人工進化研究所。セカンドインパクト以前、世界の大財閥のいくつかが共同出資して作った研究機関である。そのねらいは人間が人間からさらに高度な種へと昇華することであった。
 その研究所の一組織が『ハイヴ』。これは自己の記憶を他者に写す、いわゆる『コピー』を専門に研究した組織である。インパクト以前、既にクローン技術は哺乳類でもクローンができることを証明しており、そこに記憶を転写させれば誰もが若返ることができるという、夢の研究であった。
 だが、その研究は暗礁に乗り上げていた。しかもそこにセカンドインパクトが発生し、人工進化研究所も大部分が予算を削減されることとなった。
 最低限の予算で活動することとなった『ハイヴ』は、ついに記憶の転写に成功する。だが、それはクローンではなく、一卵性双生児間でしかできなかった。












第佰玖話



「まったく、違います」












 次の日、エンはアルトと出会った。こんにちは、と声をかけられ、こんにちは、と声を返す。いつものやり取りだ。
 今までアルトとはほとんど話していない。だが、エンにとってはノアよりもアルトの方が気にかかっていた。
 アルトは自分がどういう存在であるかを知らない。複数人格・記憶共有の実験の結果として生まれた副人格。片方の体でノアが現れている場合、もう片方の体に現れる人格。それがアルトだ。
 かわいそうだ、と思った。こんなことを思うのは非常に不思議なことだったが、それがとてもかわいそうなことに思えた。
「怪我はもういいの?」
「はい。心配してくださり、ありがとうございます」
「あ、そうだ。お姉ちゃんから聞いた。名前、できたんだってね」
「はい」
「古城、エン」
「はい」
「なんだか、物悲しさを感じる名前だね」
「そうですね。でも、この響きは気に入りました」
「自分のナンバーに似ているのに?」
「違います」
 断言した。反射的に口が答えていた。
「まったく、違います」
「そう。ごめんなさい、気に入ったんだね、その名前」
「はい」
「でも良かった。自分の名前が好きなのはいいことだから」
 ふくみのある言い方だった。
「ご自分の名前がお嫌いですか」
「嫌いじゃないけど、なんとなくしまりが悪いなと思って。紀瀬木アルト。なんか変じゃない? お姉ちゃんは紀瀬木ノアって、綺麗な感じがするのに」
「アルト。優しい、穏やかな名前だと思います。自分は好きです」
 正面から見て言うと、相手が顔を赤らめたのが分かった。
「エンはませてるね。私と同じで、まだ六歳でしょ?」
「はい」
「そんなに簡単に好きとか言ったら駄目。分かった?」
「はい」
「好きっていうのは、自分が本当に大切に思っている相手にだけ、優しく伝えてくれればいいの」
「分かりました。ですが、アルトという名前は本当にいい名前だと思います」
「ありがとう。少し自信出てきた」
 こうして、初めてのアルトとの長話はとても和やかに終わった。
 そして一日のタイムラグがある。いつも見ている体は今日はノアのはず。
 次の日。ノアが現れた。なるほど、別の体だ。
「あなたはノアですか?」
「そうよ。まったく別人を見るような表情ね」
「あなたたちの体はまったく別のものです」
「ふうん。もう一人の護衛は私たちの複数人格にまったく気づいてないわよ?」
「そうですか」
 ただ能力的に低いというだけのことだろう。それをもって自分を誇るつもりもないし、相手を責めるつもりもない。
「あなたは優秀ね、エン」
「ありがとうございます」
「それで驕りたかぶらないのがすごいところね。もう一人に言ったときは褒めたらすぐに喜んでくれたのに」
 すぐに感情を出すのは護衛として失格だ。足を引っ張る人間でさえなければいいが、と思う。
「それで、質問があるのでしょう?」
「はい。自分があなたと会うのはこれで二回目。最初に二人そろって挨拶したとき以来です。あのときもあなたはノアでしたね」
「そうね。この体でアルトとして会ったことはまだないわね。それが質問?」
「いえ。また同じように四つの質問でお願いします」
「三つよ。ひっかけはなしにしてもらえる?」
 やはりこの程度では問題にならなかった。なるほど、確かに記憶は共有されている。
 そして今日の質問は最初から決めてある。要するに、何が分かっていて、何が分かっていないのかの確認だ。
「最初にノアに会ったとき、自分が何と言いましたか」
「こんにちはアルト、と挨拶したわね」
「次の日にアルトに会ったとき、自分が何と言いましたか」
「こんにちはノア、と挨拶したわね」
「一昨日、アルトに何が好きだと言いましたか」
「名前ね。あの子は少し勘違いしたみたいだけど」
 なるほど、確かに記憶が受け継がれている。しかもアルトのことまでもだ。
「共有される記憶は全てですか? それとも」
「ノアはほぼ全ての記憶を共有できるわ。ただ、アルトはそうもいかない。アルトの人格形成に必要な情報をそのまま与える感じね。不要なものは全部削除しているわ」
「すごいテクノロジーですね」
