「やはり、早まるか」
 ゲンドウは手にしたスケジュールを見ながら確認する。
「うむ。当初は八月だったが、二ヶ月早まったな」
「準備は」
「そのために起動実験の日程を繰り上げたのだ。問題あるまい」
 冬月もまた同じものを見ながら答える。こうした日程の調整を行うのは自分の役目だ。
「使徒を倒さねば未来はない。何を犠牲にしてもかまわん。使徒撃退のスケジュールを最優先にしろ」
「分かった」












第肆拾参話



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 三月二七日(金)。テスト二日目。

 昨日の数学、社会、国語に続いて本日は英語、理科。一年生のテスト範囲は地学分野の大地と化学分野の気体。そして英語は過去形と現在進行形が中心となる。
 英語はさほど難しくない。進行形は出題のパターンが決まっているし、過去形といっても不規則変化は二年生になってからだ。リスニング問題さえ気をつけておけば高得点が可能。問題は理科。酸素の作り方がどうだろうが二酸化炭素の作り方がどうだろうが、社会生活で一ミリも使わない知識を学習するのはある意味苦痛だ。
 それでもテストに出やすいところをしっかりと勉強してきたシンジにとってはさほど難しくない問題だった。斑状組織とか等粒状組織とか、火山岩とか深成岩とか、石英とか黒雲母とか、地層とか、テストに出やすそうなところは一通り頭に入っている。
 地震のグラフを使った問題も難しくはない。横揺れのP波と縦揺れのS波が到達した時間の差、それに震央からの距離とを比較して地震の発生した時間を求める。さほど苦労する問題ではない。
(だいたいできたかな)
 試験時間を十五分余して全ての問題を解き終える。周りはまだ集中して問題を解いているようだ。
(今回はいい成績が出せるかも)
 五科目ともそれなりに自信がある。結果発表は来週。こうした自分の力が正確に判定されるのは嬉しい。シンクロ率やハーモニクスだと、どうしても自分の力という感じがしない。
「はいそれまで。答案用紙を伏せて、後ろから前に回してください」
 時間が過ぎて答案用紙が回収されていく。このあとの三、四時間目、そして午後からのテストも全て今日は休みだ。つまり今日は残りの時間を自由に使えるのだ。
(どうしようかなあ)
 といっても何もすることがなければ、一日中部屋にこもって音楽を聞くか、気がむけばチェロを弾いたりするくらいだ。特別何かということはない。
 シンジが講堂を出て移動していると、後ろから突然肩を叩かれた。
「どうだった、シンジくん?」
 カナメだった。シンジより二センチ高い彼女が自分の顔を覗き込んでくる。
「まあまあ」
「シンジくんのまあまあは、私の快心の出来より上なんだろうなあ」
 あはは、とカナメは笑った。
「前はどうだったの?」
「あまりそういうことは聞かないの」
 少しお姉さんぶって答える。まあ、あまりよくなかったのだろう。
「この後、シンジくん暇?」
「え、うん」
「じゃあ、ちょっと付き合ってくれないかな」
「いいけど、何?」
「ちょっと街まで。ショッピング」
 買い物。というと、デパートとかに行ったりするということだろうか。
「僕でいいの? レミとかの方が」
「シンジくんじゃないと困るんだ」
 そう言われると仕方がない。分かった、と頷く。
「じゃ、着替えて十一時に玄関集合ね」
 そう言ってカナメは元気よく走り去っていく。
(十一時?)
 現在十時四五分。
(ちょっと、急だよそれ)
 シンジも走り出した。






