ライプリヒ製薬。セカンドインパクト以前からドイツに本社を置いて活動する製薬会社である。それと同時に、ライプリヒ・グループの中心組織でもある。製薬会社からスタートし、今ではさまざまな分野に進出しているが、グループの上層部は製薬会社のメンバーで締められている。
ライプリヒ・グループはリンツ・カンパニーと並ぶドイツの二大グループの一つである。どちらもネルフへ出資してはいるものの、二グループの間に協力関係のようなものは一切見受けられない。
第佰弐拾玖話
過去、記憶、苦しみの果て
五月五日(火)。
戦略自衛隊からネルフへ正式に少年兵が送られてくる。
人数は十二人。シェークスピアの劇になぞらえ、自衛隊における彼らのコードネームは『トゥエルフスナイト』。リーダーは『シザーリオ』となぞらえるのだが、実際にはそのコードネームを使うことはほとんどない。ただ、一つ加えておくならば、シザーリオというのは、物語の主人公であるヴァイエラという女性が、男に変装したときの名前である。
ランクA適格者たちと戦略自衛隊のメンバーが顔合わせをしたのは、五日、五時間目の時間のことだった。このゴールデンウィーク期間、勉強については世間一般と同じように休みではあったが、それ以外の訓練については通常通りの内容だった。
その少年兵たちが一斉に敬礼をしたとき、さすがにシンジも驚いた。ここまでのことをしてもらわなければいけない理由がわからなかった。いや、分かってはいるのだが、腑に落ちないというか、どうしてここまでする必要があるのか、という疑問があった。
「こんにちは、碇シンジくん」
目の前に立つリーダーは『シザーリオ』というコードネームの通りの女性だった。とはいえ、男性の振りをしているというわけではない。ただ、他の十一人の男性を率いているからそういう名前がついたのだろう。
「既にシンジくんにはネルフ側でガードをつけていらっしゃるので、我々の任務は個人を守ることではなく、組織的に外部から接触しようとしてくる人間を妨げることにあります。基本的に行動を共にすることは少ないかと思いますが、何かありましたら私をお呼び出しください」
「分かりました。よろしくお願いします。ええと、その、お名前は何というんですか?」
シンジがそう尋ねると、彼女は少し残念そうに苦笑してから答えた。
「霧島マナです」
だが、次の瞬間、シンジの顔は驚愕のあまりひきつった。
「き、桐島!?」
「桐島って、まさか」
隣にいたエンが警戒体勢を取る。事情を知っている者はみな一様に警戒を始めた。
「え? えと、あの、何かありましたか?」
全く分かっていないのは警戒されたマナの方だ。それを見ていた武藤ヨウが苦笑した。
「安心しろ、お前ら。たしかにこの女の子は『キリシマ』だが、お前たちの考えている『桐島マキオ』とは無関係だ。何しろ、漢字が違うからな」
「漢字?」
「ああ。マキオの奴は植物の『桐』で、この子は雨冠の『霧』だ。完全に赤の他人だよ」
桐島マキオ。シンジを目の仇にしていたランクB適格者。二ノ宮セラの事件とからめて、シンジがランクBだった時期もかなり精神的にはまいっていた時期だ。
「霧島さん?」
「はい」
シンジは改めて名前を呼ぶ。彼女が頷いたのを見て、ようやく一安心した。
「すみません、突然驚いてしまって」
「いえ。でも──」
彼女は突然、くすくすと笑い始めた。
「今驚いてくれたのは思い出してくれたからかと思ったんですけど、違うみたいですね」
「思い出す?」
マナの言っていることはシンジには分からなかった。思い出すといっても彼女とは初対面のはずだが。
「この間、シンジくん、テレビに出てたよね。だから私、シンジくんの護衛の任務があると聞いて、いてもたってもいられなくなって志願したんだよ」
彼女の口調が突然くだけたものになる。
「思い出さない? トウジくんとケンスケくんは? それに、レイちゃんも」
