──許さない。
 ──絶対に、許さない。
 ──あなたが生きていることが。
 ──私が生きていることが。
 ──どうして。
 ──何故。
 ──私たちだけが、生き残ってしまったの?












第伍拾肆話



凍えるほどに冷たくて












 ネルフ特別便はほぼ定刻通り、午前六時十一分にドイツ・ハノーファー空港に到着した。
 適格者たちは自分たちの荷物を運ぶことはしない。自分の周りの手荷物だけは持つものの、大きな荷物があっては万が一犯罪にあった場合に機密が漏れることにもなりかねない。というわけで、比較的軽装で行動ができる。
 まだ朝早いということもあって人自体あまり多くないが、それを差し引いても人の影が見えないのは、ネルフが規制しているためだろう。
 ミサトに連れられ、シンジたちはただちにバスに乗り込む。もっとも荷物の運搬などもあり、すぐに移動ができるというわけでもない。結局空港からバスが出発したのは午前六時四五分。
 ネルフ支部があるハンブルクまではここから三時間はかかる。いっそのことハンブルク国際空港につければよかったのだが、シンジたちはその前にヴィルヘルムスハーフェンという街に向かうことになっていた。
 ヴィルヘルムスハーフェンは国連軍の基地がある場所であり、本部適格者がドイツに来ることもあって表敬訪問することになっていた。こちらもハノーファーからはおよそ三時間くらいといったところだ。
「到着予定は十時だから、まだ寝たりない人はバスの中で寝ておいてねん」
 バスが発車する前にミサトが言う。それより早く夢の世界に突入していたのはヤヨイとトウジ。それからケンスケも調子がよくないらしい。いわゆる時差ボケという奴か。
 一方で元気なのはレミとマイ、それにリオナだ。シンジとエンだけがいつもと変わらない様子だった。
「は〜るばる〜きたぜド〜イツまで〜♪」
 レミが歌っているのはセカンドインパクト前に流行したらしい歌の替え歌だ。マイとリオナが拍手で盛り上がっている。
「シンジくんも、まだ寝たりないなら寝ておくといいよ」
 エンが微笑みながら言う。
「エンくんだって、あまり寝てないよね」
「まあそうなんだけどね」
 苦笑したエンが首をかしげる。
「ちょっと今は冷静に眠れる自信がないから」
 広々と使えるバス。深夜バスのようにシートを倒して横になることもできる。まったくネルフはこういうところにはしっかりとお金をかけている。
「はーい、碇くーん、古城くーん」
 前の座席に座っている二人を呼んだのはリオナ。二人が同時に振り返るとフラッシュがたかれた。
「何するんだよ」
「何って、記念撮影。せっかくドイツまで来てるんだし、少しは楽しまないともったいないでしょ?」
 リオナの言うことには一理ある。確かに適格者たちは仕事で来ているのだが、そればかりでは息が詰まるし、知らないところまできてストレスがたまるのだから、少しは発散しないといけない。
「六日の自由行動が楽しみなんだよねー♪」
「あ、私も私も。護衛はつくだろうけど、一応ハンブルク市内は好きなトコ行っていいんでしょ?」
「せっかくだからこちらの適格者とも仲良くなれるといいわよね」
 かしまし三人娘がわいわいと騒いでいたが、その言葉にエンが苦笑した。
「仲良くか。できるといいけど」
 含みのある言葉にシンジが首をかしげた。
「知ってるの?」
「まあ、それなりに。もちろん全員ではないけどね」
 ネルフドイツ支部は本部に次ぐ約四百人の適格者を抱えている。セカンドチルドレン、惣流アスカ・ラングレーに加え四人のランクA適格者、総勢五人のエヴァンゲリオン操縦者がいるのも本部の九人に次ぐ。
 何しろドイツにはあの『ミュンヘンの石碑』があるのだ。国民の防衛意識はきわめて高い。
「それって、さっきの」
「うん、そう」
 エンは困ったような顔をする。
「適格者なんだ。ランクAのね」
 なるほど。それでは確かに会わないわけにはいかないだろう。面通しもあるだろうし。
「その意味ではシンジくんの方が大変だろうけどね」
「どうして?」
「本部のサードチルドレンの名前はもうネルフ中で有名だからね。どうしたってセカンドチルドレンと比べられるよ」
 たとえ本人が望まずとも、既にシンジはその軌道に乗ってしまった。いまさら降りることはできないのだ。
「困るよ」
「そうだね。だから僕が守るよ。少なくとも、シンジくんに危害を加えようとする者からは絶対に守ってみせる」
 正面から言われるとさすがにシンジも照れる。「ありがとう」と言葉を返した。
「あらぁ、二人ともこんなところで禁断の愛が芽生えたってわけ?」
 いつの間にか背後にはリオナが立っていてニヤニヤと笑っている。
「なんだよそれ」
「あらぁ、隠さなくたっていいわよ。お姉さんはそういうところは寛大だから。でも、碇くんは恋人がいながら古城くんと二股かけてもいいわけ?」
「どうやら本気で決着をつけないといけないみたいですね」
 にっこりとエンが笑う。どうやら闘争本能に火がついたらしい。
「じゃ、長年の戦いに決着をつけましょうか?」
「望むところです」
 格闘ランクSの二人が突然火花を散らす。というか動くバスの中で怪獣大決戦は勘弁してもらいたい。
「二人とも、やるなら向こうについてからにしてよ」
 シンジはため息をついた。






