『十二月十二日 晴れ

 今日は、ちょっとだけいいことがあった。
 いつものネルフでの検査。あまり気乗りはしなかったのだけれど、これからは検査に行くのが楽しみにすることができると思う。
 カッコイイ人がいた。
 背も高くて、多分年は一つか二つ上。でも、全然大人っぽい。
 私が迷子になってネルフの中をあちこち歩き回って、泣きそうになっていたときに、その人は助けてくれた。
 その人は私を案内しながら、ゆっくりといろいろなことを話してくれた。
 先月からこのネルフの適格者となったこと。二日後にはじめての昇格試験があるけれど、絶対に合格する自信があるということ。そして、将来は世界のために使徒と戦いたいということ。
 すごい夢だと思った。そんなことを、たいして歳も違わないのに、どうしてできるんだろうと思った。
 でも、その人は言った。

 夢は願うものじゃない。自分でかなえるものだ。

 私も、そう信じたい。
 だから、私はもう逃げないと決めた。検査も手術も、何だってやる。

 私の夢は、お姉ちゃんと一緒に学校に行くこと。同じ中学校、同じ高校、一緒に登校。たったそれだけのことが、私にはできない。
 だからかなえる。このネルフで治療を続けていけば、きっと治るのだと信じて。

追記:今度、その子の名前を、聞いてこよう。うまく会えるといいけど。












第弐拾陸話



恍然大悟












 手が、伸びる。
 理由はなかった。ただ、喉が潰されて、苦しかったはずなのに。
 それでも、自分の首を絞める女の子が泣いているのが、可哀相で。
 手が、伸びる。
 その手がそっと、彼女の涙を拭う。
 何とか笑おうとしたが、それはうまく形にならなかった。
「なん……でよ」
 少しずつ、その力が抜けていく。
 急激に肺に流れ込む冷たい空気。同時に咳き込む。苦しい。
 身体中が酸素を求めていて、苦しさがようやく伝わって、涙が出た。
 だが自分より、涙の止まらない彼女の方が百倍つらそうだった。
「どうして、殺されそうになってるのに、相手のことなんか考えてるのよ」
 答えようとしても、喉がつぶれていて声が出ない。ごほっ、ともう一つ咳。
「憎みたくても、憎みきれないじゃない……どうすればいいのよっ! 答えてよっ!」
 答えるといっても、それこそシンジはどうすればいいのか分からない。ただ彼女のつらそうな顔を見ているのがいっそう辛くて、声を出せないかわりに彼女を腕の中に収めていた。
 嗚咽が、墓場に響く。
 倒れたまま、彼女を抱きしめたまま、シンジは星空を見つめていた。
 自分はいったい、何をしているのだろう。
 自分の存在が他人を傷つけている。全ては人類を救うためだというはずなのに、周りにいる人は誰もが傷ついていく。セラも、カオリも。
 自分が適格者でなければ、誰も傷つかなかったのではないのだろうか。
 だが、全ては仕組まれていたこと。自分が何故シンクロ率が高いかなど分からないが、そのシンクロ率をめぐって、ずっと昔から何かが仕組まれていた。
 だが、その犠牲は、あまりに大きい。セラを傷つけ、そして今またカオリを傷つけている。
「ぼく……は……」
 かすれた声を無理に絞り出す。
「ぼくは、なに、も──」
「いえ、もうそこまででいいですよ。あなたはもう、それ以上何を話したところで、それが後世に残ることはないんですから。碇、シンジくん」
 突然割り込んできた声に、二人が驚いて起き上がろうとするが、それより早くカオリが蹴り飛ばされ、その下にいたシンジは右肩の辺りを踏みつけられた。
「っ!」
 痛い、痛い、痛い、痛い。だが、喉がつぶれていて、叫ぶこともできない。
「……いいタイミングで現われたわね」
 カオリが血を地面に吐き捨てて立ち上がった。
