三月二二日(日)、午前十一時。
ネルフ本部、第七ケイジ。
全ての作業は完了。作業員は退避済み。
その中に一人と一体。
エヴァンゲリオン、零号機。
エントリープラグ内。
ファーストチルドレン、綾波レイ。
(いよいよね)
技術部から実験に参加しているのは、リツコのブレーンである伊吹マヤ、加賀ヒトミ、高橋シズカの三人。そして上層部の碇ゲンドウ、冬月コウゾウ。
世界の命運をかけた対使徒決戦兵器エヴァンゲリオンが、ついに起動する。
本来、四月に入ってエヴァンゲリオンがランクA適格者全員に支給された後、最初の日曜日にこの起動実験を行う予定だった。
それが突然の変更。
(上層部で何があったのかは知らないけど)
レイの心拍数は安定している。
「零号機の起動実験、開始します」
リツコの宣言と同時に、オペレーターたちが動きはじめる。
「シンクロスタート」
零号機の単眼が、赤く輝いた。
第参拾捌話
Go to the zoo!
茶臼山動物園。
二〇〇八年の東京襲撃の際、かろうじて存続していた上野動物園が閉鎖。まだ生き残っていた動物たちも全て茶臼山に移送されることとなった。北海道の旭山動物園、第二新東京の茶臼山動物園、この二つが名実ともに日本最大級の動物園だ。
この茶臼山動物園では、セカンドインパクトをも乗り切った天然記念物の動物たちをたくさん見ることができる。人気があるのはやはりレッサーパンダやニホンカモシカといった、以前から茶臼山動物園の顔として知られている動物たち。毎日多くの観光客が訪れ、休日の日曜日は多くの親子連れが見られる。
(この中で警備をするっていうのも大変なんだろうな)
警備の訓練もかねているということなので、できるだけ自由に、あちこち歩き回ってほしいということだったので、遠慮はしないことにした──というより、はじめからカナメとレミは容赦も遠慮もなかった。
「シンジくん、向こう向こう! シャッターチャンスだよ!」
「かわいいっ! こっちこっち! シンジくんカメラ撮って!」
──すっかりこの二人のカメラマンと化したシンジがそこにいた。
そして気付けばアライグマのエリアからじっと動かないヤヨイ。こちらはもう完全にはぐれてしまっている。きっと一周して戻ってきてもまだそこにいるのだろう。何故アライグマなのかは不明だ。
「やっぱり茶臼山だよねー。一度来てみたかったんだ、ボク」
レミが『満喫』と顔いっぱいに表現しながら言う。
「私も。旭山動物園とかも行ってみたいんだけどね。ほら、アザラシとか見られるっていうし」
「ボクもボクも。ホッキョクグマとか泳ぐんだよね!」
と、女の子二人の会話にシンジが口を挟む隙はない。
(オリンピックスタジアムの方が良かったかな)
はあ、とため息をついたシンジがきょろきょろと周りを見る。既にアライグマスペースからは遠く離れてしまっている。まあ、自由行動なわけだし、自分も別にカナメやレミと一緒にいなければならないわけではない。この動物園から出なければそれでいい。
「シンジくん、楽しんでる?」
「え、あ、うん」
突然話を振られてそのまま頷く。そうするとカナメはにっこり微笑んで「嘘つき」と言った。
「え?」
「話に入れなくてつまらない、って顔してる」
「そうかな」
「うん。ごめんね? 私たちばっかりで盛り上がっちゃって」
そうしてカナメは自分の腕をシンジの腕にからめた。
「レミちゃん! 私たち、一枚撮ってくれる?」
「うわー、らぶらぶだー」
「あはは、ありがとー」
女の子の香りがする。体温が腕を通して伝わる。
心拍数が、一気にはねあがる。
「あれ、シンジくん、緊張してる?」
「そ、そりゃするよ」
「大丈夫」
カナメは笑って言う。
「私もそうだから」
