現在人口進化研究所の一部門である『ハイヴ』は正式に活動を停止している。
 その理由は大きく分けて三つ。
 一つは予算が下りなくなったこと。
 一つはネルフ全体の活動の方向性が大きく変わったこと。
 そして最後の一つに、実験体が全ていなくなってしまったことだ。
 無論『ハイヴ』に残って研究を続けたいという者は多いのだが、いかんせんお金が手に入らなければそれは単なる趣味の領域だ。その研究には価値がないとされているのだから。
 このため、現在紀瀬木アルトは『ハイヴ』から逃れる必要性はなくなっている。既に活動停止した組織が足枷になることは、今後ないと思っていいだろう。












第佰拾壱話



「嫉妬だよ」












「やれやれ。もう一人の自分が目の前にいるというのは不思議なものだ」
 最初からノアだった方が腕を組んで『ノア』を睨む。先ほどまでアルトだった『ノア』は苦笑しながら首を振った。
「何を言う。そもそもこの状況はお前の望みだったのではないか?」
「なに?」
「お前は言ったな。自分がもう一人いればいい、と。確かにこの状況ではアルトは不要だ。アルトは足手まといにしかならぬ。それはここにいる誰もが分かっていることだ。今のゴロツキに絡まれたのも、もとはといえばアルトが原因。アルトが外に出ようと音を立てなければ気づかれることはなかった」
 なるほど、それで隠れていたはずの二人が見つかったということか。
「アルトより、ノアが二人いる方が、この時点では必要だ」
「確かにお前の言うとおりだ。だが、二人同時に出てしまっては、アルトの意識はどうなる」
「どうにもならぬな。お互い二度と、アルトの意識が出てくることはなかろう。自分で分かっていることを人に聞くな」
「すまんな。私たちには分かるが、エンには分からんだろうと思ってな。お前も私の質問の意図を分かっていて言い返したのは、エンに事情を理解させるためだろう」
「お互い、同じ考えだと騙すこともできないな」
 二人のノアが同じように笑う。
 ここにいるのは全く同じ人間。一卵性双生児として、同じように育てられ、同じ感情を持った二人の少女。それはもう、同一人物といって過言ではない。
「自分のために説明してくれてありがとう、ノア。つまり、アルトは今後二度と意識を取り戻すことはないということで認識していいのかい」
「そうだ。両方の体がノアとして表面化してしまうと、この時点で人格交代はできなくなる。あれはあくまでノアとアルトを交換する儀式だからな。両方とも同じ意識では交換しても同じ結果になる」
 つまり、ノアとアルトを交換するのではなく、ノアと『ノア』の交換になるということか。
「だが、記憶の共有はしておいた方がいいな」
「同感だ。と同時に、もし人格交代をしなければ、これからはお互い別の人生を歩むことになる。正直、今の自分は怖れを感じている。自分がずっと二人で生きていただけに、一人になってしまうことに心細さを感じているのだ」
「アルトを取り戻すことは?」
「できないと言ったぞ、古城エン」
『ノア』が笑う。
「もともと私たちは補佐人格などいらなかった。ノアを補佐するために生まれた擬似人格、それがアルトだ。こうして二人とも表面化した以上、もはやアルトの存在は不要と言ってもいい」
「待った」
 今の言葉からすると、一つの事実が判明する。
「『ノア』が出てきたのは『ノア』の意思じゃないのか?」
「そんなことができるのなら、とっくにしていたよ」
『ノア』は首をかしげた。
「原因があるとすれば、お前だよ、エン」
「自分が?」
「そうだ。お前が、アルトに、ありがとうと言った。その言葉がきっかけになって私は浮上したのだ。理屈は分からんが、お前の言葉がきっかけだったのは間違いない」
「理屈など分かっているだろうに、何を言っている」
「そうだな。確かに分かっている」