 桐島マキオ。彼がその場所でシンジを踏みつけていた。
「この場所を指定したのは僕ですからね。それに、決めたはずですよ、美坂さん。僕がシンジくんを殺すと言ったとき、あなたは自分で決着をつけたいと言った。だから僕はあなたに彼の始末を任せた。でも、それがうまくいかなかったのだから、彼を殺すのは──」
 さらに強く踏みつける。かすれた悲鳴が、風に混じる。
「──僕です」
 ニヤリと笑うマキオを睨みつけるが、そんなもので動じるような相手ではないのは分かりきっている。
「あなたを見ていると苛々する」
 肩が踏み潰されるのではないか、というほどに力強く踏みつけられる。悲鳴すら、かすれてしまっている。
「あなたの力は偉大だ。認めましょう。そのシンクロ率は誰も真似できるものではありません。ですが、それも死ねばただの数値でしかない」
「なん……で……」
 こんなことをするのか、と尋ねたかった。だが、できなかった。
「理由なんか、どうだっていいんです。ただ僕は、一番でありさえすれば──」
「あなたが一番になれるはずがないでしょう」
 だが、マキオの言葉を遮ったのはカオリだった。
 立ち上がった彼女は闘争心をむき出しにしている。たとえ力の差があっても、戦う。その意思にあふれている。
「あなたでは僕にはかないませんよ」
「そうかしらね。今の、私情に狂ったあなたなら、私でも倒せるかもしれないわよ」
「──いいでしょう」
 一度反動をつけてから、マキオは足を退ける。ぐうっ、とシンジが呻いた。
「交渉決裂、ですね。あの男の息子を助けたいと思う気持ちがどこから来るのかは分かりませんが」
「碇くんは、私の妹のかわりに、使徒と戦うのよ」
 カオリははっきりと言い切る。
「シオリさんの身代わりということですか。つくづくこの男も報われない」
「誰が、誰を、どう思おうと、それは他人には関係ないことでしょう」
「そうですね。まったくその通り」
 マキオは少しだけ、体勢を変えた。
「ですが、力の差は歴然としていますけどね」
 マキオが、動く。
 流れるような動きで、前に出てくるカオリの腕をからめとり、そして──折る。
「!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
 叫びにならない叫びが、彼女の口からあふれ出した。
「ああ、安心してください」
 左腕で右腕をおさえるカオリに、マキオが優しい声で語りかける。
「僕は佐々みたいに、女の子を陵辱する趣味はありませんから。ただ、人を殺す感覚、これだけはやみつきになってしまうと止められませんけど」
 殺害、宣告。
 だがそれも、痛みで混乱しているカオリにどこまでとどいたか。最初の一撃で既にうずくまっているカオリにゆっくり近づくと、マキオはその喉輪を掴んだ──
「……ま、て……」
 かすれた声が、その背中にかかる。
 シンジが立ち上がって、マキオを睨みつけている。呼吸が荒い。というよりも、つぶれた喉のせいで、呼吸の音がおかしい。
「あなたの始末は後ですよ」
「……みさか、さんに、ひどいことを、するな」
 ゆっくりと声を出す。
 そう、シンジは、初めて。

 誰か、他の人のために、自分の命をかけようとしていた。

「女の子を守る騎士というわけですか。かっこいいですね」
 マキオはカオリから手を離す。
「ですが、あなた程度の力で、この僕を倒せるとでも?」
「……ぅぁぁぁぁああああああっ!」
 吠える。
 そして、駆ける。
 距離を縮めた二人は、瞬時に拳を繰り出す。
 マキオの渾身のストレートが、シンジの顔面を直撃する──はずだった。
「なに」
 シンジの身体が深く沈む。
 そして、地面を這うように繰り出された右の拳が、マキオの顎を捉えて、彼の身体を宙に舞わせた。






