朝になった。
 ほとんど一分置きに、カナメはメールの送受信記録を確認していた。
 電話は一時間置き。そのいずれもが電源が入っていなかった。
 電池が切れているのだろうか。それとも切りっぱなしで忘れてしまっているのだろうか。
 午前七時。向こうの時間でも四月七日になった。
 結局、メールは届かなかった。
「毎日メールするって約束したのに……」
 嘘をつかれた。
 それも、たった一言。
 自分が、相手の心理を知りたかったことを書いたから。
「私が知ったらいけなかったの?」
 涙がにじむ。
 今、一番声をかけてほしい相手から、一言も声をかけてもらえない。
 一睡もしていないカナメにとって、これほどの苦しみはない。
「シンジくん、シンジくん、シンジくん」
 涙が止まらない。

 それでも、一日は始まる。












第捌拾壱話
















 四月七日(火)。

 今日の夜にはシンジが帰ってくる。
 いろいろな意味で動き出す一日。
 カナメはシャワーを浴びてから、目薬をさす。さすがに真っ赤に充血した目で何をするわけにもいかない。
(今日の格闘訓練は悲惨なことになりそう)
 徹夜明けでは何もできやしない。
 それでもやることをやらなければいけない。適格者とは大変な仕事だ。
 そこに、インタフォンが鳴って、カナメがびくっと反応する。
 今、一番会いたくない相手。それが、部屋の前にいる。
「はろはろー。開けてくれる?」
 インタフォンの向こう側で、笑顔で話しかけてくるヨシノ。こちらからはカメラで向こうの顔は見えても、相手にはこちらの顔は見えない。
「ごめんなさい。ちょっと具合悪くて……」
「ええ!? だったら寝てないとダメじゃない。何か食べた? おかゆ作ろう──」
「大丈夫。寝てれば治るから、きっと格闘訓練は大丈夫だから」
「でも」
「いいから!」
 声が荒くなる。いけない、こんなことではいけない。
「カナメ……」
 ヨシノも少し涙腺が緩む。
「昨日、大変なことがあったのは分かってる。綾波さんとあんなことがあったばかりだからね。でも、私、本当にあなたの力になりたい。あなたが苦しんでいるのなら、傍にいてあげたい。だから、私を、入れてくれないかな……ダメ?」
「ヨシノさん」
 だが。
 昨日のことが、頭をよぎる。
 綾波レイのことではない。
 剣崎キョウヤが言った、最後の言葉。

『確か野坂コウキくんと、染井ヨシノさんの二人から説明して、できれば一年間つきあわない方がいいと説得したはずです』

 ヨシノが知っていた。
 それなら、今確認すればいい。
 シンジが知っていたのかどうか、ヨシノが全て知っている。
「……ヨシノさん。じゃあ、一つだけ教えてください」
「何?」
「私がいるせいで、シンジくんのシンクロ率が上がらないことを、知っていたんですね?」
 ヨシノの呼吸が止まる。
「誰からそんなことを?」
「本当なんだ」
「待って。それは、私たちが」
「もういい……ごめんなさい。今は、ヨシノさんにあわせる顔がない。それでもヨシノさんは優しかった。そのことは、忘れてないから」
「勘違いしないで。私はそんなこと関係なしにあなたを」
 ぷつっ、と途切れる。
「カナメ」
 ぎりっ、と歯を食いしばる。
 誰がいったい、このことをカナメに告げたのか。
 カナメがこれを知れば、絶対に自分を追い込む。この事実を知って平然としていられるなら、それは人間である資格がない。
「カナメ。聞こえるなら、聞いて」
 手を扉に置いて言う。
「私は何があってもあなたの味方。それを忘れないで」






