すっかり意気消沈したカナメをなだめるのは大変だった。
それにしても、ここまで相手を痛めつけるのだから、綾波レイおそるべし、というところか。
自分たちにとっては綾波レイも護衛すべきターゲットの一人。だが、自分にとって大切な妹分であるカナメをこれだけ苦しめたのだ。
ヨシノが綾波レイを快く思わないのも当然のことだった。
「まったく、自分がシンちゃんに振り向いてくれないからって、カナメにあたることはないでしょうに! まったく!」
ヨシノがカナメの部屋で変わりに声を上げる。
「いいんです、ヨシノさん」
「よくないわよ! チルドレンだからって、相手に何を言ったっていいわけが」
「いいんです!」
カナメが大きな声でヨシノをさえぎる。
「カナメ、あなた」
「レイさんだってシンジのことが本気なんです。気に入らないのは当然のことだから」
我慢している。
「何よ、それじゃあ諦めるつもり?」
「まさか!」
それだけは絶対にない、とカナメは首を大きく振る。
「認めてもらえなくても、私は努力するだけです」
「綾波レイを相手にするのは大変よ」
「でも、シンジだって私とレイさんが仲良くないのは困るはずです」
全く、こんなにいい子なんだから、綾波レイだって少しは考えてあげてもいいだろうに。
「分かったわ。でも、一人で悩んじゃダメよ。何でも私に相談して」
「ありがとう、ヨシノさん。やっぱりヨシノさんは頼りになる」
「なんだかね、あなたを見ていると放っておけないのよ」
そう。たとえカナメがクロだったとしても、この子は間違いなく碇シンジが好き。その気持ちに間違いはないのだから。
「それじゃ、また明日来るから、言われたことなんて気にしないでゆっくり寝るのよ?」
「はい。シンジにメールを書いたらゆっくり寝ようと思います」
「その意気その意気」
そうしてヨシノは部屋を出る。この後は八人会議だ。そこでコモモとゆっくり話し合う必要がある。
ヨシノがその足でコウキの部屋へ向かった。
それを見送った男が一人。
剣崎キョウヤ。
彼は足音を立てずにカナメの部屋にやってくると、二度ノックをした。
「はい? ヨシノさんですか?」
「いえ。保安部の剣崎です。お忘れですか」
「ああ、剣崎さん。ちょっと待ってください」
扉が開く。
「どうしましたか?」
「いえ、ちょっと話がありまして。失礼ですが、上がらせていただいてもよろしいでしょうか」
第捌拾話
揺
上がるといっても玄関先だった。剣崎はそこから先に入り込もうとはしなかった。
深夜で女性の部屋だ。さすがに男が一人で上がっていくのは相手にも警戒心をあたえかねない。ただ、通路で自分の姿をあまり見られるのは困る。
「本日、綾波レイさんとお話をされましたね」
「え」
あの場にいたのは自分とレイ、そしてヨシノとコモモだけ。それなのにどうして知られているのか。
「いえ、誰から聞いたわけでもありません。綾波レイさんには桜井コモモさんの他にも常にガードがおりますから」
「ああ、そうなんですか」
「会話の内容について、少し確認をさせてください。内容は碇シンジくんのことですね」
「ええと、はい」
「ああ、あまり気構えなくてもいいですよ。それについては本題ではないですから」
それは本題が別にあるという、相手への牽制。
「綾波レイさんがどれだけ碇シンジくんのことを思っているか、聞かれたのですね」
「はい」
「ショックだったでしょう。心中、お察しします」
「でも、レイさんだって真剣なんですから、幸せなのは私の方なんですし」
「そのために身を引くなどと、考えているのですか」
「それはないです」
きっぱりと答える。そう、シンジへの気持ちは真実なのだから。
「そうですか。では、本題に入りましょう」
少し声のトーンが変わった。それがカナメにも分かる。
「これは技術部がここまでのデータから導いた事実です」
一枚のプリントを見せられる。数値と折れ線グラフが描かれている。
「はい」
「あなたの存在は、碇シンジくんのシンクロ率を下げる影響を出しています」
カナメは一瞬、何を言われたか分からなかった。
「シンクロ率を下げる……私のせいで?」
「そうです。その可能性は以前から検討されていたのですが、今回のドイツ行きで完全に判明したと」
「そんな」
「その結論を下に、上はあなたに一つの決断を迫るつもりです」
実は既にその決断はされているのだが、できれば穏便に事を進めたい。
