「ナンバー五十三!」
 識別番号を呼ばれると、直立不動の体勢となる。
 自分はそのように訓練されている。自分が守らなければいけない相手から。
 自分はただ彼女を守るためだけの機械。ガードとして生きて、ガードとして死ぬ。それだけの存在。
「あなたそうしていると、本当に機械みたいね」
 自分と同い年の少女が言う。
「ナンバーで呼ばれるのはイヤ?」
「好きなようにお呼びください」
「そう。じゃ、決めてあげるわ。五十三、五十三……そうね」
 にっこりと少女が笑った。
「決めた。あなたにぴったりの名前」
 小悪魔のようだ、と彼は思った。












第伍拾玖話



風ふくように消え去って












「紀瀬木アルトが、ハイヴの実験体」
 ネルフの内部事情には詳しくないヨウでも、さすがに人類の命運をかけたランクA適格者たちの名前くらいは全ておさえている。
「そうだ。東京襲撃の日、彼女たち二人とそのガード、全部で三人が何を思ったのかハイヴから逃亡。まあ、拠点が東京にあったハイヴ自体が壊滅的なダメージを受けたんで、計画は中止せざるをえなかったがな。で、逃亡の最中、片方が東京に乗り込んできた六カ国軍に殺害された。それで記憶共有の研究は頓挫した」
 一人しかいないのでは研究が続けられるはずがない。ハイヴはもはや名前ばかり、紀瀬木アルトも用済みということで、自然とその研究は消滅した。
「じゃあ、二重人格の方は?」
「今でも残っているはずだ。だが、俺がここ三年間で見た限りでは人格が入れ替わっているところは見たことがない」
「それを待っているのか?」
「そんなところだ。何しろ、この二重人格の研究はなかなか面白くてな。たとえば双子の姉の方に人格A、人格Bの二つがあったとしよう」
「それで?」
「この研究では双子の妹の方にも同じ人格A、人格Bを植えつける。姉が人格Aでいるときは妹が人格B、姉がBのときは妹はA、という風に人格を交互に入れ替える。そして、人格を入れ替えるときにちょうど記憶の共有を行わせる。そうすれば、同じ二つの記憶、同じ二つの感情を持った人間を二人作ることができる」
「なんとまあ」
 ヨウとしては声を出すことしかできない。だいたい、そこまでして行わなければいけない人格の統合に何の意味があるのか。
「みんな同じなんて、つまらんと思うけどね」
「同感だ。だが、お互いを殺しあう人類を止めるために、思想が全て統制されればいいっていう理屈は分からんでもないがな。まあ、その考えは」
「独裁者の考えだな。俺は興味ない」
 ヨウの言葉に加持も同感と頷く。
「いくつか質問」
「ああ。応えられる範囲でならな」
「まず、どうして残った今の体には妹の意識、紀瀬木アルトの意識しかないのか」
「片方が殺されたときに、殺されたボディの方が姉の意識だったからだと推測される。人格交代ができないのだから、残った今のボディから姉の意識が出てくることができない状態だ」
「もし出てきたとしたら、アルトの意識はどうなる?」
「何が原因で人格交代するかが分からない限り、また戻ってくるのは偶然に期待するしかないだろうな」
 なんとも心細い言葉だった。
「じゃあ次。もう片方のボディは間違いなく殺されたんだな?」
「ああ。六カ国軍に撃たれたことになっている。ガードの少年の記録が残っている」
「少年って、何歳だ?」
「当時七歳。アルトと同い年だ」
「七!?」
「ちなみにその少年も実験体だ。といってもこちらは記憶共有の実験体ではなく、新たな人類の器として、どれだけ運動性能を高められるかということを研究するための実験体だ。遺伝子操作その他もろもろ、生まれる前から手をつけていたそうだ。ちなみに記録では、六歳時点で武装した大人六人を倒した記録がある」
「凄いな、そりゃ」
 棒読みに近い言い方でヨウが感心する。
「なお、その後アルトは適格者募集前のネルフに引き抜かれ、少年はロスト。現在は行方不明」
「生きてりゃ適格者にもなれる年齢か」
「実験ナンバーは五十三。名前は与えられていなかったそうだ」






