少年は空を見上げていた。
既に日は沈み、いくつかの星が瞬いている。都心に近いこの場所では、故郷のように多くの星を見ることはできない。それでも夜空だけが自分と故郷をつなぐ絆。あの空の向こう、故郷には家族が、友が自分を待っている。だが自分は帰ることができない。自分がこの場所にいることが家族の安全を守ることにつながるのだから。
自分に感情はない。感情を持つには辛すぎる。この場で誰にも理解されず、ただ国家の犬として尾を振ることしかできない。それが移民であった自分たちを守ってくれた町を守ることにつながるのなら。
「ゼロ!」
名を呼ばれる。振り向くと、何かと自分を世話してくれる整備士の顔がそこにあった。
「やっぱりここだったか。そんなに夜空が好きか?」
整備士の問には答えない。この人物には感謝しているが、それでも自分の居場所はここではない。
「今日のシンクロテスト、また数値を上げたな。もう六十パーセントが目の前だろ」
「──興味ない」
「そう言うな。お前がネルフに興味ないことくらい知ってるが、それを聞けば煙たがる奴もいるからなあ」
それすら気になどしていない。ランクAまで上り詰めた今、自分に危害を加えようというものは逆に制裁される。もはや自分はこの国の至宝。誰も自分に逆らうことなどできないと言ってもいい。
「明後日の起動実験、お前なら大丈夫だな」
「そのつもりだ」
第玖拾漆話
零
四月十八日(土)。
オーストラリア・ニューカッスル。ネルフ第九支部。日本からの技術者を迎え、否応にも基地内はあわただしい。
無論、目的は翌日に行われる起動実験だ。日本に始まり、ドイツ、アメリカと続けてとうとうオーストラリアの番となった。本部としては、日本で行う起動実験の最終調整を兼ねている。だが、そんなこともランクA適格者、錐生ゼロにとってはどうでもいいことだった。さっさと終われば自室で眠れるし、夜になれば一人で散歩するだけのことだ。
「あなたが錐生ゼロくんね。本部の赤木リツコです。よろしく」
黒のプラグスーツを着たゼロが頷く。
「日本語、分かるのよね。それとも英語の方がいいかしら」
「どちらでも」
「そう。昨日のシンクロテストでも高い数値を出したみたいね。期待しているわ」
「はい」
「レクチャーはもう受けていると思うから問題ないと思うけど、何か質問はあるかしら」
「ありません」
感情を込めずに答える。そう、とリツコは頷く。
「それじゃ、本番はよろしくね」
「失礼します」
ゼロが退室すると、リツコが苦笑する。
「どうかしましたか」
現地のMAGI主任が尋ねてくる。若い女性だ。まだ二十代。
「いえ。あれではあなたたちも随分とやりづらいのでしょうね」
「そんなことはありません。ゼロくんはこちらの言うことを何も嫌がらず、きちんと最後までつきあってくれます」
「でも、あなた方に心を開いていないのは確かでしょう?」
「それは──」
主任が口ごもる。そんなものは見ていれば分かる。回りのすべてに壁を作っている少年。
(あれが噂になっていたサード・チルドレン候補か。チルドレンにならなかったのはあくまでも本部の意向があったからだけど、本人は気にもしていなさそうね)
錐生ゼロ。もともと日本で生まれ、育った少年。それが何の因果かオーストラリアに住まざるをえなくなった。
錐生家はセカンドインパクト以前から力のあった政治家の一族だ。過去、国会議員を何人も一族から出している。首相候補にすら挙がったことがあるくらいだ。
セカンドインパクト後の混乱から立ち直るために、第二東京に政治の拠点を移し、一方で第一東京の都知事となったのが錐生氏。ゼロの父親だった。
そして、あの悪夢の二〇〇八年を迎えた。
六カ国軍が第一東京を襲撃。都庁もタワーも全てが崩壊した。そして、都知事公館にいた一族もほぼ皆殺し。混乱の中生き残ったのがゼロと姉の二人だけ。
錐生一族の生き残りに対して世間は冷たかった。もはや政治的価値がなくなった二人をかばおうとするものは国内になく、経済的に自立し、海外進出を行っていた叔父のツテでオーストラリアへとやってきた。
オーストラリアでの生活は今までとは全く違った。片田舎で何もないところだが、人々は親切で二人はすぐに町に溶け込むことができた。もともと移民が多かったことも、二人が入り込む余地が大きい理由だったのかもしれない。
