そう。
 この段階にいたって、適格者たちは少しずつほころびを見せ始めていたと言ってもいいだろう。
 そのほころびが明確になるにはまだ少し、時間がかかる。
 そのためにも今は少し、時間を経過させることとしよう。

 何しろ、四月の事件はまだ、始まったばかりなのだから。












第玖拾壱話
















 四月十二日(日)。

 アメリカのマサチューセッツ第一支部、そしてネバダ第二支部におけるエヴァンゲリオンの起動実験がいよいよ開始されることとなった。
 いざ実験開始となれば、このようなところで赤木博士を狙うようなことはまずありえない。ヨウは実験には当然のように参加せず、ネルフ本部から離れてアメリカ海軍の一施設へとやってきていた。
 非関係者は普通、軍の組織になど入れない。だが、ヨウが施設の門番に話しかけると、門番は気さくな表情に変わって彼と握手をした。それから少しの会話の後、無線で中と連絡を取り合う。
 そしてしばらくしてから迎えが来た。
「久しぶりだな、ヨウ・ムトー」
「どうも、ご無沙汰してます少将。相変わらず背、高いっすね」
 二メートルはある身長。だが、体はひきしまっていて無駄な筋肉など一切ない。それがここの施設の長をしているケビン少将であった。
「君が来ていると知っていれば、空港まで人を出迎えにやったのだがな」
「たかが一傭兵にそこまでしてくれることはないですよ」
「何を言うか。その一傭兵のおかげでアメリカ軍は窮地に一生を得た。少なくともここの施設に君の武勇伝を知らぬものは存在しない。私も君に命を救われた。この施設にいる水兵、ざっと千人は全て君に感謝している」
「いや、俺も随分と偉くなったもんだ」
 若干二四歳でしかない日本人の青年にここまで言わせるのだから、どれだけ彼が英雄的存在となっているかが分かる。事実、ヨウはケビン少将から中佐待遇でアメリカ軍への入隊を勧められたことがある。
「君ほどの傭兵なら世界中の組織とつながりがあるのだろう」
「まあ、それなりに。この間はイギリスのジョン長官とも話して来ましたよ」
「ジョンか。彼も今ではSIS長官だったな。テキサスでは本当に世話になった」
「ありゃあ死線でしたから。お互い生きてられるのが本当に奇跡みたいなもんです」
「違いない」
 お互い笑い合う。そして目つきが変わった。
「それで、何をしに来た? 君の頼みなら何でも聞いてやりたいところだが、分かっているだろうが私にも立場がある。そこを考慮してもらえると嬉しいが」
「たいしたことじゃないです。仲間を一人、返してほしいだけで」
 ケビンはそれを聞いて顔をしかめた。
「どうしてもかね。彼女は今や、この施設になくてはならない存在なのだが」
「お互い様ですよ。今の組織はかなり優れてはいるんですが、どうも裏切り者がいるみたいでね。信頼のおける仲間が必要なんですよ」
「まあ、仕方がないな。彼女はあくまで傭兵で、彼女が望めばいつでもこの施設を出ていってかまわない存在だ。私としては手放したくないのだが」
「若くていい女ですからね。惚れましたか?」
「私は女房一筋だよ」
 ふっ、とケビンは笑う。既に四十をすぎた男には、確かに彼女は若すぎよう。
「実は、君の到着の目的はそれだと思っていて、既に彼女には支度するように伝えてある」
「話が分かってくれるようで助かります」
「日本へ連れていくのか?」
「ええ。ネルフ本部の保安部を統括させると同時に、裏切り者を洗い出す。あいつくらいの凄腕じゃないと務まらないんですよ」
「なるほどな──どうやら、来たようだ」
 すると、施設の向こうから一人の女性が、小さな荷物と一緒に駆けつけてくる。まだ若い女性だ。ヨウと同じくらいか、一つか二つ下程度。長い髪が揺れている。
「軍曹! お帰りなさいませ!」
 女性はその場で敬礼した。
「久しぶりだな。元気そうで何よりだ」
「はい! 南雲エリ、軍曹の帰還を心待ちにしておりました!」
「おいおい、俺はもう軍曹じゃないぜ。傭兵はやめたんだ」
「たとえどんな場合であっても、私にとっての上官はいつまでも軍曹お一人だけです」
 上気した顔で言う。
「一年ぶりです。本当に、本当にお会いしたかった。ネルフにいらっしゃると聞いて、すぐにでも日本へ飛ぼうかと思ったほどです」
「おっと、俺がネルフにいることは公式には知られてないはずだぜ。ま、その前はほとんどアメリカだったけどな」
「そうなのですか? もしかしてあの方のところだったんですか? それなら教えてくださればよかったのに」
「まあ、言うわけにいかない理由もあってな。それはまあ、今度ゆっくり話すとして、なんだって俺がネルフにいることを知ったんだ?」
「SISのジョン長官から極秘裏に連絡が届きました。ネルフ本部に入って活動しているようだ、と。気をきかせてくださったようです」
「あいつめ。余計なことしやがって」
 くくっ、とヨウが笑う。
「ジョン長官とは今でも交流があるのですね」
「あまり仲良しとは言えないけどな。ただ、協力はしてもらえる算段だぜ」
「さすがは『たらしの軍曹』ですね!」
「褒めてねえ」
 ヨウは表情を変えてエリの髪をぐしゃぐしゃにする。きゃー、と言いながら涙目で訴えるエリ。
「ひどいです、軍曹」
「ひどいのはお前だ。それより、もう準備はいいのか?」
「はい。いつでも出発できるように、ジョン長官から教わったときには旅支度をしていましたから」
「オーケイ。じゃ、今日からお前はネルフ本部付けだ。いいな?」
「もちろんです。信頼する上官の下で戦うことほど、傭兵にとって幸せなことはありません」
「ったく、お前は生き方を間違ってるよ」
 笑ってからケビンに向かってもう一度手を出す。
「すみませんね、こんな急ぎで。また近くまで来たら顔を出しますよ。今日はこれからまだやることがありますから」
「そうか。ゆっくりできないのは残念だ。とはいえ、我々が顔を合わせるのは本来戦場だからな。本来なら顔合わせがない方がいいのだろうが」
「でしょうね。けど、敵味方に分かれようが、あなたのことは信頼してますよ、少将」
「私もだ。はるか東の国の友人よ。この施設の人間は一人たりとも君に対して敬愛しないものはいないことを、もう一度言っておこう」
「ありがとうございます。少将、死なないでくださいよ」
 そうして二人は海軍施設を後にした。