 ヨシノはそのまま部屋の前にいた。
 ただ立っているだけだと疲れるので、その扉に背をもたれさせて座っている。
 時折自分のことを見て通り過ぎていく適格者がいたが、そんなものは無視。
 カナメが一人で苦しんでいるのだ。せめて、可能な限り近くにいてやらなくてどうする。
 やがて十時になると、予定通りジンとタクヤがやってきた。
「どうしたんだ、ヨシノ」
 ジンがうずくまっているヨシノの肩を叩く。
「嫌われちゃった」
「嫌われた? お前が?」
「うん。カナメ、自分がシンちゃんの枷になっていること、知ってる」
 ジンとタクヤの表情が変わる。
「誰がそれを」
「分からない。教えてくれなかった。というか、最初から入れてくれなかったんだけど」
「お前が知っていることも」
「知ってた。それでもう、顔を合わせたくないみたい」
「それは違うだろ。カナメはお前を嫌ったんじゃない。お前に合わせる顔がないと思ったんだ」
「あわせる顔……?」
「お前ならどう思う。相手が自分のためにずっと何かしてくれている。その相手は自分を助けることで不利益を被るんだ。その相手に会えると思うか」
「あ……」
「やれやれ、こういうところは本当に子供だな、お前は」
 ジンはヨシノを立たせる。
「ま、いずれにしてもこのまま引き下がるつもりはない。好都合だ」
「これ以上、カナメを苦しめるつもりなの?」
「まあ、そうなるかもしれない。だが、事実をいつまでも放置しておいていいことはないぜ。それなら事実を全部あいつにぶちまけて、逆にあいつからも事実を引き出す。事実は知ってしまえば苦しいが、それ以上余計なことで惑わされることだってないんだ」
 ジンはためらわずにインタフォンを押す。
「……はい」
「ジンだ。タクヤもいる。それから、ヨシノはこの部屋の前にずっといたそうだぞ」
「え」
「話がある。お前の知りたい事実もいくつか説明できるはずだ。同時にお前からも話を聞きたい。開けろ。ランクB適格者の言うことなんか聞きたくないというのでなければな」
 その言い方はずるい。カナメを悪者にしてしまう。
 しばらくためらった後、扉が開いた。
「安心しろ、美綴カナメ。俺たちは味方だ。ま、味方だって言う奴の方が危ないってことはあるが、それはお前がヨシノを味方だと思うかどうかで判断してくれ」
 ヨシノは最後に入ってきた。そしてカナメを見つめる。
「ごめん」
 ヨシノは顔を背けた。
「ごめんねえ、カナメ……力になれなくて」
 ジンとタクヤはさっさと中に入った。
 ヨシノは、泣いているところなど、見られたくないだろうから。
「ヨシノさん」
「私、あなたの力になりたかっただけなのに、全然力になれなくて……悔しくて。ごめんね、本当に、ごめんね」
「違います。ヨシノさんのせいなんかじゃない。私が、全部私のせいなのに」
「あなたのせいじゃない。あなたはただシンちゃんと一緒にいたいと思っているだけ。それが一緒にいられないなんて間違ってる。好きな人と一緒にいることができない世界に何の価値があるの? そんなの滅んでしまえばいい。私、何があってもあなたたちの味方なんだから。世界を敵にしたって、あなたたちを絶対に守ってみせるんだから……っ!」
 ヨシノは感極まってカナメに抱きつく。
「ありがとう、ヨシノさん。私、諦めない」
 カナメはゆっくりと呼吸する。
「誰に何て言われても、私は絶対に諦めない。レイさんのことも、シンクロ率のことも」
「誰にも何も言わせない。私が言わせないわよ」
「頼もしいです」
 カナメが笑顔で答え、ヨシノの涙をぬぐう。
「でもその前に、知りたいことがあります」
 カナメは険しい表情で部屋に戻る。
「お待たせしました」
「いや、大丈夫。ヨシノは落ち着いたか?」
「あなたに心配されるまでもないわ。大丈夫」
 ジンの言葉に、少し機嫌を悪そうにしてヨシノは洗面所に入っていった。さすがに泣いた顔はあまり見せたくないというものだ。
「最初に聞いておきたいんですけど、私がいるとシンジのシンクロ率が下がるっていうのは本当ですか」
「キョウヤさんや技術部の情報だから、事実かどうかは分からない。ただ、俺たちはそうだと思っている」
「ランクA適格者とガード全員ですか」
「シンジと同期の奴は全員知ってる。後はカズマとタクヤ。これだけだ」
「じゃあ、レイさんは知らない?」
「他から聞いてるんでなければ知らないはずだ。まあ、向こうは向こうで違うこと知ってそうだけどな」
 やはり情報というのは大事だとカナメは思う。自分勝手にすべてを悪い方向へ考えてしまっていた。もちろんジンが嘘をつく可能性もあるが、そこまで考えていてはどうしようもない。
