「それじゃ、先に戻ってるわ」
 リツコが言う。はーい、と気のない返事をするミサトに、んじゃな、とやはり気のない返事をするヨウ。
「それにしても強行軍ねー。長野まで来て日帰りするなんて」
「仕方ないでしょう。明日は本部で実験があるんだから」
「ん。まあ、ここまで準備は万端だから大丈夫だとは思うけど」
 ミサトが気楽に言うが、その発言はリツコを怒らせただけだった。
「あなたね。エヴァの仕組みは完全に分かっているわけじゃないのよ?」
「分かってるわよ」
「いいえ、分かっていないわ。明日の実験だって、何が起こるか分かったものじゃない」
 リツコが首を振って言う。
「そんなにヤバイの?」
「何事も最初に失敗はつきものよ。ただ、今回は人命がかかっている。失敗するわけにはいかないわ」
「ええ。それに──命に差なんてないはずなのに、今回かかっている命は世界にとって重いわ」
「そういうことよ」
 リツコが言う。そしてヨウを見た。
「あなたも頼むわね。もう一人の要人の警護を」
「あいよ。でも今回は大丈夫だぜ。あんたらの同期が活躍する予定だからな」
 ヨウは肩を竦めた。今回は出番がなくてつまらない、と言外に語っていた。












第参拾漆話



Go to the stadium!












 三月二二日(日)。

 半日の自由行動が許された八人は、四人ずつオリンピックスタジアム組と茶臼山動物園組とに分かれて行動することとなった。
 もちろん彼らは世界でも数少ないランクA適格者である。万が一テロの対象として狙われることも考え、ネルフ保安部がそれぞれ多くの人数が配置されることとなった。そのように言われると税金の無駄遣いのようにも聞こえるが、これは保安部における要人警護の訓練をかねているのだそうだ。
 確かにネルフ保安部のほとんどが動くことになる。しかもランクA適格者たちはその場の感情で行き先を決めるので、その場に応じて保安部員たちが動かなければならない。しかもその存在が本人たちに知られないようにガードしなければならないという制限がある。確かに訓練としては最適なのかもしれない。それに時間は午前八時から午後二時までの六時間という限定された時間の中でのことなのだ。そう考えるとこれはランクA適格者に自由時間が与えられたというより、自分たちをエサにした保安部の強化訓練がメインなのだろう。
 旅館の出口で荷物をまとめた八人のところへ、ミサトとヨウ、それに三人の黒服がやってきた。
「本日の警備責任者の剣崎キョウヤです」
 黒服、黒メガネの男が後ろに二人の黒服を従えて、八人に向かって敬礼をする。
「万が一テロが起こったとしても、我々保安部が命に代えてもお守りしますので、皆様はゆっくりと自由時間を満喫されてください」
「ありがとうございます。保安部の仕事は確実ですから、信頼しています」
「こちらこそありがとうございます。それではそれぞれの行き先ですが、オリンピックスタジアム方面の四人は私の部下でホークというものがご案内します」
「ホークです。目的地までご案内します」
 後ろにいた男が頭を下げる。
「茶臼山動物園の方は、私と部下のポーターが同行します」
「ポーターです。よろしくお願いします」
 またその男も頭を下げる。
「キョウヤくん、よろしく頼むわね」
 ミサトが気軽な様子で話しかけると「かしこまりました」と抑揚なく答える。ミサトとヨウはこの後十二時に松代で全員が合流するまで、ネルフ実験場に残ることになっている。
「それではご案内しますので、どうぞこちらへ」
 そうしてキョウヤが先頭に立ち、旅館の出口へと誘われる。
「さーて、動物園動物園♪ シンジくんは何が見たい?」
 レミが笑顔で尋ねてくる。
「僕は別に」
「あー、夢がないなあ。ねえ、カナメちゃん」
「そうだね。一緒にレッサーパンダが見られるんだよ!?」
