エンが提案したのはたいしたことではない。
シンジに対して、自分たちが隠し事をするのはやめよう、という内容のことだけだ。
とはいえ、全部を一度に話してもシンジも混乱する。今はまだ使徒が攻めてくるとか、そういう段階ではない。ゆっくりと話をする時間くらいはあるはずだ。
だから、一日につき一人ずつ。シンジと直接一対一でゆっくり話す。そうしてみんながシンジのことを思いやっているということが伝わるようにすればいい。
だから、ここからは一日につき、一人ずつ。
同期メンバーが、いったいどうやってこのネルフに来たのか。
そしてシンジのことをどう思っているのか。
それがこれからの一週間で、全て明るみに出る。
第佰拾弐話
「仲直りできたみたいね」
四月二十七日(月)。
『サードチルドレンと一緒に第三新東京市見学ツアー』は結局開幕されることはなかった。理由はもちろん、キャシィ・ハミルトンの一件だ。アメリカのランクA適格者がAOCの一員だったということで、今後アメリカとの渉外が問題になってくるので、今はあまり動き回られたくない、待機していてほしいというのが本音だった。
特にアイズとマリィは当事者でもある。同じアメリカの適格者がアメリカ政府の手先だった。ということはつまり自分たちが亡命しようとしていることは既にアメリカ政府に伝わっているとみるべきだった。
このままアイズとマリィをアメリカに戻せば二人ともすぐに捕まってしまうのは明らかだ。とすると工作して日本に残すか、それとも正面からアメリカと対抗するか、いずれかを選ばなければならない。
「難しい問題を持ち込んでくれたものね」
技術部の仕事ではないのだが、いずれにしてもネルフ役員であるリツコやミサトがこの件からノータッチでいられるはずもない。今後のネルフ運営にもかかわりが出てくるところなのだ。
「いっそのこと、アメリカネルフ支部を全部丸ごと日本で引き取るってのはどう?」
「そんなこと、アメリカ政府が許すはずないでしょう。ネルフを追い出したって言われてベネット大統領の椅子が安泰でいられるはずもないわ」
ミサトの短絡的な意見を一蹴する。やはり工作するしかないのか。それとも。
「正面突破でいきましょう」
案を出したのはクローゼであった。
「ですが、アメリカが黙っているとは思えません」
「大丈夫ですよ。こちらにはキャシィがいるのですから」
その一言でクローゼが言いたいことが分かった。
「つまり、暗殺者を日本に送り込んだ結果となったことを、アメリカ政府に抗議するということですか」
「ええ。アメリカは当然、AOCのことなど認めないでしょう。だとしたら仲間であるアイズとマリィをこちらで詳しく調べるために引き取るといっても強気には出られません。AOCの秘密と引き換えに二人の身柄を預かるのです」
「だとすると、交渉に一番適しているのは」
「御剣レイジ内閣総理大臣、ですね」
「では、総司令から正式に首相に打診しましょう。そのルートで攻めるしか確かに方法はなさそうです」
こうしてクローゼは事あるごとにネルフ幹部の相談役となり、この数日で確実に存在感を増していくようになっていた。ただでさえリンツ・カンパニーはネルフの出資者なのだから、その発言権はもともと大きい。それにもまして的確なアドバイスをくれるのだから、クローゼの存在が高まらないはずがない。
「可能なら、エヴァンゲリオンを日本で引き取ることができればいいのですが、そこまでは難しいでしょうか」
「無理でしょう。大統領がそこまで低姿勢に出ることはありません。お互いにとって一番譲れないところを飲むことで交換条件は成立します。それ以上を望むのはフェアじゃありません」
「そうですね。失言でした、忘れてください」
リツコは答えてすぐに企画書の立案に入る。
『アイズ・ラザフォード、マリィ・ビンセンスの日本亡命に関して』
一方、単に待機命令を出された適格者たちもこれでは面白くない。というわけで、地下のプールをゲストたちに開放することで、せめて少しでも思い出づくりをしてもらおうということになった。わざわざプールサイドに出店まで用意してくれた。なかなか気がきいている。
とはいえ、日本組の参加者は少ない。これはランクA適格者というよりもそのガードたちの方に理由があった。シンジと顔を合わせるのが今は難しいということなのだろう。
もちろんシンジとエンは参加だ。さらにはヨーロッパ組のことを良く知っているヤヨイとマイ、レミにリオナも参加した。日本からはこの六人だけ。外国組はアルトは当然のこと、アイズ、マリィ、ルーカス、エレニ、イリヤの六人。サラは既にイギリスに戻り、エリーヌとムサシは不参加だった。
「あー、もー、せっかくお兄ちゃんと一緒に遊べると思ったのにー」
スクール水着のイリヤが文句をたれる。
「まあ、仕方がないわよ。昨日、そんなことがあったんだから」
アルトがそれをなだめる。だが、一方でもっと暗い顔をしているのがアイズとマリィだ。
「当事者の俺がこんなことをしていていいのだろうか」
「そうね。上は私たちのために動いてくれているのに、私たちばかり遊んでるなんて気が引けるわ」