 バスは十時十分にヴィルヘルムスハーフェンの国連軍基地に到着した。
 この国連軍基地を統括しているのはヘルマン・ハンセン中将。来る使徒戦に向けて通常兵器の開発、防衛体制の強化とやることが忙しい中、本部から来た適格者たちのためにきちんと時間を用意して待っていてくれた。
「よく来てくれた。勇敢なる極東の勇者たちよ」
 もちろん彼の言葉は誰も分からない。そのためミサトが通訳をしている。こう見えてもミサトはドイツに在住していたことがあり、会話くらいはこなすことができる。
「あの使徒に対して通常兵器はあくまでサポートの役割しかこなすことはできない。エヴァンゲリオンを操縦する君たちの力なくして地球を守ることはできない。大変な任務になるが、この難関を乗り越えるために力を貸してほしい」
 ミサトの通訳が終わったところで中将はミサトに尋ねた。そしてミサトの手がシンジを紹介するように開かれる。
 中将はそのシンジの前に来て、両手で肩をがっしりとつかむ。え、え、とうろたえている間に中将が話しかけた。
「ガンバリ、タマエ」
 日本語だった。それを言うためにわざわざ覚えたということなのだろう。
「ありがとうございます。あ、えっと、だんけしぇーん」
 シンジがよく分からないドイツ語を使うと、中将は破顔して笑った。
「Bitte schoen」
 びってしぇーん? と意味が分からないような顔をシンジはしたが、ミサトが通訳した。
「どういたしまして、って言ったのよ」
「あ、はい」
 そしてシンジは自分の四倍は生きている中将と握手を交わした。戦場で生きてきた男の手は暖かく、力強かった。






