「うお、すげーなこりゃ」
その日の夜、日本でいつものようにMAGIにハッキングしていた真道カスミが思わず声を上げた。
「どうした?」
尋ねるのは相棒の野坂コウキ。ようやく日曜日の休みになったというのに、自由行動ができないせいですっかりカスミの部屋に入り浸りとなっている。
「オーストラリアの起動実験、成功だってよ」
「そりゃめでたい」
「でもな、数値がとんでもないことになってるぜ」
どれどれ、とコウキは画面を覗く。
錐生ゼロ。シンクロ率、六二.四一九%。ハーモニクス、八七.〇一。
「確かにな。シンジと一%差か。せっかく差をつけたのに、一気に近づいてきたな」
「これだけのシンクロ率なら、やっぱりチルドレンにっていう意見も出てくるだろうな」
とはいえ、それをどうするかは本部の意向次第だ。現在のランクA適格者たちの中では、六〇%を超える者が三人。それ以外ではロシアのイリヤが四〇台で、あとは三〇台だ。上位三人だけが抜きん出ている状態になっている。
「三人にかかる比重が重くなる。どう思う、コウキ」
「考えなきゃいけないことはいくらでもあるが、まあ、いよいよってことだな」
いよいよ──そう、日本でも零号機以外の機体の起動実験がいよいよ来週の日曜日だ。
「忙しくなるぞ」
「だな」
第玖拾捌話
辛
四月二十日(月)。
代わり映えのしない射撃訓練。ランクA適格者になって、最初に行った訓練がそういえば射撃訓練だった。あのときはカナメがいて、一緒に話して葛城教官に怒られたりしたものだった。
ここにもう彼女はいない。ただ銃を構えて、撃つ。その繰り返し。他に考えることは何も必要ない。ただただ機械的に繰り返すだけ。
やはり自分はまだ何も解決できていない。
「集中力、途切れたわよ」
ミサトがいつの間にかシンジの後ろにいた。考え事をするとすぐにこれだ。いったいどうやって自分たちを監視しているのだろう。
「すみません」
「考え事もいいけど、訓練中は怪我につながるからやめなさい。訓練は訓練、私事は私事。割り切らないとね」
「はい」
「ん〜」
ミサトは首筋をかく。そして「よし」と言った。
「ちょっとシンジくん、今日の昼、付き合いなさい」
「は?」
「いいから。あ、もちろん古城くんも一緒にね♪」
何か楽しそうな様子のミサトだが、いったい何をされるのかが分からない。まあ、断る理由もないのだが。
そして昼。ネルフ駐車場まで呼び出されたシンジたちは、そのまま強制連行でミサトのルノーに放り込まれた。
「いやー、新しく車を買ったのはいいんだけどさ、全然使いみちないもんだから、駐車場でずっと眠ってたのよねー。せっかくだから郊外のお店にでも行きましょっか」
ミサトが気楽に言う。
「いや、でも、教官と適格者が私的な行動をとってもいいんですか?」
「これも仕事の一環よ。ま、気にしないで奢られなさい!」
「……高そうな車ですね。そんなお金あるんですか?」
「……ちょっぴり遠慮してくれると嬉しいかも」
というわけで、ミサトの暴走ルノーが火を噴く──というほどでもなく、きわめて『安全運転』でそのルノーは郊外の店まで二人を無事に連れていった。もっとも、何をもって『安全』とするかはこの場合、怪我一つなかったことをもって言う他はないが。
「到着ー。さ、ここよ」
「ここは?」
「カレー屋さん。っていっても、ちょーっち普通のとことは違うけどねー。ま、入ってみれば分かるわよ」
ミサトを先頭に、シンジとエンも入っていく。ログハウス風の建物。店内は程よく暗く、非常に落ち着いた雰囲気を醸している。
「メニューはこれね」
「……スープカリー?」
「そ。けっこうおいしいのよ。何でもいいわよ」
しかし、いったいどういう風の吹き回しか。今までミサトとシンジはそれほど仲良く話したことなどない。当然だ。相手は教官で、自分はただの部下。それ以上の関係など全くないのだから。
「豚角煮がおいしいわよ。あとは無難にチキンレッグかな」
「じゃあ、それでお願いします」
「古城くんは?」
「ではこちらのベーコンとキノコのカレーで」
「辛さはどうしようか?」
「自分で決めるんですか?」
「そ。辛いのは得意?」
「まあ、普通に」
「じゃあちょっと辛口くらいかな。古城くんもそれでいい?」
「はい」
「じゃ、すみませーん!」
こうしてテーブルの前にいるミサトは普段の教官役とはまったく違う顔を見せる。これが本来の彼女の素の姿なのかもしれない。今までは何事も教官としての立場でしか接することがなかったが、意外に彼女も普通の人なんだなということが分かる。
「豚角煮の五番と、ベーコンとキノコの五番、それから、チキンの三十番」
三十番?