とてもそうは見えないが、カナメは笑顔でレミのカメラにVサインをした。
(……何なんだろ)
カナメの態度がどこまで本気なのか分からない。自分のことを見てくれるのは嬉しいが、あまり心を許しすぎると裏切られそうな気もして怖い。
「あ、そういえばヤヨイちゃんとはぐれちゃったね」
レミが言うと、そういえば、とカナメも気付く。
「じゃあ、僕、ちょっと探してくるよ」
シンジがそう言って二人から離れる。
「あ、私たちそれじゃあニホンカモシカの方に行ってるから。場所分からなかったら携帯で連絡ねー」
「うん、分かった」
そうして二人が走っていく。やれやれ、とシンジはまたため息をついた。
何をしているのだろう、自分は。
ずっと住んでいたところから離れて適格者になって、シンクロ率が高いというだけで何のとりえもない自分が世界を守るために戦うなんていう運命を与えられている。
そのくせ、訓練とかをするわけでもなく、動物園をのんきに見学なんかしている。
まあ、休みがないというのは息がつまるし、危険に応じた給料も出ている。文句のある立場というわけではないのだが。
(そういえば保安部の人を見かけないけど、本当にガードしてるのかな?)
ガードされている対象が気付かないようにするのがセオリーだ。とはいえ、全く黒服を見かけないのは正直不安もある。
きょろきょろと黒服の姿を探すが、やはり見当たらない。その辺りはプロ、ということか。
「探し物?」
と、突然声がした。
振り返ると、そこに小さな、外国の女の子がいた。
「え」
「探し物? 一緒に探してあげようか」
真っ白で長い髪に、真っ白で透き通っている肌。大きな目。
一目で虜にされてしまいそうな、本物の美少女の登場だった。
「え、いや、そういうわけじゃ、ないんだけど……」
つい語尾が小さくなる。そうすると少女は、くすっ、と笑ってシンジの手を取る。
「お兄ちゃん、一人?」
「え? あ、いや、他にも一緒に来ている人がいるんだけど」
「そっか。じゃあ、はぐれちゃったんだ」
というよりはぐれた相手を探しに行くところなのだが。
「じゃあさ、私も一人だから、それまで一緒にいてもいい?」
「え」
「ダメ?」
これほどの美少女からおねだりされては、健全な中学生としては断るのは難しい。いいけど、とシンジは思わず了承してしまっていた。
「やったー! じゃ、あっちあっち。見たいのがあるんだ!」
と、少女はカナメたちの方とも、ヤヨイの方とも別の方向へ向かって歩みだした。
(偶然かな)
少女がわざと自分を他の三人から遠ざけようとしている、など。
(考えすぎか)
まさかこんな女の子が自分に何かしようとは思わないだろう。それに保安部もいることだ。危険なことはないはず。
そうしてシンジはその名前も知らない女の子に連れまわされることになった。
「あ、これこれ! レッサーパンダ!」
それは先ほどまでカナメとレミが見ていたものだった。一度見ていたのでシンジとしてはさほど感慨を抱くわけではない。
「可愛い〜♪」
そう言って笑う少女の方が可愛かったが、それは言わないでおく。
「君は一人って言ってたけど」
シンジは隣にいる少女に話しかける。
「家族と一緒とかじゃなかったの?」
「うん。家族、いないもの」
笑顔を絶やさずに言う。
「いない?」
「うん。シンジと一緒だよ」
悪寒が走る。
何故、自分の名前を知っているのか。
「どうして」
「気付かなかったんだ。そうだと思ったけど」
すると、女の子は小悪魔の笑みを浮かべて、人差し指を自分の唇に持っていく。
「私がシンジのことをどうして知っているか、知りたい?」
──怖い。
何か、自分の全てがこの少女に悟られているような気がして、怖い。
「君は」
