必ず帰ってきて、と彼女は言った。
 約束する、と僕は答えた。

 そんな口約束が反故になるのが世の常で、未来は誰にも分からない。全くうつろ。

 そう。
 館風レミの占いにあった、シンジの未来。
 正位置のクロノス──未来は『決まっていない』という暗示。

 それは。
 カナメのように、未来の約束を全て壊していくことの暗示だったのだろうか。












第捌拾捌話
















 シンジは葬儀の前に目を覚ました。病室。頭の中はまだ混乱していたが、寝ている間も一つのことしか考えていなかったせいか、混乱ということはなかった。
 美綴カナメの死。それが現実のものとして自分に襲いかかってくる。
 もう彼女とは会えない。言葉を交わすこともできない。
 抱きしめることもできない。
 キスすることもできない。
 何もかもが、手の中からこぼれ落ちていく。
「シンジ?」
 ずっと付き添っていたのはコモモ。目が覚めたシンジに話しかけてくる。
「目が覚めたか。どうだ、頭が痛かったりしないか?」
「……どうして、僕はこんなところに」
「バスの中で暴れだしたんだってさ。ショックなのはわかるけど、でも周りに迷惑をかけるのは駄目だぞ」
「そうか。ごめん」
 反射的に謝る。その機械的な動作に、コモモは否応なく不安を感じる。
「ここは他に誰もいない。叫んでも、泣いても、大丈夫だぞ」
「うん。でも、なんか、よく分からないんだ」
 カナメが死んだということ。それがどうしようもなく心を締め付けてくるが、感情だけが麻痺したかのように全く動こうとしない。
 悲しくないのか、と自分でも不思議に思う。
 だが、それを傍から見ているコモモにははっきりと分かった。
 これは、人間が持つ防衛機制。悲しみに心がつぶされないように、悲しむという感情を一時的に制限しているのだ。
 だが。
(シンジは泣きたがっているんだ)
 それなら。
 荒療治になるが、やむをえまい。
 コモモは立ち上がると、上半身を起こしたシンジに向かって、平手を打った。
「……え?」
「分からないはずがないだろ」
 もう一度、叩く。
「シンジはカナメのことが好きなんだ。それなら、することがあるだろ」
「なんだよ、いきなり」
 シンジの心が動く。突然叩かれるという理不尽な暴力に対して。
「カナメが死んで悲しいに決まってるだろ!」
「悲しいなら、もっと他にすることがあるだろ!」
 さらに一発。それでシンジのタガが外れた。
「コモモに叩かれる理由なんかないだろ!」
 シンジが手を上げる。それを、コモモは歯を食いしばって待つ。
 だが、その手が止まった。
「……あ、僕は……」
 女の子を殴ろうとした。
 それも、抵抗すらしようとしていない女の子を。
「そのまま殴ってくれてよかったのに」
 どこまでも他人に優しいシンジに、コモモは苦笑する。
 そして、シンジの頭を優しく抱いた。
「あ……」
「でも、少しは感情が戻ってきたみたいだな」
「僕は、僕は……」
「三回も叩いてごめんな。でも、今のシンジなら、もう分かってるだろ」
「うん」
「カナメがいなくなって、悲しいな」
「うん」
「だから、おもいきり泣いていいんだ」
「うん……う、う……うあああああああああああああああああああ!」
 シンジはただ泣き続けた。
 カナメがいない。
 そのことしか、今のシンジには考えられなかった。






 たっぷり、三十分は泣いただろうか。
 シンジの顔はもうぐちゃぐちゃだった。一度顔を洗う。目は赤いが、それで少しはまともになった。
「ごめん、迷惑かけて」
「気にするな。少し、落ち着いたか?」
「うん」
 その間にコモモは温かいお茶を淹れていてくれた。一口含むと、全身にそのぬくもりが行き渡る。
「シンジにとっては、あまり愉快な話じゃないかもしれない」
「もうこれ以上不快なことなんてそうそうないよ」
「いや、あるんだ。シンジはカナメが亡くなったとしか聞いてないだろ。どうしてそうなってしまったのか、これからシンジには経緯を説明しないといけない。私が適役ということで、他のみんなには遠慮してもらった」
「どうして?」
「シンジは同期メンバーの中で、一番話を聞きやすい相手は誰だ?」
「誰って……」
 いつもからかう口調になるヨシノ。淡々としか放さないダイチ。上から目線になるコウキ。まとめてはくれるだろうが、相手を思いやる配慮に欠けるジンとカスミ。エンにいたっては事情がよく分かっていない。
「私が多分、シンジに説明するのに適任だと思ったんだ」
「うん……ありがとう」
「そうだな。謝られるより、感謝される方が嬉しい」
 コモモは安心した表情に戻ってシンジと向き合う。
「何から説明すればいいのか分からないけど、まず、結論から先に言う」
「うん」
「カナメを殺したのは、二ノ宮セラだ」
「……セラ?」
 意外な人物の名前が出た。もちろん、知らない相手ではない。
 陵辱を受けて、ずっと入院していた一つ年下の少女。シンジのことを思ってくれていた凛々しい子。
 それが。
「どうして」
「その辺りは調査中だ。セラがどうして殺したのか、どうやって殺したのか、全く明らかになっていない。後で剣崎さんから教えてくれるとは思うけど。ただ、そこにいたる経緯も複雑なんだ」
「でも、セラとカナメは面識だって」
「ないはずだ。ただ、まだ尋問が終わっていないから、確かなことは言えない」
 コモモがそう前置きして、話を始める。
「できるだけ事実だけを順番に説明していく。覚悟はいいか?」
 シンジは小さく、だがはっきりと頷いた。






