使徒教。
 セカンドインパクト後、自然発生的に起こる。
 第一使徒、第二使徒を頂点として崇め、第三使徒から第十七使徒までの降臨を願う、破滅の宗教だ。
 だが、破滅というのはあくまでも世界の破滅にすぎず、人間はその先の世界で生き延びるのだという。
 それも、人間が進化し、第十八番目の使徒となるという方法を用いて。
 導師は言う。
『ミュンヘンの石碑を見よ。すでに神は人間を滅ぼすことを決めた。使徒は神の使い、使徒と戦うということは、神と戦うということ。神に仇なすことは、原罪を上回るほどの罪と知れ。我らにできることはただ一つ、神の御許へ赴き、罪を悔い改めることのみ。そうすれば我ら人間は新世界でも生きることができるだろう。生き残った人類はもはや人類ではない。我らが新たな使徒となり、神の座の末席に座るのだ』












第捌拾肆話
















 使徒教は、これまでにも何度もテロ活動を行ってきている、宗教法人とは名ばかりのテロ組織だ。
 その教義に従い、彼らが狙うのは政府や要人ではない。あくまでも使徒と戦おうとする組織が標的となる。ネルフはその最有力候補だ。
 とはいえ、ネルフのようにガードの固い組織に入り込むこともテロをしかけることもできない。何しろネルフの人事部では『使徒教の疑いある者、ネルフに入ることならびに、適格者と任ずることを禁ず』という内規が存在する。それほどの危険組織として扱われている。
 過去、使徒教の人間は何度も適格者を送り込もうとしてきたが、そのたびに失敗していた。
 だが、ここに成功例がいた。一般人の子供とすり替え、子供の頃の写真まで偽造し、ネルフを欺く。しかも洗脳することによって本人ですら、普段は使徒教の構成員だということが分かっていない。完璧な操作がなされた上で、カナメは送り込まれていたのだ。
 となれば、当然ながらカナメの役割など見えたも同然だ。
 使徒教の構成員としてネルフに潜入し、しかも碇シンジに近づく。その目的はたった一つしかない。
「導師様は、あなたに命令をされましたね?」
「はい」
「それは、碇シンジを愛することですね」
「はい」
「他にも命令を受けていますね」
「はい」
「それはどのような命令ですか」
「使徒戦が始まったとき、汝のもっとも愛する者を、その手で殺せ」
 なんと、いうこと。
 つまり、使徒教はこの少女の純粋な気持ちを利用して、暗殺をさせようというのだ。
「あなたは碇シンジを殺したいのですか」
「いいえ」
「では、暗殺はしないのですか」
「いいえ」
「愛していても、殺したくなくても、碇シンジを暗殺するのですね」
「はい」
「変えることはできないのですか」
「はい」
 よどみなく答えるカナメだったが、よく見るとそうではない。
 体がかすかに震え、そして閉じた目から涙があふれている。
(この洗脳は解けない)
 それはもう魂に刻まれてしまったようなもの。おそらくは使徒教の中で、はじめから『暗殺をするために』育てられた。おそらくは物心ついた頃からそういう教育がされていた。
 だからこそカナメにとって暗殺するということは、生きる目的そのもの。愛する者をその手で殺す。それがカナメにとってのアイデンティティなのだ。
 どれだけ苦しくても、辛くても、それが生きることの意味。
(間違っている)
 キョウヤは歯を食いしばる。
(こんな小さな子が、ただ利用されて、自分の好きな人を殺さなければならないなんて、どれだけ腐ってやがる!)
 キョウヤの心に怒りの炎が灯る。
 もともと自分は、少しでも世界の平和に役立てることがあればと思い、この職業を選んだ。
 それがたとえ汚い仕事であったとしても、それが最終的に世界平和につながるのならばやむなし。そう考えてすべての任務を確実に行動していた。
 それは、こうした哀れな少女を一人でも多く救うためだったというのに。
 だが、これでキョウヤの任務にも確実な実行理由がついた。
 カナメをネルフから追放する。それには大きな意味がある。碇シンジを守るという正当な理由だ。
 いや、それとも使徒戦が終わるまで牢屋で監禁するという手もある。
