それは二〇一二年の冬。
ある一つの組織の中で、一つの命令が出る。
『ファーストチルドレン綾波レイと、それに準ずる適格者たちを抹殺せよ』
その場に集っていた者たち、全員が頭を垂れて復唱する。
『約束の日は近い。よいか、我ら十年の計が実を結ぶときが来たのだ。作戦は速やかに、そして確実に行え。碇ゲンドウが綾波レイを中心として適格者の整備に入った以上、かならずこの後キーパーソンとなる人物が適格者入りする。その者こそ、碇ゲンドウの切り札。必ず抹殺せねばならぬ』
集まっているのは五十人ほど。大人子供、男性女性、統一感はまったくない。その中の一人、小柄な少女が呼ばれる。
『藤代ハルカ』
『はい』
『お前に命じる。必ずや、その者を殺害せよ』
『かしこまりました』
『よいか。これは我らが生き残るために必要なことなのだ。訓練通り、ためらうな。そして、その性分を隠すため、お前はその名を捨てよ』
『はい。私は名無しです』
『そうだ。そして、新たな名と人生を与える。碇ゲンドウが次の動きを見せるまでに、必ず新たな思考パターンを身につけるのだ』
『はい。私の新たな名は何といいますか』
『うむ』
男は、答えた。
『お前は、美綴カナメと名乗るがいい』
第捌拾参話
名
カナメは逃げた。目が覚めると同時に、医者を突き飛ばしてその場から逃げ出した。
誰もかれも、信じられない。自分が洗脳? 何を言っているのだろう。自分はそんなものを受けた記憶などない。だいたい、洗脳されたのだとしたらネルフに入る前。そんな時期に自分に影響を与えた人物など、両親や学校の先生くらいではないか。
自分は何もされていない。何もされていない。何もされていない。洗脳なんかされていない!
がむしゃらに走って、角を曲がったところで誰かにぶつかった。ごめんなさい、と一言謝って駆け抜けようとすると、その腕を掴まれた。
「どうしましたか、美綴さん」
聞き覚えのある声だった。
「……剣崎、さん」
「泣いているようですね。私の部屋が近くですが、コーヒーでも飲んでいかれませんか」
自分がどこに行くのかも分かっていない。ただその場から逃げ出したかっただけ。
だが、今はもう何を考えていいのか分からないカナメは小さく頷くしかなかった。そして、手を引かれるままにキョウヤの後についてその部屋に入る。
(何やってるんだろ、私)
もう何も信じられなくなって、自暴自棄になっている。
とにかく逃げ出したい。この不安定な心をどうにかしたい。
(そうだ)
こんなふうに自分が不安定になったのは、この目の前のキョウヤという人物のせい。
だが、それなのに。
(剣崎さんはいつも、本当のことしか言わなかった)
嘘をつかず、真実だけを教えてくれた。それがたとえ、自分にとって過酷なことだとしても。
シンジは教えてくれなかった。ヨシノも教えてくれなかった。誰も。誰も。誰も。
キョウヤだけが、真実を教えてくれた。
「少しは、落ち着かれましたか」
キョウヤがコーヒーを出す。それを一口。
「よければ何があったか、話していただけると少しは力になれるかもしれません」
「……剣崎さんは、隠し事をしたり、嘘をついたりはしませんよね」
「ええ。私は任務が一番の人間ですから」
「私がこのネルフからいなくなってほしいと思ってるんですよね」
「自分の立場を言えばそうです。もちろん、美綴さんを個人的に嫌っているというわけではありません」