「よっ」
 多忙な剣崎キョウヤのところに現れたのは、予想通り武藤ヨウであった。
「話は全部聞いたぜ。俺のいない間に随分派手にやってくれたみてえじゃねえか」
 キョウヤは小さく頷く。
「それで、二ノ宮セラをけしかけた奴の見当はついてるのか?」
「私がけしかけたとはお思いにならないのですか」
「冬月サンから聞いてるよ。美綴カナメを第三から出せ。生死は問わない。そこでお前さんは美綴を生かしたまま外に出そうとしたんだろ? それも、美綴がその後どう行動するか、監視をつけて。つまり、逆スパイだ」
 美綴カナメを外に出すことによって、逆に使徒教を探る。それくらいのことをキョウヤが考えないわけがないと決め手かかった物言いだった。
「否定はしませんが、美綴さんのガードを甘くしてしまったのは私の責任です」
「まあな。ただ、それについては葛城サンと染井ヨシノが責任を取るということで片がついてるだろ。お前さんは巻き込まれたクチだ。違うか?」
「違いませんね」
「そこで確認だ。二ノ宮セラをけしかけた奴の予想はついてるのか?」
「ネルフ内部に、ゼーレの手先が紛れ込んでいる可能性があります」
 あっさりと答えたキョウヤに、ヨウは「やはりな」と答えた。剣崎としては相手がゼーレを知っているのかどうか試す意味もあったが、相手は隠そうとは考えていないらしい。
「ゼーレを知っているのですか?」
「まあな。ドイツで加持サンに聞いた。相当ヤバい組織らしいな」
「国連にネルフを作らせた影の組織です。構成員、規模、本部、何もかもが不明。本当に存在するのかどうかすら怪しい組織ですが」
「そのゼーレが、セラを唆したわけか?」
「それ以外に考えがつきません。ゼーレの目的が使徒を倒すことならば、美綴カナメの存在、ひいては使徒教の存在は邪魔以外の何でもないはずです」
「ゼーレってのは味方なのかい」
「対使徒、という点では味方ですが、おそらくネルフや一般の人間が考えている未来と、ゼーレの考える未来とでは大きな差があるでしょう」
「いずれにしても、ゼーレと使徒教は対立する立場にあるわけか」
 ヨウはそれだけ分かれば十分、と手を開いた。
「そうなるとアメリカがシンジを殺そうとしているのも、ゼーレにとっては問題だと考えてるのか?」
「私にそんなことは分かりません。ただ、使徒教の犯行は防ぎ、アメリカを放置しているということは、別の意図が働いているのかもしれない。いずれにしても推測にすぎません」
「いやいや、さすがは剣崎キョウヤ。見直したぜ」
 年下から見直されたキョウヤだが、それで気を良くも悪くもしていない。どのみちヨウの言葉に大きな意味などないのだから。
「そういやお前さん、アメリカに行くらしいな」
「はい。明日には発つ予定です」
「東か? 西か?」
「ネバダです。赤木博士はマサチューセッツですが」
「俺も東だ」
 ヨウが笑う。
「適格者の保護はかまわないのですか?」
「赤木サンの警護も兼ねて、ちょっと会っておきたい奴がいてな。なに、今の警戒体制ならアメリカも手出しはしないだろうよ」
 ヨウが何をしに行くのかは分からないが、適格者のためになることは違いないのだろう。
 彼は金で雇われた傭兵だが、だからこそ信用できる。たとえ今引き受けている金額より高い金を積まれたとしても、一度引き受けた依頼を撤回することはない。そんなことをすれば次は自分が信用されなくなる。この世界は信用が全てだ。
「西で何をしてくるのか知らんが、被害はできるだけ小さくしてくれよ。あっちには俺の恋人もいるからな」
「そうでしたね。ですが、恋人さんはネルフとは関係のない絶対安全な場所にいるはず。それでもご不安ですか」
「世の中に絶対なんてものはないのさ」
 ヨウは肩をすくめた。そう、世の中に『絶対』などということはありえない。