(総司令はこのことを知っていたのだろうか。いや、知るまい。知っていたのならば、こんなぎりぎりになるまで手を打たないはずがない。おそらくは最初の段階で適格者にさせなかったはず。この時期まで延ばしていたのは何も知らなかったからで、やはりシンクロ率が伸びなかったことが追放の理由だろう。シンクロ率のことが判明するまで待ったのは、少しでも実子に対する情をかけたつもりか)
 それならば最初から反対していた方がよかったかもしれない。その方が傷つかずにすんだかもしれない。だが、それは全て後の祭。
(もちろん使徒戦まではまだ時間の猶予がある。だが、これから先、碇シンジが使徒戦に臨むのであれば、衝撃は早い方がいい。ここで処分するしかないな)
 ふう、とキョウヤはため息をついた。
(処分ということは、この少女に過酷な運命を強いるということだ)
 催眠状態にかかっているカナメをじっと見つめる。
(この場で処分することはできる。だが、この子はどう思うだろうか)
 たとえどのような選択をしても、最後は自分で選ぶべきではないだろうか。
(そうだな。たとえどういう結果になったとしても、その十字架は俺が背負うことにしよう)
 そして、キョウヤは両手を開く。
「では、一度手を叩いたとき、あなたは今の会話を記憶に残したまま、目を覚まします」
 パン。
 運命の一拍。
 そして、カナメの目が、徐々に開き、色を帯びる。
「……」
「気がつかれましたか。どうですか、具合は悪くないですか?」
「私……」
 ただ、彼女はとめどなく涙を流す。
「シンジを、殺しちゃうんだ」
 ひくっ、としゃくりあげる。
「こんなに好きなのに」
 涙は止まらない。
「殺したくなんてないのに」
 それは既に、決まっていること。
 その時がくればきっと、自分の体はプログラムされたように勝手に動く。
 そして。
 自分の一番愛する人を、この手にかけるのだ。
「いやだ!」
「落ち着いてください、美綴さん」
 キョウヤは両手で、カナメの両肩をおさえる。
「だって、私はシンジを殺さなきゃいけない! いやなのに! 絶対、そんなこと望んでないのに、どうして!」
「大丈夫です。洗脳されていたということに気づけば、美綴さんの意思でそれを打ち破ることも可能なはずです」
「違うの! 分かるの! もし、本当にそのときが来たら、私」
 ひくっ、と体が痙攣する。
 そう。カナメには分かる。分かった。
 自分の体の中に、命令を実行するプログラムが入力されていて、時間と共にそれが実行されるように設定されている。
 自分がどれだけ抵抗しても、この命令には逆らえない。そういうふうに自分は教育されてきた。
 物心ついたときから、ずっと。
 幼いときに組み込まれた、至上命令。自分のアイデンティティ。
『愛する人を、その手で殺しなさい』
 父も、母も、導師様もそう言った。そう育てられた。
 それがどれだけ苦しく、罪深いことなのかも知らずに、自分はもう『その時』が来たら実行するように作り上げられてしまっている。
 もし、シンジを殺さないのなら、一つしか方法はない。
 それは、シンジを好きになることをやめることだ。そうすれば命令は実行されない。
 だが、そうしたら自分はどうなる。今やシンジへの気持ちが何より大事になってしまった現状、シンジへの恋心を消すことができるのか。
 そんなことは、絶対に無理。
「私、いやだ、私、シンジを殺したくない。いやだ。いやだよ」
「美綴さん……それでしたら、やはりネルフを一度出るのがいいのではないですか。私が言うと、任務のような感じがして嫌かもしれませんが」
「ネルフを出る?」
 泣きはらした顔を上げる。
「そうです。ネルフにさえいなければ、碇くんを殺すことはないでしょう。それともあなたは使徒戦争が始まれば、猪突猛進に碇シンジ抹殺のために動くのですか」
「分からない。でも、そうなるかもしれない」
「牢屋につないでおくという方法もありますが、それだと他の適格者も納得しないでしょう」
「でも、もう、私、シンジの傍にいることはできないよ」
「使徒戦が終われば、いつかまた会えるのではないですか」