几帳面に答えるキョウヤを少しおかしく思う。自分のような子供の癇癪に付き合ってくれているのだ。ありがたいと思わなければならない。
「私が洗脳されてる、ってみんなが言うんです」
「洗脳?」
「はい。でも、私は洗脳された記憶なんてないんです。ずっとお父さん、お母さんのところで暮らしてきました。この記憶も上書きされたものだって言うんです。そんなこと、あるはずないのに」
「心中、お察しします」
「剣崎さんはどう思いますか。私、洗脳されてるように見えますか」
「私には分かりません」
キョウヤは一度明確に否定する。
「分からないですか」
「はい。洗脳されていたとしても、されていなかったとしても、美綴さんはきっと同じように悩むでしょう。だから分かりません」
「されていても、されていなくても?」
「はい。私も諜報部の人間です。洗脳のセオリーは知っています。洗脳は、相手が洗脳されたということを認識できないようにすることが必要です。もし、今の美綴さんが洗脳を受けていたとしたら、おそらくはかなり長い準備期間が必要でしょう。それどころか、洗脳を受けやすい性格だった、もしくはそう育てられたことも必要条件になると思います」
「洗脳を受けるために育てられた……」
「受けていたら、という話です。どちらか判断することは現状ではできません」
「でも、だとしたら洗脳を受けているかどうかはずっと分からないってことですよね。それなら私、危険人物なんですよね」
「では、洗脳されているかどうかを明らかにしてみましょうか」
え、とカナメが止まる。
「洗脳は解けないんじゃないんですか」
「解けません。ですが、洗脳されているかどうかを判断するならそれほど難しいことではありません。美綴さんの無意識にはたらきかけて、失われた記憶を呼び覚ます。今の美綴さんが失われることなく、洗脳をされたかどうか、されていたとしたらどのような内容かを確実に導き出すことができます」
「本当に?」
「美綴さんも、今の不安定な状態をどうにかしたいのではないですか?」
言われて、一瞬カナメは悩む。
確かにその通りだ。自分は何とかこの状態を脱したい。そしてシンジと一緒にいるのだ。
シンジと……シンジと?
(シンジは、私のことをどう思っているんだろう)
自分が足枷になっていることを知っていたシンジ。それでも一緒にいてくれたシンジ。
でもいつか、シンジが自分を邪魔に思うことが出てくるかもしれない。もしそうなったら、自分はどうすればいいのか。
そのとき、インタフォンが鳴る。
「はい」
キョウヤが出ると、かすかに緊張したようだった。
「わかった。少し待っていろ」
そして戻ってくるなり、カナメを強引に立たせる。
「こちらへ。隠れて」
隠れる?
何があったのか分からないまま、カナメは押入れに放り込まれる。
そしてキョウヤがコーヒーカップを片付けると、ドアを開けた。
「どうした」
「頼みがあってきた」
ジンだ。
自分が脱走したということをもう聞きつけて、キョウヤのところまで来たということか。
「昨日の今日で、いったい何があった」
「カナメが逃げ出した。見つけてほしい。あいつは何者かに洗脳されている可能性がある」
「美綴カナメが……なるほど、だが、私に相談してもよかったのか?」
「どういう意味だ?」
「倉田ジン。お前は私を疑っているはずだ。私が美綴カナメを見つけたら、問答無用で殺すか、ネルフから追放するのではないか、と」
カナメは息を呑む。
(殺す? 追放? どういうこと?)
