眠る前、目を閉じるとあのときのことを思い出すことがある。いや、それは過小表現だ。目を閉じれば思い出さないわけにはいかない。
 普通、眠る前は目覚めたあとのことなど考えないものだ。同じ場所で寝たのなら同じ場所で起きるのが当然で、目が覚めたときに見覚えのない景色を見ることなど、そう簡単にあることではない。
 だが、目覚めた場所が病院で、しかも知り合いの一人もなく、そこで数日間過ごすことになったら人はどう思うだろうか。
 君は具合が悪いんだ。しばらくここにいなければいけない。
 そう言われて、何もない白い部屋の中に閉じ込められたとしたら。

 何もない。ただ、白いだけの部屋。

 それは拷問と呼ぶに相応しい。












第佰参拾話



姉、追悼、心をこめて












 五月六日(水)。

「明日から、起動実験を行います」
 葛城ミサトから全員に通達があった。とはいえ、全員を一斉に行うわけではない。
「これからランクA適格者のみんなには、エヴァンゲリオンを実際に動かしてもらうことになるわ。ネルフの地下格納庫において、起動実験、歩行訓練などを行ってもらいます」
 いよいよ本格的になってきた。適格者たちが一斉に緊張する。
「一日あたり一人か二人。今週は明日と明後日で一人ずつやってもらいます。来週には全員一度は歩行してもらいます」
 そして、その名前が告げられた。
「五月七日は朱童カズマくん。五月八日は碇シンジくんにやってもらいます」
 指名されたカズマの顔が曇る。
「……なるほど」
 少し考えてからカズマは「分かった」と答えた。
「それではミーティングはこれで終了します。解散!」
 連絡事項だけが伝えられ、この日の訓練は終わった。
 今週からランクA適格者とガードメンバーはシミュレーションの時間がなくなった。そのかわりにより実戦的な学習が行われるようになった。
 つまり、第三新東京市が戦場となった場合の兵装ビルの位置、電極プラグの位置、さらには──A.T.フィールド理論と、その破り方。
 使徒が持つこの力は、あらゆる攻撃を無力化する『壁』のようなもの。不可視の壁によって守られている使徒は、通常の火力による攻撃ではまずダメージを与えられない。国連が開発しているN2爆弾であれば、A.T.フィールドを多少なりとも打ち破れると推測されるが、少なくとも第一、第二使徒のA.T.フィールドを突き破って致命傷を与えられるほどではない。
 だからこそパイロットはこのA.T.フィールドを使いこなさなければならない。使徒を研究し、その力を使いこなす装置が組み込まれた使徒迎撃兵器。それがエヴァンゲリオンなのだ。
 そのA.T.フィールドはどうすれば使えるのか。どうすれば敵のA.T.フィールドを中和できるのか。そうしたことをひたすら学んだ時間であった。
「不破」
 カズマが戻る途中、後ろにぴたりとつくダイチに尋ねる。
「なんだ」
「お前の考えを聞かせろ。どうして初日が俺なんだと思う」
「朱童はその答を持っているように思えるが」
「持っている。だが、分析力Sのお前も同じ考えなら、間違いはないだろう。確認だ」
「それなら答えるが、要するに『試し』ということだろう。ファースト・サードチルドレンを使って、仮に暴走でもしたらパイロットの命はほぼないのと同じだ」
 まったく同意見だった。さらに言うならば、最初の一人なのだからシンクロ率が低い者が乗ることでデータを収集し切れなかったら困る。となるとカズマのように、そこそこシンクロ率が高く、そして仮に暴走したとしても本部として被害が大きくない人物が選ばれたということだ。
(世界で初めて、エヴァンゲリオンを歩行させる人間か。なら、二人目のためにできるだけ多くのことを経験しなければならないな)
 もちろん、ここでいう二人目とは碇シンジのことであって、ドイツのアスカやオーストラリアのゼロのことではない。そして、
「あー、カズマさんカズマさん!」
 後ろから追いかけてきたのはいつも元気印のコモモだった。
「どうした」
「いや、レイさんが話があるって」
「綾波が?」
 すると、カズマの前にレイがやってくる。レイもコモモと一緒に走って追いかけてきていた。
「何かあったのか」
 だが、レイは首を振る。
「気をつけて」
 と、ただそれだけを伝えた。
 意外だった。まさか、綾波レイの口からそんな言葉が出ようとは。
「分かった」
 たとえカズマはそう思ったところで軽口を叩くような人間ではない。必要なことを必要なだけ話す。だからこそ綾波レイのような存在は自分にとってはありがたい。
「カズマさん」
 そしてコモモも相手を見る。既にカズマも碇シンジプリンセスナイトの一員。同じ目的の下に戦うメンバーだ。
「無事で」
「ああ」
 コモモは人嫌いをしない。それは誰もが知っている事実だ。ただ、カズマの方はそうでもない。人付き合いが苦手だ。というより、人が嫌いだ。
(大丈夫だ)
 カズマは目を閉じて自分に言い聞かせる。
(ここにいる人たちは『あんな』連中とは違う)
 見知らぬ人間に陵辱され、殺された姉。
 だが、ここにいる人たちは自分と同じように『守る』側の人間だ。『奪う』側の人間ではない。
「俺にできるだけのことはする」
 そう言い残して、カズマは部屋に戻っていった。






