それは一般に流通している言葉ではない。
 見た者はごく少数と限られ、見た者の間でだけかわされるスラング。
 その言葉が意味するところは他の者には分からない。何故ならば。

 見た者には、その言葉の意味がはっきりと分かるからだ。












第伍拾参話



空の上から見る夢は












 目が覚めると午前四時。午後八時過ぎに寝たから、睡眠時間はだいたい八時間くらい。まだ少し眠たいが、今日はこれから過密スケジュールだ。
 ブラインドから座席の方を見てみる。まだ誰も起きていないかと思ったが、既に一人まだ暗い中に座っている人物がいた。
(エンくん?)
 彼は何をするというわけでもなく、ただ暗闇を見つめている。
 起床予定まであと十分。シンジは思い切ってブラインドを上げた。
「おはよう、エンくん」
「あ、おはようシンジくん」
 薄暗い中、小声で挨拶がかわされる。まだ起きていない他のメンバーを考慮してのことだ。
「早いんだね」
「ちゃんと寝たんだけどね。どうも気が昂ぶっているみたいだ」
「エンくんでもそんなことがあるんだ」
 どんなときでも優しい笑顔を見せて冷静沈着でいる彼にとっては珍しいことだ。
「外国に行くから?」
「それもあるんだろうけど」
 エンは困ったように苦笑した。
「向こうには知っている人がいるんだ。さすがに今回、会わないわけにはいかないんだろうなって」
「会わないって……」
 その口ぶりからすると、あまり会いたくない相手ということなのだろうか。
「あとで紹介するよ」
 エンは会うことが規定の路線であるかのように言う。うん、とシンジが頷くとまた別のブラインドがあがった。
「あれ、おはよー。早いね、二人とも♪」
 やはり小声で挨拶してきたのは館風レミ。
「おはよう。館風さんも随分早いね」
「んー、でもそろそろじゃない? みんなも起き出すと思うけど」
 言ってから「ふわあ」と口を隠して欠伸する。まだ寝足りないのか、それとも単におきたばかりだからか。
「おはようございます」
 その三人に客室乗務員が声をかけてくる。
「まだ朝食には少し時間がありますけど、よろしければジュースか何かお持ちしましょうか?」
「ボクりんごジュース」
「じゃあ僕はお茶をもらえますか。シンジくんは?」
「えっと、じゃあ同じものを」
 分かりました、と答えて乗務員は一度下がる。
「二人ともじじむさーい」
「朝だし、あまり味がない方がありがたいからね」
「僕は別になんでもかまわないけど」
 シンジにしてみればエンがそれを頼んだからそうしただけで、もしエンがコーヒーならやはりコーヒーを頼んでいただろう。主体性を持っているわけではない。
「それにしてもエンくん、あまり寝てないみたいだけど、だいじょぶ?」
 レミが覗き込んでくる。言われてみると確かにどこか憔悴しているようにも見える。
「うん、大丈夫。海外なんて始めてだから緊張して」
「そっかー。私はアメリカに行ってたけど、友達もいたしね。あとは会話ができればNo problemなんだけど」
 綺麗な発音を見せるレミに二人から「おお」と感嘆の声が上がる。
「英語話せるんだ」
「アメリカ暮らしが長いしね。あとはほんのちょっとギリシャ語」
「ああ、ギリシャに恋人がいるんだっけ」
「やーもー、シンジくんってばはっきり言ったら照れるじゃなーい」
 ばしばしとレミがシンジの肩をかなり強く叩く。
「自分で言いふらしてるくせに何言ってるんだよ」
「それはそれこれはこれー。自分で言うのはいいけど人に言われると照れちゃうじゃない」
「普通は自分で言っても照れるものだと思うけど……」
「そうか。そうしたら」
 エンが思いついたように言う。
「もしかしたらドイツの起動実験にギリシャや他のヨーロッパ支部からも見学に来る可能性があるよね。ギリシャのランクA二人」
「あ、うん。ルーカスとエレニ」