 二人のノアが笑う。
「その理屈は?」
『嫉妬だよ』
 二人のノアが、声をそろえて言う。
「私もアルトも、お前のことが好きなのだ」
「そしてお前が私ではなくアルトを選んだから、私たちはアルトを消すことにした」
「意識的にそう考えたわけではなかったが、私たちにとっては当然の結果」
「まさかこうも簡単に人格が入れ替わるとは思わなかったがな。お前の感謝の言葉がそれほど私たちに絶望を与えたということだ。これほどまで自分が嫉妬深いとは思わなかったぞ」
 くすくすくすくす。
 笑っている。
 ノアたちは、この状況を笑っている。
「アルトが消えて、嬉しいのか?」
「嬉しいとも」
「自分が二人いればいいと言ったのは本心だよ。アルトよりも自分自身が欲しかった」
「アルトなどいらない」
「アルトなど消えればいい」
 その。
 ノアたちの口から、呪詛が流れだす。
『古城エン』
 二人の口が、同時に動く。
『お前は、私たちの命令を至上とする』
『お前は、私たちの命令には逆らえない』
『命ずる。お前は、私たちを愛せ。アルトなど忘れて、私たちだけを愛せ』
 だが、エンは。
「断る」
 迷わず、きっぱりと断った。
『何だと?』
「自分が命令に従うのは、ノアとアルトの二人だ。今ここにいる二人はどちらも『ノア』だ。二人いるように見えて、実際には一人だ。自分はノアだけの命令には従えない」
『もはやアルトはこの場に出てくることができないのに?』
「それでも、自分に命令できるのはノアとアルトの『二人』でなければならない。それが自分の中のルールだ」
『そこまで、アルトが好きか。古城エン』
 そう。
 アルトは言った。その言葉は、自分が本当に大切に思っている相手にだけ、言うものなのだと。
 それならば。
「自分はアルトが好きだ」
 たった一言『大丈夫』と気遣ってくれる、その言葉だけで。
「自分はアルトが好きなんだ」
『そうか』
 ノアたちは視線を交わす。そして同時にため息をついた。
「それなら、合わせてやろう」
 ノアが言う。
「お前が会いたいのは、こちらのアルトだろう?」
『ノア』も言った。
「どういう意味だ」
「簡単なことだ。ノアが生きている以上、アルトが出てくることはない。ノアを殺せ。おそらくそれ以外にアルトが出てくる方法はないだろう」
「なんだって」
「拳銃を持っているのだろう。ノアが死ねば、ノアが死んだところをみている『ノア』も死ぬ。そうすればこの体にはアルトしか残らない」
「アルトは体が入れ替わっていることすら知らない娘だ。おそらく事実を知ればアルトも死ぬ。だから決してアルトにこのことは伝えるな」
『さあ、私を殺せ、エン』
「そんなこと、できるわけがない。ノアは恩人で、自分に命令できるただ一人の人間だ」
『その呪縛からも解き放ってやろう』
『お前の能力をもってすれば、もっと大きなことができる』
『我々の護衛など、些細なことにすぎぬ』
『人類の進化など我々自身は興味ない』
『我々が死に、アルトが生き残れば、こんな歪な生命体は消えてなくなるのだ』
『その方がお前も『私たち』を守りやすくなるだろう』
『さあ、その銃で私たちを撃て、エン』
 だが、それでもエンは首を振った。
 できるわけがない。たとえノアが何を考えていたとしても。
「自分に名前をくれたのはあなただ、ノア」
 その言葉を聴いて、ノアは笑った。だが、次の言葉は容赦なかった。
『ナンバー五十三!』
 直立不動となる。数字で呼ばれることほど、自分を強制するものはない。
『構えよ!』
 ノアの指示通りに、銃を構える。
『撃て!』
 そして、その通りに引き金を引いた──






「……それで、どうなったの?」
 シンジは、その長い、長い話をずっと聞いていた。
 エンは笑って首を振った。それ以上は何も言えない、ということらしい。だが、今の流れでいけばエンがノアを殺したのは確実だった。
