痛い。
 痛い。

 体が痛い。
 心が痛い。

 いやだ。
 やめて。

 私の場所を。

 返して。

 私の場所を。

 返して。












第肆拾漆話



Who can read the future?












 三月二九日(日)。

 全員が第七ケイジの様子をブースから見下ろしている。
 単眼のエヴァンゲリオン零号機に乗り込んでいるのは、ファーストチルドレン、綾波レイ。
 八人のランクA適格者と九人のガード。そしてミサトとリツコ。マヤたちオペレーターズ。
「エヴァンゲリオン零号機、起動実験開始します」
 マヤの言葉に、オペレーターたちが一斉に作業を開始する。
「これが、エヴァンゲリオン零号機」
 シンジが不安そうな表情で眼下の光景を見る。一度起動に成功しているとはイリヤから聞いた。だが、さすがに目の前で見せられるとなると不安も募る。
「大丈夫だよ、シンジ」
 隣にいたカナメが微笑む。
「レイさんは大丈夫」
「うん。ありがとう、カナメ」
 だが、不安はつきない。どうしてこんなにも胸騒ぎがするのだろう。
「ボーダーライン突破。零号機、起動しました」
 ほっと一息つく。ブースの中にようやく和んだ空気が生まれた。
「……シンクロ率、二九.三一八%」
「低いわね」
 あっさりとリツコが言う。確かに前回起動させたときもシンクロ率はさほど高くなかった。最大でも三四%までしか上がっていない。
(先週はそれでも三〇%ぎりぎりから始まった。となると、今日はもっと数字が落ちるわね)
 そんなことを適格者たちの前では言えない。何しろ先週の起動実験はランクA適格者には秘密にしてあるのだから。






 無事に起動をさせた綾波レイはゆっくりと目を開ける。
 エントリープラグの中からは自分のシンクロ率は分からない。だが、いつもより悪いというのは自分でも分かった。
『レイ、調子はどう?』
 先週と同じやり取り。
「問題ありません」
『分かったわ。あと三十秒したら右腕の拘束を解くから動かしてみて』
「了解しました」
 通信が切れる。そして、メインディスプレイに映る光景を見た。
 ブースから見下ろす仲間たちの姿。
 碇シンジ。
 そして、その隣にいる、玖号機パイロット。
(嫌)
 何故。
 何故、玖号機パイロットがその場所にいるのか。
 自分はずっと碇シンジを見てきた。
 碇シンジのためだけにずっと動いてきた。
 その場所にいるのは、自分でなければならない。
(どうして)
 意識が暗転する。






