洗脳。
物理的暴力や薬物、さらには精神的な意識の植え付けなど、強い外圧を加えることによって生じさせる精神操作のことを言う。
もともと持っていた意識を破壊し、全く別の意識へと変更させてしまうため、洗脳を受けた人間は自らが洗脳されたということを認識することはできない。
本来の意識はどうなるかといえば、完全に破壊されてしまうため、なくなってしまうというのが通説である。また、新しく生まれた意識の方は植えつけられる意識の思考パターンが少ないことから、どこか幼児性がぬけきれないところがある。
第捌拾弐話
操
「せ、洗脳……?」
ヨシノの自分を見る目が悲しげだ。
「自分が洗脳される前のことを尋ねられると、過度に声を荒げたり暴力的になったりすることが多いわ。私はそんな人を何人も見てきた。今のあなたはそうした人たちと全く一緒。洗脳された人によく見られるパターンよ」
「何、それ」
「カナメ。あなたは何も知らない。それが当然。きっとあなたは他にも何か洗脳されていることがあると思う。でも、その洗脳を一度解いて、あなたがいったいどこの誰なのかを明らかにしないといけないわ」
「どうして」
「もしもあなたがアメリカの手先だった場合、シンちゃんを殺す可能性だってあるから」
カナメの顔が青ざめる。そんなはずがない、と頭を振る。
「それなら……それなら!」
カナメが敵を睨むようにヨシノを見る。
「私の中にあるこの記憶は何!? 名古屋にいるお父さんお母さん、小学校のときに優しくしてくれた先生、仲の良かった友達、そして、そして、シンジを思う気持ちが全部、洗脳されたものだっていうの!?」
「シンちゃんのことは分からないけど、両親や友人のことは、そうよ」
「嘘よっ!」
「洗脳されていない人はね、カナメ」
ヨシノは悲しげにカナメを見つめる。
「そんなことを言われても、動揺したりはするけど、取り乱したりはしないの。取り乱すのは洗脳されていることを、無意識で理解しているから、それを否定したがっていることなの。でも、大丈夫。シンジへの気持ちは今のカナメの気持ち。その気持ちに嘘はないでしょう?」
「あ、当たり前、だよ。シンジが好きだもん。シンジ、シンジ、シンジ……」
「でも、あなたにかけられている洗脳の内容によっては、もうシンジに会わせることはできないわ」
「どうして」
「さっきも言ったけど、シンジに近づいて、シンジを油断させておいてから、殺す。そんな命令を受けているのかもしれない。だから、どんな洗脳を誰から受けたのか、それを明らかにしないといけない」
「いやっ! 私、洗脳なんかされてないっ!」
「カナメ」
「嫌い! そんなこと言うヨシノさんなんて嫌い! 出ていって! 私をいじめないで!」
「カナメ、聞いて」
「いやっ!」
「シンちゃんと一緒にいたくないの?」
びくっ、とその体が痙攣する。
「い、いたい、よ……」
「それなら、洗脳を解いてもらって。ネルフにはそういう専門家がいる。もし洗脳されてなければそれでよし、洗脳を受けていたとしてもそれが解ければカナメはここにいられるんだから」
「も、もし、洗脳がとけたら、この気持ちはどうなるの」
カナメがもう泣きはらした目で見てくる。
「もしもこの気持ちが洗脳されたものなら、私の気持ちがなくなっちゃう。シンジが好きなこの気持ちはどうなるの」
「どうもならないわ。洗脳が解けても今の気持ちがなくなるわけじゃない」
「いやだよ。そんな怖いことできない。シンジに会いたい。シンジ、シンジ……」
と、そこへジンとタクヤが視線をかわす。タクヤが頷いて外に出た。
「ヨシノ」
ジンが言葉を入れてくる。
「カナメが洗脳されているというのは間違いないか?」
「間違いないわね。カナメの反応は症例テストの基本パターンそのままだもの」
「じゃあ、今すぐにでもそれを解除しないといけないな」
「ええ、そうね」
「決まりだな。カウンセラーを呼んだ方がいいか」
「キョウヤさんに手配してもらうのが一番だと思うけど」
「キョウヤさんか。だが、カナメの件に関してキョウヤさんはあまり信頼できないぜ」
「上が煙たがってるものね。私たちで病室まで連れていく?」
「それがいい」
「いやっ!」
肩に手を置こうとしたカナメがそれを振り払い、玄関へと逃げ出す。
「あっ、カナメ」
「大丈夫」
ジンが言う。と、そのカナメが向かった先、玄関には既にタクヤがいた。
「美綴さん。お願いです、一緒に行きましょう」
「いや、いや……」