だが、声にしたのはキョウヤの方だ。ということはカナメが聞いていることを前提に今の話をしていることになる。
ということは、キョウヤの思惑は逆。
自分をここにかくまっているのだ。つまりは、殺すつもりなどないということ。追放──は、分からないが。
「キョウヤさんが任務を受ければ、間違いなくそうするのは分かってる。でも今はまだ任務を受けてないんだろう?」
「今このときにも任務が出されるかもしれない。美綴カナメが見つかったときには抹殺命令が出ているかもしれないぞ」
「それでも、今はキョウヤさんに頼んだ方が早い。頼む。カナメを見つけてくれ。あいつは俺たちの仲間なんだ」
「仲間か」
キョウヤは苦笑する。
「何だ」
「仲間だとしたら、美綴カナメは何故お前たちを信用していない?」
「何?」
「逃げ出したということはお前たちを信じていないということだろう。それとも、美綴カナメが信頼していないのに、お前たちは一方的に仲間だと言い張るのか?」
「なんだと」
「本当に仲間だと思うのなら自分で見つけてみせろ。まあ、ネルフから出したりはしない。もっとも、上にとってはネルフから出ていってくれた方が好都合なのだろうがな」
「キョウヤさん」
「私はお前たちの味方だ。だが、美綴カナメの件に関してのみ、完全に立場が違う。それをわきまえておけ。私の任務は碇シンジを守ること。そしてお前の任務も碇シンジを守ることだ。それとも目の前に碇シンジがいないがゆえに、美綴カナメを守る対象だと倒錯したか」
「そんなんじゃない! シンジにとってカナメは必要な人間なんだ! カナメを守ることがシンジを守ることにつながるんだ!」
「では、お前は美綴カナメはあくまで碇シンジのために守ろうとしているのであって、仲間だとは認めていないわけだな」
「なんでそうなる!」
「もしも美綴カナメが知ったらどうなる。美綴カナメと綾波レイ。この二人を除いたランクA適格者とガードがほぼ毎日のように集まり、彼女のことについて相談しあっているなどと」
カナメは呼吸が止まったかのような思いだった。
(私、私のことを、どうするか、相談していたの? みんなで? 私以外のみんなで?)
キョウヤは、真実しか言わない。それも、こういう場面を使って、カナメに真実を伝えている。
ジンはそれに気づいていない。わざわざキョウヤが挑発的に言っているのは、この部屋にカナメが潜んでいるということを暗に教えているようなものなのに。
「分かった。なら、俺たちだけで探す」
「いいのだな」
「この件については本当に、あなたとは敵同士だということが分かった」
「感情的になって本来の任務に支障をきたすなよ」
「言われるまでもない」
ジンはそう言って出ていく。それを見送ってから、キョウヤは押入れを開けた。
「どうぞ、もう彼はいません」
だが、カナメは縮こまってがくがくと震えている。
「剣崎さん。今の、今の話」
「事実です。ドイツ組が旅立ってから、ほぼ二日に一度の割合で彼らは集まって相談をしていました。ドイツの碇シンジくんのこと、そしてあなたのことを」
「どうして、私が」
「もともとあなたに不審な点が見られたからだということです。そして調べていくうちに、実際にその証拠が見つかった」
「今朝の写真がそうだっていうんですか」
詳しいことは剣崎も知らない。だが、小さく頷く。
「そんな。じゃあ、私、いったい何なんですか。みんなが私を疑っている中で、私一人馬鹿みたいにシンジのこと考えてうかれて、みんなが私をどう見てるかなんて、全く知らなかった!!!」
うわっ、とカナメが泣き出す。
「私一人で馬鹿みたい! どうして誰も教えてくれないの! なんで!」
教えればこうなるということが分かっていたからだろう。だが、今回は緊急を要した。それがジンたちの考え。
「もういや。私、みんなに合わせる顔がない」
「では、記憶を取り戻せばいいのではありませんか」
キョウヤが助け舟を出す。
「記憶を?」
「はい。つまり、周りがあなたを問題に思っているのはあなたに洗脳の疑いがあるからです。もし洗脳されていなければよし。されていても何も問題がないようならよし。問題があればそれを取り除けばよし。問題を解決してしまえばあなたは今まで通りにしていられるのです」
「今まで、通り」
「ええ。記憶を呼び覚ますだけなら精神に負担をかけることなくできるはずです。どうしますか」
カナメは真っ赤な目でサングラスのキョウヤを見る。