 そう二人に詰め寄られると、その向こうでヤヨイが「アライグマ」と呟いている。
 正直、その動物たちを見て何が面白いのかは分からない。それはオリンピックスタジアムに行っても同じことだろう。
「んじゃシンジ、また後でな」
 コウキがシンジの頭をぽんぽんと撫でる。子供扱いしないでよ、と少し反抗的なところを見せるとコウキが笑った。
 そして先に動物園組がリムジンに乗って出ていった。
 それを見送ってコウキが「やれやれ」と肩を竦める。
「どういうつもりだ」
 ──と、そのコウキに向かって話しかけたのは、普段無口なカズマであった。
「何がだ?」
「碇のことだ。お前、何が目的で近づいている」
 次のリムジンがすぐにやってくる。だが扉が開いても、そこに残っていた四人──カズマ、コウキ、トウジ、タクヤの誰も入ろうとしなかった。
「まずは乗ろうか」
 タクヤが促すとカズマが先に入る。そしてトウジも入り、コウキが肩を竦めた。
「サンキュ、タクヤ」
「いや。これからだよ」
 タクヤはにっこりと笑ってコウキを見た。
「僕も、どうして君がシンジくんにこだわっているのかを知りたいから」
 そうしてタクヤが先に入る。
「やれやれ」
 コウキは、嫌な組み合わせになったもんだ、と思いながらリムジンに乗り込む。
 リムジンの中はグラスなども置かれていて、ジュースが飲めるようになっている。リムジンが出発してから、タクヤが全員の分のオレンジジュースを注ぎ、査問態勢が整った。
「じゃ、カズマくん、どうぞ」
「……コウキには聞きたいことがいくつかある」
 少し毒気を抜かれた感もあったが、むしろタクヤの方が積極的に話を進めた。
「前に碇が佐々に攻撃されていたときもお前は碇をかばっていた。それどころか俺たちを使って佐々を成敗することまでした」
「そりゃシンジは俺のダチだからな」
「それを信じているのは、碇だけだろう」
 はっきりとカズマが言う。トウジが「どういうことや?」と呆けたことを言うので、カズマはかまわずに進めた。
「お前は碇のことなんか何とも思っていない。榎木や鈴原が碇を思っているような友人としての関係などない。お前は、全く別の理由で碇に近づいている。そうだな」
「おいおい、突然何だよ、いったい」
「お前の態度からは、碇に対する情というものが感じられない」
 断定する口調にコウキは肩を竦める。
「榎木。お前はどう思う」
「まあ、朱童くんの言っていることは僕も気になってたけどさ」
 あくまで挑発的なカズマに対し、タクヤはいつでも笑顔だ。だが、その笑顔は相手に対して妥協を許さない、冷厳さすら感じる。
「僕はもっと感じ方が違うかな。野坂くんは、碇くんに仕方なく──もっと悪く言うと、厭々かまっているような感じすらある」
「そ、そうなんか?」
 会話に入ってこられないトウジは完全に蚊帳の外だ。
「そりゃひどいぜ、二人とも」
「お前のその態度が全てだ。もしお前が本当に碇のことを思っているのなら、ここは怒るところだろう」
「そうだね。僕も知りたいな。それはもしかして、君の過去の経歴が抹消されていることと、何か関係があるんじゃないのかい?」
 コウキの眉がぴくりと動く。
「野坂くん。どうして君は、僕に『碇くんの友達になってほしい』って頼んだの?」
「そ、そんなことしてたんか」
 トウジが驚く。カズマも初耳だったらしく、目を細めてコウキを注視する。
「あのときは佐々くんの件があったから僕もそれ以上のことを考えたことはなかった。でも、今考えると少しおかしい。どうして君はそこまで碇くんのことを気にしなければいけないのか。それに何か理由があるのなら」
「あのな。お前らが相手だから笑い話ですますが」
 コウキは苦笑しながら答える。
「十三年の九月組は、それなりに信頼関係があるんだよ。仲間がやられてたら助けるのは当然だろ?」
「お前は碇を仲間だと判断していない」