シンジ、レイ、トウジ、ケンスケ。この四人がわざわざ指名されるということは──
「あ、ああっ!」
「まさかっ!」
「……」
シンジ、レイ、トウジが驚きの表情に変わる。ケンスケだけが両手を上げて「俺は最初から気づいてたぜ」と言った。
「マナ? マナなの!?」
「うん。小学校で一緒だった久住マナ。今は名前が変わって霧島マナだけど、幼馴染のマナだよ。久しぶりだね、シンジくん」
久住マナ──いや、霧島マナ。それはシンジたちにとっても忘れることのできない名前だった。
小学校の頃、いじめられているレイを助けるのはシンジやトウジの役目だった。だが、どうしても男だけでは目の届かないこともある。そのレイを助けていたのがマナだった。マナは面倒見がよく、学校ではいつもみんなと一緒にいた。マナは正義感が強く、レイをイジメようとするものは絶対に許さなかった。女子のリーダー格であるマナがレイを守っていたからこそ、レイは男子にはともかく女子からのイジメは受けなかった。レイにとっては、シンジと同じくらいに頼れる相手の登場だった。
「マナ」
レイはそっと近づいて、彼女の手を取る。暖かい。
「レイちゃん、綺麗になったね。背も高くなって」
「マナは変わらない」
「そりゃもう! 無敵のマナさんがそう簡単に変わるわけないでしょ!?」
「また、マナに会えて嬉しい」
すると、滅多に表情を見せないレイが、和やかに微笑んだ。その方が逆に一同にどよめきを与える。
「ま、そういうわけだからこれからヨロシクね」
マナは無敵のスマイルでみんなに改めて挨拶した。
マリィ・ビンセンスには身寄りがいない。正確には、身寄りはいたが最近なくした、というべきだろうか。
早くから天才と謳われ、スキップを繰り返し、ドイツのアスカと同じように昨年十三歳にして博士号を手に入れた彼女であったが、そのわずか十三年の人生の中で大きな消失を味わっていた。
すべてを失ったのは二年前、彼女が十二歳のときだ。そのことを思い出すと今でも胸が痛くなる。家族を全て失ったことの苦しみと、そして、絶望した彼女を救い上げてくれた一人の英雄の姿。少なくとも彼女にとって彼は、絶望に眠る自分を目覚めさせてくれた白馬の王子であったし、戦場で勝ち鬨をあげる英雄であった。今となっては、それが単なる幻であったことは分かっていても。
マリィはこの日、ネルフの地下深くにあるVIPルームへと招待されていた。アイズ・ラザフォードと一緒ではなく、自分一人が呼び出される理由は分からない。ただ、とてつもなく嫌な予感だけはする。
黒服──剣崎キョウヤと名乗っていたが、彼が案内した先にいたのは、彼女の見知った人物であった。
「Nice to meet you, Mary」
このネルフ本部、日本でこんなに綺麗な英語を話せるのは、自分とアイズの他にはそれほど多くはないだろう。
「こちらこそはじめまして、クローゼさん」
「あんまり堅苦しくなくていいんですよ。年齢もそんなに変わらないのだし」
クローゼは十七歳。マリィよりも三歳年上だ。
無論、クローゼという人物がどれほどの重要人物かは自分やアイズが一番よく分かっている。アメリカの全国放送で堂々と大統領に喧嘩を売った相手だ。この日本に来ているのは知っていたが、まさか向こうから接触してくるとは思ってもみなかった。
「私に何かご用事ですか」
「もちろんです。マリィさんにはお願いがあって、ここまで来てもらいました」
テレビで見たときのクローゼよりも、何というか、感情豊かな様子だった。少し困ったような、はにかんだような、いずれにしても冷たい女史のイメージではなかった。本当に少しおっちょこちょいなお姉さん、そんな感じがした。
「近く、正式にアイズ・ラザフォードがフォースチルドレンとして選抜されます」
だが、その彼女から出た言葉はマリィを驚愕させるのに充分だった。息を呑んで、次の言葉を待つ。