 一方、マリィ・ビンセンスはミーティング後に真道カスミに声をかけていた。
 二〇一二年末にあったビンセンス家の事件。それについて詳しく知っているのはマリィ本人より、むしろそのときその場にいたカスミの方だった。そのためマリィは昨日のクローゼとの会話のときに『話は翌日、カスミを交えて』と断りを入れていた。クローゼはそれに応じた。
「しっかし、あのときの事件が今になって浮上してくるとはねえ」
 カスミはマリィの後ろを歩いていた。時と場合にもよるが、彼はたいてい先頭を歩かない。ガードする相手がいるなら、後ろを守らなければならない。そうでないときは、相手に後ろから襲われるのを防ぐことができる。後ろから襲われるのは真希波マリの一件だけで充分だった。
「あのとき、もう少し早く到着できればよかったんだけどな」
「でも助けてくれて、本当に感謝しているわ。もっとも、そんなものあなたには必要ないでしょうけど」
「美人からの感謝なんて嬉しいに決まってるじゃねえか」
「それよりもあなたは私の家にあった『宝』の方が嬉しいんでしょう?」
「当たり前だろ。俺を何だと思ってるんだ」
「出来損ないのトレジャーハンター」
「出来損ないだとお?」
 カスミが声を荒げる。
「事実を言われて悔しがるくらいの根性はあるのね」
「言っておくがな、俺は過去に宝を取り損ねたことなんか、片手で数えるほどしかないんだぜ」
「百パーセントじゃなければ何を言っても同じよ。それに、あなたは私の家でも一番の宝を持っていかなかったじゃない」
「なんだと」
 カスミの表情が変わる。
「あれよりもすごい宝があるってのか!?」
「ええ」
「マリィが持ってるのか」
「まあ、そうね」
「言い値で買う。いくらだ」
「あなたには払えないわ」
「なめんなよ。俺がどれだけ稼いでいるか知らないだろ」
「じゃあ、一億ドルで」
「OK。反故にすんなよ」
 即断したことに、マリィは苦笑する。
「相変わらずね、あなた。宝と聞けば何でも反応するのね」
「当たり前だろ。人より多くの宝を手に入れること。それが俺の生きがいだからな」
「分かったわ。これが終わったら後であなたの部屋に持っていく。それでいいでしょう?」
「よし」
 カスミが俄然やる気を見せてきた。分かりやすい少年だった。
「マリィ・ビンセンスです」
 そうしてクローゼの部屋に着く。二人が中に入ると、今日はクローゼだけではなくもう一人、護衛の南雲エリの姿もあった。
「真道さんは通訳の必要がありますか?」
「日本語、英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、ポルトガル語、ロシア語、ヘブライ語、中国語まではOKだぜ。語学は宝探しに必須のスキルだからな」
「そうでしたか。私は英語とドイツ語しか話せないので念のためエリに来ていただきましたが、その心配はなさそうですね。では、このまま英語で話させてください」
「OK」
 真道カスミにとっても、クローゼ・リンツという人物は非常に興味深い対象だ。アメリカ政府に喧嘩を売ったのは記憶に新しいが、リンツカンパニーとライプリヒ製薬といえば、ドイツの誇る二大企業だ。いつかは自分の本業に関わってくる可能性だってある。知己を得るのは悪いことではない。
「それで、ライプリヒ製薬の話をしてほしいってことだったな」
 ソファにそれぞれ腰掛けてから話が始まった。
「はい。ライプリヒの若い重役がセカンドチルドレンに接触しました。その後の展開はありませんが、万が一のことを考えてライプリヒに対して手を打たなければなりません」
「一つ確認したいんだが、ライプリヒ製薬っていえば、ネルフの出資者でもあるんだよな。それをそこまで警戒する理由は?」
「あなたが一番よくご存知かと思いましたが。何しろビンセンス家の事件に関係しているのですから。ビンセンス家、もっと分かりやすく言えばマリィの父母と妹を殺したのはライプリヒですよね?」
「まあな。とはいえ、どこの製薬会社でも実験はやるもんだろ? 合法か非合法かは別だけどな」
「ええ。ただ、ライプリヒには非合法の部分が多い。カンパニーとしては黙殺するわけにはいきません」
「正義感たくましいことで」