 結局十一時三分に集合した二人はそのままバスに乗って街へ。その間もカナメが『あの問題が難しかった』とか『昨日のは全然駄目だった』とか、テストでできなかったことばかりを言ってくる。
「シンジくんはできた?」
「あ、うん。リスニングの問題は全部疑問詞の質問だったから、答え方さえ間違わなければ大丈夫」
「そっかぁ。私、早くて全然聞き取れなかった」
「リスニングも練習がいるからね」
「シンジくんはどうやって練習してるの?」
「外国の歌とか聞いたり」
「なるほど。普段から聞きなれてるってことか。洋楽とか好きそうだもんね」
 隣に座るカナメがまじまじとシンジを見てくる。美人のカナメにこうして迫られるとさすがに動揺する。
「あ、次だね」
 カナメが立ち上がって、シンジも立ち上がる。
 その何気ないやり取りに、今日自分が呼ばれた理由がわかったような気がした。
 それから二人は先に食事を終わらせてから買い物を始めた。
 服はどっちの方が似合うか、ということを尋ねられたときは困った。だが、ゆっくりと考えて選ぶと、カナメは嬉しそうにそれを買った。いつものオレンジよりも少し薄い色の半袖カットソー。本当にカナメにはよく似合っている。
 CDショップにも足を運んだ。シンジのオススメのCDを聞かれて、サラ・ブライトマンのベストアルバムを紹介した。ミュージカル『オペラ座の怪人』で有名な彼女だが、他にも有名な曲が入っている。初心者にも優しい選曲だ。
「シンジくんって、いろいろなことを知ってるんだね」
「そうでもないよ。物知りっていうんだったら、多分コウキの方がずっと詳しいし」
 午後三時になって二人は休憩をとった。
 今度はカナメの方がオススメの場所があるということで、デパートの中にある喫茶に入った。紅茶が美味しいということで、二人ともケーキセットを注文した。
「今日は本当に僕でよかったの?」
「うん、楽しかった。シンジくんのいろいろな面が見られたし」
 そうして少し会話が途切れる。
 二人とも黙々とケーキを食べる。
 だが、そのケーキの味がシンジには分からなかった。この後に何があるのかが分かっていて、それどころではなかった。
「どうしよう」
 カナメは食べ終わってから、困ったように言った。
「何が?」
「私、シンジくんのことが、本当に好きみたい」






 多分、そういう話なんだろうな、とは思っていた。
 カナメは確かに美人だし、可愛い。こんな人に好かれているのは光栄だと思う。
 あれこれ会話するだけでどきどきさせられるし、何より好意を持ってもらえることが嬉しい。
 ただ、カナメが一生懸命自分のことを思ってくれているのに対して、自分はそこまでカナメを思っているのかと言われると、答えはNOだ。
 女の子が特別好きということはない。カオリやセラのときのように、好きだと言われてもそれに応えることができるのだろうかと思うと不安になる。
(綾波)
 突然、彼女の顔を思い出した。
 自分が一番大切に思っている人がいるとすれば、それは綾波だろう。
 だが綾波と恋人になりたいと思っているかといわれれば、それもまたNOだ。
 ずっと一緒に過ごしてきた相手だから、家族としての感情の方が強い。お互いがお互いをしばることなく、ただずっと一緒に時間を過ごすことができる相手。
 綾波のように、安心して一緒にいられる相手が、自分の好きなタイプなのではないだろうかとも思う。
 ではカナメはどうだろうか。
 もちろん嫌いというわけではない。一緒にいると楽しい。女性としての魅力はもちろんあるし、惹かれている部分があるのも確かだ。だが一方で、一緒にいて疲れるんだろうなという気持ちもある。今日みたいに何度も引っ張りまわされると、それはそれで大変だという気持ちもある。
 女の子と付き合うということに興味もある。一方でこんな気持ちのまま相手に応えるのは不実だという考えもある。






「ご、ごめん。困らせちゃったね」
 行こうか、とカナメが立ち上がった。シンジは何も言わずに立ち上がる。
 会計を終わらせたが、二人はまだ無言だった。
 そのまま二人はネルフ行きのバスに乗り、一緒に座る。他に乗客はいなかった。
 二人だけの貸切バス。
 それでも、シンジはまだ迷っていた。どう応えればいいのか分からなかった。
 そのとき、ふと、二人の指先が触れ合った。カナメが思わず手を引っ込める。
 その彼女の顔が、真っ赤に染まっていた。
(可愛いな)
 素直に、そう思った。
 こんなに可愛い子と一緒にいられるのなら。