「同時に、オーストラリアの錐生ゼロにもフィフスチルドレンが内定されているわ。おそらく来週月曜日付けで、二人にはチルドレンとしての責務が課せられるようになる」
「質問が二つあります」
「どうぞ」
「一つ目は、アイズが選ばれる理由です。オーストラリアの錐生ゼロなら問題はありません。シンクロ率六十%を出し、ドイツのアスカ、日本のシンジに告ぐ事実上の三番目。ですが、アイズはそうではありません。シンクロ率はようやく三十%を超えたばかり。アイズの上に四十%を出しているロシアのイリヤもいます。それなのにどうしてアイズなのでしょうか」
「もう一つは?」
「それを先んじて私に教える理由です」
「どちらも当然の質問ですね。でも、どちらも同じ内容の質問です。まさにアイズが選抜されたがために、あなたを呼ばなければならなかったのです」
マリィは身構える。アイズの選抜には不穏な動きがある。自分はそれに対してどう動くべきなのか。それをクローゼが教えてくれるのだ。
「アイズのフォース選抜は、アメリカ政府の意向です」
「政府? ベネット大統領ですか?」
「ええ。あなたたちの日本亡命は許可されませんでした。あなたたちはアメリカ国籍のまま、本部付けになります。その上でアイズがフォースに選抜されました。これがどういう意味か分かりますか?」
「ベネット大統領が、アイズを宣伝材料に使うということですか」
それはベネットでなくても考えつくところだ。今、自分たちが日本へ逃れようとしているのはキャシィによってとっくにアメリカ政府に伝わっているはずだ。それを呼び戻したところで自分たちが応じるはずもない。ならば日本にいることを認めるかわりにアメリカの持ち駒でいろと、こういうことだろう。
「はい。ただ、私はベネット大統領の動きを考えると、楽観はしていられません」
「楽観?」
「アメリカにあるエヴァンゲリオン拾号機、拾壱号機。つまりあなたたち二人の機体を、ネルフ本部に預けてくださるというのです」
つまり、アメリカにとっては敵にも等しいネルフに対して切り札をただで手渡すということだ。
「信じられませんね。ベネット大統領はそんな回りくどい手段を使う人ではありません。敵とみなしたら正面から叩き潰すのがやり口だと思っていました」
「ええ。だから、この動きはあくまでもベネット大統領からの攻撃だとみて間違いないでしょう」
ベネットの攻撃。だとすると、目的は何だ。
「大統領の目的は、あくまでアメリカが最強国家であり、アメリカ政府が最強組織でなければならない。だからこそネルフよりも風上に立つ必要がある。ネルフを叩いてでも」
「そう。だからこそアメリカはこう申し込んできた。『エヴァンゲリオンとパイロットを本部に移籍させるならば、二名ともチルドレン登録することが条件だ』と」
「二名とも……私も、ですか」
「そう。でも、そこは交渉の結果、アイズくん一人となった。二人ではなく一人にした理由、それもアイズくんにしなければならなかった理由、あなたなら分かりますね?」
「はい。まず、二人ともチルドレンとなったなら、どう考えても何者かの作為が働いていると感じられます。チルドレン登録は慎重に慎重を重ねてきました。それがいきなり、何の成果も出していないアメリカの適格者二名をチルドレンにするなんて、誰が見てもおかしいです。そして、アメリカから一名選ばれるなら、私よりシンクロ率の高いアイズを選抜するのが筋です」
「そうです。付け加えるなら、アメリカから一人だけ選ぶなら、オーストラリアの彼がどうして選ばれないのかがあまりに不自然になる。だからゼロくんを選ぶのはアイズくんへの矛先をかわすためのカムフラージュということになります」
「ネルフはチルドレン登録をする予定はなかったのですか」
「しばらくはありませんでした。使徒戦が始まったら、その功績に応じて登録しようかと考えていたのですが」
なるほど、ここまでは理解できた。が、結局大統領の目的はまだ明らかではない。
「では、ベネット大統領の目的は何でしょうか」