 少しの皮肉を混ぜてはいるが、クローゼは別に反応しなかった。
「この世界を救うためには、ネルフという組織がもっとも健全だと思います。他の組織は使徒を倒すことを全てネルフに押し付け、その後の権力争いをしているにすぎません」
「それはもっともだが、俺には関係ない話さ。俺は誰より先に宝を手に入れられればそれでいい、ただのトレジャーハンターだからな」
「ですからご助力をいただきたいのです。あのとき、ライプリヒ製薬がビンセンス家の人たちにどういう実験をしたのか。こちらの情報と真道さんの情報をあわせれば、分かることは多いはずです」
「情報は高いぜ」
「情報の内容に応じましょう。私のポケットマネーは、それほど大きくありませんけど」
「いいぜ。情報の値段を知らないってわけじゃなさそうだ。適正価格で頼むぜ」
 さて、とカスミが話を始める。
「人工進化研究所。聞いたことあるかい?」
「無論です。研究所の下でさまざまなプロジェクトが動いていました」
「そのほとんどは今、実働してないけどな。研究所の大部分は親玉のゼーレに吸い上げられた。特にエヴァンゲリオンやA.T.フィールドの研究なんかはな」
「詳しいのですね」
「そりゃ、それを調べるために俺はネルフに入ったんだからな。俺が知らないのは、情報媒体に残らない、個人データだけだ」
「それで、研究所がどうしたのですか?」
「その中にハイヴっていう組織があった。人格交換、記憶共有という面白い実験をしていたんだが、ハイヴの研究は基本、滅んだ第一東京でやっていた。残念なことに、実験途中で例の『六カ国強襲』事件があったんで、ハイヴの主なメンバーは残らず死んだ。わずかな生き残りも研究所から切り捨てられた。それを拾ったのがライプリヒ製薬さ」
「ライプリヒ製薬が、ハイヴを吸収」
「そして二〇一二年一〇月一三日の夜、ビンセンス家の父、母、姉、妹の四人に対してその実験が開始された」
 クローゼの顔が引きつる。
「まさか、人格交換を行ったの?」
「そうだ。薬で眠らせて、そのまま実験室へ連れて行かれた」
「正直、そこからのことはほとんど覚えていません」
 カスミに続いてマリィが言う。クローゼが落ち着くのを見て、カスミが続けた。
「まず父親と母親の間で人格交換が行われた。交換そのものは成功した。だが、何が原因だったのかは分からないが、気がつくとそれぞれお互いの体に入り込んでいた父母は混乱を極め、ついには発狂した。ライプリヒはためらわなかった。その場で父母は処分された」
 見なくてよかった、とマリィは思う。もしそんな場面を見せられていたら、きっと自分も発狂していたに違いないから。
「そして姉妹に対しても同じ実験が行われた。理論上は何も問題がなかった。そして父母のときも交換そのものはうまくいったのだから、問題はメンタル的なところにあるのだと考えた。そして父母の場合なら目が覚めてみたら性別まで変わっているのだから大いに混乱するだろうが、姉妹ならそれほど差もない。年齢は一つ違いだったよな」
「そうよ」
「だからお互いに引き合わせさえしなければ、交換してからしばらくは気づかれないだろうと考えた。だが、さすがに姉の方は博士号を取るほど優秀なだけあって、すぐに気づいた。これは自分の体ではないということに」
「それで、どうしたのですか?」
 クローゼがマリィを見る。だが、マリィは首を振った。
「カスミの話を聞いてくれれば分かります」
 自分からは言いたくないということか。クローゼは頷いて話の続きを聞く。
「姉も父母と同じだった。自分が、自分ではない体の中にいる。それを知った彼女は発狂して死んだ」
「──え?」
「だが、妹の方は生き残った。妹もスキップをして高等学校を出るくらいには優秀だった。まあ、姉はそのときドクターコースなわけだから、姉ほどではないし、何しろ歳が違う。自分の体が変わってしまったことに気づくまでには時間が必要だった。少しだけ目線が高いことに気づいたのは、人格交換を行ってから五日ほど経ってからのことだった。その間、彼女は病院で入院していた。怪我をしたのだと言い聞かされていた。だが、不用意なことで彼女は隠されていたはずの自分の顔を見てしまった。ガラス窓の反射で。そこに映っている顔は自分ではなく、尊敬する姉のものだった。動揺し、混乱したが──どうやらライプリヒのやり方だと『人格交換後、時間が経てば』発狂はしなくなるらしい。だから妹は発狂しなかった。そしてマリィを助けに行った俺が、マリィの体を奪い返してきた」