「私は──」
その、直後。
近くで、突然見知らぬ男が倒れた。
「ぐ、う……」
その男の手から落ちたのは、ナイフ。その手から血が流れている。
「な、なんだ」
シンジは驚くが、女の子はつまらなさそうな表情で呟いた。
「せっかくのデートを邪魔するなんて、無粋なのね」
唇を尖らせてそのナイフを落とした男を見る。すぐに二人のもとへ黒服と──見知った顔が駆け寄ってきた。
「よう、シンジ」
武藤ヨウ教官であった。
「あ、ありがとうございます」
それで状況がようやく把握できた。つまり、今自分はこの男に狙われて、それを影からヨウが助けてくれた、ということだ。
「僕が狙われたんですね」
黒服によって連行されていく男を見ながらシンジが言う。
「まあな。俺がガードしてたのはそっちのお嬢ちゃんなんだが」
だが、ヨウは肩を竦めて答えた。
「なにしろ今日のお前のガードは俺じゃなくて、保安部だからな」
「ふうん。ヨウってば、結構腕が立つのね」
完全に機嫌を損ねた様子の少女がヨウに向かう。
「でも、お礼は言っておくわ。ありがとうございます。せっかくのデートが台無しになっちゃったのは、あなたの責任じゃないし」
「そう言ってもらえると助かるな。イリヤ」
「イリヤ?」
彼女の名前だろうか。聞き返すと、ヨウが不思議そうな顔をした。
「なんだ、シンジ。お前、この子知らないのか」
「そうなの。シンジったら、仮にも先輩である相手に対して失礼だと思わない?」
「先輩?」
何だろう、この自分だけが取り残されている感覚は。
「まあいいわ。自己紹介、しておくわね」
美少女はにっこりと笑うが、それはやはり小悪魔の表情だった。
「はじめまして、シンジ。私はイリヤスフィール・フォン・アインツベルン。ドイツ系だけど国籍はロシア。適格者ランクはA」
「ランク、A?」
「そう。お兄ちゃんの噂を聞いて、どんな人なのか会ってみたくなって、来ちゃった。よろしくね、お兄ちゃん」
「短期滞在だから、一週間もしないで本国に戻るがな」
付け加えるようにヨウが言う。
「もー、ヨウってば、余計なことまで言わなくてもいいのっ!」
ぷん、と頬を膨らませてそっぽを向く。仕草はどこまでも女の子なのだが、時折年齢にそぐわない雰囲気をかもし出す。
「じゃあ、イリヤは僕に会いにきたの?」
「うん。だって、世界で三番目に高いシンクロ率を、いきなり出しちゃったんでしょ? 気になるじゃない、やっぱり。ドイツのアスカだって四〇%になるまで随分かかったっていうし」
「アスカ?」
聞いたことのない名前がまた出てくる。その様子を見たイリヤが不満そうな表情を見せた。
「もしかして、全ネルフのエース、アスカ・ラングレーを知らないの、お兄ちゃん?」
「ごめん」
はあ、とイリヤはため息をついた。
「もう、仕方ないなあ、お兄ちゃんは。それとも才能があると他の人は目にはいらないのかしら」
「そういうわけじゃないけど」
「ま、いいわ。アスカより先にお兄ちゃんに会うことができたし」
そうやって話をしていたシンジたちのところへ黒服の代表、剣崎キョウヤがやってきた。
「申し訳ありません。お二人を危険な目に合わせてしまいました」
キョウヤが礼儀正しく頭を下げる。シンジが答えられずにいると、イリヤがこほんと咳払いをする。
「いいわよ。ヨウが助けてくれたし、キョウヤが他にもたくさん任務を抱えているのは知っているから。ただ、一番の仕事はシンジの護衛なんでしょ? 気をつけてね」
「申し訳ありません」
黒服のキョウヤは表情も声色も変えずに頭を下げる。どうにもこのイリヤという少女の方が立場が上のようだ。
「ヨウ様も、ありがとうございました」
