午前四時。
 手術室の扉が開く。
 医師が沈鬱な表情で出てくる。
 そして、予想通りの言葉が告げられた。

「残念ながら、お亡くなりになりました」












第漆拾陸話



二度と届かぬ僕の声












「嘘よ」
 アルトががくりと崩れ落ちる。
「そんな」
 サラも両手を口にあてて、涙をこらえる。
「どうして」

 マリー・ゲインズブール。サードチルドレンをかばって銃弾に斃れる。

「僕のせいだ」
 シンジががっくりと泣き崩れる。
「マリー、マリー、マリー!」
 そして、遺体が運び出されてくる。
 その顔は、銃弾で撃たれたというのに、意外なほどすがすがしく、凛々しかった。
「遺言です」
 医師がシンジに向かって言う。
「一度だけ、意識を取り戻して、最後に彼女が言い残した言葉があります」
「なんて」
「シンジ、あなたのせいじゃないから、自分を責めないで」
 なぜ。
 どうして、自分が死ぬときまで、相手のことを考えられるのか。
「シンジくん」
 アルトが泣きはらした顔でシンジの手を取る。
「マリーは、シンジくんのことを」
「分かってる」
 最後に彼女が言い残した言葉。

『Je t'aime』

 愛してる。
 愛してる。
 初めて会って、ほとんど時間が経っていないにも関わらず。
 彼女は、全身でシンジを愛していた。
「僕だって、好きだった」
 シンジはそれをもう否定することはない。
 彼女の純粋さ、気高さに確かに惹かれていた。
「でも、もう会えない」
「そうですね」
 アルトはシンジを強く抱きしめた。
「シンジくんは、マリーの分まで、生きてください」
「でも、僕は」
「マリーは、自分よりもシンジくんを優先したんです。シンジくんはマリーの気持ちを無駄にするつもりですか?」
「そんなこと」
「それなら」
 涙がまたこぼれる。
「マリーが命をかけたことが誇りになるような、そんな人になってください」
 シンジは涙をこらえて頷く。
「分かった」
 マリーの分まで。
 彼女の分まで、自分にできることをする。
「マリーに誓う。どんなときでも、マリーみたいに全力で生きるって」
「マリーもきっと、浮かばれます」
 アルトがようやく目をぬぐう。そのアルトにエンがハンカチを差し出した。






 電話が鳴る。
 真っ暗な部屋の中、彼女──惣流・アスカ・ラングレーは一睡もせずにうずくまっていた。
 明け方近くなったその時間に鳴った電話に、一縷の望みをかけて出る。
 だが、夜半から始まった友人の手術は、結局失敗に終わったというものだった。
「マリー」
 アスカは電話を切ってから、左手で自分の前髪を掻きあげる。
「あんた、馬鹿よ。自分より大切なものなんて、この世界にありはしないのに」
 彼女の目からも、涙が零れていた。






 葬儀は明後日、フランス支部で行われることとなり、ドイツでは仮葬儀のみ行うこととなった。
 そして日本の適格者たちは一日帰国を延期し、ドイツ支部で行う仮葬儀に出席した。
 無論、既にフランスからはたくさんの弔問客が訪れている。
 彼らの、サードチルドレンを見る目は、一様に冷たかった。
 当然だ。サードチルドレンさえいなければ、彼女は死ななかったのだから。
 そんな中、葬儀会場でシンジの前に現れたのは、マリーと同じくらいの年の女の子だった。
「シンジ?」
 フランス語で話しかけてくる女の子。隣にいた通訳の女性が彼女の言葉を伝えてくる。
「サードチルドレン。彼女はエリーヌ・シュレマン。フランスのランクB適格者の一人です」
「じゃあ、マリーの」
「はい。同期で、彼女たちは親友でした。そのエリーヌがあなたに伝えたいことがあるということです」
「謹んで、聞かせていただきます」
 シンジが返事をしたのを見てから、エリーヌはフランス語でまたなにやら言い始めた。
「一昨日の夜、エリーヌはマリーから電話を取ったそうです」
「マリーから?」
「はい。日本のサードチルドレンに会った。すごく優しい人で、心が締め付けられるようだ、と彼女は電話口で話していたそうです」
「マリーが」
 さらにエリーヌは続ける。
「あなたに恋人がいるのも承知で、少しでもあなたの傍にいたかったそうです。マリーは今まで、誰も好きになったことがありませんでした。だからエリーヌも応援したかった、ということです」
 さらに続く言葉。
「そんなマリーの好きになった人だから、あなたをかばって倒れたことを、少しも後悔していないと思いますし、私も彼女が世界のためじゃなくて、自分のために死ぬことができて、良かったんだと思います」
「そんな」
「世界を優先して、自分のことを後回しにしてきたマリーですが、最後は自分の好きなように生きることができて、幸せだったと思います」
 そして、最後に彼女は締めくくった。
「彼女の分まで、幸せになってください」