 説明を聞き終えたシンジは、大きく息をついた。
 洗脳されていたカナメ。そして、カナメが自分を殺そうとしていたこと。
 どれも簡単に信じられる話ではない。だが、コモモが真剣に説明するのに、それを何の証拠もなく嘘だと決め付けるわけにはいかなかった。
 いつも正直なコモモなら、嘘をついているようには見えない。だからこそ自分への説明役となったのだろう。まったく、コウキたちも随分と考えている。
 そして一番驚いたのは、死んだという事実よりも、誰がカナメを殺したかという犯人の方だった。
「いろいろ分かったよ。でも、そうしたらカナメが殺される理由が分からない。セラは自分の考えで殺したのかな」
「言いづらいことだけど、それも可能性としてはある。セラはシンジのことが好きだった。その恋敵になるカナメのことを憎んでいたとしても不思議じゃない」
「だからって、接点がなさすぎる。セラはずっと病室にいたはずなのに」
「ああ。それは私たちも確認した。だから、セラ一人の行動とは思えない。誰かの意図が絡んでいるとは思う。でもそれは尋問が終わらないと何とも言えない」
 いずれにしても現状でセラのことは棚上げにするしかない。そうなると、
「カナメが僕を殺そうとしていたっていうのは本当なの?」
「カナメは多分、シンジを殺そうだなんて考えていない」
 コモモはそれについてはきっぱりと言い切った。
「洗脳されてるっていうのはそういうことだ。使徒が現れたときに、自分にとって最愛の人を殺すようにカナメは洗脳されていた。だから普段はシンジを殺すつもりなんか全くなくて、使徒が来たときにスイッチが入って、シンジに襲い掛かるように仕組まれていたんだと思う」
「使徒教……」
 シンジがおもいきり手を握る。
「じゃあ、カナメが僕のことを好きだって言ったのは」
「気持ちは本当だ。ただ、洗脳によってシンジのことが好きになる力がどんどん強くなるように仕組まれていたと思う。カナメは無意識のうちに洗脳を受け入れて、シンジのことをもっと好きになっていった」
「じゃあ、カナメの本当の気持ちじゃなかったっていうこと?」
「どちらとも言えない」
 コモモは首を振った。
「確かにシンジのことを好きになったのは洗脳の結果かもしれない。でもその結果、本当にシンジのことを好きになっていたのは確かだし、カナメがシンジを騙そうとしていたわけでもない」
「でも……」
 混乱する。確かにこれは、難しい問だ。
 カナメがシンジを好きだった。これは真実。
 だが、その好きになった原因が自然なものでないとしたら、その恋心は本物といえるのか。
「私はな、シンジ」
 コモモがシンジの手を握る。
「私はシンジが好きだ」
「え」
「あ、勘違いするなよ! その、仲間として、友達としてだ!」
「あ、うん」
「ああ、いや、そんな顔するなよ。もしかしたら異性として見ることができるかもしれないし……ああいや、何言ってるんだ私は」
 ぶんぶんとコモモが首を振る。
「とにかく! 私はシンジが好きだ。そして、他のみんなもシンジが好きだ」
「う、うん」
「だから、カナメもきっと、洗脳なんかなくてもシンジのことが好きだったに決まってる」
「そうかな」
「そうだよ、そうに決まってる、うん。私も言っててそう思えてきた」
「なにそれ」
 シンジは苦笑する。それを見たコモモがようやく安心したように一息ついた。
「え、なに」
「いや、ようやくリラックスしてくれたんだな、と思って」
 コモモが自分の気持ちをやわらげてくれた。
 泣いて、悩んで、苦しんで、そしてようやく、出口が見えてきた。
「僕はしばらく、カナメのことで悲しむと思う」
「当たり前だ。好きだった相手がいなくなって悲しくない奴なんかいない。そんな奴、私がぶっとばしてやる」
「うん。でも、カナメは言ってくれたんだ」

 ちょっとした仕草、性格の一つひとつ、いいところも悪いところも、みんな好き。
 シンジが不安そうにしていたら守ってあげたくなるし、逆に誰かを守ろうとするところは本当にカッコいいと思うし、私も守られたいと思う。
 チェロを弾いている姿は神秘的で綺麗。
 料理が上手で羨ましい。
 優しい性格には何回も救われた。
 友達のことをそれとなく気遣っているところも好き。
 もう、数え切れないよ。毎日毎日、シンジのことばかり考えるようになった。

「僕はそんなふうに思ってくれたカナメに、恥じないようにしたい」
「うん」
「でも」
 そうやって、カナメのことを思い返していくと、そこにまだカナメが生きているようで。
「ごめん。まだ、今日は、今日だけは……」
「いいんだよ」
 また、涙がこみ上げてくる。
「何回だって泣いていいんだ。それだけシンジも、カナメのことが好きだったんだから」






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