その日の自由行動が始まる前、葛城ミサトは日本の適格者たちを集めて伝えた。
「今日は、完全な自由行動とします。適格者であることもガードであることも忘れて、限られた範囲と時間の中ではあるけど、充分に休みを満喫してきなさい」
「さすがミサトはん! 話が分かるで!」
 トウジがこれ以上ないくらいに喜んでいたが、ガード組は緊張した表情だった。
「じゃあ、ガードの仕事はどうなるんですか?」
 マイが素直に尋ねる。
「大丈夫。今日は警備をいつもの倍以上に増やしてあるから。あなたたちガードも含めて全員を守るつもりよ。安心して遊んでなさい」
「思う存分、写真が撮れるってことだな」
 ケンスケの眼鏡が光る。
「撮影禁止の場所は駄目よん」
「そのあたりはわきまえてますから大丈夫です」
「ケンスケの台詞じゃ信用できへんのう」
 何を、と二人がやりあう。それはまあ、いつもの通りだ。
「エンくんはどうするの?」
「シンジくんと一緒に回らせてもらえたら嬉しいな。それに、シンジくんにはどのみちアルトが一緒に来るよ」
「そっか」
「それにマリーさんやサラさんも」
「そうだね」
 なかなか楽しみな休暇になりそうだった。