「それから僕は、意識が戻ったアルトと一緒に自衛隊に救助された。双子でなかったアルトは何も疑われることがなかった。そして姉を殺した僕を呪って、ドイツの知人のところに旅立っていったんだ」
「エンくんはついていかなかったの?」
「本当はその予定だった。でも、僕がアルトの傍にいてもアルトを苦しめるだけだと思って、出発の三日前に姿を消した。そして、長い放浪が始まった」
 それからのエンはただ生きていた。幼い頃から身につけた格闘術を使い、都市に紛れ込んではゴロツキをぶちのめし、金を巻き上げた。犯罪には違いないが、町の治安を乱している人間だけを狙うようにして、できるだけ迷惑がかからないように気をつけた。それ以外の盗みや傷害などは一切していない。ただ、歩き回っていた。
 やがて、電気店の街頭テレビで六カ国強襲の特集が組まれているのを目にした。
「六カ国強襲は何故起こったのか。そしてあのときの光の巨人が何者だったのか。僕はそれを知りたいと思った」
 それから図書館に通って、セカンドインパクトに関する文献を読み漁った。セカンドインパクト後、現れた使徒。そしてそれを倒そうとしている国際機関ネルフ。この頃からネルフに対する興味が徐々に膨れ上がっていた。
「そして、二〇一三年の五月。光の巨人のことを調べようと思って、封鎖されている第一東京に忍び込んだ。忍び込むまでは良かったんだけど、光の巨人の出現地点に到達したところで、戦略自衛隊に取り囲まれて捕まった」
「捕まった……」
「何故あんなところにいたのか、何をしようとしていたのか、拷問まで受けた。僕はハイヴのこと以外は全部答えた。でも、他に何かあるだろうと執拗に拷問を受けた。あれが戦略自衛隊というところなんだね。僕はあの組織を許すつもりはないよ」
 エンは冷たい目をしていた。シンジが困っているのを見て、また和やかな笑みを取り戻す。
「そのとき、僕を助けてくれたのが剣崎さんだった」
「剣崎さん。剣崎キョウヤさん」
「そう。戦略自衛隊にかけあって、自分に適格者資格があるから引き取らせてもらいたいって。僕は最初、剣崎さんのことも敵だと思っていたんだけど、話を聞いていくうちに違うことが分かった。まず、剣崎さんはハイヴのことを知っていた。知っていて、アルトのことなどおくびにも出さずに言ったんだ。『その力で、世界を守るつもりはないか』って」
「世界を、守る……」
「別に世界を守るとか、そのときの僕には興味はなかった。ただ、光の巨人のことが知りたいと思った僕はそのことを剣崎さんに伝えた。そうしたら『ネルフに来れば、少しは分かることがあるかもしれない。確約はできないが』って言ってくれた」
「エンくんは光の巨人のことを調べるために、ネルフに入ったんだ」
「うん。それで、剣崎さんから言われたのは『将来、チルドレンになる子供を守ってほしい』っていうことだった」
「それが、僕」
「そう。僕はもともと護衛をするために子供の頃から鍛えられていたからね。役目としてはふさわしいものだと思った。それを果たすだけで僕に居場所がもらえて、お金ももらえて、それで光の巨人のことも教えてくれるならありがたいと思った。そして、僕は仲間たちに出会った」
 シンジが衝撃を受けたポイントにたどりついた。シンジも緊張してその先の話を待つ。
「僕は、この八人でよかったと思っている」
「よかった?」
「うん。シンジくんを守るために恣意的に集められたのは分かっている。でも、僕はみんなのことが好きだよ。ジンくん、コウキくん、ダイチくん、カスミくん、ヨシノさん、コモモさん、そしてシンジくん。僕は、この八人で仲間になれたことを剣崎さんに感謝している」
「感謝」