「それが、私です」
 クローゼは自分の体が震えているのが分かった。たいていのことでは動揺することはないと思っていたが、まさか。
「では、あなたは、あなたの心は、マリィ・ビンセンスではないのですか」
 マリィと呼ばれていた少女は、小さく、だがしっかりと頷いた。
「はい。私は三年前まではクレア・ビンセンスと呼ばれていました。もう、その名前で呼ぶ人はいません。混乱しきっていた私を助けてくれたのはカスミです。カスミはライプリヒがビンセンス家に対してしたことを全部知っていました。私は後からそれを聞いただけです」
 なんということ。
 そのような実験をすることで何の意味があるのか。いや、意味などいくらでもある。この実験が実用化されたならば、いくらでも使い道はある。自分のコピーを作っておいて冷凍保存し、そこに自分の人格を入れる。いや、わざわざ自分のコピーではなくてもいい。肉体的に優秀な体、見目麗しい体を選べば、それを自分の肉体にすることができる。
「その実験は、実用化されては」
「いねえよ。俺が使用不可能にした。あんなヤバイものをそうそう使わせるわけにはいかねえ」
「ですが、一度作ったものならば、二度作ることも」
「できない。あれはオーパーツに属するものだ。エヴァンゲリオンのオリジナルと同じだな。もっとも、マリィみたいな成功例があればそれを下に作りなおせるかもしれない。こっちとしては、マリィさえおさえておけば問題はないだろうな」
「他に成功例は、本当にないのでしょうか」
「そこまで責任は持てないぜ。ただ、ライプリヒのことを調べていったらビンセンス家にぶちあたった。仮にそれが最初の実験で以後実験が行われていないんだとしたら、マリィ以外に成功例の出しようもないだろ」
「それは、そうですが」
「というわけで、これが俺の知っている情報だ。役にたったかい?」
「それはもう」
 クローゼは深く頷く。この情報を基盤に、ライプリヒが何を企んでいるのかを考えることはできるはずだ。
「それじゃあ要件は終わりだな。金は俺の口座にそのまま振り込んでおいてくれ。行くぜ、マリィ」
 するとマリィも立ち上がる。その彼女に向かってクローゼが一つだけ尋ねた。
「マリィさん。いえ、クレアさんとお呼びした方がいいでしょうか」
「マリィでいいです」
「マリィさんは──」
 だが、クローゼは言葉を切った。こんなデリケートな問題をどうやって尋ねればいいのだろう。
 三年間も、別の体で生きているということ。そして二度と元の体に戻ることはないであろうこと。
「私は姉ほど優秀ではありませんが『そこそこ優秀』ではあるつもりです。姉と同じものを求められるのは大変ですが、それより少しレベルが低くてもいいなら、身代わりはできます」
「ですが、あなた自身の存在は」
「かまいません。今は私がマリィであり、クレアですから。私はこの体の中に、二人分の命を背負っているんです。尊敬する姉の代わりができることは幸福でもあります。それに、昔の姉を知っている者はもうあまりいませんし、姉は天才なだけに人付き合いが苦手でしたから、昔の姉より今の私の方が人からは好かれているんですよ」
 それも彼女の本心なのだろうが、そういう結論にたどりつくまでにいったいどれだけ葛藤したのだろうか。
「分かりました。辛いことを思い出させてしまい、申し訳ありませんでした」
「いえ」
 そして二人は部屋を出る。見送ったクローゼはすぐに表情を変えた。
「エリさん。今の話から、現在のライプリヒの動きを推測してください。もしかすると、桑古木リョウゴは別の方法で人格交換を行うつもりなのかもしれません」
「分かりました」
 ずっと影のように黙っていた南雲エリが頷いて行動に移る。
(ライプリヒが今、セカンドチルドレンに接触しようとした理由は何?)
 クローゼが頭の中でひたすら思考する。
 だが、その答はまるで見えてこなかった。






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