少し時間を遡る。

 ヨシノの姦計でイギリスに舞い戻ったサラ・セイクリッドハートは関係各位に顔を出してから自分の部屋に戻ってきた。
 イギリスの意向は、碇シンジを引き込むこと。そのためにシンジに近づけと命令されていた。
 もちろん自分はそんなことがなくてもシンジを手に入れるつもりでいる。
 ある日、たった一瞬で自分の価値観を変えた少年。
 会ってみると、どこか頼りなさそうなのに、芯はしっかりとしているアンバランスさがさらに興味を惹いた。
 会えなくなってからも彼のことを考えるようになった。一日ずつ、彼への気持ちは高まっていた。
 それなのに。
(そんなに邪魔しなくてもいいじゃない、サクラ)
 彼女は机の引き出しを開ける。
 空っぽの引き出しの中に、一枚の写真。
 まだ子供の頃に、彼女と一緒に撮った唯一の写真。
 写真の中の自分は笑っている。
 写真の中の彼女はため息をついている。が、決して嫌がっているようではなかった。
(あなたと戦いたくなんてないのに)
 彼女のおかげで自分は人間として成長できた。友人もできた。上司や部下ともうまくやっていけるようになった。感謝している。
(私にとって親友はあなた一人だと思っていたのに、やっぱりあなたは違うの?)
 ある日突然、自分の前からいなくなった少女。
 再会は敵味方で。それからも歩み寄れるような状態ではなく。
(サクラ──あなた、私のこと、そんなに嫌いなの?)
 写真の上に、雫が落ちた。