 カナメが疲れたような顔になる。
「使徒戦が終われば……」
「そうです。だからそれまで、一旦身を隠してください。全てが終わればまた、碇くんと会うこともできるでしょう」
「シンジ……」
 カナメは顔を伏せた。そして、じっと考える。
「一日だけ、時間をくれますか。明日の朝には決めます」
「わかりました。では、この部屋を使ってください。私の許可がない限り、他に誰も入ってこれないようになっています。私がいないときは誰が来ても反応しないようにしてください。後、この部屋にあるものは自由に使っていただいてかまいません。もしパソコンを使うなら、そちらの端末をどうぞ。MAGIの監視がかかっていないものです。記録も残りません。自分のメールなども見ることができますよ」
「ありがとうございます」
「私はいない方がいいでしょうから、明日の朝にまた来ます。それまで、ゆっくりと考えてください」
「剣崎さん」
 最後に、カナメは尋ねた。
「剣崎さんは、どうして私に優しくしてくれるんですか」
「適格者を守ることが保安部の任務ですから。今は美綴さんを他の誰にも会わせないことがそれに合致すると考えました」
「剣崎さんは、私の味方ですか?」
「すみません。この件については敵になる可能性の方が高いと思います。昨日も伝えたとおり、あなたをこのネルフから追放する命令が今日にでもくだされてもおかしくない状況なのです」
「その命令が出なかったら、助けてくれるんだ」
 少しだけ、元気を取り戻したように笑う。
「ありがとう、剣崎さん」
「いえ。お力になれず、すみません」
 そうしてキョウヤは部屋を出ていく。
 一人、取り残されたカナメはしばらく何も考えられなかったが、そのうちにパソコンに触ってみた。
 メールの返信はない。そのかわり、ヨシノからのメールが届いている。もしかしたら自分が見ているかもしれないということを期待したのかもしれない。
(ヨシノさん)
 ヨシノが自分を心配してくれているのは分かっている。その気持ちに偽りはないだろう。
 だが、ヨシノは自分のことを全て知っていた。知っていて、それを隠していた。自分のためを思ってくれたのは間違いない。だが、これ以上いったい何を隠しているのか分からないと、信用することができない。
 みんなが、自分だけを仲間はずれにしていた。いや、仲間はずれというのはおかしい。自分を守ろうとしてくれていたのには違いないのだから。
 だが、こういう結果が出たら彼らはどうするのだろう。
 自分はシンジを殺す。きっとそれは変えられない。変えられないなら、シンジのことが大好きな彼らはきっと、自分を許さない。さすがに殺すようなことはしないだろうけど、ネルフから追放する動きになるのは目に見えている。
 ヨシノや他の仲間たちがどれだけ心配してくれたところで、それを覆すことはできないだろう。
(シンジ)
 カナメは携帯からシンジの番号に通話する。

『この番号は、電源が入っておりません』

 だが、帰ってくるのは無情な答。
「お願い」
 今となってはもう、何も頼ることはできない。
 ただ一人。
 自分の愛する人だけは。
 すべてを話したい。話して、どうするか決めたい。
 シンジと話ができれば、どうすればいいかも見えてくると思う。
 だから。
「出て、シンジ、お願い……」
 通話。不通。
 通話。不通。
 通話。不通。
「どうして」
 昨日から、一度も電話がつながらない。メールも返ってこない。
 そんなに。
 自分が気づいたことで、自分と距離をおきたがっているのだろうか。
 それとも。
 もう、自分にはかまいたくないとでも思っているのだろうか。
(嘘だ)
 シンジに限って、そんなこと。
 でも。
 人間なのだ。
 どんな風に考え方が変わるかなど、全く分からない。
「シンジ」
 通話。不通。
「出て。お願い。シンジ。お願い……」
 何度も、何度も電話をかける。

 だが、その発信が彼のもとに届くことは、ついになかった。






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