「それにキャシィのこともある。正直、あまり遊ぶ気になれないところだが」
二人がため息をついていると、ビキニのリオナがやってきて「そんなことないわよ」と指を振る。
「あなたたち二人がうまいこと日本に来てくれれば、あなたたちは私たちの仲間。言うなればこれは親睦会みたいなものじゃない。それに、上も多分、こうして少しでも気晴らしになる時間をくれているんだと思う。多分、明日からがあなたたちにとって本番になるんじゃないのかな」
「だろうな。処遇が決まるまでが唯一ゆっくりとしていられる時間なのだろう。少しでもリラックスさせたいという気持ちは分かる。だが」
「『だが』は無し。ぶつぶつ言ってるなら、お姉さんが強引に遊ばせるよ」
と、リオナは水着姿のアイズをひょいと担ぎ上げると、そのままプールに放り投げた。
「あなたも同じようにしてほしい?」
「じ、自分で入るわよ!」
マリィはリオナに放り投げられるより先にプールに飛び込んだ。リオナがこうして強引にでもしないと、二人とも気晴らしすらできないだろう。
「おいっちにー、さんしー」
元気よく準備体操をしているのが幼児体型のレミ。
「それにしてもアンタたち、こうして並んでると親子みたいね」
エレニがルーカスとレミを見て笑う。
「む……」
「ひどいよー、エレニちゃん。ボクたちどこからどう見ても恋人だもん」
「……知るは一時の恥、知らぬは一生の恥」
そんな言葉と共に、ヤヨイが犬掻きでその前を泳いでいく。
「あうー、ヤヨイさんもひどいー」
「大丈夫だ。たとえお前が幼児体型でも、俺にはお前しか見えない」
「何気に一番ルーカスがひどいよね!? 今絶対トドメ刺しに来たよね!?」
各々そうして楽しんでいる中で、エンのところに話しかけにきたのはマイであった。
「こんにちは、エンくん」
「こんにちは、谷山さん」
「よかったね。エンくん」
突然そんなことを言われてエンは首をかしげる。
「何がでしょうか」
「仲直りできたんでしょ、シンジくんと」
確かに仲直りというか、すれ違っていたのは解決できた。
だが、そもそも自分たちがすれ違ったのも、他のメンバーは知らないはずだが。
「誰から、それを?」
「女の勘」
「冗談はいいですから」
「ごめんごめん。答はコモモちゃんから」
「コモモさん?」
「うん。シンジくんのことが心配だけど、まだ自分は顔を合わせるわけにいかないからって言ってた。同期メンバー、今、ぎくしゃくしてるんだって?」
「そうですね。ただ、シンジくんがもう復活してるから大丈夫だとは思います」
「そっか。シンジくんが大丈夫ならいいんだけど。シンジくんは放っておけないからなあ」
「そうですね。僕らが守らないと」
そうして二人は当のシンジを見た。それから、じゃあ、とマイが言い残してプールへ向かう。
そのシンジはやはりプールに入ろうとしていない。泳げないのは分かっていることだった。
「泳げないのか?」
プールの中からアイズがシンジに尋ねる。
「うん。今まで、そういうことしたことがなかったから」
「そうか。なら教えてやる。ここは足がつくから大丈夫だ。入ってこい」
「いや、でも」
「お前のように自然体でいられる奴は泳ぐのはそれほど時間がかからない。大丈夫だから来い」
「う、うん」
そうしてアイズに言われて、しぶしぶシンジは水の中に入る。そしてアイズとマリィの二人がかりでシンジの特訓を行うことになった。
「アイズくんやマリィさんの気晴らしだけでなく、シンジくんの気晴らしにもなってくれるといいな」
エンがぽつりともらす。その声を聞いたわけでもないのだろうが、アルトが近づいてきてエンの隣に立った。
「仲直りできたみたいね」
「アルトも谷山さんと同じことを言うんだ」
「そうなの?」
マイは既にリオナと一緒にプールの中に移動している。一緒に笑って何やら話している。考えてみればリオナとマイはガードとして同時に選ばれたメンバー。一番近い存在である彼女たちは、何かと相談し合っているようだった。
「谷山さんて可愛いわね。エンの彼女?」
「まさか」
「なんだ。それなら応援してあげるのに。同期の子たちにも可愛い子、たくさんいるよね」
答えにくい質問だった。エンは苦笑してごまかす。
「昨日、結局朝方までずっとシンジくんと話してた」
「そう」
「昨日の件、シンジくんはまだショックから立ち直れてはいないみたいだけど、それでももう大丈夫だと思う」
「あなたがいたからね、エン」
「うん。僕は心から思う。シンジくんの友達になれてよかったって。だから僕はもう、死ぬことができない」
「え?」
「僕の任務は、シンジくんが命の危険にあったときに、かばって死ぬことだったんだ。でも、今僕が死んだら、きっとシンジくんはもう立ち直れなくなるくらいショックを受けると思う。シンジくんのためにも、今の僕は死ぬことができない」
「いいことね。自分の命を簡単に投げ出すよりは、その方がいい」
「君もだよ、アルト」
「私?」
「君が死ねばアスカさんは悲しむだろうね。だから、絶対に死んだら駄目だ」