第佰拾玖話



「私の値段はいくら?」












「最初に聞いておきたいんだけれど」
 サラは最初から高圧的だった。あの、人懐こい笑みはどこにもなく、ただ敵を見下すようにして自分を見てくる。
 まあ、自分は後ろ手に縛られて座らされている。明らかに自分が下なのは間違いないのだが。
「あなたとあなたの母親は関係してるの?」
「何の話か分かりませんわ」
「とぼけなくていいわよ。わざわざこの時期にあなたがイングランドに戻ってくるなんて理由はたった一つ、あなたのお母さんが亡くなったせいでしょう」
「サラさんが殺したの?」
「私が命令して捕まえようとしたわ。でも、その前に死んでしまった。誰に殺されたのかは分からないわ」
「母は北アイルランド紛争の重要機密を盗み出した、と資料にありましたわ」
 そして、縛られている身でありながら、サラを睨みつける。
「あなたが殺したのね」
「確かにその命令を出してもやむをえないところね。この機密が漏れたせいで、北アイルランドで十万人の死者が出た。それはあなたの母親の責任よ」
「答になっていないですわ。あなたが殺したのね、サラさん」
「答はもう言ったわ。『Who killed Cock-Robin?』と」
「マザーグースにかけてるとでもおっしゃるの? でも、イギリスの意向が働いているのは間違いないですわね」
「そうかもしれない。でも、私たちSISがその命令を出してないのは確かよ。あなたの母親を捕らえろと命令したのは私だもの」
「あなた、が──!」
 身を前に乗り出す。が、その頬をサラが張った。
「いい加減になさい。あなたの母親は機密を盗み、漏洩し、その結果十万人の死者を出した。その償いをするのは当然のことでしょう!」
「ふざけないで! その証拠がどこにあるのよ! 母が機密を盗んだ? そんなことをしてどんなメリットが母にあるというの! 仮にもSSに所属していた母が、治安維持と正反対の組織に情報を流すなんてことありえないわ!」
「でもそれが現実よ。あなたの母がやったことはまぎれもない事実」
「証拠があるというの!?」
「あなたの母親から情報を買ったという男がいるのよ!」
「嘘よ! そんな証言があてになるはずがない。そんなことも分からないの!?」
「サクラ」
 少し息を整えて、サラがヨシノの肩に手をかける。
「あなたが信じられないのは分かるわ。でも、あなたの母から情報を買ったという男は一人じゃないのよ。何人もの人間がそれを証言している。覆すことはできないわ」
「私は信じません。自分の目で見てもいない。確たる証拠があるわけでもない。そんな横暴な結論に私が頷くことはありません」
「いいわ、分かった」
 サラが離れた。
「今のやり取りだけでも分かる。あなたは母親の件とは何も関係がないことが。あなたはただ母親をかばおうとしているだけ。母が何をしていたのかなんて、何も知らないのね」
「知っていたら、SISに潜入なんてしませんわ」
「驚いたわ。まさか堂々と乗り込んでくるとは思わなかったもの」
「一つ聞かせてください。私が潜入したことがどうして分かったのですか?」
「敵の城を攻め落とすのに一番いいのは、内部に味方を作ることよ。私はSISに転向してから、ここの職員全員の履歴を調べ上げた。すると架空の人間が存在する。調べていけば網膜パターンがあなたと同じ。するとこれは、あなたが作り上げた人間だと推測できた」
「……その通りですわ」
「それだけでも重罪なのは分かっているみたいね。だからあなたは常にマークされていたし、この人物の網膜パターンが使われた時点で私のところに連絡が入った。そしてあなたが何を目的に忍び込んだのか、監視させてもらった。そうしたら素直に資料室に入って、母親のことを調べ始めた。それを見て最初からわかっていたのよ。あなたが母親と関係がないということは。あなたはただ母親が何をしたのかを調べに来ただけなのでしょう?」
「ええ」
「ここでのやり取りはそれを確認するためだけのもの。あなたの母親がシロかクロかなんてどうでもいいことですわ」
「どうでもいい?」
 聞き捨てなら無い台詞だった。
「あなた、自分の肉親が国家的犯罪に関与しているなんて言われて、どうでもいいなんて言われたらどう思うか分かって言っているの!?」
「分かってるわよ。でも、あなたは自覚しなければならないわ。あなたの母親のせいで、十万人が死んだということを」
 これ以上は話が平行線だ。賢い二人だからこそそれがよく分かる。
 もう何も話すことはない。
 力をなくしたヨシノはもう何も話さなかった。
 そして、理解した。
(サラは、敵)
 かつて、少しでも友情を感じた相手だったが、もはやそれはどこにもないらしい。
(これから先、何があっても私はこいつを許さない)
 自分の母親を死なせたこの人物を絶対に後悔させてやるのだと。
 誓った。






