翌朝。
これでカナメはもう、二日間寝ていない。
それだけ、彼女は追い詰められている。
だが、それを知る者はいない。
追い詰められた彼女が最後にすがったのは、ただ一人。
今、自分が最も愛している相手。
そして。
いつか、自分が殺す相手。
「シンジ」
もう、涙も涸れ果てたのか、まるで出てこない。
感情が全てなくなってしまったかのように、希薄。
そして自分はもう。
「ごめんね」
一言呟くと、彼女はキョウヤの部屋を出た。
それは、碇シンジがネルフドイツ支部を出た時間と、ほとんど変わらなかった。
第捌拾伍話
死
ヨシノたちは今も自分を探しているかもしれない。
早朝五時。ずっと自分がどこにもいなければ、きっと捜索しているに違いない。特にヨシノはカナメのガード。ガードする対象がいないのにのんきに寝ていられるはずもない。もしそうならガード失格だ。
だから今もヨシノには迷惑をかけている。それを承知の上で、カナメは疲労した体で歩いていく。
多分、自分の身柄をキョウヤに預けてしまうのがカナメにとって一番いいことのはずだった。
それが怖いのは、いつか使徒戦争が始まったときに、いくつもの障害をくぐりぬけてシンジを殺そうとする自分がいるということだ。
自分ほど信じられないものはない。何しろ、自分は『愛する者を殺すために育てられたモンスター』なのだから。
自分の望みなど聞き入れてくれることはない。ただ自分は愛する者を殺す。
碇シンジを殺す。
それは自分を縛る一番強い鎖。その鎖から逃れられるほど自分の心は強くない。
それが分かっているからこそ、自分が信じられないのだ。
(シンジ)
声が聞きたかった。
大丈夫だよ、と言ってほしかった。
どうして電話に出てくれないんだろう。
もう、自分のことなど何とも思っていないのだろうか。
(シンジ)
彼の優しさが好きだった。
照れてうつむくところや、ときどき見せるかっこよさ。
彼のことなら、何だって思いだせる。
でも。
それは、自分が洗脳されていたせいなんだろうか。
洗脳されていなかったらシンジのことをどう思っていたのだろうか。
分からない。
殺すためだけに愛したのだ。
もしかしたら、心の底では愛していないのかもしれない。
(シンジ)
声が聞きたい。
せめて、もう会えないのなら。
最後に。
彼のことを愛していると、この気持ちに偽りはないと。
信じたい。
そのことだけは。
どこをどう、歩いたのか。
広いネルフの中は、どのような仕組みになっているのか知らないところもある。
時間はもう、七時になるのか。
少しずつ人の姿も見え始めている。
誰も自分には反応していない。大掛かりな捜査が行われているわけではない。
(どうすればいいんだろう)
分からない。
シンジと話もできず、仲間も信じることができず。
自分は、ただ、さまようだけ。
いつか見つかるまでさまようだけ。
「どこ、ここ」
ぼうっと周りを見るカナメ。
それは、偶然か、それとも必然か。
彼女の存在に気づいた少女が一人。
「美綴カナメ、さん?」
その少女がカナメに話しかける。
「え?」
随分と小さい女の子だった。頬がこけている。自分と同じように生気が感じられない少女。
「美綴カナメさん、ですね?」
カナメは、こく、と頷く。
「あなたは?」
少女は目をふせる。答える気があるのか、ないのか。
「あなたは多分、私を知らない」
少女の言葉に首をかしげる。確かに知らない。当然のことだ。
「あなたが、シンジとつきあっている間、泣いていた人がいるなんて、あなたは知らない」
「え」
「シンジの傍にいられるだけで幸せなんだって、そう思う人が他にいることを、あなたは知らない」
責められている。
理不尽な、いやそうではない。少女は正当な理由で、自分を責めてきている。
「私は、こんな目にあったのに」
少女の手に握られていたものは何だろう。
頭がうまくはたらかない。
「シンジの傍にいられるだけで満足できないのなら」
少女はゆっくりと、その手にしたものをカナメの胸に押し付ける。
綺麗に、光が反射してカナメの目に飛び込む。
「もう、生きている必要はないでしょう」
自分の体内に入ってくる感触。
それは、痛み?
いや、違う。
(ああ、そっか)
これでいいんだ。
(私が死ねば、全部解決するんだもんね)
シンジを困らせることもない。
キョウヤに迷惑をかけることもない。
ヨシノたちに負担をかけることもない。
自分が生きているからこそ、みんなが不幸になっていく。
(私が死ぬだけで、みんなが幸せになれるんだ)
左胸に入ってくる感触は痛みではない。
それは、解放への喜び。
「私は、二ノ宮セラ」
どこかで、聞いたことのある名前。
「もう、あなたには関係ないかもしれないけど」
カナメは首を振った。
そんなことはない。
立場がどう違ったとしても、同じ人を愛したもの同士。
「わた、し」
うまく口が動かない。
「シンジが、すき」
だから、これでいい。
大好きなシンジを殺すこともない。
大好きなシンジを困らせることもない。
自分が死ねば、シンジは助かるのだ。
どうして気づかなかったのだろう。
こんなに簡単なことだったのに。
「だから」
右手を、ゆっくりと少女の頬に添える。
「シンジを、おねがい」
そして、倒れていく。
ゆっくりと意識がなくなっていく。
シンジ。
私、ずっと好きだった。
誰よりもあなたが好きだった。
最初に会ったときのこと。
一緒にデートしたこと。
抱きしめてもらったこと。
キスしてもらったこと。
その優しさに包まれたくて。
自分のことだけ見てほしくて。
ずっと甘えてた。
シンジに甘えてた。
それがとてもとても心地よくて。
いつか来るこんな日のことなんて頭になくて。
でも。
もう駄目。
私が生きてたら、シンジが苦しむ。
だから、これでいいんだ。
私が死んだら。
シンジは、ちょっとくらい悲しんでくれる?