何か桁が違う。というか、いったい何番まであるのだろうか。というかちょっと辛口で五番だと三十番ってどれだけなのか。
「あ、私のことなら気にしないで。私、味覚が弱いからこれくらい辛くないと何も感じないのよね」
「味覚障害ですか」
「そ。だからだいたいのものは何食べても同じ。食感が違うくらいねー。だからふにゃふにゃしたのより噛み応えがある方が好きなのよ」
別に聞いてない。それなのにどんどん話しかけてくる。
「だからとりあえず酔っ払えるビールとかがあると嬉しいけど、さすがに仕事中はまずいっしょ」
子供二人連れて飲酒運転となったら公務員資格剥奪モノだろう。
「ちょっとだけ試してみる?」
「……三十番をですか?」
確かに興味はある。だが、そんな尋常ではない数字に触れていいものなのだろうか。
シンジとエンは目を合わせる。君子危うきに近寄らず。これは手を出さない方が正解だ。
「お待たせしました」
十分ほど待って、三人のところにカレーが運ばれてくる。香ばしい匂いが食欲をそそる。
「じゃ、いっただっきまーす」
スプーンとフォークでミサトがチキンの分解に入る。シンジはとりあえずスープを飲もうとスプーンですする。
「ごほっ!」
いきなりむせた。スパイシースープがそのまま喉を直撃した。
「大丈夫?」
ミサトがにやにやと笑っている。
「最初のうちはあまりスープは飲まない方がいいわよ。ご飯をスプーンですくって、少しスープにつけるの」
「こんな感じですか」
エンが試しにやってみる。するとうまく食べることができた。
「そうそう」
それを見ながらシンジも先にご飯を乗せてからスープをつける。なるほど、これならむせない。
「けっこう辛いですね」
「慣れればそれくらいが普通になるわよ。どう、こっちの、少し飲んでみる?」
そこにはシンジたちのとは全く色の違う液体が注がれている。
意を決したエンが、ご飯を先ほどよりも少し多めに、そして少しだけミサトの三十番スープをつける。本当に少しだけ。
食べる。
「────!!!!」
ご飯を吹き出したりしなかったのは、行儀のよいエンだからこそだ。無理やり嚥下して、水を一杯飲みきる。既に顔中に脂汗が流れ、息も絶え絶えだ。
「だ、大丈夫……?」
エンはなんとか首を振った。もちろん横に。
「シンジくんも食べる?」
「遠慮しておきます」
目の前の惨劇を見て、それでも挑戦するような無謀なチャレンジャーではない。勇気と無謀とは違うのだ。
「よく、たべられ、ますね」
ぜえぜえとエンが二杯目の水を飲み干して言う。
「これでようやく、ピリッとくるくらいかな」
「エンくんは?」
「体中が焼かれた感じ」
全然違う。いったいどういう神経をしているのだろう、この教官は。
「だから、味覚障害なのよ。昔の事故でね」
「事故?」
「そ。セカンドインパクト」
少し真面目な話になった。
「食べてからにしよっか」
それから三人は、会話もなく黙々と食事を続けた。
尋ねたいことはいろいろとあった。というか、このときばかりはシンジもあまりの体験の連続で、今まで悩んでいたこともすっかり吹き飛んでいた。
やがて食事が終わる。かなり辛かったが、それでも最後まできちんと食べた。というか、美味しかったので残そうとも思わなかった。シンジなどは、今度自分のレパートリーにするために少し研究してみようかと思ったくらいだ。
「セカンドインパクトって、どういう事件だったか、知ってる?」
ようやくミサトから切り出してきた。もちろん話としては知っているし、映像媒体でも確認している。適格者である二人が知らないはずがない。
「使徒と呼ばれる二体の生命体が、全世界を破壊した事件ですね」
「そう。じゃあ、その使徒はどこから来たかっていうのはどう?」
「それは……」
知らない。
教科書にも書いてある。地球に突如現れた正体不明の二体の『未確認生命体』──通称『使徒』。世界中の大都市を崩壊させ、一ヶ月の破壊の後に消滅した使徒。
「あれはもとから地球にいたものよ」
「地球に?」
「そう。温暖化が進み、氷が融けた南極の地表から現れた二つの生命体のカケラを、人類は研究した。それが何を招くかということを考えもせずに」
「それじゃあ……」
「世紀末の地球は、今の十倍以上ものエネルギーを使っていたそうよ。排出される二酸化炭素の量だってハンパじゃない。太陽の温室効果で北極の永久氷壁すら融け始めていた。南極では今まで一度も地表が見えたところがない場所の氷が融けた。そこにいたのが使徒。その幼体。幼体の体細胞を研究した結果、考え出された理論が、アメリカで事故の原因となったS2理論よ」