「シンクログラフ、反転!」
 マヤの叫びにリツコは目をむく。先週はうまくいったのに、何故。
「実験中止。強制的にシンクロをカット」
「カット、受け付けません!」
「電源落として。エントリープラグを射出」
「電源落としました!」
 背中の三極プラグが落ちる。これで零号機の活動限界は六二秒。
「エントリープラグ、出ます!」
 首元からエントリープラグが突き出て、発射される。そのままエントリープラグは上方の格納庫の部分に収まり、格納庫とケイジがシャッターで遮断された。
「綾波!」
 シンジは駆け出していた。エントリープラグがどこに射出されたかは当然分かっている。急いでいかなければならない。彼女の身に何かあったら、自分は。
 自分は。
 すぐ隣にエンとコモモが走っているのにも気付かない。ただプラグへと、格納庫へと急ぐ。
 自分のたった一人の家族。
「綾波!」
 何が起こったかなど、どうでもいい。
 とにかく今は、彼女の無事だけを。
「綾波!」
 格納庫に飛び込んだシンジはエントリープラグに駆けつける。冷却剤が発砲からそのエントリープラグにかけられている。今近づくのは危険だ。それは分かっているのにシンジはプラグに飛びつく。途端に冷却剤の放出がストップした。
「ぐぅっ!」
 取っ手を掴んだが、まだ熱い。火傷をする。だが、そんなことにも構わずに全力で扉をこじ開ける。
「綾波!」
 既にLCLは排出されていたが、足首くらいまでLCLが溜まっている。
 そして操縦席でぐったりとしているレイに近づいた。
「大丈夫か、綾波!」
「……碇、くん」
 レイは目を開けると、目の前で泣いている少年の顔を見た。
「どうして、泣いてるの」
「綾波が心配だったからに決まってるだろ。無事でよかった」
「私、暴走したのね」
 そして、ごほっ、と肺に残っていたLCLを吐き出す。
「大丈夫、綾波」
「ええ。碇くんが助けてくれたの?」
「僕は何も」
「そう。助けてくれたのね」
 何もしていない。だが、一番に飛び込んだのもシンジなら、熱されたハンドルを回して両手に火傷を負ったのもシンジだ。
「手、火傷しているわ」
「綾波に比べたらたいしたことないよ」
「私は大丈夫」
 レイは背もたれから体を起こして、シンジの手を取る。
「私のために」
「あ、うん。冷却剤が止まるのを待っていられなかったから」
「ありがとう」
「たいしたことじゃないよ。それに、昔の約束だっただろ」
「約束?」
「綾波に何かあったら、僕が守るって」
 レイはきょとんとした。
「覚えててくれたの」
「当たり前だろ。僕と綾波の、大切な約束だ」
「……玖号機パイロットのことしか考えていないと思っていたわ」
「カナメはカナメ。綾波は綾波だよ。確かに僕はカナメが好きだけど、綾波だってかけがえのない家族だって思ってるんだから」
「……ありがとう」
 そして、レイは微笑む。
 そう。シンジはずっと、この微かな笑顔を守るために生きてきた。彼女を守ることを自分に課して生きてきた。
『お前には守りたいものがあるのか?』
 今なら答えられる。
 守りたい。
 彼女を。
 自分のために傷つこうとする彼女を。






「無事のようだな」
 ブースから格納庫の様子を見ていたジンが言うと、最初に息をついたのはカズマだった。そして落ち着いた空気が流れる。
「それにしてもセンセ、かっこええなあ。傷ついた女の子を守るために飛び込んでったで」
「トウジ」
 隣のケンスケがたしなめる。それはこの場で言うことではない。
 何しろ、レイを助けるために飛び込んでいったのは、カナメと付き合っているシンジなのだから。
「カナメ」
 ヨシノが隣にやってきて手をつなぐ。そして小声で言った。
「大丈夫よ。シンちゃんは綾波さんよりあなたのことの方が大切なんだから。あれはシンちゃんの性分」
「……はい。分かってますけど」
 それでも、自分のことをまったく考えもしないで、別の女の子のところに走っていったという事実は事実だ。
(私が同じ目にあっても、シンジくんは助けに来てくれる?)
 確かに来てくれるのだろう。だが、あそこまで必死に自分を助けようとしてくれるだろうか。
 その自信はない。何しろ自分は押しかけガールフレンドだ。確かに好かれているとはいっても、自分がシンジのことを好きなくらい、シンジが自分のことを好きではないだろう。
 それよりも、ずっと一緒に暮らしていたというレイの方が比重が高いのは当然のことだ。
(大丈夫)
 まだ自分たちは出会ったばかり。初めて会ってから二週間しか経っていないのだ。
 これからいくらでも、愛情も思い出も作っていける。自分がシンジのことを好きであるかぎり。
「大丈夫です、ヨシノさん」
 ヨシノは笑顔を見せて頷いた。