 カズマが断定する。
「何故、そう思う?」
「お前は誰かを友人に思うような精神をしていない。それはここにいる俺や榎木に対してもそうだ。お前にとって全ては、お前個人とその他全員。その二つに分けられている」
「あのなあ」
 さすがに困ったコウキはどうしたものかと腕を組んだ。
「そう判断されるのは癪だがな。まあ確かに俺の態度を見てればそう感じられるのかもしれないけど」
「仲間だとか友達だとか、そういう関係じゃない。もっと別の何かがある」
 コウキの言葉を遮ってタクヤが言う。
「だったら何だっていうんだ?」
「野坂くんは碇くんのためになることをしているのには違いないんだろ?」
「そうでなかったら酷い男だぞ、俺」
「だったら野坂くんが碇くんにこだわる理由が知りたい。そうすれば僕たちだって協力できることがきっとあるはずだ」
 タクヤの言葉にカズマは首をひねる。
「俺はそこまで考えていたわけではないが、あいつは誰よりもシンクロ率が高い。あいつを守らなければならないという意見には賛成だ」
「だから格闘訓練で鍛えようとしたってことか? そのかわりにトラウマ引き起こして倒れてりゃ世話ないだろ」
 沈黙が下りる。コウキとカズマが睨み合う。
「ま、まあまあ、待てえな」
 トウジがその間に割って入った。
「とにかく話をまとめると、カズマとタクヤは、コウキがセンセのことをダチと思っていないはずだって考えとる。でもコウキはセンセのことダチやて思てんのやろ?」
「当たり前だろ」
「まあ、ダチかそうでないかはあまり他人の前で言うもんじゃないのはよう分かる。だがな、ワシなら言えるで。センセはワシにとって大切な友人や。センセが困っとるなら助けてやらなあかん。コウキは本気でセンセをダチやと思っとるのか?」
「ああ。まあ、友人というよりは、仲間、かな」
 コウキは肩を竦めた。
「確かに何の関係もなければ、俺はシンジのことなんか目もくれなかっただろうな。だが俺は、あいつを助ける。何があってもな」
 その言葉には真剣味があった。だからカズマもタクヤもそれ以上を追及することはできなかった。
 ただ、シンジのことを語るコウキの様子が、友人や仲間という言葉以上のものを感じさせたのも事実だった。
「僕は碇くんとはいい友達になれると思う。それに今度、一緒に料理とかしてみたい」
「俺はあいつを見ていると苛々する。シンクロ率が高いのに、その意識がまるでない。もっと訓練すればあいつは誰よりもエヴァをうまく操縦することができるだろう。それなのにその意識がない。だから苛々する」
「朱童くん」
「だが、俺たちが生き残るには碇シンジの力が必要だ。俺たちだけじゃない。きっとこの世界にとって碇シンジという個体は必要とされている」
 カズマがそう言うと、誰も何も答えられなくなった。
 だが、彼のシンクロ率を見るとそうとしか言えない。世界で三番目に高いシンクロ率。しかも、たった一ヶ月でシンクロ率五〇%。これは過去誰も達成したことのない数値だ。
「あいつを鍛えなければいけない。射撃も格闘も戦術も」
「だからお前、あいつのことかまってたのか。知ってるぜ。シンジがランクBになって最初のシミュレーションのとき、お前、シンジを直接指名しただろ。あいつ気付いてなかったみたいだけど」
「気付いていたのか」
「ああ。さすがのランクA最古参の朱童カズマをしても、あのシンクロ率は気になったみたいだな」
「最初の数値で四〇%を超えたんだぞ。気にしない方がおかしい」
「分かってるさ」
 コウキは両手を開いた。
「だけどな、カズマ。そんな高いシンクロ率を、あいつは求めてるわけじゃないんだ。お前と違ってな。お前の価値観をあいつに押し付けるな」
「分かっている。あいつが好んで適格者をしているわけではないのは。だが、強制されたにしろ何にしろ、あいつはもう適格者なんだ。そしてこの世界で最も注目される存在となってしまった。それを意識しないようにしたところで何の意味がある」