 付き合っても、いいのかもしれない。

 シンジはもう一度手を伸ばして、カナメの手を取る。そして、優しく握った。暖かかった。
「し、シンジくん……?」
「僕で、いいの?」
 カナメの表情が変わって、その大きな瞳からぽろぽろと涙が零れた。
「うん」
「それじゃあ、これから、よろしく」
「うん」
 二人はネルフに着くまで、ずっと手を握り続けていた。






「碇」
 総司令室に冬月がやってくる。いつもの格好で腕を組んでいたゲンドウが「ああ」と答えた。
「よくない知らせだ。シンジくんが、女の子と付き合うことになったそうだ」
 サングラスの奥の目が険しくなる。
「何だと」
「相手は同じランクAの美綴カナメ。シンクロ率は本人たちの精神状況がそのまま反映されるからな……これからどうなるか、不安要素が増えたということだ」
「レイはどうしている」
「まだ何も言っておらんよ。まだこの件は本人たちの他、我々と剣崎しか知らん」
「……」
 ゲンドウはしばらく考えてから言った。
「一週間は好きにさせてやれ」
「一週間?」
「それだけたてばドイツ行きだ。美綴カナメはドイツメンバーから外しておけ」
「どうするつもりだ、碇」
「それなりの処分をする」
「分かった。まあ、本人が聞き分けてくれるのが一番なのだがな。もし聞き分けなかったら」
「そのときはやむをえん。人類と一人の命。どちらが重いかは誰にでも分かる。今はシンジのシンクロ率を落とすわけにはいかないのだ。ここまで計画通りに来ている。こんなところで障害につまづくわけにはいかん」
「分かった。乗りかかった船だ。ここまで犠牲がなかったわけではない」
 もっとも、今までの犠牲は全て大人のものだった。二ノ宮セラのような例外はあるが、自分たちから犠牲を子供に求めたことは一度もない。
(美綴カナメか。シンジくんを好きになったのは、不幸だったな)