「正確なことは分かりません。ただ、可能性として一番大きいのは、シンジくんを暗殺し、アイズくんに後を継がせ、形式上アメリカがネルフを押さえ込む形を作る……というところじゃないかと思っています」
絶句した。
確かにベネット大統領ならばそれくらいのことはやりそうだ。だが、自分たちがアメリカ政府に見切りをつけているのを承知の上で、そんな上辺だけの情報操作で何とかなるものだろうか。
もっと悪辣なことを考えている。そう思わせるだけの何かがある。
おそらくはクローゼも自分の考えに納得がいかなくて、自分を呼びつけたのだろう。
万が一が生じないように。
「私はアメリカ政府の動きをマークして、チルドレンを守ればいいのですね」
「物分りがよくて助かります」
「さらに言うなら、先に私に伝えておくことによって、アイズを贔屓にしているのではないと教えておく効果もあったわけですね」
「あなたは話せば分かってくれるとは思いましたけど、いきなり伝えられるのとそうでないのとでは人の感情は異なりますから」
「そうですね。クローゼさんには感謝しています」
マリィは頷いて「それでは」と退室しようとする。
「まだ、話は終わっていませんよ、マリィさん」
だが、クローゼがそれを呼び止める。振り返ると、今まで以上にクローゼの表情が固かった。
「というよりも、ここからが本題です。あなたに直接関係のある話なのですから」
「私に直接?」
「はい。昨日、ドイツのセカンドチルドレンのところにある人物が接触しました。私としては早急に対策をたてなければならないところです」
「それだけでは何のことか、よく分かりません」
「接触したのはライプリヒ製薬の桑古木リョウゴ。それであなたには分かるでしょう」
マリィの顔色が変わる。一度青ざめ、それから急激に血の色が濃くなる。
「ライプリヒ製薬……!」
「そう。あなたの家族を殺した、あの企業です。ライプリヒはドイツの製薬会社。リンツ・カンパニーはずっとあの企業をマークしていました。ネルフに出資しているとはいえ、協力体制を取っているとは言いがたい相手です。むしろ、ライプリヒを裏で動かしている『何者か』がいると見た方がいい」
「それは?」
「ゼーレ、という秘密結社です。もっとも、ネルフもゼーレの意向によって活動していますから、大きく見れば味方ということもできますけどね」
「ですが、ライプリヒ製薬がいかに危険な企業であるか、クローゼさんはご存知ないのですか!?」
声を荒げる。そう、荒げざるをえない。
自分の家族を殺したのは間違いなく、ライプリヒ製薬なのだから。
「もちろん分かっています。ライプリヒはさまざまな非合法の実験を行っている。人類保管委員会で行われているいくつかのプロジェクトも、ライプリヒの資金援助で行われています。活動成果を全部ライプリヒにフィードバックするというのを条件に」
「なら、なおさら放置しておいていいのですか」
「もう手は打ちました」
クローゼが落ち着いて答える。
「ライプリヒに潜入調査するようにしています。いったい何のためにネルフに近づいているのか。それを明らかにしなければ、安心することはできません」
「それで、私を呼んでどうしようというのですか」
「事情聴取です。三年前、ライプリヒ製薬があなたの家に何をしたのかを。あのとき動いたのも桑古木でした。たった三年で、ライプリヒの重役が別の研究に変わるとは考えにくい。だからこそ三年前に何があったのかを、明らかにしておきたいのです。私はあなたの家族を殺されたことは知っていても、そこで何が行われたのかは知りません」
「分かりました。私で分かることなら、何でもお話します」
そう。マリィ・ビンセンスには身寄りがいない。三年前になくした。
そして、その原因となった企業を、許すつもりなどなかった。
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