 マキオは何故自分が星空を見上げているのか、分からなかった。
 自分は、殴られた。碇シンジに。
 そしてほんの一瞬だが、気を失ってしまっていたらしい。いや、時間にすればものの数秒。だが、完全にいま、自分はノックアウトされていたのだ。
 分からなかった。
 シンジが、自分を、倒したという事実が分からなかったのだ。
 自分は渾身の力でシンジを殴りつけたはずだった。
 それなのに、シンジはそれをかわした。いとも簡単に。
 何故。
 何故。
「何故だ」
 マキオは立ち上がる。無論、ダメージはあるが、カオリにさんざん攻撃を受けたシンジほどではない。
「何故だっ!」
 マキオはシンジに近づき、その腹部を打つ。がはっ、とシンジの息が吐き出される。そしてさらに足で蹴り飛ばされる。
「貴様、ごときにっ!」
 そして駆け出してとどめをさそうとした、そのときだった。
「そこまでだ。桐島マキオ」
 背中から声がした。
 振り返ると、そこに──自分と同じ格闘ランクSの古城エン。さらには真道カスミに、不破ダイチ。
 倒れたカオリのところには染井ヨシノ。そしてもう一度シンジの方を見ると、こちらには桜井コモモ。
「プリンセスナイト参上、なんちゃってな」
 カスミが肩をすくめて言う。さすがにランクSを相手にして、その他にこれだけの人数がそろっているのではマキオに勝ち目がないのは分かっていた。
「ずっと見張っていたというのか」
「まあな。俺としちゃすぐにでも助けに入りたかったところなんだが、ダイチの奴がしばらく様子を見た方がいいって言うもんでな」
 カスミが隣のダイチを見る。
「碇は隠れた力を持っている。それを見たかっただけだ」
「まったく、それを見るためにほったらかしにして、死んだら世話ないぜ。カオリ嬢の腕、一朝一夕にはくっつかねえぜ」
「シンクロテストに支障はない」
 おいおい、とカスミに突っ込みを入れられる。続けてエンが口を開いた。
「この時点で君はもう何もすることはできない。大人しく投降してくれないかな」
「そうかな」
 マキオはエンを睨みつける。
「あなたさえいなければ、他の四人は僕の敵じゃない。あなたと僕のどちらが強いのか、それだけのことじゃないのかな」
 明確な宣戦布告だった。
 エンとしてはその勝負を受けるわけにはいかない。確実にマキオを捕らえ、シンジとカオリを安全な場所に移す。それだけだ。
「……どのみち、もう僕らのリーダーが君のことを葛城さんに報告に行った。君はもうネルフに居場所はないよ」
「かまわないよ。ここにいる全員が死ねば、不幸な事故で片付けることができるから」
 マキオの本気は充分に伝わった。
「分かった。受けて立つよ」
 同じランクS同士。お互い、相手がどれだけの強さを誇るのかは分かっている。一つのランクの間には天と地ほどの差がある。従って、ランクS同士の戦いというのは、まさに最強王者決定戦ともいえる。
 エン以外のメンバーは動けなかった。既にエンとマキオが戦闘体勢に入っている。下手に手を出そうものなら、エンが味方を守らなければならなくなり、足手まといになる。
 二人が、動く。
 一瞬で間合いをつめ、拳と足が、互いの身体のすれすれを通り抜けていく。お互いの攻撃を受けることをせず、回避に専念している。
 接近戦に自信があるのならそうしてもいい。だが接近戦は決定的な決め技がない以上、互いに冒険を打つことになる。確実に『負けない』戦いをお互いにしなければいけないのだ。
 エンは負ければここにいる全員の命が取られる。マキオは負ければ全てが失われる。未来と、全てが。
 だからお互い慎重だった。負けない戦いは時間がかかる。先に集中力が切れた方の負けだ。
 しばらく、少なくとも十分近くはそうした小手調べの攻撃だった。
 やがて、それが突然変わる。変えたのはマキオの方だった。
(!)
