世界初、エヴァンゲリオンの歩行実験が行われるということも、知っている者は本部の中でもごく限られていることだった。ランクA適格者たちと、そのガード。あとは実際に実験にあたる技術者たち。それだけだ。
 ランクB以下の適格者たちについて、技術部は既に見切りをつけている。赤井サナエのような例外はあるかもしれないが、それこそ先月ランクBに上がってきた適格者たちのシンクロ率もそれほど期待のもてるものでないとなれば、今月ランクAに上がる者は一人もいないだろう。
 エヴァンゲリオンも起動実験から歩行実験に入るこの段階で新しいメンバーを加えることに大きな意味はない。これからランクA適格者たちは鍛えられ、シンクロ率をさらに上げていくことができるだろうが、一ヶ月、二ヶ月と遅れてランクAになったとしても、実戦の役に立つ人材は育つまい。
 そして最初の歩行実験に臨むのは朱童カズマ。無論、誰が見ても彼が適任であるのは分かっている。最初に歩行実験をすれば、いろいろなところに問題点が出てくる。それを洗い出して、次の『本命』にバトンタッチをする。それが彼に課せられた役割だ。












第佰参拾壱話



起動、信頼、世界のために












 五月七日(木)。

『エヴァンゲリオン漆号機、起動』
 オペレーターの伊吹マヤの声が発令所に響く。獅子の鬣、ダークレッドの機体。朱童カズマが乗るエヴァンゲリオンは今日も無事に起動した。双眼が光り、エヴァに意識がともる。
『シンクロ率三三.五五四%!』
 大幅な記録更新だ。とはいえ、これは技術部にとっては当然の結果ともいえた。一回目の起動の後で調整を行っているのだから、シンクロ率が高まらないはずがないのだ。
『調子はどう? カズマくん』
「悪くない」
 カズマが実験で聞かれるときはたいてい似たような答になる。つまり、いつも通りということだ。
『数値、いいわよ。三三%まで来ているわ』
「そうか。綾波レイまであと少しだな」
『何、意識しているの?』
「自分が強くなければ、誰も守れない」
 カズマの言葉が何を意味するのか、聞いていたリツコには分かっている。彼の境遇を知った上でネルフに迎えているのだから当然といえば当然だ。
『いいわ。じゃあ、歩行訓練に入るわよ。ロックボルトを解除するから、まずはそのまま立っていてちょうだい。バランスが悪いと倒れるから気をつけて』
「了解」
 エヴァンゲリオンのレクチャーはとっくに終わっている。だが、実践するのは初めてだ。今までシミュレーションで何度も何度も繰り返してきたこと。これが本機となるといったい何が違うのか。
 自分が感じたことを、後で残りのランクA適格者たちに伝えなければいけない。自分の役割は重大だ。
『ロックボルト解除!』
 一度に重さがかかる。自分の体重がそのまま足にかかる感じだ。ただ、何となく鈍い。感触が遅れて伝わったり、感触そのものが伝わりにくい。
(シンクロ率が低いのが原因か、それともエヴァとはそういうものなのか)
 シンジが乗って比べてみれば分かるのだろうが、それは明日のことだ。まずは自分がエヴァを動かすことについての問題点を徹底的に洗い出さなければ。
「歩行訓練に移ってもいいか」
『ちょっと待ってね』
 すると、漆号機の前に、長い手すりのようなものが両側に設置されていく。なるほど、歩行訓練とはこういうことか。
「手術後のリハビリみたいだな」
『いい喩えね。でも、リハビリよりは難しいわよ。リハビリは自分が一度動いた経験を元に行われるけど、カズマくんはエヴァを一度も動かしたことがない。だから手で手すりを掴むのも難しいかもしれないわ』
「確かにな」
 カズマは漆号機の手を伸ばして、両手でその巨大な手すりにつかまる。
(歩くイメージ。右足を前に出す。速すぎず、遅すぎず)
 エヴァンゲリオンを動かす前に、自分たちの体を使ってそれを実践したことがある。普段、無意識に行っている動作を意識的に行う。それがどれだけ難しいか、身にしみて分かっている。