 二人は帰ってきてから別れると、それぞれ自分の部屋に戻った。
 部屋の前ではコウキとヨシノが待っていた。どうやらまた食事をたかりに来たようだ。
「お、随分と遅い帰りだったな」
 まるで見透かされているかのような言い方に「どうだっていいだろ」と反抗的な態度を取る。
「話がある、シンジ。まずは入れてくれないか」
 コウキの真剣な様子に頷いて扉を開ける。そうして二人を中に招く。
「カナメと何があった?」
 単刀直入だった。シンジは顔をしかめて「関係ないだろ」と反発する。
「シンちゃん」
 ヨシノが少し困ったような顔で言う。
「コウキはね、あなたのことを心配してるのよ」
「でも、そんな言い方はないだろ」
「大有りだ。お前、カナメを二ノ宮の二の舞にするつもりか」
「え」
 一気に冷めた。セラの名前を出されては黙らないわけにはいかない。
「セラがどうして狙われたか分かっているか? それはお前のことが好きだったからだ。ネルフ内部ですらそんなことが起こる。ましてやこれから先、相手は俺たちの事情なんか考慮してくれない。それが分かっているのか?」
「じゃあ、カナメさんと付き合うなって言うの?」
「そうだ」
 コウキが真剣な表情で言う。
「使徒戦が終わるまででもいい。今は付き合うべきじゃない。そうしなければ二ノ宮と同じ、いや、最悪のことだって考えないといけないことになる」
「最悪?」
「殺されるってことだ」
「そんな。どうして僕と一緒にいるだけで」
「お前がそれだけ重要人物だからだ。美坂シオリの実験のことだって、お前は分かっているだろ。エヴァンゲリオンはある意味、お前を乗せるために作られたようなもんだ」
「だからって、僕が誰かを好きになることも許されてないのかよ!」
「俺に怒るな。俺は事実を言っているだけだ。だいたい、お前がカナメと付き合って一番困るのは誰か、教えてやろうか」
「何」
「碇ゲンドウ、お前の父親だ。総司令はお前をエヴァンゲリオンのパイロットにするために何年も前から周到に準備していたんだからな。こんなところで予定外の因子を入れたいはずがない」
「なんだよそれ」
「使徒戦が終わればお前は自由になれるんだ。だから、それまでは我慢しろ。どうせあと一年かそこらだ。そうしなければ、カナメは死ぬことになる」
「ふざけるな!」
「シンちゃん」
 ヨシノがなだめる。それからコウキの方を見て、少し黙ってて、と口を塞ぐ。
「コウキの言っていることは真実よ。冷静に考えて。シンちゃんは美綴さんを殺したい?」
「そんなわけ!」
「だったら、今回だけは私たちの言うことを聞いて。私たちだってシンちゃんを悲しませたくないし、美綴さんを死なせたくないの」
「父さんに黙っていれば、そんなの──」
「もう、バレてるのよ」
「え?」
「私たちがどうして美綴さんのことを知ったと思う? 総司令の部下である、剣崎キョウヤさんから教えてもらったからよ。キョウヤさんだって、子供を殺す役目なんて引き受けたくないから、私たちに何とかしてほしいってお願いしてきたのよ」
「……どうして」
「バレてるのかっていうんなら簡単だ。お前には随時黒服の見張りがついている。アメリカに狙われたばかりでお前をノーガードにするとでも思ってたのか? 甘いぜ、シンジ」
「でも、バスの中には他に誰もいなかった」
「バスの運転手はネルフの人間だ。第三新東京でネルフの目の届かない場所なんて、各自のプライベートルームくらいだぜ。まあ、ここだって下手したら監視されてるかもな」
「ちょ、ちょっと!」
「安心しろ。前に一度調べた。盗聴、監視の心配はない。さすがにプライバシーくらいは守ってくれてるみたいだな」
「だからって、安心できるはず」
「それは置いておけ。今は美綴の件だ」
 コウキはシンジに顔を近づける。
「カナメの命を大切に思うのなら、一年待て。一年だけ待ってくれれば、後は俺たちが何とかする」
「お願い、シンちゃん。私たちのことを仲間だと思ってくれるのなら、信じて」
 シンジは黙り込んだ。
 二人の言っていることがどういうことかは理解したつもりだ。だからといって、自分の意見を変えさせられるのは納得がいかなかった。
 自分が人を好きになることは許されないのか。エヴァンゲリオンに乗るのはそんなことも許してくれないのか。
「僕は、カナメのことが好きなんだ」
 そう答えた。
 それを聞いたコウキは顔をしかめたが、やがて「分かった」と答えた。
「後悔するなよ」
「……」
「じゃあな。明日のシンクロテスト、遅れるなよ」
「ちょ、ちょっとコウキ!」
 出ていくコウキをヨシノが追いかける。
 二人が出ていった後、シンジはテーブルの上で両手を組んだ。
(僕は、どうしたら)
 カナメと一緒にいたいと思う。
 そんなことも、自分には許されないのだろうか。






「ちょっとコウキ。大人気ない、あなたらしくないわよ」
「さすがに少しイラついたからな。もう大丈夫だ」
 コウキは大きく息をつく。
「それで、どうするの?」
「お前、シンジの泣くところ、見たいか?」
「え?」
 ヨシノは突然尋ねられて表情を変える。
「見たくないわね」
「だったら、俺たちで守るしかねえだろ」
 守りきれるかどうかは分からないけどな、と付け加える。
「お前がカナメのガードについてくれ」
「あら、そうなると私まで殺されるかもね」
「この状況でお前以外に頼りになる奴はいねえ」
「分かってるわよ。何があっても美綴さんは守ってみせるわ。キョウヤさんには何て?」
「報告しないわけにはいかない。だが、今回に限ってはキョウヤさんも敵になる可能性が高い」
「……それは、御免だわ」
 それは相手が悪い。単なる強さの問題ではない。キョウヤを相手にするということは、その裏にいるネルフ総司令、副司令を相手にするということと同意なのだ。
「全くだ。ったくシンジの奴、手間かけさせやがる」
 コウキの苛々するところなどそうそう見られるものでもない。ヨシノは少し苦笑した。
「あなたも人間だったのね」
「何?」
「そんなに感情むき出しにしてるあなたを見るのは初めてね」
「言ってろ」
 そうして二人は別れた。
 これからの行動が、適格者たちの運命を大きく変えることになる。失敗など許されなかった。






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