 少年はピアノを弾いていた。
 蛍光灯の光が彼の金色の髪を照らす。いや、金というには色が薄すぎる。金と銀の中間。そんな淡い色。
 彼がピアノを奏でるたびに、体の動きにあわせてその髪も揺れる。
 毎日が訓練の中、ピアノに触れるだけが唯一、安らげる時間だった。
 音楽の中にはわずらわしいことは何もない。人やしがらみ、すべてのことから解放され、ただ魂だけが昇華する。
 サードチルドレンは、チェロを弾くと聞いた。音楽を志す者に悪人はいない。きっと、サードチルドレンの魂も、高潔なのだろう。
「ここにいたのか」
 その、一人しかいない音楽室に入ってきたのはネルフの職員。
「さっさとしないか。もう起動実験が始まる時間だぞ」
 近づいてくる男に対して、少年は冷たい視線を向ける。
「な、なんだ」
「──興が削がれた」
 少年は立ち上がると、両手をポケットに入れて部屋を後にする。
「こ、こら」
「ああ、そうだ」
 少年はぴたりと足を止めて振り向く。
「お前、名前は?」
 右手を出して、相手のネームプレートを見る。
「そうか、分かった。後で解雇処分が出る。故郷に戻ってゆっくりするといい」
「な」
 ネルフ職員はさすがに動揺した。ただ声をかけただけなのに、いったいこの少年が何を言うのかと。
「俺がピアノを弾いているときは誰も邪魔をするな。そう最初に取り決めた。破った者は全てネルフから追放される。そんなことも知らなかったのか」
「な、な」
「俺は自分の手で『特別』を勝ち取った人間だ。うぬぼれでも何でもない、努力と実力で勝ち取った。それを知らない人間に、土足で踏みにじらせはしない」
 そうして少年は歩いていく。
 起動実験だろうが何だろうが、自分のスタンスを変えるつもりはない。変えないことを条件にネルフに入ったのだ。ネルフの上層部は全員そのことを知っている。そして知らないのはこういう下っ端の人間だけ。
 少年は実験が行われる格納庫へとやってきた。既にスタッフと、残り二名のランクA適格者も到着しており、少年が一番最後だった。
「アイズ・ラザフォード。ただいま到着しました」
「ご苦労様」
 普段見かけないアジア系女性がいた。髪を金色に染めてはいるが、もちろん人種の違いなどは一目で分かる。ここには自分のような白色もいれば、黒色も黄色も何でもいる。
「あなたが赤木リツコ博士か。高名は聞き及んでいる。今日はよろしく頼む」
「ラザフォード君ね。こちらこそよろしくお願いするわ。先週はついにシンクロ率三〇%に到達したそうね。おめでとう」
「ありがとう。ただ、三〇くらいの数字ではあなた方は不満だろう」
「何故?」
「そちらのサードチルドレンはドイツで六三%を出している。俺の数値はその半分以下だ」
「あの子と比べても仕方がないことよ。彼は違う役割を持った子だから」
「だろうな。だが、現実にこれだけの違いがあるというのは正直堪える。サードチルドレンは自分にとっては同期の人間でもある」
 二〇一三年の九月組。本部と支部の違いはあれど、同期の適格者。その人間に先を越されたのが悔しいということか。
「随分と正直なのね。もう少し他人を意識しない子かと思っていたわ」
「結果がすべての世界で生きているからな。結果は二つある。絶対評価と相対評価だ。自分はアメリカの中では一番だが、他の国と比較すれば自分はまだまだだ。ドイツにロシア、オーストラリア。超えるべき相手はまだまだ多い」
「私たちはあなた方を比べるつもりはないわ。まあ、アメリカ支部の考えは知らないけれど」