(太股を上げながら、ゆっくりと。最初は足の裏全体できちんと床を踏む)
 右足が、ゆっくりと前に出る。それだけでバランスがぐらつく。
(随分揺れるな。というより、このスピードだと自分でやっても揺れるか。支えていた左足が震えているしな)
 右足を前に出していこうとする分、機体の右側が支えられなくなるので、弱冠右よりに倒れかかっている。だがそれは右手で何とか押さえ込める。
(歩くというのは随分難しい動作だな)
 左足を同じように動かす。今度は左足を前に。それにあわせて手も前に出す。
『いい調子ね、カズマくん』
「そうか? 倒れそうになっているんだが」
『他の子たちなら最初は倒れてるわよ。来週、カズマくんとシンジくん以外の全員が月曜から水曜までに乗るでしょう? 見ていたら分かるわ。みんなきっと綺麗に転んでくれるもの』
 それはなかなか面白い見世物になりそうだが、今は自分のことで手一杯だ。
「最後まで転ばないように努力しよう」
『できたらたいしたものね。手すりは頑丈にできてるから、あえて壊そうとしない限りは大丈夫よ。好きなだけ倒れていいわ』
 そうしてカズマは足を交互に前に出しながら進んでいく。思いの他、重労働だった。スタミナを要求される。一歩ずつ前に足を出していくことが、まるで百メートル走を続けているように感じられる。
 予定の半ばまで来たところで一度休憩。左手には三極プラグ。ここで電極交換の訓練が入る。
『少し休んでからでいいわよ。複雑な作業を要求されるから』
「分かっている。だが、休んだらもう動けなくなりそうだ」
『了解』
 手順は何度もシミュレーションでやっているから分かっている。プラグを外す。左手で三極プラグを手に持って、背中のプラグに差し込む。それだけ。シミュレーションでは何も問題がなかったが、決定的な違いはもう分かっている。
(この疲労度だ)
 シミュレーションでは、自分のシンクロ率に合わせてうまく機体が作動しないというもどかしさだけがあった。だが、今は違う。もどかしいだけではなくて、一つ一つの動作が想像以上に大変で、疲れる。既に五分、歩き続けてきたが、それでも踏み出した歩数はたったの八歩。五分で八歩。これではまるで使徒との戦いにならない。
 プラグを外すボタンに指をかける。内臓電源は三百秒。五分で電極をつけかえなければならない。
 大変な作業だが、やるしかない。
 ボタンを押した。途端、表示の電源がカウントダウンを始める。これが意外に自分を焦らせる。
 あえてそれを見ずに一度目を閉じる。自分の心が落ち着いたのを確認してから左手をプラグに伸ばす。
 プラグ確保。そのまま腕を後ろに持っていき、プラグを差し込む。終了。
『一分二三秒。まあまあの時間ね』
 たったこれだけ。たったこれだけのことで一分も時間を使っている。
「最終的には何秒でできればいいんだ?」
『エヴァじゃなくて自分なら何秒でできるかを考えればいいのではないかしら』
 ボタンを押す。左側にあるプラグを手に取って、背中に差す。
「二秒程度か」
『そんなものでしょうね。もっとも、エヴァは大きさが異なる分だけ少し時間がかかるから、五秒くらいといったところかしらね』
「できるようになるものか」
『大丈夫よ。次にやるときは軽く一分を切るでしょうし、三回目には二十秒でできると思うわ。最初だから何もかも時間がかかっているだけ。慣れればいくらでも大丈夫よ』
「それを聞いて安心した」
 そしてカズマはゆっくりと歩き出す。残りの八歩を歩ききる。
 時間は一分四〇秒。確かに、最初の八歩より、二回目の八歩の方が断然早かった。慣れてきた、ということなのだろう。
『いいわ。お疲れ様。固定準備に入るから、しばらくシンクロをそのまま続けて』
「了解」
 機械に誘導され、漆号機が固定されていく。
『シンクロカットするわ』
「了解」
 そして、電源が落ちる。エントリープラグ内が真っ暗になった。
「これがエヴァンゲリオンか」
 ただ起動したのとは違う。実際に動かすということ。
 これをうまく伝えるのは難しい、とカズマは実感した。
 そして。