「だって、みんな優しいよね。ただの仕事とか役目とか任務とかで、嫌々やっているのはほとんどいないと思う。僕はみんなが好きだし、多分みんなシンジくんのことが好きなんだ。だから僕はたとえどういうふうに始まった関係だとしても、この八人は本当の仲間だって信じられる。いや、信じるっていうのはおかしいかな。僕はもう仲間だと思っている。それが僕にとっての真実だから」
「エンくん」
「シンジくんに黙っていたのは本当にごめん。僕らは使徒戦が終わるまで、このことはシンジくんには伝えないつもりでいた。シンジくんが精神的に動揺するといけないと思ったから。エヴァを動かすのは精神的な作用が大きく関わってくる。だから」
「うん。分かるよ。そこまで考えてくれていたのに、僕の方こそごめん」
「分かってくれればいいんだ。ただ、ここまで言ってなんだけど、僕はみんなのことを仲間だと思っている。そして僕はシンジくんのことが本当に好きだよ。でも、みんながシンジくんのことを好きかどうかは、確かめていない」
「う、うん」
「だから、シンジくんが出ていった後、僕らは話し合った。これから、シンジくんに本当のことを話そうと。自分がどうしてネルフにやってきて、シンジくんのことをどう思っているのかを素直に伝えようって。それが今まで、シンジくんに黙ってきた僕たちができる唯一の真心だと思うって」
「……そうしたら?」
「みんなOKしてくれた。コモモさんなんて『じゃあ私が一番に話す!』って息まいてた。でも、さすがにその役目は譲るわけにはいかなかったからね。僕が最初ということ」
「そうだったんだ」
「うん。そして、僕たちはシンジくんに自分のことを話すけど、お互いには話すことはしないでおこうということも確認した。みんな隠しておきたいことが山ほどあるんだ。僕のこの過去のことだって、アルトの件があるからできれば誰にも知られたくない。もしアルトに知られたら、アルトの精神がなくなってしまう可能性だってある。これはみんなを信頼していないとかじゃない。秘密を知っている人が多いほど、アルトに知られる危険が大きくなるということでもある」
「分かるよ」
「みんなそうやって、秘密を外に出されたくない仲間たちなんだ。だから、お互いのことは今まで通り秘密にしようって確認した。だから、シンジくんはこれから、一日に一人ずつ、誰に話を聞くかを決めてほしいんだ」
「一日に一人?」
「だってほら、僕の話だけでもうこんな時間」
 時計を見ると、既に時間は午前四時。
「全然気づかなかった」
「僕たちはみんなそれなりに過去を背負っている。やっぱり話すと長くなると思う。夜になったらそれぞれの部屋に行くっていうことで、誰のところにいつ行くかはシンジくんに任せようっていうことになった」
「僕が決めるの?」
「そう。シンジくんにとって、一番大丈夫だと思う人からでもいいし、先に聞いておきたい人からでもいい。でも、シンジくんのことが本当に好きだと思っている人から聞くのがいいと思う。だから明日はコモモさんがいいんじゃないかな」
 だがそうなると、後になればなるほど難しい相手が残るということになる。誰から行くかは難しいところだ。
「みんな、教えてくれるって言ったの?」
「うん。ヨシノさんも、コウキくんも、ダイチくんも、カスミくんも、ジンくんも。コモモさんはもちろんだけどね」
「そっか」
 そうやって自分の秘密を教えてくれるというのなら、誰も自分のことをそこまで嫌っているというわけでもないのだろう。
「エンくん」
「何?」
「ありがとう。僕のこと、こんなに心配してくれて」
「シンジくんは僕のことが好き?」
 突然に振られて、シンジは顔を赤らめる。
「う、うん」
「好意っていうのは、みんな同じなんだよ。自分が好意を抱いている人は、たいてい自分も相手から好かれている。だから、シンジくんがみんなのことが好きなら、みんながシンジくんのことが好きだよ」
「うん」
「というわけで、そろそろ寝ようか。明日は一日、自由行動だしね」
「うん」






次へ

もどる