚えが悪いわね」
 カオリの目が細く、鋭くなる。
「言葉通りよ」
 そして、動く。
 最初の動きは左のハイキック。シンジは飛び退いて回避したが、その威力の鋭さに心臓が激しく動く。
 間違いない。言葉通りだ。今の攻撃をかわしていなかったら、自分は首の骨を折られて殺されていた。
「ど、どうして」
「理由なんかないわ。ただ、つきあってもらうのにあなたほど適任者はいないわ。理由は、分かっているわよね」
 カオリが接近して、右の拳を打つ。顔面を狙った最初の攻撃は首を傾けてかわしたが、すぐに二撃目がシンジの胸を打つ。そして、膝が鳩尾に入った。
「ごぼっ」
 胃の中のものが逆流する。ある程度は消化されていたが、それでもシンジはその場で食べたものをもどしていた。
「死ぬつもり?」
 冷酷なカオリの声が響く。シンジが見上げると、墓と星空を背景にした殺戮者、カオリには表情というものがなかった。
「死ぬつもりだというのならそれでもいいわ。あなたがいなくなれば、それはそれで何かの決着にはなるでしょうから」
「なん、で……」
「憎いのよ」
 カオリが搾り出すように言う。
「憎む理由がないのは分かってる。でも、シオリのことも知らずにのうのうと生きているあなたの姿を見ていると、憎くて仕方がないのよ!」
 倒れていたシンジの頭を、サッカーボールのように蹴りつける。
「がっ」
 痛みに耐え切れず、逃げるように立ち上がってシンジは口元も拭わずに背中を向けた。
「逃がさないわよ!」
 既にダメージを負ったシンジがカオリから逃げられるはずもない。すぐに追いつかれると、カオリの足がシンジの腹部を打ち、そのまま近くの墓と激突した。
「う、ぐう……」
「碇くん」
 カオリはそのシンジの腹から馬乗りになった。そして、準備よくポケットからハンカチを取り出すと、丁寧にその口元を拭き取る。
「な、何するんだよ」
「さあ──ただ、良かれ悪しかれ、ずっと碇くんのことばっかり考えていたから、気が変になってしまったのかも」
 そして、彼女はそのまま口付けを落とした。
 シンジの大きく見開かれた目に、目を閉じた美少女の顔がアップになっている。
「な、なんだよっ!」
 首を振って彼女を振り払う。だが、両足と両手でブロックされた彼の身体は自由にしてはもらえなかった。
「死にゆく碇くんに、せめて安らぎくらいはと思ったんだけど、いらないみたいね」
 そして、カオリはゆっくりとその手をシンジの首に回す。
「やめろ、やめろ、やめろっ!」
「ごめんなさい、碇くん。あの世で、シオリに会えるように願っているわ」
 そして、彼女の白い指が、ゆっくりと彼の首を絞める──