「そのようだな。あなたは兵士の能力を上げることはもちろんだが、現状の能力に合わせた作戦を立てることも知っている女性だ。頭が下がる」
「あなたに言われると光栄ね。『天才』ラザフォード君」
 ふっ、と少年は鼻で笑う。
「俺の『天才』はあくまでも努力した上でのことだ。人より少しばかり考えが働いたり、練習することでピアノが上達したりするのは誰でもできること。本当の天才は、そこにいるマリィのような女だろう」
「ふうん、ようやく私の方にも話を振ってくれたか。いつになったら会話に加えてくれるのかとずっと待ってたんだけど」
 赤毛の女性が待ちわびていたというように話に入ってくる。
 マリィ・ビンセンス。アイズ・ラザフォードと同じ、アメリカ第一支部のランクA適格者である。
「それにしてもアイズも、こんな日まで遅刻してくることないんじゃない?」
「俺の勝手だ。別に実験時間が早かろうが遅かろうが、結果が変わるわけではない」
「他の人に迷惑をかけるよ?」
「実験開始時間には間に合っている。くだらないミーティングに付き合うつもりはない」
 アイズはそう言ってマリィとの会話を打ち切る。彼が『天才』と評した少女だが、その仲はあまり良いものではなさそうだった。
「話が終わったのなら、そろそろ始めない?」
 最後の一人。巻き毛の金髪少女が話しかけてくる。
「そうね。自己紹介もアイズで全員終わったところだし、もう何もなければ早く起動実験しましょ。ずっと楽しみにしてたんだから」
「別に模擬体じゃないからって、シンクロ率が一気に上がるってことはないのよ」
「分かってるわよ、キャシィ。でも、期待してもいいじゃない? ドイツのアスカだって本機に乗って一気にシンクロ率が上がったって聞いてるし」
 キャシィ・ハミルトン。アメリカ第一支部ランクA適格者最後の一人。つんつんとした表情のマリィに対して、キャシィは常に笑顔だ。
「負けず嫌いなんだから、マリィったら」
「そうね。せめてドイツのアスカまでとは言わなくても、そこのアイズくらいは抜きたいところよね」
 するとキャシィは「無理無理」と笑い、アイズも言葉にはしないが苦笑する。
「二人とも失礼ね。いいわよ、アイズ。シンクロ率で勝負よ!」
「ここまでの通算成績、アイズの三六勝八敗〜」
「だって、アイズは勝ち目がない戦いはしてくれないんだもの!」
「勝ち目のない戦いを挑むマリィは偉い子ちゃんですね〜」
「貴様は今、自分の死刑執行所にサインした」
 突然口調を変えてマリィが格闘ポーズをとる。
「格闘ランクA級の私にかなうと思ってるわけじゃないでしょうね、キャシィ?」
「当たり前じゃない。マリィは自分より弱い相手を痛めつけるような悪い子じゃないもん」
 ニコニコ笑顔のキャシィに、はあ、とため息をつくマリィ。
「あなたたち、随分仲がいいのね」
 それを見ていたリツコが苦笑して会話に混ざる。
「どこをどう見れば仲がいいのか、教えてほしいんですけど」
「あなたが一番分かっていることを、他人に教えてもらう必要はないんじゃない?」
 リツコが大人の余裕でかわすと、さて、と仕切りなおした。
「さて、そうしたら三人とも、そろそろプラグスーツに着替えてらっしゃい。実験を開始するわよ」
「イエス・マム!」
 三人が気持ち良い声で返答して駆け出す。この辺りは規律に厳しいアメリカ第一支部というところか。切り替えがしっかりしている。よく育てられている。
「それじゃ、実験の準備、急いで」
 リツコは第一支部のオペレーターたちに指示を出した。