 ギリシャ支部が誇る二人のランクA適格者。兄のルーカス・ストラノス、妹のエレニ・ストラノス。アメリカでランクAに到達し、ギリシャ支部立ち上げと同時に移転した二人。
「来るかどうかは分からないけど。でもそれはちょっと考えてた。もしかしたら会えるかなーって」
「そっか」
 シンジは笑顔になる。
「会えるといいね」
「うーん」
 だが一方のレミは首をかしげる。
「どうしたの?」
「ボクとしては、まだ会うのは時期尚早かなーって。まだ使徒も現れてないわけだし」
 レミの占いでは困難を乗り越えた後に二人が結ばれる、というような内容だったはず。
「でもその前に会えるならその方がいいと思うけど」
「そうだね」
 レミも気楽に頷く。
「会えると嬉しいな」
 珍しく『女』の顔を見せたレミに二人の動きが止まる。
「ん、なに?」
「いや」
 シンジは照れくさくなって顔をそらす。
「なんでもないですよ。恋人のことを思う館風さんがすごくかわいく見えただけですから」
「ちょっともー、それじゃいつものボクはかわいくないってこと?」
 説明の仕方を間違えたらしい。レミは普段からでも充分かわいいが、今のはそうしたかわいさとは次元の違うものだ。
「あ、おはよー」
 ちょうどお茶やジュースなどを人数分以上に運んできた乗務員と同じタイミングでリオナが起きてくる。
「おはよう、清田さん」
「あ、おはよう古城く──」
 そこで予定通りに足元がよろめいて倒れ、座席の角に頭をごつんとぶつける。よほど強く打ったのか、うずくまって頭をおさえたまま動きがない。
「だ、だいじょうぶ……?」
 シンジがどうしたものかと尋ねるが、リオナは口に出すのもつらいという様子でこくこくと二度頷いた。
「本当、リオナさんが格闘ランクSって信じられないよねえ」
 邪気のないレミの言葉がいっそう堪える。
「格闘センスは超一流なんですけどね。普段とは使っている神経が違うのかもしれません」
「言うようになったわね、古城くん」
 眼鏡の向こうが涙目になっている。うー、とうなるようにエンを見つめる。
「お、みんな早いな」
 次に出てきたのはケンスケ。手には愛用のカメラが装備されている。
「ケンスケだって、朝ごはんはまだだよ」
「今の大きな音で目が覚めたのさ」
 それはリオナの『ごつん』という音だろうか。また涙目だ。
「まあトウジが起きてくるのはぎりぎりとして……あとは神楽と谷山か」
 そういえばヤヨイは昨夜も寝る直前にふらふらとしていた。大丈夫だろうか、とシンジとリオナが視線を交わす。
「ちょっと見てきますね」
 リオナがそう言ってヤヨイのブラインドのところまで行く。こっそりと中を見て、それからブラインドを上げた。
「神楽さんがいません」
 またか。
 はあ、とシンジがため息をつく。どのみち夢遊病とはいえ、この客室内のどこかにはいるはずなのだ。たとえば椅子の下。たとえば誰かのプライベートシート。
(とはいっても、ここにもう五人そろってるわけだから……)
 もし誰かのところにもぐりこんでいるとすれば、トウジかマイのどちらか。
 同じ結論に思い至ったか、リオナは頷くと静かにトウジのシートに近づく。残りの四人も息を呑んで見守る。
 そして、ブラインドがあがる──
「キャアッ!」
 女の子らしい悲鳴はレミのもの。そしてエンとシンジ、ケンスケが目を丸くした。
 だらしなくぽかーんと口をあけて眠るトウジの横に強引にもぐりこんで眠っているのはまぎれもない神楽ヤヨイその人。
「トウジなにやってんだよ!」
 ケンスケがおもいきりその頭を殴る。
「あ……? いきなりなにすんねん……」
 まだ目が覚めてないらしく声と動きがにぶい。
「この状況をどう説明するのかって言ってるんだよ!」
「この状況……?」
 そして、トウジは自分のすぐ隣で半目で眠っている少女の姿を見て一気に顔が青ざめた。
「かっかっかっかっかっかっかかかかかかかかかかぐらあああああああっ!?」
「トウジくん最低」
「いくらなんでもそこまでするとは思わなかったよ」