 流れるように相手の攻撃をかわしていたマキオだったが、突如その攻撃を受け止めた。エンの正拳。それを掌で包むように掴んだ。そして相手の手と自分の手を固定して、その場で中断に蹴ってきたのだ。
「くっ」
 離れようにも離れることができない。逆にエンはもっと密着して攻撃を回避しようとする。が、それもマキオの予想の範囲内だった。繰り出された足を膝から曲げる。膝打ちの要領で、エンの脇腹に痛烈な一撃が入った。
「ぐっ」
 エンは思い切り腕を振り、マキオの手から逃れる。だがその間にもマキオは充分な間合いと充分な体勢をとっていた。とどめの一撃がまさに、繰り出されようとしている。
(負ける)
 ゆっくりとしたマキオの動きを、やはりゆっくりとした思考でぼんやりと考えていた。
 そのときだ。
 攻撃を繰り出そうとしていたマキオの身体が跳ねる。何事か、と思っていたところ、背後からマキオの左肩を銃で打ち抜いた男がいた──カスミだ。
「悪いね。こう見えても、射撃ランクはSなんだ。格闘ランクはお前らにはかなわないけどな」
 どこに隠し持っていたのか。カスミは拳銃を撃ったのだ。
「卑怯者め」
 マキオは右手で左肩をおさえながら、荒くなった呼吸と一緒に吐き捨てる。
「別に一対一なんて誰が決めたよ。自分ルールで何でもうまくいくと思うなよ」
 カスミは別に自分の行動が卑怯だなどとは一ミリも思っていない。宝探しの鉄則は、最初に見つけたものが宝の所有権を持ち、敵がいたならば巧妙に脱落させなければならない。
「悪いな、エン。邪魔しちまったみたいで」
「いや、ありがとう」
 エンにしても今のは油断だった。時間を稼げばネルフの方から何らかの動きがあると期待して、もうしばらくは様子を見るつもりだった。それを相手に気取られたのか、一気に接近戦に持ち込まれた。まだまだ自分は甘い。
「マキオ、くん」
 まだ声が戻らないシンジが、それでも無理に声を出そうとする。
「どうして、ぼくのこと、きらいなの」
 シンジが近づいてきて、マキオにあと少しで触れられるところまで来る。だが、マキオはもう攻撃はしてこなかった。
「僕があなたのことを嫌いなのに理由はありません。僕はこの後ネルフに捕らえられるんでしょうけど、いつか必ず、あなたを殺しに来ますから」
 決して相容れるのことのない、明確な拒絶。
 シンジは顔をしかめて、周りのメンバーを見た。
「たすけてくれて、ありがとう」
「いーからお前は黙ってろよ、シンジ。声出すのも辛いんだろ」
 カスミが言うと、ダイチが手際よくマキオに手錠をかける。あとは彼を引き渡せば終了だ。
「悪かったな。本当はもう少し早く助けられたんだ。でも、お前が本当に格闘のセンスがあるのか、見させてもらった。一度キレてるお前は強かったと、ダイチがしきりに言うもんでな。カオリ嬢には悪いことしたけど」
「気にしないでいいわよ。私のは自業自得だから」
 カオリは腕を押さえながら言う。
「まあ、シンジくんとのことは何となく吹っ切れたし、もうこんなことはしないから安心していいわよ」
「そう願いたいね。いつもデートのたびに見張るのも苦労するしな」
 カスミの言葉にシンジが驚く。
「み、みてたの?」
「ああ。ま、バレないように双眼鏡とか駆使してな。そういうスキルは俺とヨシノが高いわけだし」
「そゆこと。シンちゃんのうろたえっぷり、見させてもらったわよ♪」
 そう言ってヨシノが邪笑を浮かべる。いったい自分は遊園地で何をしただろうか。思い出すのも恐ろしい。
 そのときだ。
「随分、和気藹々とした雰囲気じゃねえか。ここをどこだと思ってやがんだ」
 低い声。
 一斉に全員が振り返り、その声の主を確認する。

 佐々、ユキオ。






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