武藤ヨウの任務は多くて難しい。昨日はイギリス諜報機関の長と話したかと思えば、今日はギリシャ諜報機関の長と話すことになっていた。
 そもそもギリシャという国は、二〇一五年の現在でこそ平和な国家としての印象が強いが、前世紀は軍事独裁政権やクーデターの絶えない国だった。前半はドイツによる侵略と抵抗活動、さらには内戦が生じ、後半は軍事独裁政権が登場し、安定を見せるようになったのは一九八〇年代まで待たなければならなかった。
 その軍事独裁政権の末期、軍事治安警察長官であったディミトリス・イオアニデス准将がクーデターを起こし、新体制を築いた。一九七三年、十一月のことである。このときイオアニデスは自ら政権を築くことはせず、フェドン・キジキス将軍にその座を譲る。そして自らは軍事治安警察をさらに強化していく。
 キプロス紛争に際して軍事独裁政権は解体することになり、秘密警察もほとんどの職権が失われた。だが、イオアニデスの勢力はその中で確実に息づく。
 もともとギリシャにはHIS──Hellenic Intelligence Service、すなわちギリシャ情報庁という組織がある。そのHISの中にイオアニデス率いる非公開諜報機関、Hellenic Secret Agency、通称HSA(ギリシャ諜報部)が出来上がった。
 HSAは国内外を問わず、スパイ活動による情報収集・分析を中心とした部署である。その世界では名前が知られていて、現在の世界の諜報機関トップ五を上げるとすれば、アメリカのCIA、ロシアのFSB、イスラエルのモサド、イギリスのSIS、そしてギリシャのHSA、といわれるくらいのステータスを誇る。
 イオアニデスは現在既に退職しているが、今もなおギリシャの裏を仕切っているのは彼である。そして、現在イオアニデスの後継者として活動している人物。それが目の前にいる、イオアニデスの孫、アグネス・イオアニデスである。
「久しぶりね、ヨウ。アメリカの彼女は元気?」
 出し抜けに言われる言葉。ヨウは苦笑して答える。
「お前さんならとっくに知ってるんだろ?」
「もちろん。あなたより詳しい自信があるわよ。試してみましょうか?」
「いや、本人より詳しく知っている奴にはかなわねえよ」
 ヨウは肩をすくめた。
 アグネス・イオニアデス。ヨウが聞いたかぎりでは、彼女はいまだ二六才という若さのはずである。それがこのギリシャの中でも最重要の要職に就けられているということは、それだけの非凡な才能の持ち主ということだ。
 情報を制する者が世界を制する。彼女の自論はそこにあり、決して自ら表舞台には立たず、すべての情報をその手におさめようとする。それがギリシャを強くすることができると信じている。
「それで、こう見えても私も忙しいのだけれど、あなたのたっての願いだからここまで来たのよ。見返りはあるんでしょうね」
「そうだな。あんたが協力してくれるんなら、ギリシャが目の仇にしているトルコに対するネルフの現有情報をそっくりそのまま横流ししてもいい」
 アグネスは目を見張る。
 ギリシャにとってトルコは積年の仇敵だ。トルコにとってもそれは同じで、ギリシャのHSAに対して過剰に防衛しており、ギリシャとしては情報の入手が非常に困難になっている。目と鼻の先の国の情報が分からないのは、国防上でも問題が多い。
「たとえば?」
「対ギリシャの現有戦力や、武装、配置情報。極秘資料まで全部そろってるぜ」
「それは確かにありがたい申し出だ。アメリカやロシアの情報などいくらあっても無駄なんだ。トルコだけはどうにもならなくて困ってたのよ」
「そんなもんだろ。ま、お前のことだから、それなりに対策は立ててるんだろうが」
「立てても実行にまでいかないのよ。何しろ今の政府ときたら、目の前のトルコよりも国内を優先してるんだもの。そりゃ人口が増えれば対策も必要でしょうけど、それも敵国が黙っててくれればの話なのにね」
 ギリシャはセカンドインパクト後人口比率で、世界一位の一〇五.一%を誇る。セカンドインパクトからみて人口が増えている国家はギリシャと南アフリカだけだ。移民を過剰に受け入れているアメリカですら百%には到達していない。
 現在の世界情勢で人口が増えれば、食糧問題からエネルギー問題、環境問題まで解決しなければいけないことが山積みとなる。その対応に追われているのが現ギリシャ政府だ。
「だが、急ぐぜ」
「何が?」