第漆拾壱話



風に消された恋心












 四月六日(月)。

 ようやく自由行動の日となった。
 午前中はそれぞれ自由に行動し、午後からは全員集合してヴィリーとメッツァの試合を見にいくことになっている。
 二人は昨日のうちにチームに合流して練習を行っている。もともとハンブルクユースの中心メンバーだけに、二人がいなければチームが機能しない。練習も彼らが到着してから本格的に行われるらしい。
 さて、自由行動といってもマリーの件があったり、そもそもハンブルクを観光するにしてもガイドがいなければ満足に行動することもできないということで、結局はネルフバスであちこち見て回ることになる。当然全員一緒の行動だ。日本の八人、ギリシャ二人、フランス一人、イギリス一人、ドイツ一人。合計十三人。なかなかの大所帯だ。
 ガードたちもあからさまに張り付いているし、よっぽどのことがなければ問題は起こらないだろうという警備体制。
(マリーさんが危険といっても、この体制なら大丈夫だよな)
 エンは思うが、油断はできない。それに、自分がシンジの隣に、マイがヤヨイの、リオナがレミの隣にいる以上、マリーの隣にはアルトが並ぶことになる。万が一襲われたときには取り返しがつかない。
 そしてシンジを挟んで反対側には、
「あ、ねえねえシンジ、面白そうなの売ってるよ!」
 土産物屋で自由に買い物となったとき、サラはシンジと腕を組んで強引に歩いていた。あからさますぎる。シンジも困っているようだったが、こうなるとサラを止めるのも難しい。
 イリヤがいたときはうまく牽制されていたが、いないとサラの独壇場になってしまう。それはそれで問題があった。
 当然、その二人の後ろにいるアルトとマリーが面白いはずがない。特にマリーはシンジの後姿をずっと寂しそうに見つめているだけだ。
“ごめんね、マリー”
 前の三人に聞こえないようにアルトが英語で言う。
“?”
“つまらないよね。本当はシンジくんと一緒にいたいよね”
“そんなことはありません。アルトと一緒なのは嬉しいです”
“でもマリーがここに残ったのは、シンジくんと一緒にいたかったからなんだし”
“サラのように積極的になることはできませんから。それに、私ではシンジにはつりあいません”
 そんなことはない、とアルトは思う。それにシンジはあの様子だと、あまりサラのことは眼中にない。確かにサラは美少女だが、マリーだってお人形みたいに可愛くて、なおかつ性格がいい。アルトは完全にマリーびいきだ。
「ちょっと、エン」
 そこで、一つ手を打つことにした。マリーの手を引いて前を行く三人に話しかける。
「なんだい?」
「ちょっと話。あ、シンジくん、ごめんね。はい、これ、代わり」
 アルトはエンを引っ張ると、かわりにシンジのもう片方の手を取って、それにマリーの手を重ねる。
「え」
「あ」
 突然触れ合った手のぬくもりで、二人の顔が真っ赤に染まる。
(ん、シンジくん、故郷に彼女がいるって言ってたけど、これは案外脈あり、かな?)
 サラのように始終ひっついてくれば恥ずかしさもなくなってくるかもしれないが、マリーのように大人しい子だと、逆に手が触れるだけで緊張する、とか。
 まあ、いずれにしてもマリーのことを嫌っていないようで助かる。
「マリーはけっこうぽやっとしてるから、はぐれないように手をつないであげてて」
「え、あ、うん」
「じゃ、ちょっとだけ借りるね」
 そうしてアルトは二人から少し距離を置く。
「アルト」
 さすがにガードの仕事を放棄してまでマリーの恋愛応援をするつもりはないエンは、アルトを睨む。
「大丈夫。少し離れたところから三人を監視しましょう。ちゃんと助けられる距離で」
「でも、僕はいざというときにシンジくんの盾にならないといけない」
「分かってる。だから、三人からもちゃんと目に入るくらい。それこそ三メートルくらい離れてても問題ないでしょ? それくらい離れれば、小声で話せば聞こえないだろうし」
 ふう、とエンはため息をつく。ガードとしてはそんなことがあってはならない。だが、
「マリーの顔、見て」
「……」
 好きな人と手をつないで、真っ赤になって緊張するマリー。確かに輝いていた。
「私、マリーが気に入ってるの。あの子には幸せになってほしい。努力する人は報われるべきだと思ってる。あの子、冗談なしにアスカさんよりも努力してると思う。アスカさんもそれが分かってるから、ランクBでも彼女だけは昨日の実験に呼んでもかまわないって言ってた」
「それは分かるよ。ドイツまで来て一人でトレーニングするくらいだからね」
「そういう子なの。だからせめて今日一日くらい、初めて好きになった相手と一緒にいさせてあげたいと思うの。駄目?」
「でも、シンジくんもマリーさんも危険な立場なんだろう」 「分かってる。だから距離は絶対置かない。最大限注意を払う。少しだけでもいいの、お願い」
 ぴったり三メートルの距離を取って、三人の後ろを行くエンとアルト。
「仕方がないかな」
「え、じゃあ」
「実は、今日の自由行動の前に、葛城教官が僕ら八人、全員に言ったことがあるんだけど」
「うん」
「今日はネルフが全力でサポートするから、パイロットもガードも羽目を外していいって。もちろん僕ら四人、特に僕はパイロットから目を離すつもりは全くないよ。でも、だからって僕がシンジくんから離れてもネルフが今は守ってくれているからね」
「そうなんだ」
「はっきり目に見える黒服の人は当然、そこらへんにいる一般人の中にもネルフの人は多いよ。日本人観光客を見たらネルフの人だと思っていい」
 全員というわけではないだろうが、半数以上の日本人がネルフのガードなのは間違いない。今日はかなりの人員を配置しているようだ。おそらくここに到着した日、シンジが誘拐されたことが一つの理由になっているのだろう。
「でも、この距離から離れるわけにはいかないよ」
「それはもちろん。私はただ」
 アルトは、シンジに笑顔を向けるマリーを見る。花のように笑う彼女が可愛くて仕方がない。
「ああやって、マリーが少しでも幸せでいてくれればいいんだ。好きな人と手をつなぐこと。たったそれだけのことでも、すごい嬉しいことでしょ?」
「ふうん」
 エンはそう言ってうらやましそうにマリーを見るアルトの手を取る。
「エン!?」
「あ、いやなら振り払ってくれていいよ」
 エンは穏やかに笑う。
「アルトが僕のことを許せないのは当然だからね。でも、前にも言ったけど、僕はシンジくんのガードじゃなければ、守りたいと思っているのはたった一人だけだから」
「エン」
「だからこうしたいと思った。アルトがいやなら、振り払ってもかまわない」
 少し悩んだ様子のアルトだったが、やがてふうとため息をつく。
「仕方ないわね。ちょっとだけよ」
「アルト」
「嬉しそうね」
「もちろん。アルトは僕の初恋の人だから」
 アルトの顔が、さっと青ざめる。
「冗談でしょう。エンが好きだったのはノア姉さんなのに」
「どうしてそう思うの?」
「その名前をもらって、エンがすごい喜んでいたから」
「それはもちろんそうだよ。ずっとナンバー五十三、なんて呼ばれてて人間扱いしてもらったことなんてなかったから」
「だから姉さんを好きになったんでしょう?」
「僕が好きだったのはアルトだよ。今も好きだよ」
 手をつないだ相手を優しく見つめる。
「覚えてるかな」
「な、何を?」
「まだずっと子供のとき。怪我した僕にアルトが『大丈夫』って声をかけてくれたこと」
「……ええ」
「あのときからずっと僕は、アルトだけを思ってたよ」
 二人の会話が止まる。
 アルトの心が動揺しているのがエンには分かった。
「ごめん、エン。もう聞かないって思ってたんだけど、やっぱりどうしても気になる」
「アルト」
「お姉ちゃんを殺したのはどうして。その理由が分からないと、私、あなたに何も言うことができない」
 結局、問題はそこに戻るのだ。
 賑やかなショッピングフロア。三メートル先には自分たちが守るべき相手がいて、その後ろで小声でかわされる言葉。
 話すのは多分、この機会を置いては他にない。
 だが。
(ノアは、どうする?)
 今も、アルトの支配権を狙っているのか。それとも自分たちを祝福してくれるのか。
「私なら大丈夫」
 アルトは真剣な表情だ。
「どんな真実でも、目を背けないって決めてきたから」
 だが、真実を知る者にとっては、それがどれほど重たいことなのかがよく分かっている。
 アルトの意識は、メインであるノアの意識を補佐する副人格にすぎない、ということは。
 実の姉が、実の妹の存在を抹消しようとしていた、などということは。
 この妹は、姉の無償の愛を信じているというのに!
 エンは、そっと手を離す。そしてアルトから視線を逸らした。
「ごめん」
「エン」
「アルトを信頼していないわけじゃない。ただ、この秘密を僕は墓場まで持っていくことに決めた。それが死んだノアとの約束でもあるし、僕自身がそうしようと思っているから」
「こんな状態で、納得できるわけないじゃない」
「分かってる。でも、これだけは誰にも言えない。たとえアルトに嫌われても、憎まれても、殺されても、絶対に言えない」
 アルトはエンをじっと見つめてからさらに尋ねる。
「それは、私のため?」
 それすら答えてくれないのか、と視線が訴えている。エンは小さく頷いた。
「知らない方が幸せなこともあるって思ってるんだ」
「否定はしないよ。でも、そんなことじゃない。僕は、この事実を誰にも話すことができないと思ってるだけだから」
「やっぱり、聞かなければよかったかな。お互いこんな気持ちになるくらいなら」
 アルトはため息をついた。
「私もね、エンのことが好きだったんだよ」
「うん」
「すごく、すごくね、好きだったの」