 綾波レイはただちに病室に運ばれたが、検査の結果、精神汚染はないとのことだった。ただ、エントリープラグ射出の際に全身ムチウチとなり、全治二週間となった。
「どういうことですか」
 シンジは怒りを露にして発令所のリツコを問い詰めていた。後ろにはカズマと、二人のガードであるエンとダイチが控えている。
「先週の起動実験は成功していたはずなのに、どうして!」
 その言葉にリツコが顔をゆがめる。
「先週起動実験だと? それは本当か、碇」
 初耳だ、とカズマが尋ねる。シンジは大きく頷いた。
「一度成功しているのに二度目で失敗するなんておかしいじゃないですか!」
「その通りよ、シンジくん。確かに一度成功したのだから、二度成功する可能性が高いのは当然のこと。じゃあ聞くけど、シンジくん。百メートルの世界記録を出したランナーは、もう一度世界記録を出すことができる?」
 もちろん答えはNOだ。運がよければ記録の更新も可能だろうが、簡単に世界記録が出るのならそれは記録でも何でもない。
「それはあくまで可能性の問題なのよ。確かにレイはもう一度起動させる可能性が高かった。ただ、そうはならなかった。それだけのことよ」
「それだけ、だと?」
 カズマが怒りを隠さずに怒鳴る。
「ふざけるな! 俺たちはあんたたちの都合で振り回される道具じゃない!」
「朱童くん」
 だが、リツコは険しい表情で言った。
「既に軍人としての教育が終わっているあなたの台詞とは思えないわね。悪いけど、あなたたちは全て道具であり、駒よ。人類を救うための。もちろん私も含めてね」
「最前線で戦う兵士の安全を考えるのがあんたたちの仕事だろう!」
「そうよ。私たちは万全の備えをしてから実験をしている。だから暴走してもレイは全治二週間で済んだわけだし、今後同じことが起こらないように改善していかなければならないわ」
「そんなことが何の言い訳に!」
「ならないわね。でも、私たちがやっているのは世界を救うために最善と信じていることよ。職務怠慢だというのなら、毎日徹夜状態で努力している技術部に対する挑戦と受け止めるわ。私たちは子供たちばかりに命をかけさせているわけじゃない。あなたたちの安全を可能な限り確保できるよう、細心の注意を払っている」
「じゃあどうして、暴走したんですか」
 シンジが尋ねると、リツコは顔をしかめた。
「そうね。分析はだいたい終わっているから、理由らしいものも分かってはいるけど」
「それは?」
「シンクログラフが反転したせいよ」
 シンクログラフとは、パイロットとエヴァとのシンクロ状況を表した図のことだ。
 これが全て正常である場合、パイロットはエヴァの行動を制御することができる。
 だが、反対にもしも全てが異常だった場合はどうなるか。
 結論は逆。エヴァがパイロットの行動を規制して、自分勝手に動くことになる。
 これが暴走だ。
「レイはあの瞬間、エヴァを制御下に置くことを放棄したのよ。無意識に、かつ、完全に」
「無意識に、完全に?」
「ええ。どうしてそんな心理状態になったのかは本人に聞いても分からないでしょうね。無意識下の行動だから。ただ、その心理をこちらが推測することは可能よ。それはこれからカウンセラーをして確認すること」
「じゃあ、今回綾波が暴走したのは」
「九九%、レイの心理状況のせいよ。この一週間で彼女の心に何があったか。シンジくんは想像つく?」
 もちろん、想像はつく。昨日の彼女の様子を思い出せば明らかだ。
「僕が、カナメと付き合うようになったせい……?」
「私の結論から言えばそういうことよ。直前に何を考えていたかが明らかになれば、もっとはっきりしたことが分かるわね。今後レイを乗せ続けることができるかどうかは難しいわね」
(回りから言われていたことの結果が、これか)
 多くの人から言われた。付き合うな、使徒戦が終わるまで待て、と。
 だが、自分がカナメと付き合うせいでレイがこんな目に合うのだとしたら。
「綾波が危険な目にあったのは、僕のせい」
「違うぞ、碇」
 カズマが彼の肩に手を置く。
「たとえお前とレイの間に何があったとしても、それを仕事場に持ち込む奴が悪い。レイの今回の事故は自業自得ともいえる」
「同意見ね。だいたい、そんなことまでいちいち考えていたら私たちは何もできなくなる。これはパイロットが精神をもっと鍛えてくれればいいだけの話。技術部のミスを言えば、レイならその点大丈夫だろうと過信していたことね」
「……分かりました」
 状況が判明して、ようやくシンジは落ち着く。
「また明日、綾波に会いに来ます」
「ええ、そうしてあげてちょうだい。シンジくんが来てくれたらレイも喜ぶでしょうから」






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