「俺はできるだけ、あいつをそういう目からかばってやりたいと考えている」
 コウキが真剣に言うとカズマが目を逸らした。ならば言うことは何もない、ということなのだろう。
「じゃあ、最後に僕の質問に答えてもらおうかな」
 笑顔の絶えないタクヤの質問は脅威ですらある。
「野坂くんは、ネルフに来る前は何をしていたの?」
「何を?」
「何故か内閣総理大臣と知り合いだったりするし、野坂くんがこだわっている碇くんと同期だったりするし」
「何が言いたい?」
「こう見えても僕は判断力、分析力はAランクなんだけどね。野坂くんは碇くんと同期だから仲間なの? それとも碇くんの仲間になるために同期になったの?」
 その、質問の意味は。
「……タクヤ。お前、何を知ってる?」
「知っているのは野坂くんの方だよね。僕は何も知らない。ただ、碇くんのために行われた二年前の『ある実験』に、僕の母さんが立ち会っていたっていうことくらいだよ」
「あの実験にお前の母が!?」
「──やっぱり、そのことを知っていたんだね、野坂くん」
 笑顔が消える。しまった、と舌打ちする。
「知っていたといっても、ネルフに入った後のことだけどな。美坂の奴からある程度の話は聞いていた。お前、そのことでシンジを──」
「最初から知ってたよ。だから友人になれるかどうかは本人を見なければ何とも言えないと思った。だから自分で確認したんだけどね。あの実験は碇くんには何も関係がない。だから僕が恨むことはないよ。ただ──」
 ただ。その後に潜む条件。
「僕の母さんや、美坂さんの妹さん、それに君。いろんな人が碇くんのために命をかけている。その理由がいったい何なのか知りたい。野坂くんは、ネルフに来る前は何をしていたの? 過去の経歴が抹消されているのはどうして? 内閣総理大臣と知り合いだったのは?」
「全部説明してたら日が暮れるぜ」
「かまわないよ。別に僕はオリンピックスタジアムなんてどうでもいい。君から話を聞く方が重要だ」
「その前に聞きたいんだが」
 コウキは一旦話を区切る。
「何だってまた、このタイミングで聞き出したんだ?」
「それは朱童くんがちょうど話を始めたからだけど、それよりも一昨日の話が一番かな」
「一昨日?」
「うん。碇くんと話していたときに、僕の母さんの話になって。碇くんも知っているみたいだったけど、それはきっと美坂さんの件が絡んでいると思ったから追及はしなかった」
「そっか。あいつにこれ以上負担かけたくなかったからな。助かる」
「でも、君が答えてくれないんだったら、君が大切にしている碇くんに直撃で言うけどね。君のせいで僕の母さんが死んだって。それでもいいのかい?」
「やるつもりもないくせによく言うぜ」
 コウキが笑って言う。
「だが、そうだな。お前らは信じられる相手だし、シンジを守るっていう意味なら少しは教えておいた方がいいかもしれないな」
 コウキは少し考えるようにした。
「そのかわり、誓え。これから俺が言うことを聞いた以上は、自分の命よりも碇シンジの命を優先するということを」
「な、なんやて!?」
 トウジが頓狂な声を上げる。それもまあ、当然のことではあるが。
「つまり君は、自分の命よりも碇くんの命を大切にしているっていうことなんだね」
「その通りだ。さて、どうする? ここから先を聞きたい奴は、自分の命を担保にしてもらうぜ?」
 コウキが言うと、三人は押し黙った。
「ま、決心がついたら聞きに来てくれ。いつでも歓迎するぜ」
 そうして、長い四人の会談は終わり、リムジンはオリンピックスタジアム前に到着する。
 だが、そこを楽しんで見学するような気持ちは、四人の中には全くなかった。






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