「おい」
 Yシャツの上から黒いレザーを着込み、スポーツバッグを持った佐々ユキオに声をかけたのは、冷たい表情の朱童カズマだった。その後ろにはコウキとタクヤもいる。
「あん、なんか用かよ」
「……素直に出ていくつもりなのか」
 ネルフの通用口から出ていこうとする佐々に対して問いかけるカズマ。だが、その質問に佐々は苦笑するだけだった。
「お前らランクAの連中の総意で俺をたたき出すって決めたんだろ? 上層部の決定に逆らえるほど俺は権限があるわけじゃないんでな」
「お前の行動には一貫性がない」
 カズマは睨みつけたまま、いつでも相手に殴りかかれる体勢だ。
 もちろん格闘ランクSのカズマにかかれば誰だって倒せない相手はいない。佐々にしても同じだ。しかもランクA適格者のコウキにタクヤまでいるのだから、三対一の状況で佐々に勝ち目はない。
「何を聞かれているのか分からんな」
「お前がカズマやシンジを目の敵にしてる理由が分からねえっつってんだよ」
 コウキがすごんで言う。
「そんなくだらねえことを聞きにきやがったのか?」
「お前が出ていくのなら余計にな。置き土産なんかされても困る」
 コウキの言葉に、佐々はいやらしく笑う。
「理由は簡単だ。気に入らねえものはぶちのめす。それだけだ」
「分かりやすい理由だね」
 タクヤが不快感を露にする。今回のセラの件、怒りを全面に出していたのはカズマだが、本気で怒ってランクA七人を完全にまとめ上げたのはタクヤだった。
「だが、そのツケが出たな。これでもうお前はこの第三新東京市にはいられなくなった。ネルフ内部が少し平和になってよかったぜ」
「本気でそう思ってんなら、甘い連中だな、お前ら」
 へっ、と佐々は鼻で笑う。
「どういう意味だ」
「俺は別に場所なんざどこだっていいんだよ。気にいらない奴がいればそれをぶちのめすだけだ。ネルフにいたのは、ここなら三食昼寝付きで給料まで出るんだから、楽にやってけると思っただけだ。この先ここが戦場になるってんなら、さっさとオサラバした方がいいってもんだ。二ノ宮の件はそうした手続きの手間が省けてよかったぜ」
「てめえ」
 コウキが一歩踏み出したが、カズマはそれより速かった。一瞬で佐々のふところに入り、その腹部を殴りつけた。
 瞬間。
「があああああああああああああああああっ!」
 逆に身体が硬直し、叫び声を上げたのはカズマの方だった。
 そして力が抜けて、ゆっくりとその場に崩れ落ちる。
「ふん、準備しておいて正解だったぜ。ったく、単純な奴はこれだから楽でいい」
 そうして佐々はポケットから何やら妙なスイッチを取り出して、カチリとボタンを押した。そうしてレザーを脱ぐと、その下の身体になにやら怪しげなビニールのようなものが巻かさっていた。
「ま、ちょっとばかし高圧電流を流しただけだ。備えあれば憂いなしって奴だな」
 倒れたカズマの頭を踏みつけて、さて、と佐々がコウキとタクヤを睨む。
「こいつはあと十分は目が覚めないぜ。分かってるな。目障りな奴は潰す。次はお前らの番だ。安心しな、俺だって人を殺して捕まるなんざごめんだ。腕の一本くらいで勘弁してやる。そして一番ムカつく奴を潰しにいく」
「誰のことだ」
「決まってるだろ」
 スポーツバッグを置いた佐々が、獰猛な笑みを浮かべた。
「碇、シンジだ」
 コウキはそれを聞いて引くわけにはいかないと考えた。
 このままこいつを野放しにしたら、確実にシンジを追い回すことになるだろう。
「だったら碇シンジ親衛隊の隊員ナンバー五の野坂コウキ君としては、お前を放置しておくわけにはいかねえな」
「ふん、この偽善者が」
「なに?」
 だがその先を佐々は答えない。答えずに、一歩踏み出す。
「はい、そこまでそこまで」
 だが、その三人の間に割って入ったのは、武藤ヨウ教官であった。
「いいとこで出てくるな、あんた」
 佐々は心底うるさそうにヨウを見つめた。
「悪いな。治安維持を任されている以上、モメ事を起こされるのはまずいんでな」
「……最初から見てやがったのか」
「まあな。俺も転任早々、自分の給料下げたくないんでね」
 佐々はさすがに形勢不利を悟ったか、再びスポーツバッグとレザースーツを拾った。
「あんたの強さは知っている。歯向かうだけ体力と時間の無駄だ」
「そう言ってくれると助かるね。まあ、宿敵のカズマにも一矢報いたわけだし、それで勘弁してやってくれ」
「ふん」
 ふてくされる佐々の肩を、ヨウはポンと叩いた。
「ま、第三から出てってもがんばりな」
「……ふん」
 そうして佐々は適格者資格を取り上げられて、ネルフを出ていく。
 見送ったコウキとタクヤは、何か言いようのない不安感を覚えていた。
「教官」
 コウキがヨウに尋ねる。
「なんだ?」
「あいつ放っといたら、シンジを狙うかもしれない。それはなんとか防ぎたいんすけど」
「気にするこたねえよ。佐々がこの第三新東京にいられるのも今日いっぱいだ。シンジの場所すら分からない奴が、どうこうできる時間じゃないだろ?」
 それは、確かにそうだ。
 だが、何かがひっかかる。
(本当に、シンジの居場所は分からないのか?)
 もちろん、今もシンジのことは自分の頼りになる仲間たちが守ってくれているはず。特に格闘ランクSのエンがいるのだから問題はない。問題はないはずだが──
(ったく、シンジ姫の護衛も簡単じゃねえなあ)
 佐々を見張った方がいいだろうか。だが、他のメンバーを総動員しているだけに動ける人間がいない。
 ヨウの言う通り、ここは放っておく他、手はなさそうだった。






 佐々はネルフ本部を出て、首をかく振りをして自分のYシャツの襟元を探る。
 そしてその指が小さな紙を探し当てると、それを目の前まで持ってきてじっくりと読んだ。

『碇シンジは、第三新東京墓地にいる』

 たった一言、そのメッセージだけが書いてあった。
「あの教官、何で俺にこんなものを渡しやがった」
 あのすれ違った、肩をポンと叩いた一瞬。コウキやタクヤに見られないように死角になったところでその紙を襟元に隠した。
「ま、どういう理由があったってかまわんがな。俺は俺で、暴れるだけだ。誰の手駒なのかは知らないがな」
 その紙を丸めてポケットに入れると、佐々はすぐにタクシーを拾った。
「郊外の墓地まで」
 タクシーはすぐに走り始めた。






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