「準備完了、と」
リツコは必要なデータのドイツ転送を終え、いったん小休止を取った。
もちろん転送とはいっても、本当に必要なものばかりだ。悪用される可能性のあるデータについては全部持参する。簡単に支部にデータを奪われるわけにはいかない。
(どこまで相手に情報を開示するか、難しいところね)
エヴァの根幹に触れさせるわけにはいかない。あくまでもデータはすべて本部が抱えておかなければならない。そうしなければ、使徒戦に勝ち残ったとしても、その後に各支部からの攻撃を受けてしまうことになる。
絶対の切り札は渡さない。それが本部共通の認識だった。
(シンジくんがどこまで伸びるかにかかってるのよね)
ドイツでセカンドチルドレンと出会い、彼はどのように変化していくだろうか。
もちろん良い方向に変わるのならいいが、逆は困る。
(ケアは十分にしないといけないわね)
休んでいるはずなのに、頭だけは休まずに動く。この女史はどこまでも仕事人間だった。
第伍拾壱話
異国へ向かうその前に
四月二日(木)。
準備は整った。四月三日の午前一時にネルフを出発する。だから今日は眠ることができない。時差の関係からも、眠るのは飛行機内だ。起きたときにはドイツの朝。ちょうどうまく活動ができるようにスケジュールが組まれている。
さすがに午後十時を回ると眠気が出てくる。コーヒーなどを飲みながら、シンジは自室でゆっくりと音楽を聴いていた。
十一時にはエンが荷物を持って迎えに来る。それまで少しの間の休憩時間。
特別何かをすることもない。ただ時間が過ぎるのを待つ。これはこれで苦痛の時間だ。いっそエンに最初からいてもらった方がよかったかもしれない。
と、そこへインタフォンが鳴る。エンが到着するにはまだ三十分以上ある。随分早い。
誰かと思って外を見ると、そこにいたのはカナメとヨシノだった。
『シンジ、少し、いい?』
もちろん断る理由などない。扉を開けて迎え入れると、カナメだけが入ってきてヨシノは部屋に入らなかった。
「ヨシノは?」
「あ、うん。実はね、しばらく会えなくなるんだから、今のうちにたっぷり甘えておきなさいって、ヨシノさんに無理矢理連れてこられたの」
なかなか気がきくことをしてくれる。ここはありがたくヨシノの気遣いをもらっておこう。
「そっか。後でヨシノにお礼を言っておかないとね」
「うん。少しの間だけでも、シンジと一緒にいられて嬉しいし」
カナメがえへへと笑う。本当に可愛い。こうした一つひとつの仕草がシンジを魅惑する。
「本当に、しばらく会えなくなっちゃうんだね」
カナメはしょぼんとした表情に変わった。
『本当に、しばらく会えなくなっちゃうんだね』
部屋の外にいたヨシノは耳にしたイヤホンでその部屋の中の会話を聞いていた。
カナメの服にこっそり忍ばせた盗聴器。傍受できる距離はきわめて短いが、部屋の内外ならば全く問題はない。何しろ実験済みだ。
カスミからの報告はまだ来ない。その間は自分も情報収集をしておくだけのこと。本気でカナメを疑っているわけではない。
それに──
(ああもう、シンちゃんってば、そこで一気に押し倒さないと!)