「ヨシノさんとコウキくんが、シンジに話をしたっていうことを聞いたけど」
「事実よ」
 戻ってきたヨシノが答える。
「シンちゃんに一番話しやすいのは誰かを私たちで考えて、私とコウキが代表として話すことになった。ただ、そのときはまだ本当にシンクロに影響があるとか、そういう感じじゃなかった。シンちゃんが他の誰かと付き合うのが、どういう影響が出るかが分からないっていう不安要素だけがあった感じ。でもシンちゃん、カナメのことがすごくお気に入りで、絶対に譲れないって。愛されてるわね、カナメ」
 また顔が赤くなる。だが瞬時に沈静化した。
「でも、シンジ、昨日はメールをくれなかったんです」
「メール?」
「はい。毎日メールしてるのに、昨日だけくれなかったんです」
「何かメールに特別なこと書いた?」
「シンクロ率のこと知ってるのかって」
「あちゃあ」
 ヨシノは頭を抱えた。
「あのシンちゃんがそれを見て、冷静でいられるはずがないじゃない」
「やっぱりそうですか」
「ま、単に向こうで何かが起きてるだけかもしれないしね」
「何か?」
「ドイツの適格者が撃たれたって話、聞いてない?」
 カナメは完全に初耳という様子だった。
「撃たれた? 誰が?」
「だから、ドイツの適格者。ランクBだったっけ」
「ああ。重傷だそうだな。それに続報がある」
「続報?」
「なんでも、フランスの適格者もその後、ネルフドイツ支部内で撃たれたらしい。こちらも重傷。それもかなり、危険らしい」
「シンジは大丈夫なの?」
「まあな。だが、そのごたごたで今日の便には乗れなくなったらしい。明日の便になるそうだ」
「じゃあ、シンちゃんが帰ってくるのは」
「今日ではなくて明日、ということだな」
 それだけのことが起きているのだとしたら、シンジと連絡がつかないのもやむをえないのかもしれない。
「いろいろなことが起きてるんですね」
「そうだ。シンジもいろいろと苦しんでるはずだ。お前も苦しいだろうが、シンジを慰めるのはお前の役目だぞ、カナメ」
 カナメは頷く。そう言われれば自分でも意識せざるを得ない。
「そして俺たちは、そんなお前に確認しなければいけないことがある」
「なに?」
「お前の正体だ。お前はこのネルフに来る前と来た後とで完全に別人になっている。今のお前はどこの誰なのか、それを明らかにしたい」
 カナメは何を言われたのか分からず、頭の中で繰り返す。
 それから答えた。
「どういうこと?」
「どうもこうもない。お前の履歴を調べた。お前の家族にも会った。明らかにお前とは別の人間だった。どういうことか説明がほしい」
「ちょ、ちょっと待って。何それ、どういうことか分からない」
「分からない?」
「うん、何も。両親に会ったって、私の?」
「ああ。カスミが日曜日に行ってきた。確認のためにな」
「ごめん、ちょっと待って」
 心臓がばくばくと動いているのが分かる。
 何か、今の話は、変だ。
「私、今度は、何を疑われてるの?」
 ジンとタクヤは視線を交わす。かわりにタクヤが話しかけてきた。
「僕たちが疑っているのは、美綴さんが日本ではないどこか別の国のスパイか何かではないか、ということです」
「私が!?」
「美綴さんが、です。どれだけ一目ぼれといっても、美綴さんが碇くんに出会ってからつきあうようになるまで、とても早い時間でした。もしかしたら別の国のスパイか何かで、碇くんに近づいたのではないか、と考えたんです」
「そんな、私、そんなんじゃ」
「でも、美綴さんの実家でもらってきた写真には、今の美綴さんの姿は映ってないんです」
「そんなことない! 私、何も知らない!」
「だが」
「待って」
 それまで、ずっと黙っていたヨシノが声をかける。
「カナメ。私に、嘘をつかないって、誓ってくれる?」
「え」
「一度だけでいい。それで信じる。あなたは嘘をついていないわね? あなたは本当に、何も知らないのね?」
「知らない! 知らないよ! ジンくんやタクヤくんが言ってること、全然分からない!」
「いいわ。分かった」
 ヨシノは彼女を抱きしめると、その背中をぽんぽんと叩いた。
「おい、ヨシノ」
「大丈夫。今のやり取りでよく分かったわ。この子はね、本当に知らないのよ、自分のことを」
「何」
「カナメ。いい、落ち着いて聞いて。大丈夫。私たちはみんな、あなたの味方なんだから」
 そしてヨシノは断言した。



「あなたは多分、ネルフに来る前に何者かによって洗脳されている。そして自分が美綴カナメだと信じ込まされているのよ」






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