 零号機実験、そして弐号機実験を通して、初期シンクロの問題点は全て浮き彫りになっている。アメリカ、オーストラリアで調整し、それを初号機の初期シンクロへ完全にフィードバックする。それがリツコにとって今月最大の仕事だ。
 アメリカは第一支部で三機同時、さらには第二支部で二機同時のシンクロを行う。時間を合わせて、五機同時のシンクロ実験。だが、これくらいのことができなければ初号機も含めた八機同時のシンクロ実験も難しい。今回のアメリカでの実験のポイントは、複数機を同時に捌くことを目的としたものだった。
 シンクロに関する最終調整はオーストラリアで行えばいい。今回はまず、正確に仕事をこなし、複数機同時にシンクロする際の整備側、オペレーター側の問題点を洗い出さなければならない。
「準備はできた?」
 プラグスーツに着替え、既にエントリープラグに乗り込んだ三人に尋ねる。
『アイズ・ラザフォード。準備完了』
『キャシィ・ハミルトン。オッケーでーす』
『マリィ・ビンセンス。いつでもいいわよ』
 三人からただちに返事が来る。日本の子たちよりも、ある意味で好感の持てる子たちだった。
「では、シンクロを開始します」
 時間は午後一時。起動実験がスタートする。
 パルスパターンとシンクログラフの値がめまぐるしく変化し、いずれもオールグリーンを示す。そして、ハーモニクスが高まっていく。
「シンクロ・スタート!」
 三人の数値が一斉に上がっていく。そして、一気に二十パーセントを突破した。
「マリィ・ビンセンス、28.331%、記録更新です」
「キャシィ・ハミルトン、25.001%、最大値まで0.122%」
「アイズ・ラザフォード──まだ上がるぞ」
 オペレーターの声が驚愕に彩られる。
「来た! 34.101%! 大幅更新だ!」
 おお、と声が上がる。たいしたものだ、初めての起動実験でいきなりの記録更新が二人。さらにはキャシィも最大値と変わらない数値。今日の三人は絶好調といえるだろう。
『こちらマリィ。数値はどう?』
「いい数値よ。28.331%」
『やった、2%アップ! それで、アイズの奴は?』
「34.101%」
『よ、4%アップ〜!?』
 がっくり、と画面のマリィがうなだれる。それを聞いたキャシィが笑う。
『残念無念、また来週〜』
『アンタはジャパニーズアニメの見すぎ!』
 キャシィの声に怒鳴るマリィ。まったく、本当に仲が良い。
「赤木博士」
 と、そこに。
 怪訝な表情をしたオペレーターの一人が話しかけてきた。
「どうしたの?」
「ネバダが……第二支部が」
 ディスプレイを見ると、第二支部の二機の様子が変だった。いや、変というよりも、何も映っていない。
「どういうこと?」
「分かりません。トラブルだとは思うんですが、連絡が完全につかなくなりました。こちらからメール、電話で連絡を取ろうとしても、全くつながりません」
「第二支部の責任者に直でつないで」
「それも試しました。というより、第二支部全体につながらない状態になっているんです」
 第二支部全体が?
 頭の中で何が起こったのかを確認する。だが、こんな事態は想定外で、情報もないままでは何が起きたのかも分からない。
 と、そこへ、リツコの携帯電話に連絡が入った。
「剣崎くん?」
『赤木博士。大変なことが起こりました』
「第二支部ね。何があったの?」
 次の一言が、リツコに正しく認識されるには時間が必要だった。






『消滅しました。第二支部はもう、半径一キロにわたって、跡形も存在しません』






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