だが、二〇一三年一月。一度故郷を捨てたゼロに、もう一度故郷を捨てるときが来た。オーストラリアにも新しくネルフ第九支部が設立される。そこで適格者としての資質が認められ、キャンベラへ移り住むことになったのだ。無論、一人で。
姉は反対したし、叔父も反対した。大切にされているのがありがたかったが、自分は適格者になることを選んだ。それ以外の選択肢がなかった。
「君は、オーストラリアに来て何年になるのかな?」
今でも政府高官の顔は忘れない。自分と家族、友人たちを引き裂いたのはあの男。
「五年です」
「そうか。それまで暮らしていた国からこちらにやってきて、言葉も違えば環境も異なる中でよくやってきたものだと思う。いやまったく、たいしたものだよ」
まだ中学にもならない相手に何かを気づかせようとするのは政府高官として頭が悪いとしか言いようがない。だが、もったいぶる方が相手を痛めつけることができるというのであれば、間違ったやり方ではないのだろう。
「君を迎えてくれた叔父さんも家族ができて喜んでいることだろう」
叔父は結婚していなかった。まだ若い叔父だからいくらでも結婚できる。単身オーストラリアに飛び出し、現地で成功した珍しい例だ。とても所帯を持つなどという環境にあったわけではない。
「その叔父さんを、助けてあげたいとは思わないかね?」
「助ける?」
「そうだ。君が適格者になれば、叔父さんの会社は国からの援助をさらに受けることができる。そうすれば叔父さんはもっともっと楽をすることができる。当然、君のお姉さんだってその方が嬉しいはずだ」
それならどうして二人を遠ざけたのだろう。そして二人はどうして自分が適格者になることに反対するのだろう。
聡明なゼロには分かっている。子供一人なら騙せると、この政府高官が思いこんでいるからだ。
「はっきりとおっしゃってください。俺が拒否すると父の会社はどうなるんですか」
だからストレートに尋ねた。駆け引きは必要ないと思ったのか、高官は苦笑する。
「君が承諾しないなら、経済制裁を加えることも検討している。もちろん、問題にならないようにね。取引相手がいなければ会社は運営できないことは分かるね?」
「それを公に広めたら今の政府の方が危険だと思いますが」
「どうかな。世界を救うためという名目があれば、ある程度のことは納得してもらえると思うよ。ま、やってみなければわからないがね。ただ、現政府の安泰より、君は自分の家族と、叔父さんの会社のことを心配した方がいい。それに、君のお姉さんも」
「姉が何か」
「いやなに、世界のために適格者となることを承諾しなかった男の子。別に私や政府が何をする必要もない。君の家族は必ずその報復を受ける。何故適格者を承諾しなかったのかと。嫌がらせくらいで済めばいいがね。言っておくけど、命の保証はないと思った方がいい」
そこまでくればゼロも馬鹿ではない。子供一人で対応できるレベルをはるかに超えている。つまり、逃げ道はない。一択の問題だ。
「叔父さんと姉には何もしないか?」
「当然だ。我々がほしいのは君だけだ。君の適格者としての資質を買い上げようというのだ」
「いくらで?」
「その要求を出せるほど君の立場が良いわけではないと思うが」
「でも俺が承諾せず、俺が現政府のやり方を広めようとするのを防ぐための口止め料、それに俺をこれから適格者として働かせるための金額と思えば安い買い物だと思う。あなた方が俺の口を塞ぐ方向に出るか、それともお金で解決するかのどちらかだ」
「ふむ」
高官が少しじらすように考える。
「いくらほしいのかね?」
「まず家族の安全。そして百万オーストラリアドル」
当時のオーストラリアドルは、一ドル=約九十円。したがって百万ドルで九千万円だ。
「少し、尋常じゃない金額だね」
「オーストラリア政府は、ネルフ第九支部立ち上げのために一人でも多くの適格者を集めるために必死だ。多少のお金を動かす用意はあるのだと思う。それに国連からも資金援助を受けている。戦車一台よりずっと安い。問題はないはずだ」
「君の言う通りだ。確かに私たちは適格者を買い取ることができるのならお金を積むことも辞さない。だが、百万ドルは多すぎる。一人あたり十万ドルまでの金額しか与えられていないのだよ」
「人の一生を左右するのにたったの十万ドル?」
「分かった。二人分の二十万ドルでどうだい?」
「話にならない。相手が小学生だと思っているのなら考え直した方がいい。俺は第一東京で地獄を見た。それに比べれば、この地で嫌がらせを受けるくらいたいしたことはない。逆に打ち倒すことだってできる」