「確かに僕は君たちを殺した」
 エンは相手を見つめながら言う。ここまできて、もう逃げるわけにはいかない。
「もう一人のアルトを殺すことにも抵抗があった。でも、そうしなければならなかった。今、そこにいるアルトを守るためには」
「随分、しおらしいことを言うのね」
「本気だよ。正確に言えば、僕が守りたかったアルトは二人ともじゃない。一人だけ。今、そこにいるアルトだけなんだ」
「どういうことかしら」
「アルトは僕を助けてくれたんだよ」
 ノアは首をかしげる。
「何のこと?」
「それはノアたちにも、アルトたちにも、たいしたことではなかったのかもしれない。だから記憶の共有を起こしても、そんな些細なことまでは伝わらなかった。僕も確認した。この間のことを覚えてる、って。そうしたら何のことか分からない、と死んだ方のアルトは答えていたよ」
「私たちの記憶の共有が完全じゃないっていうの」
 ノアが睨みつける。そう、自分がノアを好きになれないのはここだ。自分が唯一の存在であるという驕り。それが好きになれなかった。
 アルトにはそれがない。何故ならば。
「ノアたちは完全に記憶を共有しているんだと思う。何しろ思想を統制するための大切な『本体』だからね。でも、アルトたちはノアたちの添え物でしかない。劣化種だっていうことは君たちも分かっているだろう。何しろ、アルトは自分たちが、二人いるということに気づいていない」
 そう。
 ノアは全てを知って人格の共有を行っている。だが、もう一つの人格であるアルトは、それにつき合わされているだけだ。
 だから自分の存在が両方の体にあることを知らないし、人格の共有が行われていることも知らない。もう一人の自分が殺されたことも知らないし、こうしてノアの人格が生き残っていることも知らない。
 アルトは何も知らされていない。ただ、ノアにつき合わされているだけなのだ。
「君がアルトを大切にしていた理由はよく分かるよ。何しろ万が一、自分の片方が死んでしまったら、もう片方が生き残らなければ完全に死んでしまう。大切なスペアを保管してくれる妹の意識が君にとっては何より代えがたい宝だった。もちろんそれは、アルトの意識が大切だったというわけじゃない。もう一つの体そのものが大切だった。それだけだ」
「よく分かってるわね。だったら分かるでしょう、エン。私はこうしてこの体を取り戻した。もうこの体を返すつもりはないわよ。人類の思想を統制することはもうできない。でも、一人の人間として生きていくことは可能でしょう? そしてアルトの性格なら、私が体を返してって言ったら、喜んで譲ってくれるわ」
「だからさ」
 エンは首を振った。
「そんなアルトだから、僕は好きなんだ」
「……物分りの悪い男」
 ふん、とノアはそっぽを向く。
「あるとき、僕は熱を出した。遺伝子操作の副作用みたいなもので、今ではもう出ることはないけど、幼いころはよくあった」
「そういえばそんなこともあったわね」
「一回だけ、アルトが『大丈夫?』って言ってくれたんだ」
「ふうん」
「僕が他人に気づかわれたのは、それが最初なんだよ。ずっとナンバーで呼ばれていたし、気づかってくれる人なんていなかった」
「それが、あなたにとっての救い、か」
 ノアはくすくすと笑う。
「じゃあ、エン。アルトと同じ顔で、全く別の人格で、こう言われたらどう? 私は、あなたが好き」
 エンは全く表情を変えない。
「反応がないわね」
「知っているからね。だから君は、アルトを殺そうとした」
 ノアが、アルトを殺そうとした。
「殺そうとしたっていうのはおかしいかな。でも結論はそういうことだ。君がアルトの人格を消して、二人ともノアであろうとした。二つの体にノアの意識を共有させるのではなく、二つの体の両方にノアを存在させようとした。そんなことをしたらどちらのアルトも完全に消し去られてしまう。だから、僕は『二人のノアが表面化したところを狙って』片方を撃った。もっと早くそうしていればよかった。いつまでも僕がためらっていたから、あの東京襲撃の日にとうとうなってしまった」
「片方のノアが撃たれたら、もう片方のノアも撃たれたと意識し、もう表面化されることはない。生き残るのは『この』体にいるアルトの意識だけ。よくできたシナリオね」
「うまくいくとは思わなかったよ。でもアルトは助かった。それから六年、アルトは姉を殺された恨みを僕にぶつけることで生きてきた。あの東京襲撃が起きた理由、そして僕がノアを殺した理由を突き止めるために」
「それであなたは苦しまなかったのかしら」
「苦しいよ、今でも。それでも、アルトが生きていてくれることが僕の望みだから」
 会えば会うだけ苦しい。だが、自分が憎まれることでアルトが生きていけるのなら、自分は喜んで憎まれ役となろう。