それとも、もう私のことなんか全然気にしてないのかな?
最後に。
あなたの声が聞きたかった。
少しでもいい。
カナメ、って。
好きだよ、って。
それだけ言ってくれたら。
どんなに幸せだろう。
でも。
もう駄目。
私はもう、シンジの声が聞こえない。
シンジが私をどう思ってくれているかも分からない。
私が余計なメールを送ったせい?
だとしたら、私のせいだね。
ごめんね。
ごめんね、シンジ。
でもね。
好きだよ。
誰よりも。
何よりも。
私の命にかえても。
あなたが私を好きでなくても。
私は。
あなたが好き。
シンジが好き。
この気持ちは本物だよね。
好きだから。
愛してるから。
私は死にます。
さよなら。
ごめんね。
シンジ。
大好き。
病棟の廊下で倒れている少女と、血塗れのナイフを持った少女。
すぐにカナメは手術室へ運ばれたが、心臓を貫かれている以上、もはや助かる見込みなどなかった。
そして、もう一人。
二ノ宮セラ。
彼女がどうしてナイフを持って、病棟を歩き回っていたのか。
今まで自分の病室から出歩いたことなどなかったのに。
今日に限って。それも、ナイフなど持って。
考えれば分かること。
この事件は仕組まれたこと。
誰かに。
だが、それが誰なのか。
「カナメ」
死亡を宣告されたヨシノは、手術室の前で崩れ落ちる。
「どうして、こんな! なんでよ! どうして!」
「落ち着け、ヨシノ」
「放して!」
「いいから落ち着け。取り乱してどうなる」
ジンが力強くヨシノを抑える。
「こんなことになるとはな」
カズマも愚痴モードだ。彼にしては珍しいことだが。
「今日はシンジが帰ってくる日だよな」
コウキがため息をつきながら言う。
「そうだな。今頃は雲の上。おそらくこの報告は着陸と同時に葛城さんのところに行く。シンジがカナメに会うのを楽しみにしていられるのも、今のうちだけってことだ」
カスミが答えると、コウキがさらに尋ねる。
「カナメが洗脳されてたってのは本当か?」
「ああ。ネルフに入る前に洗脳を受けて、その後はこの手鏡で洗脳を強化されていたらしい」
「手鏡か。光の反射によってその文字が浮かび上がる、いわゆる魔鏡ってやつか」
「そうだ。『美綴カナメとして、碇シンジを愛せよ』……これだけだと問題にする理由にはならないんだが」
「美綴カナメには幼いころから別の洗脳がされていた」
と、そのメンバーのところにやってきたのは剣崎キョウヤだった。
「幼いころから彼女には『愛する者を殺せ』という教育がされていた。それも使徒戦が始まると同時に、と時限爆弾をつけられた。碇シンジを愛すれば愛するほど、彼女は時がくれば碇シンジを殺そうとしただろう」
「なあ、キョウヤさん。一つ答えてくれないかな」
ジンが仇を見るような目で言う。
「あんたが二ノ宮セラをけしかけたのか? 正直に答えてくれ」
「私は美綴カナメをネルフから出そうとはしたが、殺そうとしたことはない」
キョウヤは表情を変えずに答える。
「ネルフ内部に二ノ宮セラを煽動した者が他にいる、ということだ」
「今回の件ではキョウヤさんは敵だと言ったな。その言葉、本当に信じられるのか」
「信じるかどうかはお前次第だ、倉田ジン」
だがそんな揚げ足取りのようなことにキョウヤは付き合わない。
「それよりも美綴カナメにその洗脳を施したのが誰か、気にはならないか」
「……そうだな」
ジンが少し間を置いて答える。
「どうやら心当たりがあるようだな」
ジンは答えない。周りのメンバーはどういうことかと二人を見比べる。
「美綴カナメは『使徒教』の構成員だ」
それぞれが顔をくもらせる。どうやらその名前には誰もが聞き覚えがあるらしい。
「使徒教って、あれか。エヴァンゲリオンの開発資金を出してる企業にテロ活動やってるって噂の」
「使徒を信仰してるっていうやつな。最低の連中じゃねえか」
コウキとカスミが言う。だが、相手はこれではっきりした。
「シンジはアメリカだけじゃなくて、余計なもんまで敵に回ってるってことか」
「ターゲットを直接シンジに定めているわけだからな」
「じゃあ」
ヨシノが目の奥に静かな炎を灯す。
「カナメを駒のように操っていたのは、その連中ってことね」
「そうだ」
キョウヤが答えると、ヨシノが頷いた。
「分かった」
その顔は、復讐者のもの。
「絶対に、許さない」
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