 それからしばらくして、ヨシノは釈放された。
 突然の釈放に何が起こったのかよく分からない。拷問を受けたこともなければ、サラとの尋問以後、何も問い詰められることもなかった。ただ時間だけが過ぎていた。
「はじめまして」
 自分の身元を引き受けたのは、黒スーツにサングラスという、見た目に暑苦しい大人であった。
「はじめまして。私の身元引受人の方ですわね」
「はい。剣崎キョウヤといいます」
「よろしくお願いいたします、剣崎さん。それで、あなたは私とどういう関係なのですか?」
「まずはご案内しましょう」
 SISの外に待たせてある車に乗り込む。運転席にキョウヤが乗り込み、助手席にヨシノが乗った。
「私はネルフの者です。正確にはネルフ本部の者です」
「ネルフ本部? 日本の?」
「そうです。私はある特殊な任務を帯びて、十二、三歳程の優秀な子供を集めているところです」
「優秀ですか。私が優秀だという判断ですか?」
「ええ。トレジャーハンター・染井ヨシノさん。あなたの能力をネルフは買いました。ただのトレジャーハンターであればそれほど意識もしなかったのですが、まさかあのヴォクスホールにその若さで単独潜入するとは。私でもできません」
「ズルをしただけですわ。それに結局捕まってしまっては意味がありません」
「では、たとえどのような条件であっても、ヴォクスホールに単独潜入できる子供が世界に何人いますか?」
 多くはない。確かにそう言われたなら自分は割りと優秀な部類に入るのだろう。
「私に何をお求めですの?」
「話が早くて助かります。あなたに引き受けていただきたいのは、世界を守る少年の護衛です」
「護衛?」
「はい。ご存知のように、使徒戦まであと二年。ある少年がその使徒を倒す力を持っているのです。ですが、それを認めようとしない組織も存在する。ですから、その少年を護衛してほしいのです」
「一日中離れずにいればいいということですか?」
「いえ。その少年が表舞台に出てくるのは二〇一五年になってから。それまでは狙われることはないでしょう。それまでに少年と仲良くなり、一つのチームを作っていただきたいのです。そしていざ少年が狙われたときは、申し訳ありませんがその身を挺してでも助けていただきたいのです」
「人間の盾、ということですの」
「はい。それができるのは本来、正規の訓練を受けた軍人だけです。あなたはその訓練をSSで積んでいる。あなたは命令に従うという軍人の素地がある。そしてこの二年間のトレジャーハントにより、自分の判断で活動することができる。ヴォクスホールに単独潜入する度胸も覚悟もある。冷静で客観的な判断もできる。あなたほど、この任務に相応しい人物はいないでしょう」
「褒めすぎですわ。かえって信憑性がありません」
「あなたはその賛辞を冷静に受け止められる人間です。違いますか」
「違いませんけど」
 なかなか面白い男だった。自分を引き抜こうとするだけのことはある。SSのときもトレジャーハンターのときも、自分ひとりでやってきたという自負はあるが、この男の下につくのも面白そうだと思った。
「護衛は何人おりますの?」
「あなたが最後です。七人目になります」
「ふうん。それは、私に白羽の矢が今まで立っていなかったということ?」
「ヴォクスホールの単独潜入が決め手となったと先ほど申し上げました」
「そうだったわね」
「引き受けていただけますか」
「断ったらどうするつもりですの?」
「どうもしません。護衛が七人ではなく六人になるだけです」
「私は?」
「ご自由に。イギリスと戦うも、トレジャーハンターを続けるも、あなたの自由です」
「助けた恩を着せるというわけではありませんの?」
「助けたつもりはありません。ヴォクスホールに単独潜入して捕まった少女がいる。あなたを引き抜くためには外に出てもらわなければなりません。そういう形になってしまったことは事実ですが、別にあなたに恩を着せるために助けたわけではありません」
 彼の言っていることは事実なのだろう。だが、恩を受けてしまったという事実もまた残る。
「あなたに恩返ししないと、それは人道的に問題ありですわね」
「お気になさらなくても結構です。今までも他の候補者に私は接触しました。全部で二十人くらいの候補者の中から、残ったのはたったの六人しかいなかったのです。断られるのは慣れていますよ」
「あなたは何人の仲間を作るつもりだったの?」
「本来は十人。ですが、もう無理ですね」
「そう。じゃあ私が断ったらあなたの立場が大変なことになるんじゃない?」
「なりません。私の査定に響くわけではないですから」
「じゃあ、この仕事に本腰を入れているわけではないの?」
「そう思いますか?」
「あなたの言動を聞いているだけだとよく分からないわ。あなたがどれだけ私を手に入れるのに本気なのかということが」
 すると剣崎は少し考えてから答えた。
「では、簡潔に。あなたがヴォクスホールに潜入したと聞いたのが二週間前のことです。かねてから『染井ヨシノ』の名前は知っていましたので、それほどの人物なら是非、協力していただきたいと思いました。すぐにネルフ上層部に打診し、どのようなことがあってもあなたをイギリスから引き渡してもらうということの承認をいただき、現在私が受け持っていた仕事を全て部下に引き継ぎ、私は単身イギリスへ飛んできました。そこでイギリスネルフ支部の知人と片端から会って、あなたを引き取るために交渉し、SS、SISの要人と会って金銭といくばくかの情報を提供してあなたの身柄を引き渡してもらうことをようやく許していただけました。この二週間、少なくとも私は寝る間も惜しんで活動していましたよ。ですが、あなたにはそれ以上の価値がある。あなたは必ず期待に沿った働きをしてくれる。そう信じたからこそ、私はすべてをなげうってここへやってきたのです。これでご満足ですか?」
「ええ、充分満足したわ。過大に評価されているのね」
「正当な評価です。お間違えなく」
「でも気に入ったわ。本当に評価してくれてるというのが笑って。ちなみに、私の値段はいくら?」
「百万ポンドです」
 ユーロ経済圏に加盟していないイギリスはUKポンド貨幣を使用している。この年、一ポンド=約一六〇円。従って、一億六千万円を支払ったということになる。
「……私が聞かなかったら、何も言わないつもりだったの?」
「ええ。聞かれたから答えただけです」
「それで私が仲間にならないって言ったらどうするの?」
「どうもしません。仲間を手に入れられなかったというだけのことです」
 それだけの金と労力をかけて、手に入らなければそれまで。
「あなたの精神、どうなってるの?」
「これが私のやり方ですから。情に訴える方法は好きではありません。これからあなたに行っていただきたいのは、本当に命がかかった仕事です。情にほだされるのではなく、客観的に、冷静に判断していただかなければなりません」
「分かっているわ。そして、その命に見合った対価がさっきの金額ということよね」
 ヨシノは笑みを浮かべた。
 今までのような作った笑顔ではない。
 心の底から、楽しくて。
「いいわ。期待に応えてあげる。それから、一つだけ言っておくけど、あなたは交渉があまり上手じゃないわね」
「そうですか?」
「ええ。私を仲間にしたいのなら、最初に言えば一発でしたわ。私を百万ポンドで買った、と。私は自分の価値を認めてくれる相手になら、いくらでも協力してさしあげましたのに」
「ですから、そういう勧誘は好きではないのです」
「違いますわ。自分の価値を認めてほしい相手もいるということです。今後は相手を見て交渉するべきですわね」
 ふふん、とヨシノは笑った。
「じゃ、早速日本に行きましょうか。その、私が守るべき相手とやらを見に、ね」