「僕はドイツに来るのをためらっていた。アルトに会って、自分で自分を抑えられるかどうか、不安だった。そして、僕がアルトに会うことで、ノアを目覚めさせるのではないかと不安だった」
「で、実際に目覚めちゃったわけだけど、感想は?」
「ノアと話ができたのはよかったと思ってる。僕も少し、気持ちの整理ができた」
「ふうん? でも、アルトはどうするの? 上位種である私が望んでいる以上、劣化種であるアルトが表面化することはまずないわよ」
「分かってる。だから、さっき問い詰められたときも、僕は何も答えなかった。ノアを起こすのはまだ早いと思ったから」
 そう。
 この状況になる前に、既にエンはアルトと二人きりで一度話している。だが、そこでは自分は何も切り出さなかった。あえてアルトの話をただ黙って聞いていた。
『どうしてお姉ちゃんを殺したの』
『どうして私を殺さなかったの』
『どうして私の前からいなくなったの』
『どうして』
『どうして』
『どうして』
 何度も何度も受ける質問に、ただ自分は『ごめん』と謝るだけだった。
 アルトが自分を許せないと思っているのは当然のことだ。自分はノアを殺した。そればかりか、アルトの知らないところでもう一人のアルトも殺した。
「でも、私はこうして目覚めているわよ?」
「ああ。君が目覚めたのは僕との会話が原因じゃない。きっと、アルトがこの上ない不安に襲われたからだろう。ノアだって分かっているんじゃないのか。ノアはアルトの考えていることは全て把握できる上位種だろう」
「ええ、分かっているわよ。今のアルトに一番ふさわしい言葉は、動揺」
 くすくすとノアが笑う。
「自分がノアお姉ちゃんを殺した、と勘違いしているみたい」
「やっぱりそうか」
 アルトは自分の体の中にノアがいるということを知らない。だから考えれば考えるほど深みにはまる。
 自分は間違いなく寝ていた。それなのに何故姉の死んだところを見ているのか。その矛盾に今までは気づいていなかった。
 だからその矛盾に気づいたアルトはこう考える。自分は寝ていたのではなく起きていた、そして本当に寝ていたのはエンの方で、自分が姉を殺してそれをエンになすりつけているのではないか。
 実際、あのときのアルトの意識は混乱以上の何者でもない。姉が死んでいるという現状にただわめき、泣くだけだった。もし日本軍が第一東京に入ってくるのがあと三十分遅かったら、自分たちは六カ国軍に殺されていただろう。
「アルトはあの日見たことに対して、今ひとつ現実感を持てないでいる。僕を中途半端に責めていたのもそれが原因だ。もしかしてあの事件には第三者が関係しているのではないか、と無意識に感じてしまっている。まあ、実際ノアが二人いたわけだから、第三者がいたことには間違いないけど」
「考えればアルトが私を殺す理由なんてどこにもないのにね。どこまでも馬鹿正直な子」
 ふん、と笑う。
「でもそのおかげで目覚めることができたんだから、感謝しないといけないわね」
「僕が君を、そのままにしておくと思うのかい?」
 だがエンが好戦的に睨む。
「エンと戦っても私に勝ち目はないわよ。でも、この体の使用権をめぐる争いにエンが入ってくることはできないわ」
「そうだね。だから僕は君にお願いするだけだ」
「へえ?}
「アルトに会わせてほしい。僕の好きなアルトに」
「あなたが好きな私が、その願いを聞くと思っているの?」
「思っている」
「どうして?」
「僕がノアを殺したとき、ノアは抵抗しなかった。そして君も僕を止めなかった。つまり、君は僕の願いを聞いてくれるんだよ。たとえ自分が犠牲になっても。君と僕とは似てるんだ」
 それを聞いたノアがまたくすくすと笑った。
「ノア?」
「そんなことを言えば私がほだされるとでも思ったの?」
「まさか。でも、それが事実だと僕は信じている。だから君はアルトにその体を返してくれると思う」
「そうねえ」
 すると、ノアはするりと近づいてきて、ぎりぎりのところに顔を寄せる。
「キスしてくれたら、返してあげる」
「本当に?」
「本当、と言ったら?」
 そしてノアは目を閉じた。一瞬迷ったが、エンは唇が触れるだけのキスをした。
「それだけ?」
「でも、約束は守ったよ」
「まあ、いいわ」
 ふふ、と彼女が艶やかに笑う。
「私も目覚めたばかりであまりよく状況が飲み込めてないし、しばらくアルトにこの体、貸してあげる。でも、アルトに任せておけないと思ったらすぐに出てくるわよ」
「ノア?」
「それじゃ、またね。あ、そうだ。一つ忘れてた。ナンバー五十三!」
 勝手に体が動く。背筋をぴんと伸ばして、直立不動の体勢になっていた。
 やれやれ、習性とは全く恐ろしい。
「その名前、気に入ってくれた?」