(……体中が痛い)
 まるで筋肉痛にでもなったかのような不思議な感覚が残った。






 倉田ジンが剣崎キョウヤに呼ばれたのはこれが初めてではない。だが、あまり多いというわけでもない。連絡を記録として残したくない場合に限って呼び出しをかける。たいていは二ヶ月か三ヶ月に一度くらいのことだった。
 だが、今後は増えるだろうと予測している。使徒戦が近づいているのに対して、シンジの危険度も増している。十日前にはアメリカのAOCから襲撃を受けたばかり。その前にもシンジの命は何度も狙われている。
 剣崎の部屋は質素な感じだった。ただ、コンピュータ系だけは異常に積み込まれている。
「ここに呼ばれるのも久しぶりですね」
「前は、お前から押しかけて来たからな」
「そうでした」
 カナメが行方をくらましたとき、ジンは剣崎の部屋にやってきている。だが、カナメの件については剣崎は決して味方というわけではなかった。
 だが、ジンが組織を逃げ出したときから剣崎には世話になっている。その剣崎が、碇シンジのガードとして最初にジンに声をかけたということを知ったとき、自分は絶対に剣崎のためにこの任務を遂行してみせようと誓った。それは今も変わらない。
 剣崎は明確な優先順位を持っている。使徒を倒すためにどうすればいいのか。そのために害だと思うものは容赦なく切り捨てる。おそらく、剣崎は世界のために自分の存在が害だと知ったならば、躊躇せずその身を処分するだろう。それができる男なのだ。
 だからこそ信頼している。場合によっては味方ではないかもしれない。だが、彼の考えていることは常に使徒を倒すことに限られている。それをジンは知っている。
「今日はどのような用件ですか」
「三日前のことだ。武藤ヨウの部下が、使徒教の本部、支部を残らず襲撃した。戦闘の結果、死傷者は多く出たものの、分かる限りの拠点を潰すことができた」
「そうですか」
「だが、導師は見つかっていない。それから、もう一人厄介な人物が石川支部にいた」
「厄介な?」
「フィー・ベルドリンテ。知っているか」
「いえ」
「君でも知らないか。まあ、彼女が活躍するようになってきたのはここ五年くらいのこと。君が組織を抜け出すのとだいたい入れ替わりだからな。知らなくてもやむをえないかもしれない」
「何者ですか」
「我々は『死徒』と呼んでいる。使徒教になぞらえたのだが、『死ぬ』に『教徒』だ」
「死徒」
「数年前から、使徒教の暗殺者として有名になった人物だ。もっぱら、使徒に敵対する組織の長を狙っている。彼女の武勲を数えれば十ではすまない。中には大物もまぎれている」
「大物?」
「前ロシア大統領クライチェフ。国連・ネルフとの距離を積極的に縮め、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンを発掘した、使徒と戦うことを打ち出して国民の支持を得た人物。彼が謎の死を遂げたのはそうした理由だ」
「その、死徒というのに狙われたんですか」
「そうだ。一般には心臓発作の病死となっているが、実際は暗殺だ。ロシアのMAGI主任であるイリヤの母から聞いた情報では、クライチェフ前大統領の遺体には銃創が全部で六つあった。弾丸を調べてみたところ、線状痕が二種類に分かれたということだ」
「大統領を撃った拳銃が二挺あったということですか」
「ああ。そして死徒の武器がまさに二挺拳銃だ。犯人は分かっていないが、おそらく死徒の仕業とみて間違いないだろう」
「他に暗殺された人物との照合は行わなかったのですか?」
「全て行っている。だが、どういうわけか死徒は毎回得物を変えているみたいでね。今まで死徒の犯行と思われるものは、一つとして同じ線状痕が出たことはないのだ」
「厄介な相手ですね」
「リンツカンパニー社長の孫も暗殺された。もっとも、こちらは一家総出で狙われたんだが、武藤ヨウが助けたおかげで、死体は一つですんだ。クローゼ・リンツの兄だよ」
「もしかして、先日自衛隊のトゥエルフスナイトが派遣されてきたのはそれが理由ですか」