「大丈夫よ、カナメ。お願い、私たちを……私を信じて」
「シンジと一緒にいたいなら、これが最善の方法だ」
「いやっ!」
ジンはその瞬間、手刀をカナメの首筋に落とす。すると、がくり、と力が抜けてカナメがタクヤの方に倒れた。
「何、今の」
「よく漫画とかであるだろ。一瞬で気絶させる奴」
「普通、そんなのできないわよ」
「お前にもいろいろあったように、俺にもいろいろあったんだよ」
ジンがタクヤからカナメを受け取って抱き上げる。
「とにかく病室だ。今日は訓練とか言ってられないぜ。事態は緊急だ」
「もちろん」
そうして三人はカナメを連れて病室へ向かった。
「それにしても、さっきまでは聞き分けが良かったように見えたんだけどな」
「洗脳されている人は、そのことに触れられると人が変わったように周りを全て否定しようとするのよ」
「でも、かわいそうですね、美綴さん」
タクヤが心から悲しげに言う。
「美綴さんはただ碇くんが好きなだけなのに、どうして」
「カナメには言わなかったけど、それも洗脳の効果よ」
「洗脳の?」
「多分、最初から『碇シンジを好きになるように』って洗脳されていたんだと思う。ただ、こういうのは後から繰り返し洗脳しないと力は強まることがないんだけど」
「だとしたら、シンジへの気持ちっていうのは」
「正真正銘、カナメ本人のものよ。最初の動機付けだけは洗脳を受けたかもしれないけど、そんなのは吊橋効果みたいなもので、それからもずっと好きで居続けるのは困難。繰り返し洗脳を受けていない限り、カナメは本当にシンジが好きなのよ」
「それがカナメに分かってくれればいいんだがな」
「今の状態じゃ無理よ。洗脳が解けないことには」
「なら、余計急がないとな」
「結論から言うと、この子の洗脳は解けない」
だが、カウンセラーの言葉は無情だった。
「どうしてですか」
「今、脳波測定を行った。目が覚めてもう少し話ができればまた違うだろうが、この子は既に以前の記憶を完全に失い、美綴カナメという一個人であるアイデンティティを完全に確立している。この子の洗脳を解くということは、彼女のアイデンティティを崩壊させることになる。彼女が美綴カナメではない別の人間だったとしても、彼女自身は既に自分を美綴カナメだと完全に認識している。それは君たちが倉田ジンであったり、榎木タクヤであったり、染井ヨシノであったりするのと全く同じだ。彼女を廃人にしたいというのなら、別だが」
「じゃあ、洗脳されているのは間違いないんですね」
「それは間違いない。彼女がネルフに来る前までの記憶は後付けされたもの。その痕跡は脳波に表れる」
「洗脳の内容を呼び起こすことは?」
「できなくはないが、彼女が協力的になってくれるかだな。君たちの話を聞くと、相当抵抗したそうじゃないか」
「洗脳を受けた人間には、一秒でも早く洗脳されているという事実を知らせるのがマニュアルだから」
「よく知っているね。洗脳を受けたということを認識するまでには時間がかかる。問題はそれを否定して疑心暗鬼になることだ」
「でも、カナメがここに来たのは一年ちょっと前よね。そんなときから今までずっと洗脳が続くなんてことがあるんですか」
「よほど強い洗脳を受けていれば別だが、それよりもこの脳波からすると、毎日のように洗脳され続けていると考えた方がいいだろうな」
「毎日? でも、私はほとんど一緒にいますけど、そんな怪しい人間が近づいてきた形跡は」
「別に必ず誰かが洗脳しなければいけないというものではない。毎日同じ文章を読ませる、見させる、その程度で洗脳は強化される。それが毎日続けばさらに深まる。そういうものだ」
「カナメが毎日見ているもの?」
そんなものあっただろうか。
「調べてみるか。カナメはこんな様子だし」
「そうね。毎日見てるものなら、きっと部屋の中。でも、昨日捜索したときにはそんなものなかったのに」
「調べ方が足りないんだろう。俺とタクヤも探す」
「いいわ、そうしましょう。とにかくこうなった以上、完全に解明しないことには何もできないわ」
そうして三人は一度、カナメの部屋に戻る。そして、大捜索が始まった。
もしも洗脳されているのだとしたら、普段、日常目にするものでなければならない。だが、そんなものがそう簡単にあるとは思えない。
三人は捜索を続けるが、何も出てこない。やみくもに探しても意味のないことは分かっている。
「壁とか天井はどうだ?」
「全部確認したけど、どこにも何もないよ」