 古城エン。自分の識別ナンバーから、ノアがつけた仮の名前。

「ノアがくれたものの中では、これほど嬉しいものはなかった」
「そう言ってもらえたら嬉しいわね」
 そして、彼女の意識が途切れる。
「アルト」
 がくり、と彼女の体が自分の方に覆いかぶさる。
「大丈夫か、アルト」
「エン……?」
 すぐに彼女は目覚めて、自分がエンに抱きしめられていることに気づき、あわててとびのく。
「なにしてんのよ!」
 これは怒られるところなんだろうか。
 エンは少し困ったが、やがて苦笑してから「なにもしてないよ」と答えた。
「それより、さっきシンジくんの部屋でしていた話」
「え?」
「別に心配しなくていい。アルトは僕だけ憎んでいればいい。僕がノアを殺したのは間違いないことなんだから」
 まっすぐに彼女を見つめて言う。
「突然、何を言うのよ」
「僕はノアを殺したことを絶対に償うつもりだし、それに、あの六カ国強襲のときに何が起こったのか、僕は何があっても突き止めるつもりだ」
 あの六カ国強襲のとき、自分たちが見たモノ。
「だからもし、アルトが僕を許してくれなくても、そのことについて協力できるのならしていきたいと思っている」
「都合のいい」
「そうだよ。僕は少し、欲張ることに決めたんだ」
 アルトは僕のことを嫌っている。でも、そんなのはどうでもいいことだ。
 自分の願いは、アルトの傍にいること。
『大丈夫?』
 そう言って心配してくれる優しさを持ったアルトの傍にいたいだけなのだ。
「シンジくんを待たせちゃってるね。戻ろうか」
「あ、うん」
 エンが振り返って小走りに行くのをアルトが追いかける。
 そしてようやく戻ってきた部屋。
「戻ったか」
 そこにいたのは、ヨウ教官だった。






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