「ちょ、ちょっと待ってください」
今の話は、この間、クローゼから直接聞いた内容とかぶる。いや、そのものだ。
「驚いた?」
「いえ、その……セカンドインパクトのことは学者ですら分からないのに、ネルフはそこまで情報を押さえているということですか」
「違うわ。今のは私自身が持っていた知識よ」
「え?」
「あのとき、私も南極にいたの。セカンドインパクトが起きて、南極の氷が全て融けたあの日、私はあの南極にいたのよ」
セカンドインパクトの発生地点、南極に、葛城ミサトがいた。
「それは」
「もう十五年前か。私も十四歳だったから、今のあなたたちと同じ中学校二年生だったわね。だから、今の話は多分、トップの碇司令くらいしか知らない話だと思うわよ」
クローゼもそう言っていた。この話を知っているのはそれほど多くないと。だが、ミサトの知識はクローゼの話よりも詳しい。
「でも、いくら現地にいたとはいっても、中学生がそれほどの事情を知っているのはおかしくないですか?」
エンが尋ねると、ミサトは苦笑して答えた。
「S2理論を編み出したのは、私の父なのよ。私は父の論文を全部読んだ。あの頃はまだ分からなかったことも、勉強をしていくにつれて分かるようになった。父が話していたことも、今となってはよく分かるわ」
「その話をどうして僕たちに? というか、シンジくんに?」
シンジがなかなか言葉に出せないので、エンが全て応答している。もちろん、エンの疑問はシンジの疑問でもあった。
「なんでかしらね。でも、シンジくんには知っておいてもらった方がいいかと思ったのよ」
ミサトは首をかしげる。
「セカンドインパクトなんていうものが起こったせいで、いろんな人が苦しんでいる。今、シンジくんが苦しんでいるのだって、セカンドインパクトが起こらなければなかったものだった。だから、シンジくんが苦しいのなら、全部それは私にぶつけなさい……っていうところかな」
「どうして」
「親の罪は子が継ぐものでしょ。私は父が間違ったことをしていたとは思わないけど、でも結果を見れば全世界で四十億もの人口が失われ、さらに今、使徒によって人類が滅ぼされようとしている。結果としてはそれはやっぱり罪なのだと思うわ」
「ですが、教官を恨む理由にはなりません」
「そうだとしてもよ。シンジくん、初めてランクCに上がったときのことを覚えてる?」
「え?……はい、覚えてます」
「あなたははっきりと言ったわね。自分はエヴァンゲリオンなんか操縦したくない、適格者なんて続けたくない、って」
「はい」
「今でも同じなの?」
そう尋ねられて、シンジは少し考えた。
「僕が乗らないと、みんなが困るんでしょう?」
「困るわよ。それこそ強制してでも乗ってもらうわ。その意味でシンジくんに選択肢はない。でもね、人のせいにしてても意味のないことよ。私は確かに父親のせいで使徒に関わることになってしまった。でも、使徒と戦うと決めたのは自分の意思よ。シンジくん、あなたは周りに流されるまま使徒と戦うの? それとも自分から使徒と戦うと決めるの?」
「自分で決められるようになれ、ということですか」
「できればね。私も詳しくは知らないのだけれど、シンジくんはチルドレンになるために道が用意されていた。今はその道を歩かされている。でも、そんな風に誰かに決められた道を歩くのはつまらないことよ」
「でも、それ以外に道はないんでしょう」
「そうよ。だから、その道を選ぶのよ。自分の意思で。そうすればシンジくんは今よりもっとすごいことができる──」
と言って、ミサトはまた首をふった。
「でもそれはこちらの一方的な希望ね。でも、少しでも考えるきっかけになってくれればと思って、今日はその話をしたのよ。ま、年寄りの愚痴程度に思ってもらってもかまわないわ」
「そんな」
「さ、そろそろ帰りましょうか。午後からの訓練に間に合わなくなるものね」
そう言ってミサトが立ち上がる。遅れて二人とも立ち上がった。
前回のクローゼのときといい、徐々に話が自分たちだけの問題ではなくなってきていることを実感せざるをえなかった。
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