「トルコはギリシャへの侵攻を考えている。それも今年中だ」
「まさか」
「そのまさかだよ。使徒侵攻に合わせてギリシャ全土を分捕る気だ。さすがトルコは抜け目ないな」
 アグネスの目に炎が灯る。それだけでも十分な情報提供だった。
「その情報を買おう。かわりに何をすればいい」
「たいしたことじゃない。だが、俺にとっては大切なことだ」
 ヨウは一度間を置いてから言った。
「今後の世界情勢、ギリシャが日本に味方するようにはたらきかけてくれないか」












第漆拾弐話



林の中に潜む影












 まだエンたちはサラとシンジを見つけられていない。別にそれほど目立った場所でもなければ、目立たない場所でもない。そんな中途半端な場所だからいいのかもしれない。
「私、さ」
 壁際。ぽつんと置かれているベンチに二人は座って話す。
「物心ついた頃からずっと訓練、訓練で。まあ、マリーとかアスカとかイリヤとか、あのあたりはみんなそうだと思うんだけど」
 その大変さはシンジには分からない。父親がどう考えていたのかは分からないが、少なくとも二年前までは自由に暮らすことができていた。
「その中で好きになりかけた人もいた。あ、この人いいな、って。でも、駄目なんだ。みんな底が浅くて。カッコイイ人もいればカワイイ人もいたけど、ドキドキする人はいなかった。そんな人を私は探してた」
「うん」
「それでね、興味があったのはオーストラリアのランクA適格者。私よりずっとシンクロ率が高くて、サードチルドレン候補って呼ばれてたの知ってる?」
「あ、うん。聞いたことはあるけど」
「彼に一度会ってみたいと思ってたんだ。そうしたらある日、突然、そんな気持ちをふっとばした一人の男の子がいたの」
「それが僕?」
「そう。だって、初シンクロで四〇%だよ? アスカと私、それにオーストラリアの彼。ランクAに一発合格したのはこの三人だけ。それでも誰も四〇%なんて数字は出なかった。アスカが最初に三〇%近くを出したくらい。二〇%ぎりぎりだったし」
「そうなんだ」
 思えばそんな数字の大小なんか知らなかったから、最初に見たときに四〇%という数値があまり高いものには見えなかった。今となってはそれがどれだけの数値かというのがよく分かるようになったが。
「名前とシンクロ率。それだけで私の心は決まったの。胸が高鳴ったのよ」
 サラが、えへへ、と表情を崩す。
「その意味で日本語が話せるのはありがたかったな。運命を感じた。私はきっと、碇シンジと結ばれるために生まれてきたんだって、そう思った」
「ちょ、ちょっとそれはオーバーだよ」
「思ったのは本当だよ。しかも国までバックアップについちゃって」
「国? イギリス?」
「うん。今回のドイツ訪問でサードチルドレンに会って、何があっても懐柔してイギリスに招くようにって。子供をなめきってるよね、本当」
 あはは、と軽く笑う。もちろん笑い事なんかではない。
「イギリスはどうして僕を?」
「サードチルドレンをイギリスで取り込み、EU内部での発言権を上げたかったんでしょ。何しろいまやEUはランクAとチルドレンあわせて五人を抱えているドイツの権限が強いったら」
 確かに五人という人数は非常に多い。何しろヨーロッパに九人しかいないのだから。
「だからイギリスはシンジに危害を加えるつもりは少しもない。ただ取り込もうとは思ってるけどね」
「困るよ。僕は英語話せないし」
「私がいれば大丈夫じゃない」
 そういう問題ではないのは二人ともわかっていて軽口を叩き合う。
「正直ね、写真を見たときはタイプじゃなかったの」
 それはそうだろう。シンジも自分がモテるとは全く思っていない。
「理想はさ、こう、背も高くてかっこいいちょっと年上の人で、白馬に乗ってやってくるような」
 どれだけ乙女チックなのか。だがそういうものに憧れるのが普通なのかもしれない。
「シンジは全然そういうタイプじゃなかったでしょ」
「まあね」
「でも、ちょっと試してみたかったの。だから、ごめんなさい」
「?」
「あれ、もう気づかれてると思ったけど、違った?」
 何のことを言っているのか分からない。
「助けに来てくれたでしょ、最初」
 最初──ああ、二日前、サラが襲われていたときのことだ。
「うん、だって悲鳴が聞こえたから」
「聞こえるようにしたのよ」
「?」
 まだ話が分からない。