 その言葉はもう、過去。
 そして、今の恋心への訣別。

「そうだったんだ」
「そうだったのよ」
 かすかにアルトは涙を浮かべているようだった。
「私と一緒にいて、エンは苦しくなかったの?」
「苦しいことだらけだよ。それでも君の傍にいられることが嬉しくて仕方がなかった」
 エンもまた同じだ。
 結局、これだけのしがらみを背負って相手を愛し続けるというのは、お互いに無理なのだ。
 好きだ、という気持ちだけで全てを背負うことはできない。
「でも、すっきりした」
 アルトは胸に手を当てて言う。
「いっそのことシンジくんとか狙ってみようかな」
「何言ってるんだよ」
「だって、エンよりずっと素直で可愛いし」
「否定はしないよ」
 と、前を見ると、突然動揺したマリーが二人のところに駆け寄ってくる。
「アルト、エン」
「どうしたの、マリー」
「サラガ、シンジヲ」
 しまった。
 二人とも完全に会話に熱中していて、肝心のガードについて頭から抜けてしまっていた。
 エンは素早く回りに視線を送る。黒服の一人が親指と人差し指でサインを送ってくる。
「大丈夫。ちょっとはぐれただけみたいだね。このフロアは出入り口が決まっているし、サラさんがシンジくんを独占したいと思ってるだけなんだろう」
「オゥ……」
「でも二人きりにしておくのはよくないな。早く見つけないと」
 イギリスの考えが分かっているだけに、洗脳でも何でもされかねない。
(?)
 そう考えたエンの脳裏に何かが警鐘を鳴らす。
(今、何か大事なことに気づきそうになった)
 だが、どうやらそれは考えても答が出そうにない。それにいなくなったシンジとサラを探す方が先だ。
「じゃ、まずは追いかけてみようか。フロアは有限だから、必ず見つかるよ」






 一方。
 マリーの隙をついて碇シンジのゲットに成功したサラは、彼の手を引いて三人から完全に距離を開けた場所にいた。
 広いマーケットフロア。そう簡単に見つかるような場所ではない。
 もちろんこの中から出ていくことができないのは分かっている。ただ、二人きりで話せる時間が欲しかった。
「ちょっと、サラ」
 シンジも巻き込まれて困っている様子だった。だが、相手のことを思いやってくれているのか、決して強引に振り払ったりはしない。
「あ、ソーリィ。突然走っちゃったりして」
「いいけど、こんなことをしたらエンくんが怒るし、マリーさんだって」
「シンジはマリーにラブだもんね」
「え?」
 そんなつもりはなかったので、軽く首を振る。
「そんなことはないよ。僕が好きなのは一人だけだから」
「故郷にいる女の子?」
「うん」
「ふーん。なかなか攻略難しいなあ」
 シンジより拳一つくらい低いサラが顔を覗き込んでくる。
「サラのこと、エンくんから聞いたよ」
 シンジは少し、声の調子を整えて言う。
「サラがこうして僕に接してくれているのは、僕がサードチルドレンだからで、イギリスからそう言われてるからだって」
「だと思った」
 サラが不満そうな顔でシンジを睨む。
「多分、そう思ってるだろうから、二人きりで話したかったの」
 サラの表情はいつになく真剣だった。






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