「剣崎さんは、命令されたら私を殺したりするんですか?」
「はい」
即答。
「じゃあ、今はまだそんな命令は出ていないんですね」
「はい」
「剣崎さんは、嘘をつかないですよね?」
「つきません」
少しの乱れもない答。
「わかりました」
カナメは頷く。
「お願いします」
「はい。では、まずはここから出ましょうか」
カナメが出てくると、キョウヤは椅子に彼女を座らせる。
「ここには道具がありませんので、簡単なものですがこれで充分でしょう」
するとキョウヤが出してきたのは、五円玉と糸だった。それを見て思わずカナメが吹き出す。
「そんなのでいいんですか?」
「本当はそれなりの道具があった方がいいんですが、催眠効果を生み出すことができれば別に何でもいいんです。気楽に、リラックスしてください。緊張していると効果が生まれませんから」
そしてキョウヤは電気を消して、フットライトだけにする。暗い方が暗示の効果がききやすい。
「さて、まずはゆっくり話をしましょうか」
「話、ですか」
「そうです。たとえば、はじめて碇くんとデートしたときのこととか」
「ええっ?」
カナメが動揺する。
「だ、だって、そんなこと関係ないじゃないですか」
「それもあなたをリラックスさせるためです」
「えええ、でもでも」
「どこに行きました? 買い物? 遊園地? 第三はそれなりに遊ぶところがありますから、いろいろ選択肢があると思いますが」
「ええええっと、あのときは──」
そうして、ゆっくりと話を開始していく。
話がだんだんと変わっていき、ネルフに入るときの話になる。
「では、ネルフに入ろうとしたのは、学校の血液検査で適格者反応が出たからなんですね」
「そうなんです。お父さんもお母さんも悲しんでたけど、私、そういうのに憧れもあったから」
「お父さんは何と?」
「何て言ってたかな。ちょっと覚えてないです」
「そうですか。お父さんは優しい方でしたか」
「はい。子供の頃は肩車とかしてもらったり」
「お母さんはどうですか」
「ちょっと怒りんぼです。でも、テストでいい点を取るとお菓子を作ってくれました」
「どんなお菓子ですか?」
「クッキーとかケーキとか。お母さんのチョコチップケーキが凄くおいしかったんです」
そうして話が過去のこと中心になったところで、いよいよ五円玉を目の前にかざす。
「では、この五円玉を見てくださいね」
「はい」
「視線だけで追いかけてください。もう美綴さんは充分に心が落ち着いています。この五円玉は美綴さんを過去へといざなう扉。ゆっくりと、そう、目を動かしてください」
暗い中、目だけで五円玉を追いかけていくと、次第に頭の中がこんがらがっていく。いや、
(なんだか、眠い……)
代わり映えのない視野というのは、それだけで脳を停止させる効果を生む。部屋を暗くしたのはそうした理由から。
その中で目だけを動かすのだから、脳は一気に急停止をかける。そうして、催眠効果を生む。
「あなたは、美綴カナメさん、ですね」
「はい」
「あなたは、ネルフのランクA適格者、玖号機パイロットですね」
「はい」
「あなたは、碇シンジの恋人ですね」
「はい」
「あなたは、生まれたときから美綴カナメと呼ばれていたわけではありませんね」
「……はい」
少し間があって、答える。完全に催眠状態だ。
「あなたは、ネルフに入る前に名前がかわりましたね」
「はい」
「あなたが名前を変えたのは、碇シンジに近づくためですね」
「はい」
はっきりと答えた。やはり、目的はそこか。
「では、あなたの以前の名前を教えてください。
「はい」
彼女は、答えた。
「私は、藤代ハルカと呼ばれていました。でも、その名前はもう捨てました」
「誰かにそういわれたのですか」
「はい」
「どなたに言われましたか」
「導師様です」
その答に、キョウヤの言葉が止まる。無論、その言葉には心当たりがある。
「導師様とは、どなたですか」
「導師様は、導師様です。偉大なる我らが父です」
間違いない。キョウヤには全てが理解できた。
(倉田ジンは、気づいていなかったのか?)
彼ならば、このことに真っ先に気づきそうなものなのに。
「導師様とは──」
キョウヤは尋ねた。
「──使徒教の導師のことですね?」
その質問に、カナメは「はい」と答えた。
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