「と、いう感じよ」
 説明し終わって、ヨシノが軽く笑った。
「結局、母が本当に機密を盗んで、漏洩したのかは分からないままよ。でも、母がそんなことをするはずがないと私は信じている。そして、変な証言で私の母は死に追い込まれた。その人間たちを許すつもりはないし、その指揮をしたサラも許すつもりはないわ」
「でも、サラも殺してはいないって言ってるんだよね?」
「そうね。確かにサラが殺したわけじゃないのかもしれない。でも、あの子が捕らえるように命令したおかげで、母が追い詰められたのは間違いないわ。もちろん母を殺したやつは絶対に許さないけど、そこまで追い込んだのはイギリスであり、サラ・セイクリッドハートよ」
「ヨシノにとって」
 シンジは少し考えながら尋ねた。
「えっと、サラっていうのは、お母さんのことを抜きにすれば──」
「私が絶対にかなわないって思っている数少ない人間の一人よ」
 ヨシノが言う『かなわない相手』というのは二人。サラと、コモモ。
「そして、私にとって、数少ない友人の一人よ」
 それはもちろん、サラと、カナメだ。
「仲良くはできないの?」
「母のことがある限りは無理ね。あなたならどう? 父親……はまあ、ちょっと難しいわね。たとえば綾波レイが殺されたら? 鈴原トウジが殺されたら? 古城エンが殺されたら?」
 もちろん、相手を許すつもりはない。つまり、そういうことだ。
「そういうことよ。私とサラが仲直りするなんて、もうありえないことよ。別に気にはしてないけど」
 かつての友人、かつての仲間。
 それを言い切ったヨシノの目は、どこか悲しげだった。






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