「私にしてみると、あなたのような少年がいることの方が驚きだけど」
 はあ、とため息をつくノア。
「頭も良くて、運動神経も良くて、しかも物分りまでいい。どうしたらこんな人間が造れるのかしら?」
「人工物だから作れるのだと思います。天然物ではこうはいきません」
「なに、まさか試験管ベビーとでも言うつもりなの?」
「いいえ。自分は多分、人間の親から生まれた子供です。ただ、自分は生まれたときから兵士として、護衛を守るために作り上げられてきた。子供が兵士になろうと思ったわけではなく、子供を兵士にしただけのこと。人道的な配慮というものをなくせば、自分くらいの兵士はいくらでも作れるでしょう」
「驚いた。そこまで自分を客観的に言えるものなの」
「あなたも充分客観的です。ただ、あなたはまだ希望を捨てていない。いつの日か自由になれると信じている」
「そうね。あなたの分析は正しいわ」
「自分は分からない。自由になろうと思ったこともないし、それに憧れる理由も思い当たらない。人間はすべて、与えられた条件の中で生きるのみ。違いますか」
「違わないわ。その条件が納得のいくものならば、ね」
「納得がいかなければ、そこを逃げ出すというのですか」
「命よりも大事ならば、そうなるわね」
「そうですね。確かに命より大切ならそうなるでしょう。結局は大切なものの優先順位の話になるわけですね」
 その方がエンとしては分かりやすかった。生きながらえることと、自由に生きること。比べたときに自由を優先するのならば、ときには命をかけなければならないことも出てくるということだ。
「あなたと話していると楽しいわ、エン」
「ありがとうございます」
「あなたは楽しいの?」
「自分に楽しいという感情はありません。自分に与えられた任務は、あなたたちを守ることだけ。それ以上のことはありません」
「ふうん」
 ノアが興味深そうにエンを見つめる。
「つまらない人生ね。かわいそうに」
 そんな言葉を残して、その日の会話は終わった。
 かわいそうに。
 その言葉にこだわる必要はない。自分がかわいそうな存在だというのは客観的に見ればその通りなのだから仕方ない。だが、自分はそれでかまわないと思っている。それ以上、自分が何かをしたいとは思っていない。
 かわいそうという言葉は、その意思に反して望まぬ生活をしているものにかけられるべき言葉だ。自分は何も望んですらいないのだから、かわいそうという言葉の定義にあてはまることはない。
 それとも、そう思っている現状が「かわいそう」なのだろうか。
 次の日、アルトと出会った。
「こんにちは、エン」
「こんにちは、アルト」
「今日はエンに質問があるんだけど、いいかな」
「どうぞ」
「エンは私たちのガードって聞いてるけど、実際にはまだガードらしい仕事ってしてないよね」
「はい。ボディガードとしての最終試験は通っていますし、アルトたちのガードになることも指示されています。ですが、スタートはまだ先のようです。おそらく年が明けてからではないでしょうか」
「そうなんだ。ということは、もうあと少しだね」
 年末。それを意識したことはあまりないが、それでも暦を覚えておかなければ、いつ、どこで、何をするのかというスケジュールを組むことができなくなる。
「ときに、アルトはこの間の話を覚えていますか」
「この間? 名前のこと?」
「いえ、その前に会った日のことです」
「あ、うん。会ったよね、確か。何の話だったっけ」
「自分の体のことです」
「そうだったっけ。ううん、よく覚えてないなあ。会ったのは覚えてるけど、本当に二言三言だったよね」
 アルトの情報が共有されるかどうかは、すべてノアが決めているといった。つまり、アルトが自分に「大丈夫」と尋ねたのは、ノアの中で重視されなかったらしい。会話をしたことだけ、つまり出来事だけが情報として伝わっているというところか。
 つまり。
(向こうの体のアルトと、この体のアルトとでは、記憶の上では別人なのだ)
 記憶が共有できるとはいっても、結局は情報なのだ。やはり体は体。記憶しているというのは錯覚で、単に同じ情報を二つの体に植えつけているにすぎないのだ。
「体のことって、何だったっけ」
「自分の方が少し背が高いという話です」
「ああ、その話。それって私じゃなくてお姉ちゃんとした話でしょ。聞いたよ、お姉ちゃんから。間違わないでよ」
「そうでしたね、すみません」
 逆にノアがした話はこうして伝わっている。いったい何を基準にアルトに情報を伝達しているというのか。
「これから成長期だから、エンはもっと大きくなるね」
「いえ、自分はそれほど大きくはならないと思います」
「なるよ。きっとかっこよくなると思うなあ」
「期待に応えられるよう、努力します」
「うん、その意気」
 そうしてアルトとの会話も終わる。これでだいたい、ノアとアルトの関係はつかめたといっていいだろう。
 だが、もう一人のナンバリングシリーズもいれば、ノアはこの施設からの脱走も考えている。さて、自分はどうしていけばいいというのだろうか。