「だから、私が襲われたのはヤラセ。あの黒服はみんな、SISの人間よ」
「シス?」
 何を言われたのか分からない。
「Secret Intelligence Service、通称、イギリス情報局秘密情報部。イギリスが抱えている諜報組織ね」
「諜報組織……そんなのあるんだ」
 そういうのは漫画やテレビの世界かと思っていたシンジをサラが笑う。
「日本だって内閣情報調査局があるでしょ」
「日本に?」
「驚いた。何も知らないのね」
「そういうのは詳しくなくて」
「でも、自分の国のことくらいは知っておいた方がいい。ただでさえシンジはアメリカに狙われているのに」
 そんなことまで筒抜けなのか。どうやら自分はひどくあちこちに知れ渡ってしまっているらしい。
「じゃあ襲われてたのは演技ってこと?」
「うん、ゴメンナサイ。シンジがどんな人なのか知りたかったから」
 本当に申し訳なさそうにサラが表情を暗くする。
「怪我をさせるつもりはなかったんだ」
「もちろん! 助けてに来てくれるのかどうか、それだけ見たかっただけなんだから! あと──」
 舌をぺろっと出す。
「ああしておけば、シンジの気が惹けるかなと思って」
 あっさりと言う子だ。だが逆にシンジはその方が好感が持てた。
「そうだったんだ」
「そうだったのです……騙してごめんね、シンジ」
「いや、それはいいよ。それに、謝るのは僕の方だ」
「?」
「ごめん。僕はサラのことを誤解してた。国の言いなりになっているだけの人だと思ってた。でもそうじゃなくて、きちんと自分で考えて行動してるんだって分かった。だからごめん」
「それこそNo problemよ。騙してたのは私の方だし、そう思われても仕方なかったから」
 それから「分かってくれて嬉しい」と満面の笑みで付け加える。
「それでね、これはまだ何も答えてくれなくていいんだけど」
 すう、はあ、と一回深呼吸。それからサラはシンジの目を見てはっきりと言った。
「私は、あなたに会う前から、ずっとあなたのことを考えていました」
 真剣な告白。
「好きです。答はいりません。でも、私がそう思っていることだけ、覚えていてください」
 こんなに。
 こんなに正面から、真剣に言われたのは初めてかもしれない。
 カナメのときだって、気づけばそんな雰囲気だった。でも、あのときは気恥ずかしさがあって、お互いの目を見ていたわけではない。
 でもサラは違う。サラは正面から切り込んでくる。
 何か言わないと、と思っていたところでサラの表情が笑顔になった。
「じゃ、そろそろ戻らないと三人が角出すだろうから、戻ろうか」
「え、あ、でも」
「ん? なに、私と一緒に回りたくなった?」
「そうじゃなくて! 今の……」
「だから、返事はいいよ。分かりきってるもん」
 あは、と笑う。
「でもね、まだ負けたとは思ってないんだ」
「え?」
「だって、人の思いは変わるものでしょ? 次に会ったときはシンジが私のことを好きになってもらえるかもしれない。だからシンジを好きでいるのはやめないから」
「……サラ」
「だからさ、今回のドイツ遠征は私がシンジの心の中に少し入り込めたことで満足! 次はもっとシンジを虜にするんだから、覚悟しててよね!」
 ぴしっ、と下から指を刺してくる。
 かわいいな、とシンジはサラのことを初めてそう思った。もしもこれがイギリスに言われて行っている演技だとしたら、これは間違いなく名女優だ。
「じゃ、戻ろう?」
 サラは笑顔でシンジの手を引いていった。






 二人が動き始めると、すぐに三人と合流できた。サラは笑顔で両手を合わせ「ソーリィ」と言う。
「謝ってすむ問題じゃないでしょ。いきなりマリーを置いていったりして。マリー、泣きそうだったのよ」
 アルトがすごい剣幕で怒る。もっとも、このフロアから出ていないことが分かっていたので、それほど大事になるとは思っていなかったが。
「シンジ、ヨカッタ」
 本当にうっすらと涙を浮かべていたマリーがシンジに笑顔を向ける。
「あ、うん。心配かけてごめん」
 ふるふるとマリーが首を振る。
「僕も、シンジくんを一人にしてしまってごめん」
 エンが言うとシンジも首を振った。
「それこそ気にすることじゃないよ。今日はガードの仕事だって休みをもらってるんだから。それに、黒服の人たちがあわててる様子じゃなかったから大丈夫だと思ってたし。エンくんもそうなんでしょ?」