 四月八日(水)。

 ドイツ支部を発つ日本の適格者たちをアルトが見送る。
 長い六日間だった。この短い日程の中に、なんとさまざまなことが起こったことか。
 泣きはらして一睡もしていないシンジの顔はひどいもので、仲間たちもその顔を見てただ肩を叩いて慰めるだけ。何も言葉はなかった。
 その彼らを見送るのはアルト。そして駆けつけてきたヴィリーとメッツァの二人だった。
「さようなら、シンジくん。次に会うときはもしかしたら使徒戦になるかもしれませんね」
 シンジも頷く。そして彼女の差し出す手を取った。
「お互い、死なないようにがんばりましょうね」
「うん。アルトも元気で」
 そしてヴィリーやメッツァとも握手を交わす。本当は一昨日の試合についていろいろと伝えたいこともあった。が、今はそうしたことに頭が回らない。それは二人も同じようだった。
「まったく、辛気臭い感じね!」
 その雰囲気を一瞬でぶち壊したのは。
「アスカ」
「全く、旅立ちのときくらいシャンとできないの、サード!」
 アスカがシンジの目の前に立って睨みつけてくる。
「えと、ごめん」
「何もしてないのに謝ってどうするのよ。これだから日本人は内罰的だっていうのよ」
 ふん、と一度視線をそらしてから、細い目で睨みつける。
「サード。歯を食いしばりなさい」
 え、と思ったが、すぐに言われた通りにする。すると、アスカから強烈なビンタが来た。
「な、なにすんねん!」
 トウジが叫ぶが、エンが片手で止める。今は割り込まない方がいい、ということだ。
「他の連中はみんな同じことしか言わないだろうから、アタシがはっきり言ってあげるわ。マリーが死んだのはアンタのせいよ、サード」
「分かってる」
「ならもっとシャンとしなさい! アンタはマリーが命を懸けた男なのよ! 自分はマリーに誇れる男なんだって、もっと背筋を伸ばして堂々となさい!」
 シンジは頬が痛んだが、それでもゆっくりと体を伸ばして、鋭い目でアスカを見た。
「そう、それでいいのよ」
 アスカがようやく挑戦的に笑い、そして叩いた頬をなでた。
「まったく、アンタには驚かされることばっかりね。でも、言っておくけどネルフのエースの座を簡単に譲ったりはしないわよ」
「マリーに誓うよ。僕は誰よりも強くなってみせるって」
「言ったわね。そう簡単にアタシより強くなれると思ってるの?」
「なってみせるよ。必ずアスカを超えてみせる」
 ふふ、とアスカが笑った。
「男はそれくらい、迫力があった方がカッコイイわよ」
 そしてアスカは、その叩いた頬に軽く口付ける。
「あ、アスカ!?」
「これは挑戦状よ、シンジ」
 アスカは笑って言う。
「アンタなんかには負けない。アタシに追いつかせたりはしないわ」
 そうして、出発の時間が来る。
 少しだけ立ち直った様子のシンジを、ドイツの適格者たちが見送る。
「驚きました」
 シンジたちのバスがドイツ支部を出発した後で、アルトがアスカに話しかけた。
「アスカさん。シンジくんを励ましてくれたんですね」
「何言ってるのよ。アタシはアイツを許すつもりなんかないわよ」
 だが、彼女の表情も声も棘が含まれている。
「マリーを死なせたアイツには、死に物狂いで使徒と戦う義務がある。それを分からせてやりたかっただけよ」
 それから、ふん、とそっぽを向く。
「さ。次はアンタたちの番よ。一ヵ月後にはアンタたちも起動実験をするんだから、今からしっかりと準備しておくのよ」
 ドイツ適格者たちはしっかりと頷いた。