──半分以上は野次馬だ。
『うん。でも、ちゃんと帰ってくるから』
『うん。待ってる。メールとか、ちゃんと頂戴ね』
『もちろん』
『やっぱり、シンジって優しい』
衣擦れの音。どうやらカナメからシンジに抱きついているようだった。
『か、カナメ』
『お願い。少しだけシンジのぬくもりがほしい』
そして、しばらくの間、無言。
問題ないだろう、と判断したヨシノは通信を切った。
ここから先は恋人同士の時間だ。無粋なことはしない方がいい。
「あーあ」
ヨシノは壁に背を預けた。
「カッコいいカレシが欲しいなあ」
もちろん今の自分の立場からすれば、そんな願いがかなうはずはないことは分かっているのだが。
自分より二センチ高い彼女を抱きしめる。そして自分は彼女に抱きしめられる。
女の子の匂いが鼻腔をくすぐる。
服越しに温もりが伝わる。
心臓はこれ以上ないくらい鼓動を速め、他の何も考えられなくなる。
大好きな女の子との抱擁。
愛しさがこみ上げる。
「か、カナメはさ」
少し体を離して彼女の顔を見る。
真正面だ。近い。まっすぐ見られない。
「なに?」
「どうして、僕のことを好きになったの?」
こんなに可愛くて、綺麗で、気立てがよくて、一緒にいると楽しくて、けなげで、一生懸命で、いいところを数えようとしたら数え切れないほどある娘が、どうして自分なんかを。
「難しいけど、そうだなあ」
カナメはゆっくりと考えて答える。
「シンジは、私のどこが好き?」
「え」
それは、今考えていたことを全部答えろということか。
「いっぱいあるよ。数え切れないくらい」
それを聞いてカナメはくすっと笑う。
「私も同じだよ」
思わず絶句する。
同じ。
数え切れないくらい、自分に好きなところがある、ということか。
まさか。
そんなはずは。
「どうして……」
「どうしても何も、好きになるってそういうことじゃないかな。ちょっとした仕草、性格の一つひとつ、いいところも悪いところも、みんな好き。シンジが不安そうにしていたら守ってあげたくなるし、逆に誰かを守ろうとするところは本当にカッコいいと思うし、私も守られたいと思う。チェロを弾いている姿は神秘的で綺麗。料理が上手で羨ましい。優しい性格には何回も救われた。友達のことをそれとなく気遣っているところも好き。もう、数え切れないよ。毎日毎日、シンジのことばかり考えるようになった。私なんかじゃ、シンジにはつりあわないんじゃないかって思うくらいに」
「そ、そんなこと! 逆だよ。僕の方がカナメにはつりあわないって、思って」
「だから、さ」
こつん、とカナメが額を合わせる。
「私たち、同じこと考えてるんだよ」
「……」
「これって素敵なことだと思う。だって、好きな人が私のことをそんなに思ってくれてるんだもん。私、すごい嬉しかった。だから、もっともっとシンジのことが知りたい」
「僕だって」
「じゃあ、約束」
十センチの距離。視線が絡み合う。
二人とも、完全にお互いしか見えていない。愛する恋人のことしか考えられない。
「必ず帰ってきて」
「約束する」
そして、目を閉じる。
ゆっくりと近づいた二人は、唇をうっすらと、重ねた。
たった一秒の接吻が、永遠のようにも感じられる。
ゆっくりと離れた二人は、顔を真っ赤に染めていた。
「……キス、しちゃった」
「う、うん」
「ね、シンジ」
回していた腕を組みかえる。もっと接着できるように。
「もう一回、してもいい?」
「何回だって」
シンジも強く抱きしめる。
「僕だって、カナメが大好きなんだから」
「私だって、シンジが大好きなんだから」
そして今度はもっと強く、二人はキスをかわした。
「なんだ、随分早かったな」
カスミがコウキの部屋にやってきて「調べがついた」と言うと、コウキは心にもないことを言う。
「たった一日でよく調べられるもんだ」
「そこなんだよな」
だがカスミは首をかしげる。カオリのときといい、カズマやタクヤのときといい、いつも自分の調査には満足して見せてくるはずなのに、今回だけは様子が違った。
「簡単に調べがつきすぎる。美坂のときは事情が事情だけに時間がかかった。朱童と榎木の場合も一応極秘扱いだったからな。二人合わせて四日かかった。そりゃもう大変だったんだぜ」
「知っている。お前にはそればかりしてもらっていたからな」
「それが美綴の場合はたったの一日? それも、探せば用意されていたみたいにコロコロと出てきやがる。罠じゃないかって思うくらいにな」
「罠だと?」
「ま、とりあえず見てみろよ。大した情報じゃないけどな」
言われてコウキは美綴カナメの調査ディスクをコンピュータに入れた。
あたりさわりのない家族構成と履歴。普通に小学校に入って、血液検査の結果適格者になれる可能性があることが分かり、ネルフに入る。それまでの履歴も一分の隙もない。
「普通だな」
「普通だ。日本全国、同年代を調べればみんなこんなもんだろうさ」
「それのどこが気になるっていうんだ?」