 やがて年が明けると、エンは正式にガードとしてノアとアルトに始終付き添うようになった。もちろん、もう一人のガード、ナンバー二十九も一緒にである。
 ナンバー二十九の成績が低いことはエンも知っていた。ナンバリングされるかどうかの瀬戸際にいた程度の少年だった。ただ、格闘のセンスは誰よりも高い。ナンバリングシリーズの中では一、二を争う。総合的に比べればエンは他のどのナンバリングシリーズよりも優れていたが、すべての項目について一番というわけではない。そしてこのナンバー二十九は格闘センスに特化したナンバリングシリーズなのだ。
 二人はほとんど会話をすることもなかった。ノアやアルトから尋ねられたら答えるという程度のものだ。だが、二十九は任務の途中でも余所見をしたり、意識を逸らしたりと、およそガードとして不適格であった。いったい何を考えているのか。
「おい」
 ある日、二十九から話しかけられた。
「何か」
「お前、成績がいいからって、いい気になるなよ」
 何を言われたのか分からなかった。
「どういうことだ?」
「目障りだ、って言ってるんだ。あの二人の護衛なんか俺一人でも充分だ」
「充分かどうかは上が決めること。自分たちには関係のないことだ」
「そうやってすましていれば上からの覚えがいいってわけか。媚を売るのは一人前だな」
 何を言っても反発してくる相手と話しても益はない。無視することにした。
「図星で声も出ないのか? なんだ、ナンバリングシリーズの最高傑作ってのはただの腑抜けか。これでよくナンバーなんかもらえたもんだな」
 それからもナンバー二十九はさんざん自分をこけおろしたが、完全に無視し続けた。うるさくされるのだけが嫌だった。
 何度か二十九はそのことで上から叱責されたらしい。告げ口したんだろ、と言ってきたがそれも無視した。こういう男とは一緒に仕事をしたくなかった。
 そして、あの日を迎えた。

 二〇〇八年九月十一日。六カ国強襲。
 復興を進めていた第一東京に、極秘で太平洋から接近していた六カ国の潜水艦からの一斉砲撃。第一東京は火の海と化した。
 これによる死者・行方不明者は総計百三万人と言われる、未曾有の非戦闘員無差別攻撃であった。
 第一東京に研究施設があったハイヴももちろんこの攻撃を受けて壊滅することになった。が、その混乱の中で、ノアが言った。
「エン。ここで脱出しなければ、私たちいずれにしても殺されるわ」
「逃げるということかい」
「ええ。アルトも良いわね」
「うん。お姉ちゃんの言う通りにする」
 そうして三人が脱出しようとしたときのことであった。
「待ちな」
 三人の前に立ちふさがったのは、もう一人のガード、ナンバー二十九。
「どこに行くつもりだ? 研究所は反対だぜ」
「ノアとアルトの命令だ。この先へ行く」
「この町から逃げ出すつもりか?」
「ここにいても死ぬだけだ」
「それが俺たち、ナンバリングシリーズの宿命だろう?」
「自分は死を厭わない。だが、ノアとアルトの命令を至上のものとしろという命令に従う。ノアとアルトが逃げ出すというのなら、自分はその障害を全て排除する」
「つまり、俺とやるってわけだな」
 じり、と二人が間合いを少しずつ詰める。
 いずれにしても時間がない。六カ国軍が上陸してこの付近を制圧するまでにあと何分あるのだろうか。それより先にこの町を抜けて、安全なところまで避難しなければならないのだ。
 時間は、ない。
「てめえの力なんて、分かりきってんだよ! 五十三!」
 二十九がうなりを上げて拳を奮う。だが、
「自分はもう五十三番じゃない」
 それを綺麗にかわすと、懐に入る。
「古城エンだ」
 そして膝を相手のみぞおちに入れる。そして右腕を振り上げて、相手の顎を砕く。
「アルトとノアは見ないでください」
 そして、持っていた拳銃を相手に向けて三回撃った。それでもう、ナンバー二十九は動かなくなった。
「容赦ないわね」
「見ないでと言いましたが」
「そうもいかないわ。見なくなった途端にあなたが死ねば、逃げ出すこともできなくなるもの」
「なるほど」
 そうしてエンは先を見据える。
「急ぎましょう。砲撃をしてきた連中は、すぐに第一東京を制圧にかかるでしょうから」
 三人は、あちこちで起こる火の手をかいくぐりながら、第一東京を抜けていく。
 当たりで人々が右往左往逃げ惑っているが、そんな人間の動きなど関係なく、ノアとアルトをかばいながら西へ、西へ逃れていく。
 その、ときだった。
「何、あれ」
 アルトが立ち止まって振り返っていた。
 ノアも目を見開く。
 エンもまた、何を目にしているのかよく分からなかった。
「あれは、南極の伝承に出てきた奴」
 ノアが考えながら言った。そのフレーズに、エンもノアが何を言おうとしているのかが分かった。

 光の巨人。かつて、セカンドインパクトのときに南極で目撃されたもの。






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