「分かった。五十万ドル。ここで手を打ってくれないか。我々ばかり妥協をして、君の方が妥協をしてくれないというのは、いささか不公平というものだ」
「金も力もあるのはあなた方であって俺じゃない。俺の言うことが気に入らないのなら好きなようにしたらいい」
「君の言う通りの事情もある。一人でも多くの適格者を集めるのが仕事だ。君に百万ドル支払ったら、他に九人の損失を出すことにもつながりかねない。だからここが限界だと言っている」
「七十万ドル」
ゼロが答える。それで高官の顔が輝いた。
「もう一声──いや、やめておこう。せっかく譲歩してくれたのだから」
譲歩した、ということは取引に乗ったということだ。つまり、この時点でお互いに協力関係が出来上がったことを意味する。どちらかが一方的に立場の強い取引は破綻を招く。そのための譲歩だ。
「よろしく頼むよ、ゼロくん」
高官は笑った。だが、心の中では自分が笑っていた。
(今のうちにいくらでも笑っておけ)
ゼロは自分がこれから何をすべきかということを完全に把握していた。
(適格者。世界を守る救世主。自分の価値が高まれば、この国で誰もが自分のことを認めることができるようになれば、もう誰も俺を従えることはできない)
そして自分は家族の下に帰る。いや──
(もう、戻ることができない道に踏み出してしまったのかな)
最悪の場合は、もう二度と会えないことも覚悟しておいた方がいいのだろう、とゼロはため息をついた。
あれから三年。オーストラリア支部はゼロを含めて三四人の少人数体制だ。本部と十二個の支部の中でもっとも人数が少ない。
ランクAが錐生ゼロ。そしてランクBに二人。ここまでがエヴァンゲリオンのパイロット候補。ランクC以下のメンバーがどれほどのシンクロ率を持っているかは分からないが、あまり見込めるわけではないのだろう。
「ゼロ!」
「ゼロさん」
通路を歩いていたら、そのランクB適格者の二人が自分のところに近づいてきた。一人はオーストラリアと日本のハーフで真鶴・テイラー・天継。もう一人はローラ・ニューフィールド。いずれもまだ中学生になったばかりの年下の女の子だ。
「どうした、二人とも」
この二人を相手にするときだけ、自分は少し優しくなれる気がする。自分には姉がいたが、弟妹はいなかった。そういう感覚なのだろう。そして二人からも兄のように慕われている。悪い気はしない。
「明日の起動実験が大丈夫かってローラが騒ぐもんだから、ちょっと会いに来ただけよ。それともゼロは私たちのことに気が回らないくらい明日のことで緊張してるの?」
挑発的に言う真鶴に「まさか」と肩をすくめる。そして「ちょっとちょっとぉ!」とローラが割って入る。
「なんで私ばっかり騒いでるっていうのよ。ゼロさんのことを心配してたのは真鶴ちゃんだって同じでしょ!」
「な、何言ってるのよ! ゼロに限って問題があるはずないでしょ!」
「さっきまで、心配だ心配だって繰り返してたくせにー」
「ふ、ふん! そりゃ、ちょっとは心配するわよ! なにしろ、アメリカであんなことがあったばかりなんだし」
それを口にした途端、ローラもからかうのをやめて静かになる。
まったくこのちびっこコンビは、無愛想な兄のことをよく心配してくれているらしい。
「大丈夫、だよね、ゼロさん」
「まあ、同じ実験をするわけじゃないから大丈夫だろう。何か飲むか?」
自販機を指さす。
『オレンジジュース!』
子供だな、と苦笑をかみ殺す。二人にオレンジを渡して自分はコーヒーを飲んだ。
四月十九日(日)。
「ボーダーラインクリア! 起動成功です!」
そして、何の問題もなく起動実験が終了する。
エヴァンゲリオン弐拾壱号機。黒いボディに、赤いラインが随所にあるカラーリング。
(まるで死神のようだ)
武器に大鎌でもあればさぞ似合うに違いない、とゼロは思っていた。
(もっとも、俺がその死神なのかもしれないな)
ディスプレイには発令所の様子が映っている。真鶴もローラも純粋に喜んでいる。
(姉さん)
だが、そこに自分の求める姿はない。
幼いときから、共に手を取り合って生き延びてきた自分の半身。
(必ず迎えに行く。だからそれまでもう少しだけ待っていて)
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