「だとしたら、手回り品かな」
「それも全部見たわよ」
「ぱっと見ただけでは分からないようになっているのかもしれない」
ジンはそう言って小物を見る。
女の子が必ず目にするもの。たとえば、手鏡。
「これがカナメのか? 随分と古びてるな」
「言われてみればそうね。他のはけっこう新しいのに」
だが、鏡を見ても別に何かが書いてあるわけでもない──いや。
「これだな」
ジンが獲物を見つけたというふうに笑った。
「何?」
「光を屈折させてみろ。面白いものが見える」
手鏡を受け取ったヨシノは、あれこれと傾きを変えてみる。
すると、ほんの一瞬、何か字が浮かび上がった。
(これは)
確かに、書かれてある。
『美綴カナメとして、碇シンジを愛せよ』
「美綴カナメとして、碇シンジを愛せよ、か。どうやら洗脳はこれのせいだな」
「じゃあ、本人も洗脳されてるって気づかないまま、シンちゃんへの気持ちが膨らんでいったっていうこと?」
「そういうことだろうな。もちろん最初の動機付けは誰か別のやつがやったんだろうが、その洗脳効果を高めたのはこいつだろう」
「でも、ただシンちゃんを愛するだけなら何も問題はないわよ」
「そりゃそうだ。てことは、最初の動機付けの時点で『愛した後にこうしろ』っていう命令が絶対に組み込まれてるな。それがやっかいなものじゃないことを願うぜ」
「誰が洗脳したかなんて、さすがに分からないか」
「この文章だけじゃ無理だな。特徴的な文言は何もない」
「やっぱり、アメリカ?」
「それは違うと思います」
否定したのはタクヤだった。
「どうして?」
「美綴さんがネルフに入ったのは二〇一三年十一月。碇くんを愛せよという命令を受けてこのネルフに入ってきたということは、二〇一三年九月の時点で碇くんの存在に気づいていなければなりません。アメリカが碇くんに気づいたのは最初のシンクロテスト、そしてサードチルドレン認定を受けたつい最近のことです」
「つまり、一年半前から周到に準備されていたっていうこと? でも、カナメが実際にシンちゃんに会ったのもつい最近よ?」
「ええ。もしかしたら本人と出会うまで効果は発動しなかっただけかもしれません」
なるほど、タクヤの考えはつじつまが合っている。
「でもそうなると、どこの国の手先でもない、ということにならない?」
「そうですね。というよりむしろ、ネルフ内部が怪しいということにもなります。碇シンジはネルフ総司令碇ゲンドウの息子。取り入って悪い相手ではないでしょうし」
「あ」
「なるほど、そういう見方もあるのか」
今まで自分たちはずっと、碇シンジが『サードチルドレンだから狙われている』という感覚でしか考えていなかった。
だが考えてみればシンジはサードチルドレンである以前に『碇ゲンドウの息子』なのだ。シンジを先に篭絡させておこうと考える勢力はいるかもしれない。
「だとしたらカナメは危険な相手ということにはならないわ!」
「まだ推測の段階です。それに」
タクヤが表情をくもらせる。
「もしかしたら、二〇一三年の時点で既に碇くんの存在に気づいていた可能性だって、あるわけですから」
「あ、そうか……でもそうなるとアメリカや他の国に狙われているっていう線はなくなるわけだから」
「別の組織、ということになりますね。そんな組織がもしもあるなら、ですけど」
それを聞いてジンが少し考える。
「何か心当たりが?」
「まあ、ないわけじゃない。やつらならシンジを消そうと考えても当然だし、二〇一三年の時点でシンジの存在に気づいていてもおかしくない」
ジンの言う『やつら』が何者なのか。それを尋ねようとしたとき、カナメの部屋の電話が鳴ってヨシノが出る。
「はい」
電話の相手は医者からだった。
『大変だ。美綴さんが脱走した』
「なんですって?」
さっ、と顔が青ざめたのが分かる。
『追いかけたが、完全に行方不明だ。彼女がネルフから出る前に緊急閉鎖をかけてもらったから、間違いなくネルフ内部にいるはずだ』
「まったく、カナメってばどこまでも人騒がせなんだから! わかりました、こちらでも探してみます!」
通話を切るとヨシノが現状を伝える。
「これは俺たちだけではどうにもならないな」
「そうだね。剣崎さんに頼るのが一番じゃないかな」
捜索や諜報についてはプロに頼るのが一番。確かにその通りなのだが。
「やむをえないか。分かった。直接交渉してみよう」
ジンがやむなく頷き、三人は今度は剣崎の部屋へと向かった。
次へ
もどる