「普通の奴がランクAになる。それが悪いって言ってるわけじゃない。ただ、この美綴だけは気になる。俺の勘がそう言っている」
「お前の勘を疑ったりはしないが、具体的には?」
「確証がほしい。美綴カナメが実際にこの小学校にいたという確証だ」
その言葉の裏の意味が分かったコウキの表情が変わる。
「これは用意された履歴、ということか?」
「その可能性がある。不安になったから小学校のデータベースに侵入していろいろな情報を片端から漁ってみた。美綴カナメという生徒がいたのは間違いない。ご丁寧にデジタルカメラで撮った学級写真のデータまで残っていやがった」
そう言ってカスミは舌打ちする。それの何が問題なのか、と尋ねる。
「小学校の学級写真っていうのは地域の業者、写真屋と結びついててな。デジカメで撮ることは少なかったんだよ。特に俺たちが小学生の、まだ低学年とかのうちはな。デジカメとネガの両方で撮ったりっていうのもあるが、今だってデジカメを使ってるところは多数派じゃない」
「そうなのか?」
あまりそうしたカメラの知識に詳しくないコウキにはピンとこない。だが、カスミが言うのだから事実なのだろう。
「美綴がいた町でデジカメを使っていたのはこの学校だけだ」
「なるほど。つまり、データを操作された可能性があるっていうことか?」
「可能性の問題だけどな。確かにデジカメで学級写真を残している業者が増えているのも確かだし、それがちょうど増え始めた時期にかかっているのも事実だ。だから確証がほしい」
「いや、お前が不安に思うんなら、とことんまでやってくれた方がいい。それに急ぎというわけじゃない。もしカナメがどこかの国の諜報だとしたら、目的はおそらくイリヤと同じ勧誘だろうしな」
「もし違うとしたら?」
カスミはPCを操作しながら言う。
「違う? だが、他に何か理由はあるのか」
「あるさ。シンジにはとっておきの裏技、シンクロ率があるだろ」
「ああ」
「シンジはただシンクロ率が高いだけじゃない。近くにいる人間のシンクロ率を上げることができる『力』がある」
それを聞いたコウキの背筋が震える。
「なんだと?」
「シンジがランクAになった直後のシンクロ率のデータを見たんだが」
「お前ランクBだろ。どうやって──」
「そんなのMAGIが教えてくれるさ。まあそれはともかく、お前以外の六人、全員がシンクロ率を上げていただろう」
「そういえばそうだったな。でも俺は上がらなかったぞ?」
「そりゃお前は普段からシンジと一緒にいる。シンジのおかげで上げられるシンクロ率は既に限界まで来てるんだろ」
あっさりと結論を言うカスミ。推論だけでここまで言い切れるのも凄い。
「それにイリヤだ。あいつは六パーセントも上がっていただろ」
「ああ。さすがに全員驚いていたが」
「あれはシンジの能力が分かっていて、自分のシンクロ率を効率的に上げて帰っていったんだろう」
「だが、どうやって」
「Howの部分を俺に聞いたって分かるわけないだろ。俺に分かるのはWhyの部分だけだ」
推論で述べるレベルをはるかに超えている。たしかに今の質問に答えられるはずがない。
「だが、イリヤには分かったってことか」
「ああ、失敗したぜ。シンジのシンクロ率にそんな秘密があるんだったら、安易にイリヤを近づけるんじゃなかった」
「おいおい、一応味方だろ」
「本気で言ってるわけじゃないだろうな、コウキ」
カスミの目は真剣そのものだ。
「ネルフは一枚岩じゃない。ネルフ本部の中ですらさまざまな派閥があるくらいだ。本部の理屈は支部には通じない。支部の連中はいつ本部を乗っ取るつもりか分からない。今までは本部に力がなかったから、多少人数が多くても誰も見向きもしなかった。だが、いまや人数も一番なら、サードチルドレンに登録された碇シンジという切り札まである。他の国が黙っているはずがない。他の支部は今、本部とくっつくか、それとも本部を潰すか、どちらかの選択を迫られている」
「まあ……アメリカ辺りはそうなんだろうけどな」
「アメリカだけじゃない。現状で日本を敵視しているのは、アメリカと中国。他にあとどこが来るかは分からんが、この二カ国だけは警戒しないといけない」
「中国? なんでだ?」
「二〇〇八年の東京襲撃で国際的な地位が下がっているのが不満なんだろう」
「なんだそりゃ。自業自得じゃねえか」
「あの国はそう考えていない。逆に襲撃を受けた日本の地位が高いことが不満なようだ」
「だったら他の国を侵略するんじゃねえよ、ったく」
コウキはしばらく考えてからカスミに尋ねる。
「じゃあ、美綴の件はまだグレーってことだな」
「ああ。どうなるか分からんから、一応覚悟だけはしておいてくれ」
嫌な言葉だが頷かざるを得ない。カスミの判断はいつだって冷静で、頼りになるのだから。
「問題は美綴がどこかの国の手先なのか、それともどこかの国から狙われるのか、あるいはその両方か難しいポジションになったもんだな」
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