「他にも理由は山ほどある。自衛隊とネルフに協力させておこうという総理大臣の意向が強いのが一番だ。だが、こうなってみると護衛は多いにこしたことはない」
「それこそ、ランクA適格者が次々に狙われるという可能性も」
「大いにあるとみていいだろう」
 なるほど、それは危険だ。使徒戦を前に、同じ人間から暗殺されたというのでは目もあてられない。
「すぐにガード会議を開いて、対策にあたります」
「ああ。死徒の過去の動きを見れば、ネルフ本部に入ってくることも決して不可能ではないだろう。常に万全の態勢でいてくれ」
「分かりました。用件は以上ですか」
「以上だ。質問は」
「関係のないことですが、よろしいですか」
「許可する」
「聞きづらいことではありますが、二ノ宮セラはどうなりましたか」
 カナメの件での、もう一人の被害者。
「まだ意識を取り戻さない。もっとも、彼女にしてみると意識が戻らない方がいいのかもしれないが。彼女が目覚めたらすぐに尋問、場合によっては拷問。その後に待っているのはランクA適格者を殺害したということで死刑。情状酌量は適応されない。彼女の未来はもう決まっている」
「セラが被害者なのは分かりきっているのにですか」
「どうにもならないことは世の中にはいくらでもある」
「もしかして、彼女を生かしておくために、キョウヤさんがずっと眠らせている、とかいうことではないのですか」
「それは買いかぶりだ。私が人助けをするような人間に見えるのか?」
「ここに実例がいますから」
 疑う必要はない。ジン本人がまさに剣崎によって救われた人物だ。
「君を助けたのは、使徒教のことが少しでも分かるかもしれないと思ったからだ」
「俺は詳しいことは聞いていませんが、ヨシノを助けたのもそうなんですか? それに、エンやコモモも」
「彼らを助けたのは偶然の成り行きだ。古城エンも染井ヨシノも、碇シンジのガードとして立派に活躍してくれることを期待してのことだ」
「不思議なんですよね」
 ジンはサングラスをかけた男の目を見るようにして言う。
「俺とコモモだけが、二〇一二年段階から碇シンジのガード計画に盛り込まれていたんですよ。他のメンバーから話を聞きました。キョウヤさんから接触があったのは、二人を除いた最初がカスミの一三年二月。二人目から三人目までが、随分間があいてますよね」
「偶然だろう」
「いえ。俺はキョウヤさんが本格的にメンバーを集めだしたのがちょうどそのときからだと思ってます。考えてみれば、二〇一二年の九月といえば、適格者の最初の世代ですよね。確かにこのとき既に碇シンジはあなた方の目には留まっていたんでしょう。でも、そのときもう一人、碇シンジと同じだけシンクロ率を高めることができる人間がいた。そうでしたよね」
 美坂シオリ。彼女が亡くなったのは、実験が行われた一三年二月。
「その実験の前後に、きっと碇シンジ育成計画の具体案が固まったんでしょう。だから実験後からキョウヤさんはガードのメンバーを集めだした。もちろん、それ以外にもたくさん仕事はあったんでしょうけど。だから、それよりも早く俺とコモモが集められていたのは、碇シンジを守らせるためじゃない。キョウヤさんが純粋に俺たちを守ってくれたということなんです」
「信じるのは勝手だ。質問がそれで終わりなら、任務につけ」
「了解。でも、否定しませんでしたね、キョウヤさん。俺、キョウヤさんのことは信頼してますから」
 ジンが言い残して出ていく。それを聞いた剣崎はため息をついた。
「あまり私を信頼するな、ジン」
 自分にとって、コモモとジンは自らの子供のように育ててきた子たちだ。信頼されて嬉しくないはずがない。
 だが自分は、世界のためならいくらでも汚いことができる人間なのだ。
 もし仮に、世界を救うためにコモモとジンを生贄にせよといわれたら、それができるのだ。
「だから、私を信頼するな」
 信頼されればされるほど、手放すことが辛くなるから。






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