「ごめんトウジ。見損なった」
「どうやって責任取るつもりかしらねえ?」
 レミ、エン、シンジ、リオナと続けざまに攻撃が飛んで、ますます顔が蒼白となる鈴原トウジ十三歳。
「わ、わ、わ、ワイは何もしとらんでっ!」
 分かっている。
 それは誰もが充分にわかっていて半分トウジをからかっているだけなのだが、いくらなんでもそれほど広くないチェアにもぐりこまれてまったく気づかないトウジも悪い。
 そして、話題の主であるヤヨイの意識が戻ってくる。そしてぼーっと周りを見てから笑って言った。
「バレちゃったのね」
「なななななななななななななにをーっ!!!」
 それもまた状況を把握したヤヨイ屈指のジョークだったのだが、さすがにこの状況下では冗談ではすまない。特に男三人は額に青筋を浮かべてまだシートに座っているトウジを見下ろした。
「ちょーっと話があるんだけど、いいかなあ?」
 トウジはこの世に神も仏もないことを悟った。
「で、実際のところは?」
 リオナが全部分かってるわよ、という様子でヤヨイに尋ねる。その間、バックではトウジが三人に袋叩きにされていた。
「覚えてない」
「でしょうね。あなたはずっと夢の中でしょうから」
 はあ、とリオナはため息をつく。帰りの便でも同じことが起こってはまずい。ヤヨイ担当のマイにしっかりと見張らせておかないと──
「って、谷山さん?」
 このドタバタの状況にもかかわらずまだ寝ていられるとは随分と深く眠っているのだろうか。リオナは一人離れてそのマイのブラインドに近づく。
 そしてこっそりとその中を見てみると──
「谷山さん!」
 緊急事態、という様子のリオナに男子四人の動きも止まる。ブラインドを上げてリオナがマイを抱き起こしている。
「どうしたんですか?」
 エンがすぐに近づいてきて尋ねる。
「分からない。でも、すごく具合が悪そうで──」
「……あれ?」
 そしてマイが目を覚ます。
「どうしたのリオナさん。それに、みんなも」
「谷山さんがすごい具合悪そうだったんですよ」
 リオナが説明する。それから寝ぼけ眼で「ああ」と頷いた。
「たぶんそれ、夢見てただけだと思う」
 夢かよ、と全員が脱力する。
「そうでしたか。早とちりしてすみません」
「ううん」
 だがマイはもう真剣な表情に切り替わっていた。
「私の悪い夢、必ずあたるから」
 と、全員の意識を冷たくさせる言葉が続く。
「どんな夢だったんですか?」
 紳士にエンが冷たいおしぼりを手渡しながら言う。
「うーん……」
 マイが少し悩んでから答える。
「光の巨人」
 その言葉は適格者のうち何人かの顔を確実に青ざめさせた。
「真っ白な光の巨人が、建物や人をレーザー光線でなぎ払っていく夢」
「そりゃまたえらい非現実的やのう」
 トウジが言い、ケンスケも頷く。だが、
「そうでもないよ」
 と真剣な表情で言うのはレミ。
「なんや?」
「ボクの占いでも、ドイツの方角はあんまりよくないし。何といっても『アレ』があるところでしょ?」
 アレ──というのはもちろん、第二使徒が消えた場所に現れた石碑だ。
「巨人……使徒も確かそんな形だったわね」
 リオナも頷く。
「ということは、谷山さんがその波動を無意識に感じて夢に見たっていうことかな」
 エンがまとめるとマイも小さく頷く。
「そうだと思うけど、まだよく分からない」
「碇くんの意見は?」
 ヤヨイが突然話を振る。僕? とシンジは目を丸くする。
「よく分からないけど、気をつけろっていうことだよね」
 シンジの言葉で全員が脱力した。
「ま、確かにそうやろな」
「碇の意見はいつも的確だよ」
 確かにその夢から何かを判断するのは難しい。シンジは何も間違ったことは言っていない。
「なんだよ、もう」
 シンジは膨れたが、彼の意見が場を和ませたことに適格者たちは誰も気づいていなかった。






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