「あなたに、適格者を退いてもらう、と」
「適格者を、退く?」
「そうです。あなたが適格者でなく、ネルフからいなくなれば、碇シンジくんのシンクロ率はもっと上がる。ひいては世界の平和へとつながるのです」
「私が邪魔、なんですか」
「言葉は悪いですが、その通りです」
キョウヤが少し申し訳なさそうな声色で答える。
「まだ少し時間の猶予はあります。あなたは碇シンジくんに相談することもできますし、頼りになるガードもいる。それに、ネルフから出たとしても、一年もすれば使徒との戦いが終わるでしょう。そこで人類が生き残っていれば、改めて碇シンジくんと一緒に過ごすこともできます。でも、人類が滅びてしまったら一緒にいることはできません」
「……」
「すぐには納得できないのは承知しています。ですが、上は早くこの問題を解決したいと思っています。あなたに与えられる選択肢はおそらく一つだけです。上はなるべく穏便に事をすませたい。どうかご検討いただければ幸いです」
「……少し、少し考えさせてください」
「もちろんです。それに明日には碇シンジくんも帰ってくるとのこと。相談することもできます。ああ、そういえば碇シンジくんはそのことを知っているんでしたね。相談の必要はないかもしれませんが」
「え」
カナメはあっけに取られる。
「シンジが、知っていた?」
「ええ、そうです。確か野坂コウキくんと、染井ヨシノさんの二人から説明して、できれば一年間つきあわない方がいいと説得したはずです。それでもあなたが傍にいることを望んだのですから、愛されていますね」
「でも、シンジ、私には」
「あなたに心配させたくなかったのでしょう。知ってしまえば、シンクロ率を上げる妨げになっているとあなたは自分を苦しめることになる」
その通りだ。現実、既にその意識が出てきている。
「どうか、前向きに検討してください……それでは」
キョウヤは言うだけのことを言うと、部屋を出ていった。
「……嘘」
ぺたん、とその場に座り込む。
自分が、シンジの、妨げになっている?
そんなこと思ったこともなかった。確かにランクAになってからのシンジはあまりシンクロ率が上がっていなかった。それが全部、自分がシンジに近づいているせいだなど、突然言われても信じられない。いや、それは真実。おそらく剣崎キョウヤは自分を第三新東京から追い出すために真実を語った。真実を語ることが一番相手に影響が大きい。だからこの真実は揺るがない。それこそ、コウキとヨシノがシンジに言ったという。ということは他の適格者たちもこのことを知っている可能性が高い。シンジは自分のことをどう思っていたのだろう。シンクロ率がなかなか上がらないことを自分のせいにしていたのではないか。ヨシノは自分に頼れなどと言っておきながら心の中ではどう思っていたのだろう。自分がシンジと別れればシンジのシンクロ率が上がるのにと内心では自分を軽蔑していたのではないか。そういえば他の適格者たちもどことなく冷たく感じられる。みんなシンジのことが好きだから、シンジの邪魔をしている自分のことが嫌いなんだ。それに綾波レイ。彼女はただシンジの傍に自分がいることを気に入っていないだけじゃない。自分がシンジの傍にいることで、今まで自分がシンジのために犠牲となってきたことまでが失われようとしていることを怒っているのだ。でもそれを自分には誰も教えてくれなかった。誰も、誰も、誰も、シンジですらも。自分はたった一人。自分はそうしたら何を信じればいいのか。
「メール……」
そうだ。メールだ。今朝、シンジからメールがあった。あれには何と書いてあった?
急いで立ち上げる。そして、そこに書いてあることを確認する。
『今日、エヴァンゲリオン弐号機の起動実験が終わりました。
詳しいことは書けないけど、僕もそこで模擬プラグに乗ってシンクロテストをしたら、六三%も出ていました。
どうしてこんなに数値が高くなるのかは分からないけど、日本の代表として嬉しかったです。』
「嘘だ」
何が嘘か分からない。だが確実に嘘が仕組まれている。
数値が高くなる理由? 決まっている。自分がいないことだ。
技術部の総意だと、キョウヤは言った。つまり、技術部は自分を煙たがっている。
そしてシンジもそれを知っていて、メールを書いている。
それは自分には関係ないよと慰めているの? それとも自分を余計に苦しめるため?