「そうね。私もそう思う。アスカさんは自分でドイツ適格者の命を全部背負ってるけど、だからこそ私たちが死ぬわけにはいかないと思う。もちろん、足を引っ張るつもりはないけどね」
「それでいいよ。君が死んだらシンジくんも悲しむ。それに、僕も悲しい」
「もう、その話はやめたはずよ」
「そうだね、ごめん。でも、最後に一度だけいいかな」
「最後?」
「ああ。これで最後にする。昨日、シンジくんと話していて、まだ自分は軽々しかったな、と思ったから」
アルトはその『軽々しい』という言葉にどういう意味があるのかを感じた。
「待って、エン」
「いや、待たない。僕にとっては、君と出会った頃から分かっていたことだった。でも、それに気づくまでに、いや気持ちがもっと成長するまでに時間がかかった」
アルトが顔を背ける。もう、次に何を言われるのかが分かっている。
「僕は、世界で一番アルトが好きだ」
エンが穏やかな気持ちで、穏やかな言葉で言う。
「ずっと好きだった。離れているときだって、一日として君を想わない日はなかったよ」
「私だって」
アルトは視線を逸らしたまま言う。
「エンのことが好きなのは、知ってるでしょ」
「そうだね」
「でも私は、姉のことがある限り、あなたを許せないのよ」
「分かってる」
「でも、教えてくれないのね」
「ああ」
「卑怯だよ、エンは」
「それも自覚しているよ」
「こんなにひどいことされてるのに、それでもエンが好きな自分が嫌になるなあ」
アルトはそう言ってエンの傍を離れる。それから一度振り返った。
「約束して」
「何を?」
「どんなときでも、シンジくんの次に私を守ってくれるって」
「約束する」
エンは即答した。
「それ以外に僕の真実なんてないよ」
「ありがとう、エン」
感謝の言葉を残してアルトはプールの中に入っていった。
心臓が高鳴っているのを感じる。
今までも、何度かアルトに好きだと言ったことはある。
だが、これほど自分が心をこめたことは多分なかった。
(昨日、シンジくんと話したおかげだな)
誰かが自分のことを知っているということが、どれだけ自分の力になるかを身をもって実感する。
(こうしてアルトと話ができたのは、シンジくんのおかげなんだ)
そういう意味でも自分にとってシンジという存在の大きさが分かる。
(君に出会えてよかった、シンジくん)
そのシンジは、ようやくバタ足で前に進むことができるようになっていた。アイズとマリィの厳しい指導がようやく身を結び始めたのだ。
「なかなか上達が早いな、シンジは」
「そ、そうかな」
「まあ、浮くこともできなかったのがここまでできるようになるのは上等よね」
マリィが冷静に分析する。
「シンジ」
一段落ついたところでアイズが顔をしかめながら言う。
「これから俺とマリィは、お前に大きな迷惑をかけるかもしれない。キャシィのこともそうだが、おそらくは日本に亡命することになるだろう。もし迷惑がかかるようなら──」
「迷惑だなんて思ってないよ。アイズも、マリィさんも、僕にとってはもう大切な友人なんだから」
「Thank you. だが、客観的に見て俺たちが迷惑をかけるのは事実だ。それをおいても、俺はお前に頼みたい。俺はお前と共に生きたい」
「うん。アイズもマリィさんも大歓迎だよ。みんなそう思ってる」
「ごめんなさい。私たちのせいで迷惑をかけて」
マリィも気落ちしたように言う。強気の少女らしくない様子だった。だが、シンジにしてみるとアイズやマリィのように、本音で語ってくれる方がこの場合ありがたかった。
仲間たちは自分に隠し事をしていた。だから、もう隠されるのは嫌なのだ。
「キャシィさんはどうなるのかな」
「分からない。だが、出てこれることはないだろうな」
少なくとも使徒戦が終わるまで、ずっと幽閉される。それは間違いないようだった。
「アイズにとって、キャシィさんは仲間、なんだよね」
「向こうはそう思ってはいなかったようだ」
「それでもアイズはまだ、そう思っている」
「あいつは俺たちを仲間とは思っていなかった。そう言っていただろう」
「でも、最後まで騙しきりたかったとも言っていた」
アイズはそれを聞いて黙り込む。
「キャシィさんも、アイズやマリィさんのこと、気にしてたんだと思う」
「そうだな。全くなかったというわけではないのだろう」
「AOCっていうのがどういうところかよく分からないけど、キャシィさんにとっても初めての仲間だったんじゃないのかな」
シンジの言葉にアイズとマリィが顔を見合わせる。そしてお互い微笑した。
「お前が友人でよかった」
「本当ね。あなたみたいな人がサードチルドレンで本当によかった」
それが褒め言葉なのは当然分かっている。シンジも笑顔で頷いた。
その夜。
食事が終わってから、シンジはその人物の部屋を訪れた。ガードのエンは部屋の外。
「話、聞きに来た」
シンジが言うと、彼女は笑顔で頷いた。
「良かった。私も早くシンジと話がしたかったんだ」
桜井、コモモ。
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