 飛行機が離陸し、シンジたちは日本へと帰っていく。
 日本に着くのは八日の午後四時。ネルフ本部に着く頃には午後六時くらいになっているだろう。
 シンジは早々とブラインドを下ろして自分のスペースに入る。仮眠は少し必要だと聞いている。何しろまだ正午過ぎ。これから半日飛行機に乗れば、通常の感覚でいけば深夜になるはず。それなのに日本はまだ午後四時なのだ。時差というのは馬鹿にできない。
(マリー)
 彼女の笑顔を思い出す。何事にも真剣に取り組んでいた彼女。
 今までシンジが出会ったことのない人だった。その一生懸命な姿がとても綺麗で、そして、惹かれていた。
 そう。
 確かに彼女のことが、好きだったのだ。
(もう、会えない)
 そう思うと、また涙が出そうになる。
 だが、こらえる。
(マリー。君の分まで、僕は使徒と戦う)
 それが守られた者の義務だ。
 まったく、アスカは正しい。マリーは確かに自分の好きになった人をかばっただけだ。だが、かばった相手に価値がなければ、死んだマリーに対する風当たりは強くなるだけ。
 自分が誰よりも強くなることが、マリーへの恩返しなのだ。






 他のメンバーも各々自分のスペースに入る。ただ、ヤヨイだけが機内中央の共有スペースでモモンガのぬいぐるみとたわむれていた。
「ヤヨイさん?」
 話しかけてきたのはマイ。無表情でぬいぐるみ遊びをするヤヨイはどこか不気味だが、それが彼女の持ち味でもある。
「光が、弱くなった」
「は?」
 モモンガの両手を上げたり下げたりしながら、ヤヨイが突然言う。
「光?」
 マイは照明を見たが、別に暗いという様子はない。
「碇くんの周りに暗闇が見える。暗闇が碇くんの光を消そうとしている」
「え、えーと」
 ヤヨイの奇行は今に始まったことではないし、謎かけのような台詞も一度や二度ではない。
 だが、この時期にそんなことを言われては、当然意識しないわけにはいかない。
「マリーさんのこと、やっぱり強引にでも止めた方が良かったのかな」
 あえて尋ねてみるが、ヤヨイは首を振った。
「ベストな方法が分からないから、この世界からは悲しみはなくならない」
「でも、マリーさんが死ぬのは防げたかも」
「防げたかもしれないし、防げなかったかもしれない。今の結末を回避するために過去を悔やむのは意味がないわ。それよりも──」
 ヤヨイは言いかけて、止まる。
「それよりも?」
「──いえ」
 ヤヨイは首を振った。
「いずれにしても、今の私たちにできることは何もないもの」
 やけに意味ありげな言葉に不安を感じたが、ヤヨイはただぬいぐるみと戯れるだけでそれ以上は何も話さなかった。






 そして、日本に到着する。
 葛城ミサトが先導して動いていた一行だったが、ミサトが携帯の電源を入れたのを見計らったかのように電話が鳴った。
「こちらミサト──何、ですって!?」
 その顔が衝撃で固まる。
「どうしたんですか」
 エンが尋ねる。するとミサトは、ええ、と頷いてから何かに操られているかのように口にしてしまった。
























「カナメが、死んだって」






 一行に、二度目の衝撃が走った。






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