 シンジも随分と周りが見えるようになってきた。エンは「まあね」とだけ答える。
「僕はサラと話してただけだから」
「分かった」
 後で情報を共有することを言葉の端に含ませる。エンもサラの前で追及することはしなかった。
「というわけで、あなたはこっち」
 アルトがサラの腕を捕まえて、がっちりとガード。
「ええ? だって、私、シンジと」
「二人っきりでゆっくりデートができたんでしょ? 残りの時間は全部マリーに譲りなさい」
「そんなぁ」
 しょぼんと落ちこむサラだったが、アルトはそんなこと気にしない。
「さ、シンジくん。マリーをエスコートしてあげてください」
「あ、え?」
 すると目の前には不安から解き放たれたマリーの姿。
「あ、えーと、じゃあ、一緒に行こうか」
 シンジが手を差し出すと、マリーは笑顔で「ウィ」と応え、その手を取る。
「むー」
「ふくれるんじゃないの。自業自得って言葉、知ってる?」
 三人から少し離れたところをサラとアルトが歩く。
 こうして、ショッピングが再開されることとなった。
「そういえば、マリーは何も買ったりしてないみたいだけど、何か買わないの?」
「ヒツヨウナモノ、ゼンブ、ネルフ、ヨウイシテクレマス」
 確かにその通りだが、こういうところにやってきて買うものは実用品ばかりではない。
「こういうところでは、思い出を買うんだよ」
「オモイデ?」
「そう。みんなで一緒に歩き回ってさ、いろいろ眺めたり食べたりしながら、そこを訪れた記念に買って、後からそれを見て思い出すんだ。マリーとこんなことを話したな、とかさ」
 マリーが『その発想はなかった』と、感心したように頷く。
「シンジ、スゴイ、デス」
「いや、褒められるようなことじゃないけど」
 隣を歩くエンはその初々しいカップルの行動を見ながら苦笑している。
「そうだなあ」
 シンジはきょろきょろと周りを見てから、マリーを連れて別の商品ケースのところへ連れていく。
「これなんかどう?」
 別に何ということはない、ただのハンカチが並んでいる。土産物らしく、一つ辺りの金額も手ごろだ。
「マリーだったら、こんなのが似合うんじゃないかな」
 ピンク色の地。プリントされているイラストは桜のものだった。
「キレイ、デス」
「気に入った?」
「ハイ、トッテモ」
 シンジは頷くと店員を呼んで包装してもらう。マリーがお金を出そうとネルフのIDカードを出そうとするが、シンジはそれを止める。
「これでお願いします」
 シンジは自分のIDを差し出した。
「シンジ」
「プレゼントするよ。気に入ってくれたみたいだし」
 笑顔で言うと、マリーはまた涙をにじませる。
「マリー?」
「ウレシイ、デス。トッテモ」
 笑顔で見合う二人。と、その後ろに立つ怪しげな影。
「カップル発見」
 ぼそっ、と呟く声に二人が驚いて飛び上がる。
「あ、や、ヤヨイさんに、マイさん」
「どうもー」
 マイは笑顔で手を振る。
「すっかりシンジくん、マリーさんとらぶらぶだねー」
「そういうつもりじゃ」
「手までつないでて?」
「こ、これはその! アルトにエスコートしてくれって言われて、それで!」
「大丈夫大丈夫。カナメには言わないでおいてあげるから」
「だから!」
「……背徳の香り」
 ヤヨイが無表情できついことを言う。
「で、どちらが本命?」
「それくらいにしておいてあげてください、谷山さん」
 エンが苦笑しながら言う。そして目配せする。
(この方がガードしやすいですから)
(あ、なーるほど)
 マイが頷く。
「でも、そろそろ集合時間だし、もう買い物がなければ行かない? せっかく一緒になれたんだし」
「そうですね。シンジくんとマリーさんは?」
「うん、大丈夫」
 マリーも頷くと、一同は一斉に動き出した。
「ところでさ」
 ずっと気になっていたことを、シンジは尋ねた。
「その荷物は?」
 ヤヨイの両手いっぱいの荷物を見て、シンジが尋ねる。
「土産物」
 分かってる。そうではなくて。
「黒服の人に預ければいいのに」
 ふるふる、とヤヨイは首を振る。
「ヤヨイさん、自分で持つって言ってきかないんです」
「荷物に負われ、疲労し、くたくたになるのが旅の醍醐味」
 ふっ、と汗だくのヤヨイがポーズをとる。全然かっこよくない。
 相変わらず変わった人だった。






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