「ああ、気にしないでいいぜ。今日の俺の任務はこっちの嬢ちゃんの護衛だからな。俺は俺の任務を果たしただけさ。で、さっきの奴、どこのだ?」
「詳しくは調べてみないことには分かりませんが、所持品などからおそらくはアメリカかと」
「ペンタゴンか、それとも」
「CIAの方でしょう」
ペンタゴン──アメリカ国防総省。CIA──アメリカ中央情報局。
どちらの名前もシンジには詳しくは分からなかったが、聞き覚えのある単語ではあった。
「やれやれ。キナ臭くなってきたな。あんまり適格者を出歩かせない方がいいかもな」
さて、とヨウが話を切り上げる。
「どういうことなんですか」
「お前が気にしても仕方がないことだ。俺たちに任せときな。さ、向こうでヤヨイ嬢が待ってるぜ。さっさと行ってやれ」
アライグマの方を顎で示してヨウが言う。釈然としないものを感じながらもシンジは「分かりました」と答えた。
「行こう、イリヤ」
「うん、お兄ちゃん」
イリヤはぱっとシンジの手を取る。その手からぬくもりが伝わってきた。
「ねえ、シンジ」
下から小悪魔が見上げてくる。
「今の話、どう思う?」
「どう、って」
「シンジや私が暗殺者に狙われてるって聞いて、どう思うって聞いてるの」
ぞく、と背筋が震える。
暗殺。そう、確かに今自分は暗殺される危機にあった。そうとも知らず、のんびりと動物園見学などをしていた。何も知らないままに。
「どうして僕が狙われるの?」
「簡単に言えば、派閥争い」
イリヤは当然、というように言う。
「派閥?」
「そう。シンジは本部の切り札でしょ? 今じゃ支部はシンジをどうするかっていうことで一生懸命なんだもん」
「どうするって……」
「殺すか、それとも本部から奪って味方につけるか」
「ちょ、ちょっと」
どうしてそうなるのだろう。同じネルフ内部なのに。
「今まで本部は適格者こそ多かったけれど、アメリカやドイツ、オーストラリアに一歩譲るところがあった。それは決定的なチルドレンが綾波レイ一人だったから。本部の適格者でシンクロ率三〇%を超えているのは綾波レイと朱童カズマだけ。世界には三〇%を超えるシンクロ率を持つ適格者はまだまだいる。問題は四〇%を超えるかどうか。この域に達しているのはドイツのアスカと、オーストラリアのもう一人。それと、シンジだけなんだよ」
「それで?」
「四〇%のシンクロ率を持たないアメリカとロシアが問題。ロシアはシンジを取り込もうとしているけど、アメリカはシンジを殺そうとしているみたいね」
困ったものね、と言わんばかりにイリヤが腕を組む。
「うぬぼれるわけじゃないんだけど」
「うん」
「僕を殺して、それから使徒と戦うつもりなの?」
「そうよね。アメリカってその辺り、頭が悪いと思うわ。シンジが邪魔だっていうんなら、使徒戦を生き延びてからの話だもの。その前にシンジを取り込んじゃう方がずっといいのに」
イリヤは笑って腕を組んでくる。
「だから、私が来たの」
「……え?」
「ロシア本国から、シンジを取り込めって」
にこにこ笑いながら言う。
「言っていいものなの?」
「さあ? 言うなとは言われてないし」
どこまで本気なのか、イリヤは笑うだけではぐらかす。
「私は別に、本国がどう考えていてもどうでもいいんだ」
イリヤが腕を解いて少し離れ、手を後ろで組んで少し前かがみになる。
「私はお兄ちゃんに会ってみたかった。日本に来たのは本当に、それだけが理由なんだよ」
そして極上の笑みを見せる。
もちろん言われて悪い気はしないが、その笑顔の裏でいろいろなことを考えていそうな美少女。
シンジは自分の頭を整理することがまるでできなかった。
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