「シンジ」
何が起こったのかわからない。
だが、シンジの言葉が聞きたい。
どうして自分がこんな運命を背負わなければいけないのか。
「シンジ……」
震える手で、パソコンのキーを叩く。
尋ねたのは、たった一言。
『シンジは、私がいることでシンクロ率が上がらなかったことを、知っていたの?』
事実が知りたい。
いや、キョウヤの言葉が確かだとするなら、シンジはそれを知っていて自分と付き合うことを選んでくれたのだ。
「シンジ……教えてよ。声を聞かせてよ」
携帯を手に取る。
現在、午後十時五四分。ドイツは今、午後三時五四分。
今日は一日自由行動だ。電話をかければ、つながるかもしれない。
震える手で、シンジの携帯に電話をかける。
『おかけになった番号は、現在、電源が入っておりません』
こんなときに。
どうしてこんなときに、都合が悪いのだろう。
でも、大丈夫。
何もなければ、シンジだって着信があったことに気づくはず。
こちらから何度もかければ、緊急性が高いって分かってくれるはず。
でも。
自分が何回もかけたら、シンジにうっとうしいと思われるかもしれない。
それは嫌。
「どうすればいいのよ……」
カナメは椅子の上で、自分の膝を抱いてうずくまった。
そして八人会議が始まる。
今日一日の成果は何もなかった。それどころかカナメが精神的においやられることになってしまった。
「だが、急がないとな。もしもカナメがアメリカの手先とかだったらどうする?」
「そのときは私の命に代えても止めてみせるわよ!」
ヨシノは怒っていた。理不尽な中傷がカナメに飛ぶのも許せなかったし、カナメを傷つけたレイも許せなかった。
何より、彼女を守ることができずにいる自分が許せなかった。
「カナメは誰よりもシンちゃんのことを愛しているわよ。ずっと一緒にいればそれくらいのことは分かる」
「だが、入れ替わってるのは事実だろう」
「たとえ入れ替わっていたとしてもよ! それがシンちゃんに関係してないことかもしれないじゃない! カナメがシンちゃんのことを好きなのは絶対なんだから!」
「感情的になるなよ、お前らしくない」
コウキが言う。ふう、とヨシノも一息ついて「ごめん」と答える。
「だが、できればシンジが帰ってくる前に決着をつけておきたい。さっきも言ったが、カナメがアメリカの手先だとしたら、もう奴らはなりふりかまってはこないだろうからな」
「正体を明かせば展開も変わる。味方になってくれるっていうんならそれが一番じゃねえか」
コウキが言うと、場が明らかに和んだ。
そう、カナメがもし入れ替わっていたとしても、その事実を前提にして仲間になるというのであれば逆に心強い味方が増えることになる。
「私が説得するわ。必ず」
「お前じゃダメだ。感情的になりすぎている」
「でも」
「言った通り、俺とタクヤとでやる。ヨシノは一緒にいろ。だが、口出しは一切するな」
「いいわ。でも、不当な発言があったら許さないわよ」
「当たり前だ。そのためにお前がいるんだからな。明らかにしたいのはカナメの正体だけだ」
「いつ?」
「朝のうちにやろう。そうしないと午後にはシンジが帰ってくる」
「いいわ」
そうして八人会議は終了した。だが、ヨシノはさらにコモモに尋ねる。
「コモモ」
「分かってる」
コモモはヨシノに頭を下げた。
「話の内容は聞いた。レイさんは自分の言いたいことを全部言った。でも、余計に相手を傷つけた。それはいけないことだ。レイさんにはさっき、きちんと言った。でもこの場に連れてくることは当然できない。だから私が代わりに謝る。ごめんなさい」
よどみなく、はっきりと答える。
コモモは自分が悪いと、レイが悪いと分かっている。だからきちんと反省し、その気持ちを伝えている。
「まったく、だからあなたは苦手なのよ」
ヨシノは苦虫を噛み潰す。
「あなたが謝ってることを疑えるはずがないじゃない」
「本当にごめん」
「いいわよ。綾波さんも分かってくれてるんでしょう」
「ああ。それだけは私の名誉にかけて。ヨシノがカナメのことを思っているのと同じくらい、私だってレイさんのことを思っているんだ」
「それでいいわ。明日はもう少し、穏やかになるといいわね」
ヨシノはそう言って立ち上がる。
「空気を悪くしてごめんなさい」
最後にヨシノは言い残してから、一番に部屋を出ていった。
「どう思う?」
ジンがカスミに尋ねる。
「あまりよくないな。冷静さがなくなったら見えるものも見えてこねえ」
「同感だ。まあ、あいつが言うくらいだから、カナメがシンジのことを思っているのは本気だとしても、それならつじつまが合わない」
「そうだな。何かもう一手ほしいところだ」
次へ
もどる