 午前十時五十分。ヴィルヘルムスハーフェンを出発するときだった。
「それじゃ、撮影しまーす」
 基地の撮影が許可されている場所で八人が記念撮影を行う。ケンスケはカメラマンとして基本的に撮影側に回るのだが、こうした記念撮影だけはきちんと自分も入る。トウジはシンジの首に腕を回す。女子四人は全員で親指を立てる揃いのポーズ(ヤヨイは単に付き合わされただけ)。エンはその後ろで困ったように笑っていた。
「いや、でもいいオッサンやったなあ」
 トウジが言うとうんうんと周りも頷く。
「基地の責任者っていうからもっと怖い人を想像してたもん」
 レミが答えて、さらにはケンスケ、リオナとわいのわいの盛り上がる。
「にしても、ここでもシンジは特別扱いなんやなあ」
 一人だけ中将と握手したシンジとしては「そういわれても」という気分だ。それはサードチルドレンという肩書きのおかげであってシンジ本人がどうという問題ではない。
「んー、碇くんはもう少し自分に自信を持った方がいいわね」
 リオナがお姉さんぶって言う。
「僕もそう思います。シンジくんは認めたがらないですけど、シンクロ率が高いっていうのは一つの才能なんですから」
「それも天才」
 マイが続く。そこまで持ち上げられるとシンジもむずがゆい。実感がないだけにほめられている気がしないのと、それでも嬉しい気持ちには変わりないのとで変な気分になる。
「あ、やっと来たみたいね」
 ネルフのバスがやってくる。午前十一時出発のため、五分前に駐車場から出入り口にやってくるようになっていたのだ。
 そしてバスが止まり、扉が開く。
 そこから、一人の少女が降りてきた。
 長い黒髪を後ろでまとめている。服も黒のズボンと長袖のシャツ。だからといって少しもボーイッシュなところがない。かわいらしい女の子だった。
「ようこそ、ドイツへ」
 綺麗な日本語が流れた。適格者たちの間から驚きの声が流れる。
「アルトさん」
 レミが名前を言う。どうやらこの中で彼女を知らないのはシンジだけのようだった。
「あると?」
「紀瀬木アルト。ネルフドイツ支部のランクA適格者」
 シンジの隣にヤヨイが立って説明する。
「国籍は日本」
「え?」
「日本人だけど、なぜかドイツで適格者となった。シンクロ率三十%を超える、ドイツ支部の二番手」
 簡単な説明を聞かされ、素直に『すごいなあ』と思ったシンジだが、実際にはシンジの方がずっと凄いということに気づいていない。ヤヨイがそのことを分かって苦笑する。
「あなたがシンジ?」
 アルトが近づいてきてにっこりと笑う。
「はじめまして。同じ日本人として、シンジの活躍を聞いては直接会えるのを楽しみにしていました。長旅、お疲れ様です」
「あ、うん。わざわざ出迎えに来てくれたの?」
 親しい様子の彼女に、シンジの口調も初対面なのにどこか親しげなものとなっている。
「ええ。シンジに会いたかったっていうのが一つ。本部のサードチルドレンがどんな人なのか、早く会いたかった」
 これではまるで求愛だ。さすがにシンジも戸惑ったが、その言葉はまだ終わりではない。
「それからもう一人、早く会いたかった」
 瞬時に表情が変わった。冷たい、憎しみのこもった表情。
「よく、私の前に顔を出せたものね」
 誰のことを言われているのか分からない。分かるのは言われている本人だけ。
「偶然だよ」
 その相手はため息をついて弁解する。
「正直に言えば、君とだけは会いたくなかった」
「でしょうね。私の顔なんか見たくもないでしょうから」
 その声の主を全員が注目する。
「久しぶりね──古城、エン」
 アルトがその相手をぎらりと睨む。
「ああ。支部についたら会うことになるだろうとは思っていたけど、まさかここでとはね。僕の意表をついたつもりなのかい?」
「そうね。支部についてからではあなたも覚悟が決まるでしょうから。先手を打つことにしたの」
「これは手厳しい」
 エンの声にも顔にも余裕がない。いつもの優しさも感じられない。
 責められるままに顔を背ける。明らかに非難されている様子そのままだ。
「私がネルフに入って二年──あの日から六年、いや七年かしら」
 アルトはゆっくりとエンに近づく。
「あなたもネルフに入ったのは、贖罪のつもり?」
「まさか」
 エンは首を振る。
「真実が知りたかった。それだけだよ」
「汚らわしい」
 本当に汚らわしいものを見る目でアルトが睨む。
「あなたさえいなければ!」
 その右手が大きく振り切られる。高い音が鳴って、適格者たちは目を丸くした。
 エンは避けることもせず、その手を頬に受けた。
 いったい二人の間に何があったのか、それを知る者はいない。ただ、目の前で行われているこのドラマに身動きが取れないという状況だった。
「すみません」
 謝ったのはエンの方だった。
「謝ったって、絶対に許さない」
「おい、姉ちゃん」
 だがここでトウジが割り込んだ。そういう雰囲気ではなかったが、さすがにこれはやりすぎだと思ったのだろう。
「いくらなんでも、ひっぱたくことはないやろ」
「いや、いいんだ、鈴原くん」
 エンはその仲介を止める。
「アルト。君に言っておく」
 だが、彼女を見据えたエンの目はもう責められている男の目ではなかった。
「僕は絶対にあの事件の真実を突き止める。僕がネルフに入ったのはそのためだし、君だって目的は同じはずだ」
「だから協力しろとでも?」
「まさか。アルトが協力してくれるなんて思ってない。憎みたければ憎めばいい。ただ、すべては使徒を撃退することが優先だろう?」
「その通りよ。私はランクA。私の代わりは誰もしてくれない。でもね」
 目を細める。攻撃的な意思のこもった目。
「あなたはランクB。あなたのかわりはいくらでもいるのよ」
「いい加減にしろよ」
 だが、その言葉に憤慨したのは他の誰でもない。シンジだった。
「二人に何があったのかなんて知らないけど、かわりがいるなんてこと言うなよ。エンくんは一人しかいないんだ。エンくんにかわりなんかいないんだ!」
 その言葉にアルトは驚いたように身をすくめる。そして「ごめんなさい」とすぐに謝った。逆にシンジの方が拍子抜けした。
「これは私とエンの問題だものね。みんなの前でする話じゃなかったのは、本当にごめんなさい」
 だが、謝った理由が違った。アルトはエンに対しての発言を撤回するつもりなど微塵もない。ただ、シンジの気分を悪くした。そのことに謝っているのだ。
「そうじゃなくて!」
「分かってます!……でも、ごめんなさい。私はこのことについて一歩も譲る気はないんです」
 泣きそうな顔だった。
「あなたから責められるのは、つらいです」
 本当にそういう様子だからさらに追及ができなくなる。
「だったら」
「でも、ごめんなさい。これは私と彼の問題です。今度は、ゆっくりと二人だけで話させてもらいますから」
「シンジくんも、もういいよ」
 エンがなだめるが、シンジには納得がいかない。
 自分の友人が、理不尽に責められている。そのことを許したくない。
「僕には責められる理由があるから」
 そこで会話が一切止まった。アルトは居ずらくなったか、ぺこりと頭を下げた。
「私がいるとくつろげないと思いますので、先にネルフに戻ってます。お待ちしてますね」
 少し涙目になったアルトがシンジに言う。本当に、シンジに対しては悪い感情を持っていないらしい。
「エンくん」
 アルトが小型車に乗り込んで行くのを見送った後で、小さく声をかける。
「さっき言ってたのが」
「うん。あの子」
 エンは素直に認めた。
「やられたな。先に来られるとは思ってなかった」
 エンは苦笑したが、その笑いにはまったく力がなかった。






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